ED後
- キミの嫌いな香りを纏わせて -
狛枝凪斗は酷く苛立っていた。普段ならば笑って流せる上層部からの嫌味も、どこかも知らない部署の女があげる黄色い声にも、果てにはカラスがカァと一声鳴く声にまで。そんな些細な事柄にも眉間の皺を深く刻んでしまう程。狛枝凪斗は酷く苛ついていた。
積りに積もったフラストレーションの原因はというと、極めてシンプルである。
恋人に、一ヶ月以上も放ったらかしにされているのだ。
たったそれだけのことでと人々は笑うかもしれない。しかし、たったそれだけのことで狛枝はいっそ世界を憎む程の激しい苦悩に悩まされていた。
重たい扉を開けて久々に足を踏み入れた喫煙所は、誰もいなかった。だから狛枝は思いっきり態度悪く、ヤニの匂いが染み込んだソファーにどっかりと音を立てて腰を下ろし足を組んだ。手を入れたスーツの内ポケットから取り出した煙草と百円ライターは、今しがた未来機関の購買で購入してきたものだ。銘柄に特にこだわりはない。ごく偶に、恋人の肌が恋しくなる時にだけ煙草を吸う狛枝は、いつもその時目に付いたものを適当に選んでふかしていた。
包まれているビニールをやや乱暴に破き、狛枝はそれを開封する。スッと香るのはメンソールの香りだった。
中から一本取り出し、狛枝は口に咥える。火を付けてすぅと吸い込むと、爽やかなメンソールの香りが肺いっぱいに広がった。
ふぅと胸に溜まる鬱憤と共に狛枝は白い煙を吐き出す。何度か、時間をかけてその行為を繰り返すと、苛立ちは徐々に収まっていくような気がした。代わりに狛枝の身に重くのしかかるのはやるせなさと寂しさだ。
天井を見つめ、狛枝は自分の口から吐き出された煙が上昇し、やがて空気に溶けていく様をぼんやりと眺める。
この一ヶ月は日向も、そして狛枝もかなり忙しかった。それこそ、同居している愛の巣に帰る余裕がない程に。どうにか時間ができて帰ったとしても、不運なことにそれが日向と被ることはなかった。
同じオフィスで働いている筈なのに。すれ違うタイミングすらない程、とにかく忙しかったのだ。接触手段は端末で送り合うメッセージのみ。それも、三日に一度くらいの頻度がやっとだった。
ふいに狛枝は指の股付近が温かいことに気付いた。見ると煙草はもうだいぶ小さくなっている。側にあった吸い殻入れにそいつを捨てて、狛枝は緑色のパッケージに手を伸ばし、そして止まる。
なんだか急に、ヤニを吸うことが馬鹿らしく思えたのだ。一時的に冷静さを取り戻したものの、ぽっかりと胸に穴が空いたような虚しさはどうしたって癒せない。
本当はこんな苦味の混じるメンソールの味より、日向の、狛枝が世界で一番安堵を感じることができる匂いをめいいっぱい吸い込みたいのだ。
この際セックスがしたいだなんて多くは望まない。一分でいいから、日向をこの腕に閉じ込めて、あの芳醇な香りで胸をいっぱいにしたかった。凜としていてどこか優しさを含むあの声が聞きたかった。
「……本当、参っちゃうな」
半分になった苛立ちと、それを補うどころか溢れかえる程の恋しさを胸に狛枝は喫煙所を後にした。
日向の方はどうだか知らないが、狛枝が抱える仕事はここ二、三日でようやく落ち着きを見せ始めていた。今日も残る仕事は書類の最終確認と提出のみとなっている。自宅に帰れるのは大変喜ばしいことではあるのだが、当然、そこに愛しい彼の姿はない。自分は今日も一人、彼の匂いが薄くなった枕を抱き締めて寝るのだろう。そう思うと堪らなく自分が滑稽で、狛枝は思わず誰もいない廊下でせせら嗤った。
と、その時だった。曲がり角から男が二人姿を見せた。
その片方を捉えた瞬間、狛枝の淀んだ瞳に光が差す。
曲がり角から現れたのは、他でもない。夢にまで見た日向創その人だった。
それまでのゆったりとした足取りを更に緩めて、狛枝は日向との距離を縮めていく。
日向は、狛枝の存在には気付いていないようだった。同僚であろう男との間に書類を見ながら会話をし、眉間に皺を寄せている。
少し痩せたのではないだろうか。目の下だって隈で真っ黒だ。
一歩一歩名残惜しげに歩んでいた狛枝の足が、とうとう止まった。同時に日向がこちらに、狛枝をその瞳にやっと映す。
日向は歩みを止めなかった。以前変わらず業務の話をしながら、狛枝の横を通り過ぎていく。
二人分の足音が小さくなって、やがて聞こえなくなったところで狛枝はふ、と息を吐く。
すれ違い、瞳を交わせたのは本当に、ほんの一瞬であった。日向の瞳の奥に潜む感情を読み取る隙もなかった。
後三秒、日向がこちらに気付いてくれたら。狛枝の抱えるものと同じくらいの寂しさと恋しさを滲ませ、見つめてくれていたら。今ここに立ち尽くすばかりの自分は、こんな寂寥感に襲われずに済んだかもしれないのに。
あぁ。こちらばかりがこうして焦れてやきもきしてるのだろうか。それこそ本当に、惨めで、滑稽だ!
止めていた時を動かすかのようにぴくりと狛枝は指先を震わせ、踵を返す。もう一服してこようと、そう思ったのだ。その矢先、狛枝の時が再び止まる。
「───っ狛枝!」
凜とした声が廊下に響いた。自分めがけて一直線へ駆けてくる人影。少女漫画さながら、狛枝の心臓がドキンと跳ねた。
「っ、ひなた、ク、」
駆けて来た勢いのまま日向の身体が狛枝の胸に収まる。首元を擽る吐息に、ちょっぴり汗の香りが強い日向の匂い。ドキドキと、まるで初めてラブレターを渡す少女のような高鳴りと共に恐る恐る日向の背に手を伸ばした時だった。
「お前、煙草吸ったろ」
日向の鶸色の瞳がギロリと狛枝を睨む。
「さっきすれ違った時に匂ったぞ。俺、前に言ったよな?煙草吸うなって。身体に良くないって言ったろ!それに、もしかしてまた喫煙所行くつもりじゃないだろうな?」
キミは、ボクの母親かよ。まず頭に浮かんだのはそんなセリフだった。
それから少し───いや、だいぶ落胆した。だって久しぶりに会った恋人にあんな激しく、抱き着くかのように体当たりされ、擦り寄られたのだ。会いたかっただとか、そんな可愛らしい台詞を期待せずには居られなかった。
それなのに。目の前の男ときたらこうなのだから、狛枝は無性に腹が立ったのだ。
「……仕方ないだろ?諸々限界なんだ」
身を蝕む苛立ちはフラストレーションではなく、目の前の恋人の鈍さが所以にすり替わっていた。
不機嫌をわかりやすく声に出し、狛枝は日向を睨みつける。しかし、吸いも甘いも知り尽くした日向が、そんなもので怯むはずがない。
「……煙草、寄越せ。没収する」
恋人同士とは思えない程の睨み合いの末、狛枝はふいに口角を上げる。
「あはっ、いいよ……キミが今すぐにでもコレの代わりになってくれるのなら」
日向の腰を意味ありげに撫でて引き寄せ、狛枝は日向の顎に手をやる。ゆっくりと瞼を閉じ、息を止めて。狛枝は日向の唇に───。
「……ヤニ臭い男とキスなんてお断りだ」
───触れることは叶わなかった。代わりに狛枝の唇には、日向の指先が充てがわれている。
今度こそ狛枝はキレる寸前だった。苛立ちは最高潮に達した。
煙草は吸うな、その代わりのキスも駄目だだなんて。そもそも誰のせいで煙草を吸うハメになっていると思っているのだろう。
いっそその辺のトイレか無人の会議室に押し込んで、小言の代わりに喘ぎ声を出させてやろうか。そんな物騒な考えが脳裏によぎった時だ。
「……だから、さっさと家帰ってその匂い落とせ。……そしたら、幾らでも代わりになってやる」
小さな、独り言のような台詞が確かに聞こえた。そのか細い声を漏らした唇に、日向は指をそっと当てて、それから狛枝の唇にそれを柔く押し付ける。
伝えられた言葉となされた行為を遅れて理解し、狛枝は頬にぶわりと熱が帯びるのを感じた。
「っ、帰って、来れるの」
「……ん。あと少しだけ仕事残ってるけど……今日は何とか帰れそうなんだ。……明日の朝も、そんなに早く行かなくて済むから」
それだけいうと日向は体を百八十度回転させ、来た道を来た時と同じく駆けて行った。去りゆく日向の、赤く染まった耳をしっかりと瞳に捉え、狛枝は自身の唇をさする。
「……念入りにシャワー浴びなきゃな」
そう呟き、狛枝は自身の部署に戻るべく廊下を駆けて行った。廊下に設置してあるゴミ箱に、開けたばかりの煙草を投げ捨てて。
狛枝凪斗は酷く苛立っていた。普段ならば笑って流せる上層部からの嫌味も、どこかも知らない部署の女があげる黄色い声にも、果てにはカラスがカァと一声鳴く声にまで。そんな些細な事柄にも眉間の皺を深く刻んでしまう程。狛枝凪斗は酷く苛ついていた。
積りに積もったフラストレーションの原因はというと、極めてシンプルである。
恋人に、一ヶ月以上も放ったらかしにされているのだ。
たったそれだけのことでと人々は笑うかもしれない。しかし、たったそれだけのことで狛枝はいっそ世界を憎む程の激しい苦悩に悩まされていた。
重たい扉を開けて久々に足を踏み入れた喫煙所は、誰もいなかった。だから狛枝は思いっきり態度悪く、ヤニの匂いが染み込んだソファーにどっかりと音を立てて腰を下ろし足を組んだ。手を入れたスーツの内ポケットから取り出した煙草と百円ライターは、今しがた未来機関の購買で購入してきたものだ。銘柄に特にこだわりはない。ごく偶に、恋人の肌が恋しくなる時にだけ煙草を吸う狛枝は、いつもその時目に付いたものを適当に選んでふかしていた。
包まれているビニールをやや乱暴に破き、狛枝はそれを開封する。スッと香るのはメンソールの香りだった。
中から一本取り出し、狛枝は口に咥える。火を付けてすぅと吸い込むと、爽やかなメンソールの香りが肺いっぱいに広がった。
ふぅと胸に溜まる鬱憤と共に狛枝は白い煙を吐き出す。何度か、時間をかけてその行為を繰り返すと、苛立ちは徐々に収まっていくような気がした。代わりに狛枝の身に重くのしかかるのはやるせなさと寂しさだ。
天井を見つめ、狛枝は自分の口から吐き出された煙が上昇し、やがて空気に溶けていく様をぼんやりと眺める。
この一ヶ月は日向も、そして狛枝もかなり忙しかった。それこそ、同居している愛の巣に帰る余裕がない程に。どうにか時間ができて帰ったとしても、不運なことにそれが日向と被ることはなかった。
同じオフィスで働いている筈なのに。すれ違うタイミングすらない程、とにかく忙しかったのだ。接触手段は端末で送り合うメッセージのみ。それも、三日に一度くらいの頻度がやっとだった。
ふいに狛枝は指の股付近が温かいことに気付いた。見ると煙草はもうだいぶ小さくなっている。側にあった吸い殻入れにそいつを捨てて、狛枝は緑色のパッケージに手を伸ばし、そして止まる。
なんだか急に、ヤニを吸うことが馬鹿らしく思えたのだ。一時的に冷静さを取り戻したものの、ぽっかりと胸に穴が空いたような虚しさはどうしたって癒せない。
本当はこんな苦味の混じるメンソールの味より、日向の、狛枝が世界で一番安堵を感じることができる匂いをめいいっぱい吸い込みたいのだ。
この際セックスがしたいだなんて多くは望まない。一分でいいから、日向をこの腕に閉じ込めて、あの芳醇な香りで胸をいっぱいにしたかった。凜としていてどこか優しさを含むあの声が聞きたかった。
「……本当、参っちゃうな」
半分になった苛立ちと、それを補うどころか溢れかえる程の恋しさを胸に狛枝は喫煙所を後にした。
日向の方はどうだか知らないが、狛枝が抱える仕事はここ二、三日でようやく落ち着きを見せ始めていた。今日も残る仕事は書類の最終確認と提出のみとなっている。自宅に帰れるのは大変喜ばしいことではあるのだが、当然、そこに愛しい彼の姿はない。自分は今日も一人、彼の匂いが薄くなった枕を抱き締めて寝るのだろう。そう思うと堪らなく自分が滑稽で、狛枝は思わず誰もいない廊下でせせら嗤った。
と、その時だった。曲がり角から男が二人姿を見せた。
その片方を捉えた瞬間、狛枝の淀んだ瞳に光が差す。
曲がり角から現れたのは、他でもない。夢にまで見た日向創その人だった。
それまでのゆったりとした足取りを更に緩めて、狛枝は日向との距離を縮めていく。
日向は、狛枝の存在には気付いていないようだった。同僚であろう男との間に書類を見ながら会話をし、眉間に皺を寄せている。
少し痩せたのではないだろうか。目の下だって隈で真っ黒だ。
一歩一歩名残惜しげに歩んでいた狛枝の足が、とうとう止まった。同時に日向がこちらに、狛枝をその瞳にやっと映す。
日向は歩みを止めなかった。以前変わらず業務の話をしながら、狛枝の横を通り過ぎていく。
二人分の足音が小さくなって、やがて聞こえなくなったところで狛枝はふ、と息を吐く。
すれ違い、瞳を交わせたのは本当に、ほんの一瞬であった。日向の瞳の奥に潜む感情を読み取る隙もなかった。
後三秒、日向がこちらに気付いてくれたら。狛枝の抱えるものと同じくらいの寂しさと恋しさを滲ませ、見つめてくれていたら。今ここに立ち尽くすばかりの自分は、こんな寂寥感に襲われずに済んだかもしれないのに。
あぁ。こちらばかりがこうして焦れてやきもきしてるのだろうか。それこそ本当に、惨めで、滑稽だ!
止めていた時を動かすかのようにぴくりと狛枝は指先を震わせ、踵を返す。もう一服してこようと、そう思ったのだ。その矢先、狛枝の時が再び止まる。
「───っ狛枝!」
凜とした声が廊下に響いた。自分めがけて一直線へ駆けてくる人影。少女漫画さながら、狛枝の心臓がドキンと跳ねた。
「っ、ひなた、ク、」
駆けて来た勢いのまま日向の身体が狛枝の胸に収まる。首元を擽る吐息に、ちょっぴり汗の香りが強い日向の匂い。ドキドキと、まるで初めてラブレターを渡す少女のような高鳴りと共に恐る恐る日向の背に手を伸ばした時だった。
「お前、煙草吸ったろ」
日向の鶸色の瞳がギロリと狛枝を睨む。
「さっきすれ違った時に匂ったぞ。俺、前に言ったよな?煙草吸うなって。身体に良くないって言ったろ!それに、もしかしてまた喫煙所行くつもりじゃないだろうな?」
キミは、ボクの母親かよ。まず頭に浮かんだのはそんなセリフだった。
それから少し───いや、だいぶ落胆した。だって久しぶりに会った恋人にあんな激しく、抱き着くかのように体当たりされ、擦り寄られたのだ。会いたかっただとか、そんな可愛らしい台詞を期待せずには居られなかった。
それなのに。目の前の男ときたらこうなのだから、狛枝は無性に腹が立ったのだ。
「……仕方ないだろ?諸々限界なんだ」
身を蝕む苛立ちはフラストレーションではなく、目の前の恋人の鈍さが所以にすり替わっていた。
不機嫌をわかりやすく声に出し、狛枝は日向を睨みつける。しかし、吸いも甘いも知り尽くした日向が、そんなもので怯むはずがない。
「……煙草、寄越せ。没収する」
恋人同士とは思えない程の睨み合いの末、狛枝はふいに口角を上げる。
「あはっ、いいよ……キミが今すぐにでもコレの代わりになってくれるのなら」
日向の腰を意味ありげに撫でて引き寄せ、狛枝は日向の顎に手をやる。ゆっくりと瞼を閉じ、息を止めて。狛枝は日向の唇に───。
「……ヤニ臭い男とキスなんてお断りだ」
───触れることは叶わなかった。代わりに狛枝の唇には、日向の指先が充てがわれている。
今度こそ狛枝はキレる寸前だった。苛立ちは最高潮に達した。
煙草は吸うな、その代わりのキスも駄目だだなんて。そもそも誰のせいで煙草を吸うハメになっていると思っているのだろう。
いっそその辺のトイレか無人の会議室に押し込んで、小言の代わりに喘ぎ声を出させてやろうか。そんな物騒な考えが脳裏によぎった時だ。
「……だから、さっさと家帰ってその匂い落とせ。……そしたら、幾らでも代わりになってやる」
小さな、独り言のような台詞が確かに聞こえた。そのか細い声を漏らした唇に、日向は指をそっと当てて、それから狛枝の唇にそれを柔く押し付ける。
伝えられた言葉となされた行為を遅れて理解し、狛枝は頬にぶわりと熱が帯びるのを感じた。
「っ、帰って、来れるの」
「……ん。あと少しだけ仕事残ってるけど……今日は何とか帰れそうなんだ。……明日の朝も、そんなに早く行かなくて済むから」
それだけいうと日向は体を百八十度回転させ、来た道を来た時と同じく駆けて行った。去りゆく日向の、赤く染まった耳をしっかりと瞳に捉え、狛枝は自身の唇をさする。
「……念入りにシャワー浴びなきゃな」
そう呟き、狛枝は自身の部署に戻るべく廊下を駆けて行った。廊下に設置してあるゴミ箱に、開けたばかりの煙草を投げ捨てて。