ED後
- カカオ60% -
静寂に包まれた空間のなか、響くキーボードの音だけがそこに日向の存在を確かにさせていた。刻む時計の秒針はもうすぐ九時を回ろうとしている。きっとここ同様、オフィス全体は静まり返っているはずだ。
元絶望でありながら、こうして未来機関の一員として仕事を与えられるのは自分らを保護してくれた七十八期生、とりわけ苗木のおかげである。自分たちを救ってくれた彼らへせめてもの恩返しと、日向はこうして夜遅くまで一人、オフィスに残り業務に励んでいるのだ。尤も、苗木に見つかれば心配されるのは目に見えているのだけれども。
「はー……」
最後の行を打ち込みエンターキーを叩く。作り終えたばかりのファイルをしっかりと保存したのを確認し、日向はようやく安堵の溜息を吐いた。
だいぶ集中していたのだろう、気を緩めたのと同時に疲れがどっと押し寄せる。こんな時はと日向は自身の鞄の中から深緑色の巾着を取り出し、中に入っていた小さなチョコレートを口に放り込んだ。
疲れた時や頭を使った時は甘いものが欲しくなる。しかしその度に買いに行くのはめんどくさいし、時間が遅いと購買も空いていない。それらの理由から日向はこうした“ちょっとしたお菓子”を毎日持ち歩き、業務の合間につまんでいるのだ。
「……だいぶ減ったな」
結構詰め込んできたつもりだったけれど、そう思いながら日向は軽くなった巾着を手に取り呟く。
持ち歩いているお菓子は一人で消費するのではなく、作業を手伝ってくれたお礼や会話の折に仕事仲間にも配っている。加え、日向がお菓子を持っていることを知っている七十七期生が糖分補給にと日向の元へ訪れると、どれだけ持ち歩いていても仕事が終わる頃にはこうして底をついてしまうのだ。
自分用にと持ち歩き始めたものだけれど、喜ばれるとつい大盤振る舞いしたくなるものだ、向けられた笑顔を思い出し、つられるように頬を緩ませながらもう一つチョコを口に入れると、後ろの方でドアが開かれる音がした。
「お……狛枝、お前まだ仕事してたのか」
部屋の中に入ってきた狛枝の姿を見て、日向は意外だと言わんばかりの声を上げる。
「ん……なかなか終わらなくてね。ようやく目処がたったからちょっと休憩ってとこ」
白いわたあめのような髪をかきあげながらそう漏らす狛枝の顔は、疲労がはっきり見てとれた。
要領のいいこいつが手こずるなんて、よっぽど大変な案件なのか、それともこいつの幸運の才能が関係しているのだろうか。
「ねぇ、なんか持ってない?」
いつのまにか距離を詰めてきた狛枝が巾着を指差しそう尋ねる。狛枝の言う“何か”とはおそらくお菓子のことだろう。普段甘いものをそこまで好まない狛枝が、こうして日向の元に来るなんて余程疲れているに違いない。
「あー……ちょっと待ってろ」
そう言いながら日向は巾着の中を探る。僅かな時の後、探すのをやめた日向の手には何も握られてなかった。
「悪い、今さっき食べてたので最後だったみたいだ」
「そっか」
自分の口元を指しながら申し訳なさそうに日向が呟くと、狛枝は残念いいたげにため息交じりでそう言った。恋人のこういった顔は見ていていいものじゃないな、そう思いながらもう一度謝罪の言葉をと日向が口を開いた瞬間、狛枝の指先が日向の頬に伸ばされた。
「……こまえ、」
まるでスローモーションのようにゆっくりと狛枝の顔が近づき、日向の顔に影をつくる。紡ごうとした名は最後の一文字で叶わず、重ねられた唇と共に奥へと押し戻されたようだった。
柔く触れた唇の隙間から覗かせた舌が、日向の唇を突く。うっとりと薄く目を開き、誘うかのように唇を割るとぬるりと唾液を纏った舌が差し込まれた。
「……っ、ふ、……ん、ぅ……」
歯列をなぞり、上顎を擦り、まるで味わうかのように口内のあちこちを這う狛枝の舌に、日向も舌を伸ばし絡める。くちくちと唾液が絡まる水音と時折漏れる熱っぽい喘ぎが静かな部屋に響き渡り、それらが耳を犯すたびゾクゾクと緩やかな波が体を駆け巡った。
「……甘すぎない?キミ、砂糖でも食べてたの」
「食べてたの、カカオ60%のビターチョコだからな」
名残惜しげに引いた糸が空で切れる。仄かに色付いた自身の唇を指先で触れながらそう言葉を落とした狛枝に、日向は口の端から垂れた唾液を手の甲で拭いながらそう返した。
「あっそ」
日向の返事に、興味ないと言わんばかりにそっぽを向いた狛枝はそのまま背を向けドアの方へ向かう。
「おい、どこ行くんだよ」
「どこって、仕事戻るんだよ。あと少し残ってるからね」
向けられた背をジッと見つめていると、ドアの目の前で狛枝が足を止め、日向の方へ振り向いた。
「日向クンもう終わりなんでしょ?荷物まとめ終わったらボクのとこ来てよ。一緒に帰ろう」
ふ、と微かに頬を緩ませ、狛枝は部屋を去った。狛枝が来る前同様、訪れた沈黙のなか日向は深緑色の巾着を手に取り笑みをこぼす。
「……糖分過剰摂取になるかな」
巾着を逆さにし、転げ落ちた最後のチョコレートを頬張る。
カカオ60%のビターチョコは、口の中に残る狛枝の味と混ざり合い、先ほどより甘く、甘く感じた。
3月14日
「日向クン、お菓子袋の中身全部ボクに渡して」
「ダメだぞ、これお前一人のじゃないし」
「そうじゃなくて…貸してよそれ…あぁもうやっぱり飴いっぱいあるし…ほら今日はこっち配りなよ」
「…クッキー?」
「うん、これなら問題ないでしょ」
「…俺が好きなのはお前だけだから安心していいぞ」
「…ふん」
静寂に包まれた空間のなか、響くキーボードの音だけがそこに日向の存在を確かにさせていた。刻む時計の秒針はもうすぐ九時を回ろうとしている。きっとここ同様、オフィス全体は静まり返っているはずだ。
元絶望でありながら、こうして未来機関の一員として仕事を与えられるのは自分らを保護してくれた七十八期生、とりわけ苗木のおかげである。自分たちを救ってくれた彼らへせめてもの恩返しと、日向はこうして夜遅くまで一人、オフィスに残り業務に励んでいるのだ。尤も、苗木に見つかれば心配されるのは目に見えているのだけれども。
「はー……」
最後の行を打ち込みエンターキーを叩く。作り終えたばかりのファイルをしっかりと保存したのを確認し、日向はようやく安堵の溜息を吐いた。
だいぶ集中していたのだろう、気を緩めたのと同時に疲れがどっと押し寄せる。こんな時はと日向は自身の鞄の中から深緑色の巾着を取り出し、中に入っていた小さなチョコレートを口に放り込んだ。
疲れた時や頭を使った時は甘いものが欲しくなる。しかしその度に買いに行くのはめんどくさいし、時間が遅いと購買も空いていない。それらの理由から日向はこうした“ちょっとしたお菓子”を毎日持ち歩き、業務の合間につまんでいるのだ。
「……だいぶ減ったな」
結構詰め込んできたつもりだったけれど、そう思いながら日向は軽くなった巾着を手に取り呟く。
持ち歩いているお菓子は一人で消費するのではなく、作業を手伝ってくれたお礼や会話の折に仕事仲間にも配っている。加え、日向がお菓子を持っていることを知っている七十七期生が糖分補給にと日向の元へ訪れると、どれだけ持ち歩いていても仕事が終わる頃にはこうして底をついてしまうのだ。
自分用にと持ち歩き始めたものだけれど、喜ばれるとつい大盤振る舞いしたくなるものだ、向けられた笑顔を思い出し、つられるように頬を緩ませながらもう一つチョコを口に入れると、後ろの方でドアが開かれる音がした。
「お……狛枝、お前まだ仕事してたのか」
部屋の中に入ってきた狛枝の姿を見て、日向は意外だと言わんばかりの声を上げる。
「ん……なかなか終わらなくてね。ようやく目処がたったからちょっと休憩ってとこ」
白いわたあめのような髪をかきあげながらそう漏らす狛枝の顔は、疲労がはっきり見てとれた。
要領のいいこいつが手こずるなんて、よっぽど大変な案件なのか、それともこいつの幸運の才能が関係しているのだろうか。
「ねぇ、なんか持ってない?」
いつのまにか距離を詰めてきた狛枝が巾着を指差しそう尋ねる。狛枝の言う“何か”とはおそらくお菓子のことだろう。普段甘いものをそこまで好まない狛枝が、こうして日向の元に来るなんて余程疲れているに違いない。
「あー……ちょっと待ってろ」
そう言いながら日向は巾着の中を探る。僅かな時の後、探すのをやめた日向の手には何も握られてなかった。
「悪い、今さっき食べてたので最後だったみたいだ」
「そっか」
自分の口元を指しながら申し訳なさそうに日向が呟くと、狛枝は残念いいたげにため息交じりでそう言った。恋人のこういった顔は見ていていいものじゃないな、そう思いながらもう一度謝罪の言葉をと日向が口を開いた瞬間、狛枝の指先が日向の頬に伸ばされた。
「……こまえ、」
まるでスローモーションのようにゆっくりと狛枝の顔が近づき、日向の顔に影をつくる。紡ごうとした名は最後の一文字で叶わず、重ねられた唇と共に奥へと押し戻されたようだった。
柔く触れた唇の隙間から覗かせた舌が、日向の唇を突く。うっとりと薄く目を開き、誘うかのように唇を割るとぬるりと唾液を纏った舌が差し込まれた。
「……っ、ふ、……ん、ぅ……」
歯列をなぞり、上顎を擦り、まるで味わうかのように口内のあちこちを這う狛枝の舌に、日向も舌を伸ばし絡める。くちくちと唾液が絡まる水音と時折漏れる熱っぽい喘ぎが静かな部屋に響き渡り、それらが耳を犯すたびゾクゾクと緩やかな波が体を駆け巡った。
「……甘すぎない?キミ、砂糖でも食べてたの」
「食べてたの、カカオ60%のビターチョコだからな」
名残惜しげに引いた糸が空で切れる。仄かに色付いた自身の唇を指先で触れながらそう言葉を落とした狛枝に、日向は口の端から垂れた唾液を手の甲で拭いながらそう返した。
「あっそ」
日向の返事に、興味ないと言わんばかりにそっぽを向いた狛枝はそのまま背を向けドアの方へ向かう。
「おい、どこ行くんだよ」
「どこって、仕事戻るんだよ。あと少し残ってるからね」
向けられた背をジッと見つめていると、ドアの目の前で狛枝が足を止め、日向の方へ振り向いた。
「日向クンもう終わりなんでしょ?荷物まとめ終わったらボクのとこ来てよ。一緒に帰ろう」
ふ、と微かに頬を緩ませ、狛枝は部屋を去った。狛枝が来る前同様、訪れた沈黙のなか日向は深緑色の巾着を手に取り笑みをこぼす。
「……糖分過剰摂取になるかな」
巾着を逆さにし、転げ落ちた最後のチョコレートを頬張る。
カカオ60%のビターチョコは、口の中に残る狛枝の味と混ざり合い、先ほどより甘く、甘く感じた。
3月14日
「日向クン、お菓子袋の中身全部ボクに渡して」
「ダメだぞ、これお前一人のじゃないし」
「そうじゃなくて…貸してよそれ…あぁもうやっぱり飴いっぱいあるし…ほら今日はこっち配りなよ」
「…クッキー?」
「うん、これなら問題ないでしょ」
「…俺が好きなのはお前だけだから安心していいぞ」
「…ふん」