欠け崩れた月、毒杯を仰ぐ奈落
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「お茶が入りました」
ある日の朝食後。
大量のお茶をお盆に載せ、零さないように注意しながら、千鶴は屯所の広間へ戻り、一人一人に手渡していく。
「すまないね、雪村君」
井上は目を細めながら、千鶴から茶を受け取り、「やっぱり寒い日には、熱めのお茶がうまいねえ」と放ちお礼を言うと、千鶴は、些細な事だけれども皆の役に立てているんだと、内心少し誇らしく思うのだった。
ーーー
千鶴が父親を探しに京へ来てから、もう一年がたつ。
彼女にしてみれば、男暮らしの中の屯所での暮らしは不自由で、決して楽しい事ばかりではなければ、父親は探しても見つからず心が挫けてしまいそうになったこともあるが、それでも、新選組の皆は決して諦めず、千鶴の事を励ましてくれたから、千鶴は頑張り続ける事が出来た。
そして、何より…
「…よきかな、」
千鶴がいれたお茶に茶柱がたった、と素直に喜ぶなまえは、千鶴に話しかけて見せつける。
「ふふっ、良いことありそうですね?」
そして何より、千鶴は一年掛けてやっと…自分の気持ちに気づき、そう…彼に、恋愛感情を抱いているのだった。
(…叶わない恋でも構いません。
新選組の役にたつ事も、なまえさんの役にたつ事だと思うから、幸せ…。)
だから今は、このまま側にいられれば、と内心は抱いて仕舞う。
勿論、新選組の此の場所も好きになり、少しずつだが皆に認められて来て、馴染んできたつもりでおり、大それた思いだとは理解はしているが、それでも自分の居場所が出来たような気がしていた。
ーーー
「この屯所もそろそろ手狭になってきたか。」
そんな時、土方がぽつりとこぼすと、隊士の数も増えてきたし、と同意の声が挙がる。
今も平助は江戸に出張し、新隊士の募集を頑張っており、これからも新隊士は増えるであろう。
「だけど僕たち新選組を受け入れてくれる場所なんて、何か心当たりでもあるんですか?」
軽い口調で沖田が尋ねると、土方は薄く笑い「西本願寺」と返答するのだった。
「…っつ、嫌がられるだけだべ!」
土方の答えに、飲んでた茶を吹き出しそうになったなまえは、あちー、と舌を出しながら土方に視線を送り、「…それとも、強引に押し切る?あんたらしいけど、」と零し、刀と共に腰から下げてある己の印籠の中から小さな飴を一つ取り出し、口に運んだ。
屯所がある壬生は、京の外れに位置しており、市中巡察に出るのにも不便な場所即ち、西本願寺は立地条件が良い。
しかし、西本願寺は長州に協力的で、浪士を匿う事もあり新選組は敵なようなものであるが、新選組が移転すれば長州の身を隠す場所を一つ失いさせる事も出来るのだった。
その事で色々と意見が飛び交う中、近藤は1人の人物を引き連れてくる。
彼の名は、伊東甲子太郎参謀といい、新たに新選組に入隊した大幹部の人である。
江戸に平助を残し、一足早く帰ってきた近藤は、伊東ら新隊士を連れたらしく、彼は平助とも親交のある、北辰一刀流剣術道場の先生だとか。
正直、初めて伊東を紹介した時に、皆はあまり良い顔をせず、尊皇攘夷派の伊東が、何故、新選組に名を連ねる気になったのか、不思議でならないと不平を小声で零せば、「佐幕攘夷派の近藤さんと、攘夷の面では合意したんだろう」と土方となまえは溜息を落としながら言葉を放ったのだった。
屯所移転案を唱えた山南を見て伊東は満面の笑みを浮かべ、大変に考えの深い方ですわねぇ、と感じ入ったような口調で頷き更に言葉を続ける。
「左腕は使い物にならないそうですが、それも些細な問題ではないかしら?」
伊東の人の心を抉る言葉に、場の空気は一変し、山南は何も言わずに押し黙っていた。
「伊東さん、今のはどういう意味だ」
腕の怪我にどれだけ彼が苦しんでいるか理解している者達は殺気立ち、第一声に土方が食ってかかり、口調は強く、詰問にちかいものであった。
「山南さんは、優秀な論客だし、剣客としても、この新選組に必要な人間なんだよ!」
土方がやや声を荒げて言うが、山南は自分の腕をさすりながら、ますます暗い顔をした。
その腕が治るならば何よりですわ、と伊東が零すと、山南を守ろうとする余りに自分の発言が失言となってしまった土方は、くそっ、と怒りを息に乗せる事しか出来なかった。
らしくない土方を見た回りの皆は内心驚き、発言出来ず、山南の怪我はそれだけ、彼を悩ませる要因にもなっていたのだった。
「…あんた、疲れる。
隊士達の稽古でも見てきたら?」
うんざりした顔でなまえが溜息と共に放てば、皆はぎょっとした驚く表情になるが、伊東はウットリ…した表情で目を細め、厭らしく舐め回す視線でなまえを見て、「ふふっ、貴方が連れ出してくれるのかしら?ならば…喜・ん・で」と、誘うような声で答えた。
「あ、?冗談じゃねー、」
誘われたなまえは、うげ、とした声を漏らし、伊東を軽く見下し放つと「いけずなんだから。その冷たい眼…ゾクゾクしちゃう。貴方、凄く好みだわ…んふふ」と返答されて仕舞った。
ぞぞっ、と鳥肌がたったなまえは、親愛なる近藤の背中にささっと隠れると、伊東は「ふふ、狙うわよ?子猫ちゃん」と呟いた後、ますます皆の殺気は強くなり、これ以上はマズい、と察した近藤からの助けが入り近藤とともに部屋を去っていった。
「…きもちわり、あの人、返品してきて、」
なまえは不愉快そうに顔を歪めると、沖田は同意の声を挙げ、土方は溜息を零し「近藤さんが許可するわけねぇだろ。すっかり心酔してるみてぇだしな。」と促した後、「それに伊東と一緒に加わった奴らもそんな扱いされちゃ、黙ってらんねぇだろ。」と吐けば、沖田となまえは口を尖らせる事しか出来なかったのだ。
ーーー
今日の夕日は、燃えるように赤く、しかし空気はとても冷たい。
そんな空の下、千鶴は以前、幹部が話しているのを耳にした【新選組】の内緒話「薬」の事を気にかかってしまい、自分も医者の娘であり、薬の知識は一般人よりも知識を持つのだから、自分も何かしら新選組の力になれるのでは、と思い、前川邸を少し調べてみようとの考えになったのだった。
八木邸の皆が眠りについたのを確認し、ひっそりと部屋を抜け出した千鶴は、かなり緊張していたわりには何事もなく、簡単に玄関まで到着してしまいあっけない声をぽろっ、と出して仕舞う。
「…良かった。」
やっぱり、こんな夜遅くに行動している人なんていないよね、なんて油断していたら、千鶴は、急に背後から抱きしめられる。
「…っ…!?」
千鶴は驚きのあまり声を出せないでいると、ふわっとその人物の体温や匂いを感じ、徐々に心臓の鼓動が激しくなっていき、頬の熱も火傷しそうな程に熱くなった。
(あ…この匂い…〃)
「脱走?…上等、」
その人物は耳元に己の唇を寄せ、吐息と共に静かに落とせば、千鶴はどくんどくん、と心臓を鳴らしながらその愛しい人物の名を呼ぶ。
「違いますっ…んっ…やだ…なまえさん…」
彼の吐息に、素直に千鶴の身体がびくんっと反応すると、その人物…なまえは良く解ったな、と呆気に取られる表情をし、彼女からパッと手を離した。
「きゃっ〃」
急に離された千鶴の身体はよろめき、玄関の外壁に手をつき庇う形となった。
「いきなり何するんですか!」
「…脱走じゃねーなら、許してやんよ、」
ふっ、と鼻で笑う目の前の想い人に千鶴は、先程の密着の名残が身体に残り、未だに心臓はどくんどくんしているのだが、彼は全く何とも思っていないみたいで、首の辺りを掻くような素振りを見せ、普段の無表情さで言葉を放つのであった。
「とにかく、こんな時間にうろうろしてんじゃねーよ、」
子供はさっさと部屋に帰んな、と言いながら、しっしっ、と手で払う動作をされれば、さすがの千鶴も何となく面白くなく、むうっと頬を膨らませなまえに文句を言うのだった。
「…じゃあ、なまえさんは何をしてらしたのですか?」
千鶴がじとっ…とした目でなまえを睨むと、彼からは別に、と短い答えが返ってきただけで、はっきりとは答えてくれなかった。
真っ暗な宵でも、なまえの瞳の二色と、肩から下げている鎖の鍵は、千鶴を簡単に魅了してしまう程、綺麗に輝る。
「お嬢、」
膨れて顔を背けてた千鶴のすぐ後ろにある外壁に手を当て、千鶴の顔の横に片手を持って行く形になったなまえは、千鶴を上から見下ろすと、千鶴はまたしても心臓が大きく高鳴り、頬を真っ赤にしてしまう。
「あの、なまえ…さん…?」
急な接近にわたわた慌てふためいてる千鶴を見下ろしているなまえは、千鶴の様子を見て真剣な表情からつい含み笑いを零してしまい、「あんた、おもしれーな?タコみてぇ。」と放った後、又しても真剣な表情をして「怖いもん見たら、すぐにそのでけー声あげて、助け呼びな、」と言い、千鶴の頭をぽんぽん、と撫でた。
「1人で何かしようとか、考えんなよ?只でさえ足手纏いなんだから、」
今みてぇに、なんて鼻で笑われて仕舞えば、千鶴もギクッとし「ひどいっ…足手纏いなのは解りますけど…怖いものって何ですか!もうっ!」と吐き出し、素直に部屋へと足を進めて行った。
(なまえさんの馬鹿馬鹿っ!意地悪なんだから!
…でも、このまま部屋に帰るのはなあ…。)
千鶴は1人ぷんすか怒りながら、前川邸を調べるのは諦め、此処まで来たら折角なので、鬼の副長に気付かれない程度に、八木邸の中を調べてみる事にした。
(なまえさんはこんな夜中に、何をしていたんだろう?)
答えてはくれなかったが、やはり気になって仕舞う千鶴だった。
ーーー
夜を迎えた八木邸は静まり返っており、後ろめたい理由があるからと、千鶴は足音を殺して廊下へと進んでいった。
「…あれ?」
今、誰かが広間に入って行ったように見え、気配が気になって仕舞う千鶴は、こっそりと広間の中を覗き込んだ。
本来ならば人に会うのは避け、関わらないにこしたことはないのだがーー。
「まさか君に見つかるとはね。
正直、予想していませんでしたよ。」
広間の気配は山南であり、話しかけられたのだが、どうも胸騒ぎがする千鶴は、一足後ろに下がって仕舞う。
全ての悩みが解決したような、不思議なくらいに爽やかな山南の笑顔に、千鶴は驚き、山南の手元で揺れる何かを捉えて仕舞うと、これが気になりますか?なんて問われ、千鶴は山南の手の中の硝子の小瓶を眺める。
(あれ…?なまえさんの鍵の上部の瓶に似てる…。)
中の毒々しい真紅の液体が揺れるのを目で追いかけ、液体も似てるけど、こっちは色素が薄い気がする…なんて千鶴が考えていると、山南は千鶴に、液体の軽い説明をし始めた。
「…劇的な変化、ですか?」
人間に劇的な変化をもたらす秘薬、と説明された千鶴は、恐る恐る山南に問えば、筋肉と自己治癒力の増強でしょうか、と返ってきた後、欠点があると吐き、山南は、今度は詳しく説明し始めた。
「薬を与えられた者は理性を失い、血に狂う化け物と成り下がります。」
いくら幕府の命令だからといって、何故自分の父親が関わっていたのかーー山南に与えられた情報が、千鶴の頭の中をぐるぐると回り、理解できるはずの事実を、感情が納得しようとしてくれないでいたのだ。
「綱道さんは【新選組】という実験場で、この【薬】の改良を行っていたのですよ。」
千鶴は、信じたくない情報を叩きつけられ呼吸も苦しくなるばかりだが、山南は、そんな千鶴をお構いなしに説明を進めていった。
「やはり…彼を…
【切札】を使用せねばいけませんかね…」
山南の手元にある、自ら手を加え改良し調合した薬を、山南は鬼の形相で睨みつけながら、気になるキーワードを呟くと、千鶴は決して聞き落とす事は無く、聞き返そうとした瞬間ーー
「剣客として死に、ただ生きた屍になれと言うのであれば…人としても、死なせてください。」
千鶴が悲鳴のような声を上げる同じ瞬間、山南はため息を吐き出し千鶴にジリジリ…と寄る。
「あ…あ…」
千鶴は、もう自分には山南を説得出来ない、と理解し、恐怖の中で脳に巡ったのは、先程のなまえの言葉が真っ先に木霊し、さっき玄関に居たなまえならまだ近くにいるかも、と気がつき、屋敷に響き渡るようにと、ありったけの声を振りしぼった。
「なまえさん!!」
千鶴が声を張り上げた瞬間と、山南が血のような赤を一息であおったのはほぼ同時ーー
山南の掌の小瓶は、血の色を彼の身へ移し終えて、床に落ちーー
ガタッ、と瓶が転がる音が引き金となり…。
「…っ…ぐ…!!」
山南は、己の頭を鷲掴みにし耐えるような仕草でその場に膝をつき、額を伝う汗は尋常ではない程垂れ、そして驚く事に、髪の毛が白く変わっていった。
「大丈夫ですか!?しっかりしてください!」
混乱しながらも、咄嗟に駆け寄ろうとした千鶴へと視線を向けた山南の瞳は、真紅に輝く赤に染まり、千鶴が京を訪れたあの日に見た人ではないあの、何かを連想させた。
「きゃああっ!!」
「…血…血をくだ…っ…っ!!」
理性と本能の狭間で朦朧とする山南は、人間離れした早さで千鶴の首を片手で締めあげ、ギリギリ…と、か弱い身体を持ち上げた。
未完成の変若の前では、いくら理論頭脳であろうが理性は欠け、只のハイエナ。
死体の血肉は勿論、骨まで貪り、啜る貪欲。
「…っ…ごほっ…は…」
絶体絶命のこの危機に、千鶴は愛しの彼の姿を想い、心の中で彼の名を叫ぶのだったーー…
欠け崩れた月、毒杯を仰ぐ奈落
(生きた屍)(死に方の選択権)
ーーー
幕命が吼える、研究場、
己の死に方を選ぶのさえ、許されないのか?
ある日の朝食後。
大量のお茶をお盆に載せ、零さないように注意しながら、千鶴は屯所の広間へ戻り、一人一人に手渡していく。
「すまないね、雪村君」
井上は目を細めながら、千鶴から茶を受け取り、「やっぱり寒い日には、熱めのお茶がうまいねえ」と放ちお礼を言うと、千鶴は、些細な事だけれども皆の役に立てているんだと、内心少し誇らしく思うのだった。
ーーー
千鶴が父親を探しに京へ来てから、もう一年がたつ。
彼女にしてみれば、男暮らしの中の屯所での暮らしは不自由で、決して楽しい事ばかりではなければ、父親は探しても見つからず心が挫けてしまいそうになったこともあるが、それでも、新選組の皆は決して諦めず、千鶴の事を励ましてくれたから、千鶴は頑張り続ける事が出来た。
そして、何より…
「…よきかな、」
千鶴がいれたお茶に茶柱がたった、と素直に喜ぶなまえは、千鶴に話しかけて見せつける。
「ふふっ、良いことありそうですね?」
そして何より、千鶴は一年掛けてやっと…自分の気持ちに気づき、そう…彼に、恋愛感情を抱いているのだった。
(…叶わない恋でも構いません。
新選組の役にたつ事も、なまえさんの役にたつ事だと思うから、幸せ…。)
だから今は、このまま側にいられれば、と内心は抱いて仕舞う。
勿論、新選組の此の場所も好きになり、少しずつだが皆に認められて来て、馴染んできたつもりでおり、大それた思いだとは理解はしているが、それでも自分の居場所が出来たような気がしていた。
ーーー
「この屯所もそろそろ手狭になってきたか。」
そんな時、土方がぽつりとこぼすと、隊士の数も増えてきたし、と同意の声が挙がる。
今も平助は江戸に出張し、新隊士の募集を頑張っており、これからも新隊士は増えるであろう。
「だけど僕たち新選組を受け入れてくれる場所なんて、何か心当たりでもあるんですか?」
軽い口調で沖田が尋ねると、土方は薄く笑い「西本願寺」と返答するのだった。
「…っつ、嫌がられるだけだべ!」
土方の答えに、飲んでた茶を吹き出しそうになったなまえは、あちー、と舌を出しながら土方に視線を送り、「…それとも、強引に押し切る?あんたらしいけど、」と零し、刀と共に腰から下げてある己の印籠の中から小さな飴を一つ取り出し、口に運んだ。
屯所がある壬生は、京の外れに位置しており、市中巡察に出るのにも不便な場所即ち、西本願寺は立地条件が良い。
しかし、西本願寺は長州に協力的で、浪士を匿う事もあり新選組は敵なようなものであるが、新選組が移転すれば長州の身を隠す場所を一つ失いさせる事も出来るのだった。
その事で色々と意見が飛び交う中、近藤は1人の人物を引き連れてくる。
彼の名は、伊東甲子太郎参謀といい、新たに新選組に入隊した大幹部の人である。
江戸に平助を残し、一足早く帰ってきた近藤は、伊東ら新隊士を連れたらしく、彼は平助とも親交のある、北辰一刀流剣術道場の先生だとか。
正直、初めて伊東を紹介した時に、皆はあまり良い顔をせず、尊皇攘夷派の伊東が、何故、新選組に名を連ねる気になったのか、不思議でならないと不平を小声で零せば、「佐幕攘夷派の近藤さんと、攘夷の面では合意したんだろう」と土方となまえは溜息を落としながら言葉を放ったのだった。
屯所移転案を唱えた山南を見て伊東は満面の笑みを浮かべ、大変に考えの深い方ですわねぇ、と感じ入ったような口調で頷き更に言葉を続ける。
「左腕は使い物にならないそうですが、それも些細な問題ではないかしら?」
伊東の人の心を抉る言葉に、場の空気は一変し、山南は何も言わずに押し黙っていた。
「伊東さん、今のはどういう意味だ」
腕の怪我にどれだけ彼が苦しんでいるか理解している者達は殺気立ち、第一声に土方が食ってかかり、口調は強く、詰問にちかいものであった。
「山南さんは、優秀な論客だし、剣客としても、この新選組に必要な人間なんだよ!」
土方がやや声を荒げて言うが、山南は自分の腕をさすりながら、ますます暗い顔をした。
その腕が治るならば何よりですわ、と伊東が零すと、山南を守ろうとする余りに自分の発言が失言となってしまった土方は、くそっ、と怒りを息に乗せる事しか出来なかった。
らしくない土方を見た回りの皆は内心驚き、発言出来ず、山南の怪我はそれだけ、彼を悩ませる要因にもなっていたのだった。
「…あんた、疲れる。
隊士達の稽古でも見てきたら?」
うんざりした顔でなまえが溜息と共に放てば、皆はぎょっとした驚く表情になるが、伊東はウットリ…した表情で目を細め、厭らしく舐め回す視線でなまえを見て、「ふふっ、貴方が連れ出してくれるのかしら?ならば…喜・ん・で」と、誘うような声で答えた。
「あ、?冗談じゃねー、」
誘われたなまえは、うげ、とした声を漏らし、伊東を軽く見下し放つと「いけずなんだから。その冷たい眼…ゾクゾクしちゃう。貴方、凄く好みだわ…んふふ」と返答されて仕舞った。
ぞぞっ、と鳥肌がたったなまえは、親愛なる近藤の背中にささっと隠れると、伊東は「ふふ、狙うわよ?子猫ちゃん」と呟いた後、ますます皆の殺気は強くなり、これ以上はマズい、と察した近藤からの助けが入り近藤とともに部屋を去っていった。
「…きもちわり、あの人、返品してきて、」
なまえは不愉快そうに顔を歪めると、沖田は同意の声を挙げ、土方は溜息を零し「近藤さんが許可するわけねぇだろ。すっかり心酔してるみてぇだしな。」と促した後、「それに伊東と一緒に加わった奴らもそんな扱いされちゃ、黙ってらんねぇだろ。」と吐けば、沖田となまえは口を尖らせる事しか出来なかったのだ。
ーーー
今日の夕日は、燃えるように赤く、しかし空気はとても冷たい。
そんな空の下、千鶴は以前、幹部が話しているのを耳にした【新選組】の内緒話「薬」の事を気にかかってしまい、自分も医者の娘であり、薬の知識は一般人よりも知識を持つのだから、自分も何かしら新選組の力になれるのでは、と思い、前川邸を少し調べてみようとの考えになったのだった。
八木邸の皆が眠りについたのを確認し、ひっそりと部屋を抜け出した千鶴は、かなり緊張していたわりには何事もなく、簡単に玄関まで到着してしまいあっけない声をぽろっ、と出して仕舞う。
「…良かった。」
やっぱり、こんな夜遅くに行動している人なんていないよね、なんて油断していたら、千鶴は、急に背後から抱きしめられる。
「…っ…!?」
千鶴は驚きのあまり声を出せないでいると、ふわっとその人物の体温や匂いを感じ、徐々に心臓の鼓動が激しくなっていき、頬の熱も火傷しそうな程に熱くなった。
(あ…この匂い…〃)
「脱走?…上等、」
その人物は耳元に己の唇を寄せ、吐息と共に静かに落とせば、千鶴はどくんどくん、と心臓を鳴らしながらその愛しい人物の名を呼ぶ。
「違いますっ…んっ…やだ…なまえさん…」
彼の吐息に、素直に千鶴の身体がびくんっと反応すると、その人物…なまえは良く解ったな、と呆気に取られる表情をし、彼女からパッと手を離した。
「きゃっ〃」
急に離された千鶴の身体はよろめき、玄関の外壁に手をつき庇う形となった。
「いきなり何するんですか!」
「…脱走じゃねーなら、許してやんよ、」
ふっ、と鼻で笑う目の前の想い人に千鶴は、先程の密着の名残が身体に残り、未だに心臓はどくんどくんしているのだが、彼は全く何とも思っていないみたいで、首の辺りを掻くような素振りを見せ、普段の無表情さで言葉を放つのであった。
「とにかく、こんな時間にうろうろしてんじゃねーよ、」
子供はさっさと部屋に帰んな、と言いながら、しっしっ、と手で払う動作をされれば、さすがの千鶴も何となく面白くなく、むうっと頬を膨らませなまえに文句を言うのだった。
「…じゃあ、なまえさんは何をしてらしたのですか?」
千鶴がじとっ…とした目でなまえを睨むと、彼からは別に、と短い答えが返ってきただけで、はっきりとは答えてくれなかった。
真っ暗な宵でも、なまえの瞳の二色と、肩から下げている鎖の鍵は、千鶴を簡単に魅了してしまう程、綺麗に輝る。
「お嬢、」
膨れて顔を背けてた千鶴のすぐ後ろにある外壁に手を当て、千鶴の顔の横に片手を持って行く形になったなまえは、千鶴を上から見下ろすと、千鶴はまたしても心臓が大きく高鳴り、頬を真っ赤にしてしまう。
「あの、なまえ…さん…?」
急な接近にわたわた慌てふためいてる千鶴を見下ろしているなまえは、千鶴の様子を見て真剣な表情からつい含み笑いを零してしまい、「あんた、おもしれーな?タコみてぇ。」と放った後、又しても真剣な表情をして「怖いもん見たら、すぐにそのでけー声あげて、助け呼びな、」と言い、千鶴の頭をぽんぽん、と撫でた。
「1人で何かしようとか、考えんなよ?只でさえ足手纏いなんだから、」
今みてぇに、なんて鼻で笑われて仕舞えば、千鶴もギクッとし「ひどいっ…足手纏いなのは解りますけど…怖いものって何ですか!もうっ!」と吐き出し、素直に部屋へと足を進めて行った。
(なまえさんの馬鹿馬鹿っ!意地悪なんだから!
…でも、このまま部屋に帰るのはなあ…。)
千鶴は1人ぷんすか怒りながら、前川邸を調べるのは諦め、此処まで来たら折角なので、鬼の副長に気付かれない程度に、八木邸の中を調べてみる事にした。
(なまえさんはこんな夜中に、何をしていたんだろう?)
答えてはくれなかったが、やはり気になって仕舞う千鶴だった。
ーーー
夜を迎えた八木邸は静まり返っており、後ろめたい理由があるからと、千鶴は足音を殺して廊下へと進んでいった。
「…あれ?」
今、誰かが広間に入って行ったように見え、気配が気になって仕舞う千鶴は、こっそりと広間の中を覗き込んだ。
本来ならば人に会うのは避け、関わらないにこしたことはないのだがーー。
「まさか君に見つかるとはね。
正直、予想していませんでしたよ。」
広間の気配は山南であり、話しかけられたのだが、どうも胸騒ぎがする千鶴は、一足後ろに下がって仕舞う。
全ての悩みが解決したような、不思議なくらいに爽やかな山南の笑顔に、千鶴は驚き、山南の手元で揺れる何かを捉えて仕舞うと、これが気になりますか?なんて問われ、千鶴は山南の手の中の硝子の小瓶を眺める。
(あれ…?なまえさんの鍵の上部の瓶に似てる…。)
中の毒々しい真紅の液体が揺れるのを目で追いかけ、液体も似てるけど、こっちは色素が薄い気がする…なんて千鶴が考えていると、山南は千鶴に、液体の軽い説明をし始めた。
「…劇的な変化、ですか?」
人間に劇的な変化をもたらす秘薬、と説明された千鶴は、恐る恐る山南に問えば、筋肉と自己治癒力の増強でしょうか、と返ってきた後、欠点があると吐き、山南は、今度は詳しく説明し始めた。
「薬を与えられた者は理性を失い、血に狂う化け物と成り下がります。」
いくら幕府の命令だからといって、何故自分の父親が関わっていたのかーー山南に与えられた情報が、千鶴の頭の中をぐるぐると回り、理解できるはずの事実を、感情が納得しようとしてくれないでいたのだ。
「綱道さんは【新選組】という実験場で、この【薬】の改良を行っていたのですよ。」
千鶴は、信じたくない情報を叩きつけられ呼吸も苦しくなるばかりだが、山南は、そんな千鶴をお構いなしに説明を進めていった。
「やはり…彼を…
【切札】を使用せねばいけませんかね…」
山南の手元にある、自ら手を加え改良し調合した薬を、山南は鬼の形相で睨みつけながら、気になるキーワードを呟くと、千鶴は決して聞き落とす事は無く、聞き返そうとした瞬間ーー
「剣客として死に、ただ生きた屍になれと言うのであれば…人としても、死なせてください。」
千鶴が悲鳴のような声を上げる同じ瞬間、山南はため息を吐き出し千鶴にジリジリ…と寄る。
「あ…あ…」
千鶴は、もう自分には山南を説得出来ない、と理解し、恐怖の中で脳に巡ったのは、先程のなまえの言葉が真っ先に木霊し、さっき玄関に居たなまえならまだ近くにいるかも、と気がつき、屋敷に響き渡るようにと、ありったけの声を振りしぼった。
「なまえさん!!」
千鶴が声を張り上げた瞬間と、山南が血のような赤を一息であおったのはほぼ同時ーー
山南の掌の小瓶は、血の色を彼の身へ移し終えて、床に落ちーー
ガタッ、と瓶が転がる音が引き金となり…。
「…っ…ぐ…!!」
山南は、己の頭を鷲掴みにし耐えるような仕草でその場に膝をつき、額を伝う汗は尋常ではない程垂れ、そして驚く事に、髪の毛が白く変わっていった。
「大丈夫ですか!?しっかりしてください!」
混乱しながらも、咄嗟に駆け寄ろうとした千鶴へと視線を向けた山南の瞳は、真紅に輝く赤に染まり、千鶴が京を訪れたあの日に見た人ではないあの、何かを連想させた。
「きゃああっ!!」
「…血…血をくだ…っ…っ!!」
理性と本能の狭間で朦朧とする山南は、人間離れした早さで千鶴の首を片手で締めあげ、ギリギリ…と、か弱い身体を持ち上げた。
未完成の変若の前では、いくら理論頭脳であろうが理性は欠け、只のハイエナ。
死体の血肉は勿論、骨まで貪り、啜る貪欲。
「…っ…ごほっ…は…」
絶体絶命のこの危機に、千鶴は愛しの彼の姿を想い、心の中で彼の名を叫ぶのだったーー…
欠け崩れた月、毒杯を仰ぐ奈落
(生きた屍)(死に方の選択権)
ーーー
幕命が吼える、研究場、
己の死に方を選ぶのさえ、許されないのか?