あなたと暮らす朝が来るまで
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【第五話】名前を呼ぶ声
朝の冷たい空気も、二人で歩くとどこかやわらかく感じられる。
会う時間を重ねるたびに少しずつ距離が近づき、今では自然と並んで歩くのが日課になっていた。
霜の降りた畦道を並んで歩きながら、私はふと思い出して口を開いた。
「この辺り、もうすぐ福寿草が咲くんですよ」
義勇さんが少しだけ首を傾げる。
「……福寿草?」
「はい、黄色いお花です。まだ寒いのに、真っ先に咲くんですよ」
義勇さんは静かにうなずき、視線を遠くへ送った。
少しだけ横顔が柔らかくなり、
その変化に気づくと、胸がそっと締めつけられた。
「一面に咲くお花、すごく綺麗なんです。どこかで見られるところ、あるかな……」
義勇さんを見ると、視線がふっと重なる。
「春が待ち遠しいですね」
思わず口元に自然と笑みが広がる。
義勇さんはわずかに目を細め、「……そうだな」と短く答え、静かにこちらを見た。
そのまま二人で歩き出す。
言葉がないまま、ひんやりとした空気だけが二人の間を流れていった。
歩きながら、ふと横から視線を感じて顔を上げると義勇さんと目があった。
義勇さんは何か言いかけるように口を開きかけたが、言葉は出ず、わずかに唇が閉じられる。
二人とも自然と歩みを止め、畦道の真ん中で向き合う。
霜を踏んだ足音が消え、あたりがしんと静まりかえる。
頬をなでる風が冷たかった。
けれど義勇さんの視線は、その冷たさを忘れさせるほど強く、息が詰まりそうになる。
沈黙が長く続いたように感じた。
義勇さんは、視線を落とし、浅く息を吸う。
しばらく目が合わず、私の胸だけが高鳴っていく。
「………義勇…さん?」
恐る恐るそう呼ぶと、義勇さんの視線がかすかに震えた。
ゆっくりと顔を上げ、ようやく目が合った。
その瞬間、何かが決まったように、義勇さんは静かに言葉を落とした。
「……お前の名前を、まだ聞いてない」
義勇さんの声が、静かな朝の空気をゆっくりと揺らす。
――そういえば、まだ私の名前を言ってなかった。
ずっと、知りたいと思ってくれていた、そのことが嬉しくて鼓動が高まった。
「わ、私……みさって、いいます……」
自分の声が緊張で震えているのが分かる。
胸がどくどくと鳴り、耳の奥まで響く気がした。
「……みさ、か」
義勇さんはその名を確かめるように、ゆっくりと口にした。
ただ名前を呼ばれただけなのに、体の奥がじんわり熱くなった。
義勇さんはそっと手を伸ばし、指先で私の頬をほんの少しだけなぞった。
触れた瞬間、義勇さんの表情がふっと優しくなる。
普段は見せない穏やかな顔にに心が強くときめいた。
「……お前の名前を、知りたかった」
低く落ち着いた声が、まるで心に直接触れるみたいに響いた。
頬に残る指先の感触がじんわり広がり、心臓が落ち着かない。
「……義勇さん…」
かすかに呼んだ声に、義勇さんはもう一度目元を緩め、顎の下まで指がゆっくり滑り、名残惜しそうにそこで一瞬とどまった。
そして、そっと手が離れていく。
彼が静かに私を見つめるその眼差しが愛おしく、心が甘く溶けそうだった。
「……家まで送る」
目を合わせたままゆっくり頷き、二人で並んで歩き出した。
さっきまでの胸の高鳴りがまだ胸に残ったまま、静かに並んで歩く時間がどこか夢みたいだった。
隣に義勇さんがいるだけで、鼓動はまだ落ち着かないのに、不思議と心が安らいでいった。
やがて家の前に着くと、義勇さんが立ち止まる。
私も足を止め、顔を上げた。
「……義勇さん、ありがとう」
「……また」
義勇さんは短くそう言い残し、ゆっくり背を向けて帰っていった。
少し歩いたところで、ふいに足を止める。
ゆっくりとこちらを振り返り、少し間を置いてから口を開いた。
「……あの花、暖かくなったら見に行こう」
春の約束が、胸の奥にそっと灯る。
返事をしようとしたときには、義勇さんはもう前を向き、静かに歩き出していた。
その背中が見えなくなるまで、私は戸口から目を離せなかった。
家に入って、しばらく扉にもたれたまま動けなかった。
頬に残る熱も、胸の鼓動もまだ落ち着かない。
ゆっくり履き物を脱ぎ、奥の部屋へ入ると、椅子に腰を下ろした。
深く息を吸い、吐き出しても、胸の高鳴りは少しもおさまらない。
そっと頬に触れると、そこに残った温もりが広がり、胸の奥まで甘く満たしていく。
両手で顔を覆い、思わず小さく息がもれる。
こんなに心臓が騒がしいのに、嫌じゃない。
むしろ幸せで、どうしようもないくらい嬉しい。
――私、義勇さんのことが好きになってしまった。
