72:それではおまえらご機嫌よう――。
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「大丈夫っスか?」
紋様を消したなごりは、キョトンとしているコハルに声をかけて手を差し伸べた。
「え…、あ…、ありがとうございます」
はっとしたコハルは恥ずかしげに笑って礼を言い、なごりの手をとって起こしてもらう。
先程の殺伐とした空気は一瞬のうちに消え去ってしまった。
記憶とともに。
「え…と、どうして私…」
なぜ尻餅をついていたのか状況が把握できていない様子だ。
なごりは優しげな笑みを貼り付け、たった今初めて出会ったように見せかけて答える。
「オレが通りかかったところ、急にあなたが曲がり角から飛び出してきて…」
ぶつかって転んだ、と言い切った。
コハルの顔がさらに羞恥に染まり、なごりに頭を下げる。
「ご、ごめんなさい。嫌だわ、何を急いでいたのかしら…」
何か思い立って外に飛び出したというのに、その目的が思い出せずにいた。
「年なの?;」と自身の両頬を手で覆う。
「すみませんでした」
「いえ、車じゃなくて幸いでした。お気をつけて」
ぺこりと会釈して家に戻るコハルに手を振って見送り、なごりは口元を三日月型に歪ませた。
これで邪魔する者はいない。
「あ、ハニー」
振り返ると、そこには因幡が突っ立っていた。
家に入るコハルを見届け、なごりと顔を見合わせる。
「おまえ…、こんなことずっと繰り返していたのか?」
忘れられることがこんなに心を抉るようなことだとは思っていなかった。
なごりは笑顔で言い返す。
「慣れだよ。…キツいなら、ハニーの記憶もデリートできるけど?」
「それは余計なお世話だ。オレも、たとえその記憶が辛いモノでも、憶えていたいんだよ」
「そっか」
これで契約条件をすべて果たすことになる。
1、卯月なごりとの婚約を承諾する。
2、石矢魔町を離れる。
3、関わった者達から自分に関する記憶を削除する。
「契約成立だ。…行こうか」
目を伏せたなごりは、手を差し出した。
因幡はその手を見下ろし、煩わしげに払って歩き出す。
反応をわかっていたなごりは肩を揺らした。
「つれない花嫁だ。ボロボロだし…」
「どうせ、すぐ治る」
一度立ち止まった因幡は、帰路を振り返る。
これから何が待ち受けているかはわからない。
けれどこれで知ることができる。
家族も友達も、巻き込むことなく。
何かあっても、悲しむ者は誰もいない。
「―――楽しかったぜ…。じゃあな、石矢魔」
その日、ひとりの少女がいなくなったことに誰も気づかない。
二つ名がつけられ知れ渡るほどの有名な冷酷兎は、石矢魔町から消えてしまった。
人々の記憶からも、写真からも、端末からも。
さて、彼女は一体どこへ行ってしまったのか。
救いの手はないのか。
そもそも彼女はそれを求めていないだろう。
巻き込まないために、大切な人間から自分に関する記憶を自ら消してしまったのだから。
この物語はここで終わるべきか。
いや、始めるべきだろうか。
本当の、物語を…―――。
彼女がそこへ向かう途中、彼女の中に居座る白いウサギは小さく笑った。
“…―――白兎と黒兎の物語…、人知れず始まり、長きにわたる物語の結末を知りたければ…、その眼でしかと見届けよ”
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