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「……は!」

眠ってしまっていた。
なんだかいい匂いがするのは気のせいか。
ブラインドから漏れる光が、私のよれた化粧を照らしていた。
12連勤、前日からの泊まり込み作業。
最初は私以外にも何人かいたが、泊まるほどではなかったようで、さっさと終わらせて帰ってしまった。
真っ暗になったオフィスで、1人黙々と作業を続けていたが、気づけば朝4時になっていたのを最後に記憶が途切れている。
そこで眠ってしまったのだろう。
ただ、パソコンの前に買った記憶のないコンビニの袋が置かれている。

「え、今何時……だ……」

私の席から遠い、入り口付近の壁に掛けられた時計を確認しようと顔を上げた瞬間、思考が止まった。
目の前の席には、目の下にくまをつけた男性社員が腕を組んで居眠りしていたのだ。
数年前、私と同じ時期にこのブラック企業に入社した同僚、観音坂さんだった。

彼はよく連勤したり、部長に怒鳴られているが、仕事ができないというわけではなく、他人のミスを被ることが多いのだ。
この間は、後輩の失敗をあたかも自分のせいであるかのように報告し、そのあと後輩には同じミスを繰り返さないよう、1から手順を確認していた。
後輩は間違えないようになったけれど、観音坂さんはその分の仕事を課せられてつい先日まで泊まり込み連勤をしていた。
その優しさに、いわゆる勘違い女子というのがかなり多くいる。
まあ私もその1人ではある。
彼のファンであるとでもいえばいいだろうか。
多くの人が辞めていく中、なんとか残っている私は、観音坂さんの同僚であることに少し優越感に浸っている。

なぜなら、彼がが会社で敬語を使わないのは同僚だけだから!

昨晩、仕事のできない私がまた上司に怒られていると、観音坂さん無言で缶コーヒーを机の上に置いていってくれた。
ぼうっとしていた私はそのことをはっきりと認識できず、気づいてお礼を言おうと思って顔を上げた時には、当然だが彼の姿はなく、帰ってしまったのだろうと思った。
しかし今、仕事を終わらせたはずの彼が目の前で寝ている。
相変わらず顔色が悪く、悪夢でも見ているのか眉間にシワが寄っている。

「か、観音坂さん」

起こそうと立ち上がると、パサっと音がして何かが落ちた。
視線を落とすと、ジャケットが落ちていた。
私のものではない、明らかにサイズの大きな男性物。
そっと拾えば、ふわりと香水のような香りが鼻をついた。
あ、観音坂さんのだ。
彼が歩いた後は必ずいい香りが残っている。
香水がお好きなんですかと聞けば、一緒に暮らしているホストが香水をつけてくる、と言っていた。

コンビニの袋といい、ジャケットといい、わざわざ会社に戻ってきてくれたのだろうか。

「……おはよう」

いい匂いすぎてジャケットに顔を埋めていた私は、動物のような甲高い悲鳴をあげて飛び上がった。

「ひっ!」

「あ、ごめん。そんなに驚くとは……。いや、朝一でこんな陰気な顔を見たらそうなるよな。そうだ、貴女がこんな時間まで働いているのも、コンビニで電子マネーが0円で払えなかったのも、今日の天気がかんかん照りなのも、全部、全部俺のせい……」

彼はいつものようにブツブツと低く喋り始めた。

「う、ううん!こっちこそごめんね。観音坂さんは帰ったと思ってたから……」

「ちょっとな。ああ、その資料、今日の昼までだってハゲが言ってたから何か手伝えないかと思ったんだ。まあ、俺なんかが出来ることはないだろうけど」

「何時頃、ここに来たの?」

「たぶん、5時くらいだ。一二三が早めに帰ってきてうるさかったから、逃げてきた」

「ふふ、なるほど」

「とりあえず、コンビニでパンを買ってきてるから食べてて。残りの作業は俺がやる。データを送ってくれ」

「いいよ、観音坂さんだって疲れてるだろうし」

「いや、その、……俺がやりたくてやるんだ。気にするな」

「……そう?」

「そうだ」

「うーん、じゃあお願いします…。でも食べたら私もやるからね。ありがとう」

「ああ」

私はデータを観音坂さんのパソコンに送ると、彼が買ってきてくれたパンを開けた。
パンもありがとう、と言えば彼は小さく返事をして、パソコンのキーボードを叩き始めた。
前髪で顔が隠れてよく見えない。

私は彼が見ていないのをいいことに、彼のジャケットを膝にかけた。
この温かさは私のものなのか、彼のものなのか。
観音坂さんは優しいな、と昨晩の残りのコーヒーと、最後のパンを口の中に押し込んだ。
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