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ある晴れた午後。空は絵に描いたような快晴だったけれど、私の心は曇天だった。うわぁぁん!と大きな声で泣く女の子と、木に引っかかった風船と、それらを素通りしていく人々。そんな光景が目に入ったから。
(私、運動は苦手なんだけどなぁ…)
生まれた頃からの運動音痴はマシにならなくて、小さい頃から学校の授業では体育を二以上を取れたことがない。それでも日常生活では困らないから勉強だけをやると決めた事を、今後悔している。
登れるか? いや、やっぱりやめた方が…。じゃああの子はどうなる? でも取れなかったら元も子もないし……。
頭の中でそんな考えがぐるぐるとループしていたが、身体は自然と動いていた。こうした日常の中ぐらい、子供一人ぐらい、運動音痴だろうと人助けの一つや二つやってみせる。
足を踏ん張り、枝を掴む。上へ上へと登り続け、やっと風船を手にすると女の子のキラキラとした笑顔が見えた。
(良かった、後は降りるだけ……あっ)
風船で片手が埋まった中で運動音痴の私がまともに降りられるはずがなかった。紐を手首に結べば両手が空く、なんて発想をあの状況下で出来るほど私の頭は回っていなかった。今は、見事にバランスを崩して真っ逆さまである。
(あぁ、これ駄目なやつだ)
運動音痴でも分かる、頭から落ちてる私はもう助からないのだと。運動ができる人はここで受け身を取るんだろうな。私には一生知れない世界だなぁ。…いや、そもそも私みたいに落ちたりしないか。
私は全てを諦めたように笑い、風船を持つ手に力を込めた。せっかく取れた風船を、せめてあの子に渡したいから。これだけは、どうか。
「諦めるには早いんじゃない? せっかくなら楽しもうよ。空を飛ぶチャンスなんて、そうないんだからさ」
ふと耳元で声が聞こえてハッとさせられる。痛みもないし、握力のあの字もない私の手はしっかりと風船を握ったままだ。私、生きてたんだ。
安堵しながら声の方を振り向くと青い肌の男性らしき生き物が居た。白く無造作な髪から見え隠れする角。その上には黒い天使の輪っかみたいなものが。冗談にも人とは言えない見た目である。気を紛らわすために服に目をやろうと下を向けば、上裸だった。どこを見ても不審者そのものである。
「あ、ありがとう…ございます…」
「礼を言うのは僕の方だ。久しぶりに良いドラマが見れた」
一難去ってまた一難とはよく言ったもので、私は今、本日二度目の災難に遭遇している。目の前の男から逃げようとして、やっとこの男に抱きかかえられていた事を知った。俗に言う、“お姫様抱っこ”の状態で。こんな形でそれを体験するとは思わなかった。その嫌悪感で咄嗟に彼から顔を背けると女の子と目が合った。先程よりもキラキラした瞳で、私を見つめていた。
「ありがとうお姉ちゃん!」
私は何故か彼の腕の中に居るまま、女の子に風船を渡す。そろそろ解放する気はないのだろうか。恐怖で変な汗が出そうだ。
「降ろしてください」。そう言えれば幾ら良かった事か。私はどうしようもなく、風船を渡した後も女の子に助けを求めるように顔を向けていた。そんな私を他所に、彼女は私と彼を交互に何度も見てはにんまりと笑みを浮かべる。
「二人、お姫様と王子様みたい!」
「────ブッ!!!」
「王子様……か」
純粋な子どもの発言に私はむせてしまった。嬉しそうに私達を見上げる乙女な少女に、どこか満足そうな顔をしている不審者。
こんな有り得ない状況なのに、何故か私の心臓は跳ねた。
『王子様みたい!』
そのフレーズが脳裏を離れない。お姫様と言われた事も衝撃だが、正直そっちにまで頭は回らない。心做しか彼の顔がかっこよく見えて、私を抱える腕は頼もしく見えて、この上裸すら綺麗だと思い始める始末。いや、実際にそうなのかもしれない。私が気づかなかっただけなんだ。
嫌悪感はいつの間にか消え、恥ずかしさと緊張感に包まれる。彼は私の望みだった通りやっと私を離したけれど、今は酷いぐらい寂しく感じた。
「じゃ、また会おう」
女の子がお母さんの方に走っていく姿を見送った後、彼はあっさりと去っていった。追いかけたくなる背中から目を逸らす。きっとこれ以上関わらないのが無難だから、と自分に言い聞かせた。
・
その日は、ずっと胸の奥がざわざわしていた。
助けてくれたとはいえ、明らかに異形の存在なものなのに、また会いたいと思ってしまう。私を直ぐに降ろそうとしなかった事が引っかかってしまう。軽やかな言葉。飄々とした態度。彼はずっと、まるで人の感情を観察して楽しんでいるような目だった。
そして夜。布団に入っても、まぶたの裏には彼の顔が焼きついて離れなかった。落ちていく感覚の中でふわりと抱えられた時の、現実味のない浮遊感。彼の、見た目に反した優しげな声。
アレは人じゃない。どう考えたって怖い。怖いはずなのに、そう思うのが普通なのに。もっと知りたいと思ってしまった自分がいた。そんな自分が嫌になって、頭まで深く布団を被った。暑くて苦しくて、数分も持たずに顔を出したけど。
最終的に朝まで何度も寝返りを打ち、眠れぬまま夜は過ぎていった。
・
そして次の日。少しでも心を休めるために、私はお気に入りのカフェに行く。テラス席に座り、運ばれてきたいつものコーヒーと甘いケーキに目を輝かせた。
やっと一息できる。私はコーヒーの入ったカップを持って口に押し当てた。丁度その時、街中のラジオを聞いて、私は口に含んだばかりのコーヒーを盛大に噴いた。
『市街地を襲撃した犯人の一人、ハッピーケイオスに関する情報が入りました。彼は青い肌をしており、頭部に角と特徴的な黒い輪っかを持っています。見かけた方は真っ先に避難してください』
衝撃で手に力が入らなくなって、辺りにはカップが割れる音が盛大に響く。
内容は昨日の彼とはまるで違う。どう足掻いても信じられない事実を立て続けに押し付けられて、私は頭を抱えた。コーヒーで濡れてしまった服も今はどうでもいい。ああ、こんな形で彼の名前を知りたくなかった。
(え……え? 彼は不審者だけど、そんな人なんかじゃ…。でも何度聞いても彼で間違いないし、でも昨日助けてくれたし、でも、でも……!)
私は途端に訳が分からなくなって、その場を逃げ出した。彼がもたらす災害が恐ろしいからというのもあるが、彼に関する記憶から逃げたかった。私の知る彼、ラジオが語るハッピーケイオス。どっちが本物だろうと偽物だろうと、私が知る必要は無い。あの時の直感はやっぱり間違ってなかったんだ。
けれど、あの可思議な魅力に対する好奇心はどうしても消せなかった。だから、数年かけて彼について調べ続けた。ある日は一日中家にこもってあの日の特集や世界中の文献を検索してみたり、ある日は知らない町の図書館にまで遠出してみたり。そんな日々の中で、私に想いを寄せて伝えてくれた人が居た。恋愛をした事がないから、相手を好きになれるか分からないからと適当な理由をつけては、丁寧に全てお断りしてしまった。これが間違いだったのだろう。誰かと過ごせば忘れられたかもしれないのに。私は心のどこかで彼を、ハッピーケイオスを忘れたくないと願ってしまったのだろうか。
そしてある日、気晴らしに普通の小説を借りに行こうと近所の図書館へ向かった。
(これも見た…これも、見た…)
当たり前と言えば当たり前だが、見慣れた本ばかりだった。たまには読み返すのも良いか。そう考えていると古びた一冊の本に辿り着いた。
(こんな本、前はなかったのに)
ボロボロになったページを捲ると、とある一文が目に入った。
『法力を最初に行使した者──ハッピーケイオス』
その名を見た瞬間、やっと見つけられた嬉しさよりも、彼の“設定”に背筋が凍った。やはり、彼はただの男ではなかった。私はそのままペラペラと捲っては流し見し、急いで受付で貸出の手続きを済ませて図書館を出た──そのとき、誰かとぶつかりそうになった。
「……っと」
「ごめんなさい……!」
「いや、僕の方こそ。大丈夫?……でも運命の出会いって、こういうのが正しいんだっけ?」
あの声。
顔を上げると、そこにいたのは──
「お茶でもどう? 僕、甘いものが好きなんだ」
彼だった。
髪も服も顔も、あの時とは別人級に違っていた。けれど、あの目だけは変わらない。彼は屈託なく笑い、私の心に大穴を開けたまま、当然のように話を進めた。おかしい。全部おかしい。違和感だらけのソレに、私は戸惑ったが口から出た答えは決まったものだった。
「……いいですよ」
しかし次の瞬間。
「じゃあ、案内してくれる? 僕、土地勘がなくてねぇ。あと、できれば君のオススメの店がいいな」
誘った本人が場所を決めないとはどういうことだ。これが世の中のナンパの普通なのか? 思わず「普通は逆じゃないですか」と言いかけて飲み込んだ。
もしかするとこれはナンパではなく、ぶつかってしまった埋め合わせではないか。それなら納得がいく。しかし、さらに店選びが難しくなった。
「君、今とっても失礼な事考えてるでしょ」
「き、キノセイダトオモイマスヨー」
彼に鋭く睨まれて息が詰まる。バレたか。
しかしおかしいのはこの人であり、私は至ってまともである。…いや、よく分からない生き物を探すために数年をかけて、今目の前にいる人物にそれを重ねている時点で私もおかしい。今日は早く寝よう。
「んー、せっかくだから、ご当地のスイーツも気になるなあ」
彼は引き続き睨み節を利かせながら要望を追加した。仕方なく、私はお気に入りのカフェを案内することにした。知名度からご当地のスイーツとは言い難いかもしれないが、美味しさは保証しよう。
男と隣に並んで夏の日差しの下を歩く。道すがらも彼は特に何を語るでもなく、時折私の表情をちらりと見るだけ。その視線が何かを計算しているようで、無性に落ち着かなかった。
・
──カフェ。
彼は私より先に店に入るなり、笑顔でピースしながら人数を伝えてテラス席に座った。パフェを一気に三つも注文し、テーブルに所狭しと並べた。「これ、君の分ね」と何故か私の好みのメニューまで並んでいる。私はカップを握り締めながら、心の中で警戒を強めた。
「君、気づいてるよね? 僕が誰か」
「……はい」
「だよね、その話をするために君にここを案内させた」
彼の発言により、目の前の男の正体が確定してしまった。会いたかったような、会いたくなかったような。せめて今は、久々に人と普通の話をしたかったような。
「とりあえず食べながら話そうか」
「そう、ですね」
そうだ、このテーブルはさながら食べ放題でも頼んだのかと言わんばかりの数のスイーツが並んでいる。スイーツの量で完全に麻痺していたが、ドリンクもそれなりに多い。ドリンクバーなんて頼んだっけ。
「本当に、甘いものが好きなんですね…」
「うん。好きになったのはいつからか忘れたけど、昔からよく頭を使ってたから糖分は欲してたね。君も沢山食べなよ? その本を見つけるぐらいなんだから、君も相当“こっち側”の人間だろうし」
私の鞄の中から見え隠れしている本を指さして、彼は言う。知ってたんだ、この本。
「でもよく見つけたね。ああいうのって、禁書扱いされてるところも多いのに」
ケーキの上に乗ったベリーを人らしく器用にフォークで拾い上げながら、彼は絶対重大な事を何でもない事のように言った。
禁書扱いの本を借りられたのは、あそこが丁度都市から外れたちっぽけな図書館だからか。
「……だって、気になったんです。法力の事もですけど、貴方のことが」
「ふうん。それにしてはずいぶん長い間、調べてたみたいだ」
「調べないと、怖かったんです。貴方を知りたくないのに、知らないままで終わるのが」
私がスプーンをいじる手を止めると、彼は興味深そうに首を傾げた。
「それで、何か分かった?」
「……あの本の内容、本当に全部信じていいんですか?」
彼は少しだけ口元を歪めた。それは笑顔とはかけ離れていて、まさに“面白がっている”といった表情だった。もうどこまで聞いていいのか、話していいのかは分からない。しかし、ここで留まることはもう出来なかった。
「どこまで読んだ?」
「流し見ですけど最後まで。貴方が“法力を構築した初めての人間”で、“概念そのものに介入しようとした狂人”で、“いずれ世界を歪める人物”だって、堂々と書いてありました」
「へぇ、派手な書き方だ。僕の発言も多かったでしょ? 引用符付きで、あれこれと」
「……あれ、本当に貴方の言葉なんですか」
「さあ? あの頃の事とか、もう覚えてないなあ。っていうかあの著者、僕と話したことすらないのにね。何処で拾ってきたのやら。噂話のコレクションかな?」
そう言って彼は、パフェのクリームを一口すくって口に運んだ。にこにこしながら、ナチュラルに嘘か誠か判別つかない言葉を混ぜ込むその様子に、背筋が少しだけ冷たくなる。
「でも、君がその本を見つけたってことは……まあ、そういうことなんだろうなって思ったんだ」
「どういうことですか」
彼は紅茶をひと口飲むと、急に視線をまっすぐに向けてきた。 休日の昼間の賑やかな店内で、このテーブルだけは時間が止まったような気がした。
「君が、僕に会いたいと思ったってこと。違う?」
その言葉に喉がつかえて、言葉が出ない。あんな事があったのだから否定したい。が、理由も根拠も底を尽きていて、何と一緒に言っても否定するには全然説得力が足りない。
「いや、嬉しいよ。君みたいな人が、まだ僕を探してたってことがさ。普通なら────もう忘れてしまうと思ってたから」
「私は……」
言いかけたとき、彼がふっと声を落とした。
「そうだ、あと五品は来るからね」
「……え?」
「ここ、どれも美味しそうでさ。センスまでいいね、君」
突然の話題変更に動揺してしまう。何とか状況を飲み込んでも、滅茶苦茶なのは変わらなかった。
甘いものが好き過ぎるのか、食べること自体が好き過ぎるのか。もうこれ以上突っ込むのはよそう。食べる前から、本題に入る前から、こんな話だけで胃もたれしてしまうのは御免だ。
「安心して、全部奢るよ。巻き込んだからね、色々と」
違う、そこじゃない。そう言いたい気持ちを抑えながら私は口を開いた。
「ここ数年……ずっと、貴方で埋まってしまったんです。直接、何か悪い事はされたわけじゃない。でも……何も、許す気はありません」
そう言うと、彼は急に真面目な顔になった。さっきとも違う、あの事件とも違う、初めて会った日とも違うその表情に圧倒されてしまう。彼って、こんな顔できたんだ。
「許されたいとも思ってないよ。僕がまだ人間だったら、もうちょっとまともな関係になれたのかな、って。ちょっとだけ思っただけ」
スプーンでクリームをすくいながら、彼は続ける。
「君みたいな子はね、昔から僕の周りにはいなかったんだ。命張って、恥かいて、それでも誰かの役に立とうとする子なんて」
一瞬、空気が重くなった。彼の寂しそうな顔が、ひどく痛々しいものに見えた。目の前の通報対象は、静かに私に目線を合わせた。
「一目惚れだった。あの時落ちたのは君じゃなくて、僕の方さ」
その声には、底知れぬ静けさがあった。甘さと、狂気と、どこか懐かしい優しさが同居している。
私は言葉を失った。カップを握る手は完全に止まってしまった。一目惚れ? 彼が? 私に? 訳が分からないのに、ここ数年で一番彼の言葉が心に刺さった。
「嘘だと思っていいよ。どうせ信じても、君を泣かせる未来しかないし。でも、どんなに壊れても、君の顔だけはちゃんと覚えてる。壊れた頭でも、君の姿だけは正しく思い出せるんだ。不思議だよね?」
彼の声は恐ろしい程に穏やかだった。でもその奥に、何か熱を帯びたものがあった。それは嘘じゃないと語るには十分なもので、私は静かに頷く事が精一杯だった。
「君がいてくれたら、どんな世界でも楽しくなりそうだって思ったよ。きっと毎日が見応えのある面白いドラマに囲まれて。……まあ、僕がより良い世界、所謂“破滅”を望んでる時点で、何が起きても選ばれないのは分かってる」
どこか諦めたように笑うその表情は、まるで崖の端に立つ誰かのようだった。
「でもさ、もうちょっと君と、ヒヅキとお喋りしたいなって。もっと色んな姿を知りたいし、できればこれからも僕にヒヅキの時間をくれない?」
恋愛経験皆無の私でも分かる。それは、ささやかな──けれど限りなく“共犯”の誘いに近い、告白の言葉だった。多分、聞いてはいけない言葉だった。出会ってから一度も伝えていない、私の名前まで知っているのだから、余計に。そもそも会うべきではないことは分かっていたが、こんな事になるとは到底思えなかった。目の前の犯罪者はゴクリと喉を鳴らしながら私の返答を待っていた。
私は、胸の奥に張りつめていた何かが崩れる音を聞きながら、ゆっくりと息を吸った。あの日の、空を飛ぶような感覚を思い出して。
「じゃあ…これから言う事、約束してくれますか?」
法力を見つけた人は、案外お茶目かもしれない。私の台詞が予想外だったのか、一瞬だけ目を丸くして咳払いをする。
「何だい? 質問を質問で返すのはあまり好きじゃないけど、今回ばかりは僕の責任だから何でも答えるよ」
あんな事をしておいて、ちょっと上から目線だけど今は許そう。私は質問を続けた。
「もう、世界を滅ぼそうとしたりしませんか?」
「……」
沈黙。
「もう、私を裏切るような事しませんか?」
「……」
また沈黙。どうせきっと、また肯定ではないのだろう。
「これから、ずっとずっと、私の傍に居てくれますか?」
「勿論」
分かっていたかのように、すんなりと答えられた。
「何でこれだけ即答なんですか…」
「これだけで照れる君も大概だと思うけどね」
なんでも答えるって言ったばかりなのに。そう文句を言えるほどの余裕は、とうになくなっていた。熱い。顔に熱が集まって苦しい。心臓の音が壊れたように速くなる。まともに彼の顔を見れない。もう消えてしまいたい。
こんな気持ちになったのは多分、初めてだ。
「で、どうするの? 流石に辞めといた方が君の為だ」
「…いいですよ、お付き合いしても。てか、してください」
「え、さっきの約束、三分の一断ったけどね僕」
やっぱり沈黙はそういう意味だったんだ。明らかに肯定として受け取れるような雰囲気ではなかったけど。それが残念でやるせない気持ちになっているのに、彼らしいなと思うところがある。私、私が考えるよりも彼に溺れてるんだ。それでも、それが嫌だとも思わない。
「いいんです、傍にさえ居てくれたら。後は私が主導権を握って止めてみせますから」
「こんな化け物同様の相手に強く出るね、君らしい。尻に敷かれるってこういう事を言うのかな、新鮮でいいや」
さっきまでの緊張感は何処へやら。このカフェには、とんでもない事を言ってしまったと後悔する私と、心做しか一段落着いてホッとした表情でケーキを頬張るハッピーケイオス…私の唯一の弱点で、唯一の愛しい恋人が居た。
先程の出来事にボーッとしながらテーブルの上を片付ける。彼は大食いどころか早食いも得意なのか、見た目からは予想しがたいスピードで平らげていく。やっぱりここ、カフェじゃなくて食べ放題だな。
遂に最後の一品まで食べた私達は会計へ向かう。せめて財布ぐらいは出そうと鞄を漁っていると、彼は法力で現金そのものをその場にばら撒いた。店員や周りの客が驚いている中、私はここまでスムーズに法力を使う様子に、改めてこの人が本当に法力の第一人者なのだと感じた。店員に軽く礼をする彼に続いて、私もいつものように礼を言った。やっぱりいい人なんじゃないかと思い込んでは首を振って己の頬をペチペチと叩く。彼は、そんな私を怪訝そうな顔で見つめながらカフェのドアを開けた。目がチカチカするほど強い日差しと、一気に汗が吹き出そうになる温度によって私は少し正気に戻った。
「帰ろうか」
「やってみたかったんだよね」と続けて言う彼に手を握られる。恋人繋ぎだ。あの時の温かい感覚に私はもう一度包まれた。夏なのにお互いの手の汗が気にならないのは、私が心の底からハッピーケイオスが好きという証だろう。
果たしてこれが正解だったのかは分からない。正解があったのかも分からない。けれど、どんな結末を迎えてでもこの人と一緒なら、無条件でハッピーエンドになるんじゃないか。そんな予感がした。
・
ある程度歩いたところで、ふと一つの疑問が浮かんだ。
「そういえばケイオスさんってお家あるんですか?」
「あぁ、無いね」
「やっぱり」
「まあヒヅキの家に住めば問題ないよ、少し早めの同棲生活を楽しもうか」
「え!? で、でも、恥ずかしながら部屋も片付けてないので…当分は…」
「こう見えて僕、案外掃除できるからさ。心配ご無用」
(着こなしからして、全然そう見えませんけど!?)
「ベッドもシングルが一台だし…」
「二人でくっつけば問題ないよ。寝心地はともかく、寂しさで寝れないなんて事はないしさ」
そう言われると、ぐうの音も出ない。カフェの次は家を案内する事になるなんて。「傍に居るって約束したからね」と続けざまに言われてしまい、私は彼の提案を承諾する他なかった。
溜め息が出る程度には嫌だったが、ルンルンとリズム良く歩く彼を見るとどうでも良くなってしまった。
後日、部屋を片付けようとする彼に任せてみると、見事に更に汚くなったのはまた別の話だ。
(私、運動は苦手なんだけどなぁ…)
生まれた頃からの運動音痴はマシにならなくて、小さい頃から学校の授業では体育を二以上を取れたことがない。それでも日常生活では困らないから勉強だけをやると決めた事を、今後悔している。
登れるか? いや、やっぱりやめた方が…。じゃああの子はどうなる? でも取れなかったら元も子もないし……。
頭の中でそんな考えがぐるぐるとループしていたが、身体は自然と動いていた。こうした日常の中ぐらい、子供一人ぐらい、運動音痴だろうと人助けの一つや二つやってみせる。
足を踏ん張り、枝を掴む。上へ上へと登り続け、やっと風船を手にすると女の子のキラキラとした笑顔が見えた。
(良かった、後は降りるだけ……あっ)
風船で片手が埋まった中で運動音痴の私がまともに降りられるはずがなかった。紐を手首に結べば両手が空く、なんて発想をあの状況下で出来るほど私の頭は回っていなかった。今は、見事にバランスを崩して真っ逆さまである。
(あぁ、これ駄目なやつだ)
運動音痴でも分かる、頭から落ちてる私はもう助からないのだと。運動ができる人はここで受け身を取るんだろうな。私には一生知れない世界だなぁ。…いや、そもそも私みたいに落ちたりしないか。
私は全てを諦めたように笑い、風船を持つ手に力を込めた。せっかく取れた風船を、せめてあの子に渡したいから。これだけは、どうか。
「諦めるには早いんじゃない? せっかくなら楽しもうよ。空を飛ぶチャンスなんて、そうないんだからさ」
ふと耳元で声が聞こえてハッとさせられる。痛みもないし、握力のあの字もない私の手はしっかりと風船を握ったままだ。私、生きてたんだ。
安堵しながら声の方を振り向くと青い肌の男性らしき生き物が居た。白く無造作な髪から見え隠れする角。その上には黒い天使の輪っかみたいなものが。冗談にも人とは言えない見た目である。気を紛らわすために服に目をやろうと下を向けば、上裸だった。どこを見ても不審者そのものである。
「あ、ありがとう…ございます…」
「礼を言うのは僕の方だ。久しぶりに良いドラマが見れた」
一難去ってまた一難とはよく言ったもので、私は今、本日二度目の災難に遭遇している。目の前の男から逃げようとして、やっとこの男に抱きかかえられていた事を知った。俗に言う、“お姫様抱っこ”の状態で。こんな形でそれを体験するとは思わなかった。その嫌悪感で咄嗟に彼から顔を背けると女の子と目が合った。先程よりもキラキラした瞳で、私を見つめていた。
「ありがとうお姉ちゃん!」
私は何故か彼の腕の中に居るまま、女の子に風船を渡す。そろそろ解放する気はないのだろうか。恐怖で変な汗が出そうだ。
「降ろしてください」。そう言えれば幾ら良かった事か。私はどうしようもなく、風船を渡した後も女の子に助けを求めるように顔を向けていた。そんな私を他所に、彼女は私と彼を交互に何度も見てはにんまりと笑みを浮かべる。
「二人、お姫様と王子様みたい!」
「────ブッ!!!」
「王子様……か」
純粋な子どもの発言に私はむせてしまった。嬉しそうに私達を見上げる乙女な少女に、どこか満足そうな顔をしている不審者。
こんな有り得ない状況なのに、何故か私の心臓は跳ねた。
『王子様みたい!』
そのフレーズが脳裏を離れない。お姫様と言われた事も衝撃だが、正直そっちにまで頭は回らない。心做しか彼の顔がかっこよく見えて、私を抱える腕は頼もしく見えて、この上裸すら綺麗だと思い始める始末。いや、実際にそうなのかもしれない。私が気づかなかっただけなんだ。
嫌悪感はいつの間にか消え、恥ずかしさと緊張感に包まれる。彼は私の望みだった通りやっと私を離したけれど、今は酷いぐらい寂しく感じた。
「じゃ、また会おう」
女の子がお母さんの方に走っていく姿を見送った後、彼はあっさりと去っていった。追いかけたくなる背中から目を逸らす。きっとこれ以上関わらないのが無難だから、と自分に言い聞かせた。
・
その日は、ずっと胸の奥がざわざわしていた。
助けてくれたとはいえ、明らかに異形の存在なものなのに、また会いたいと思ってしまう。私を直ぐに降ろそうとしなかった事が引っかかってしまう。軽やかな言葉。飄々とした態度。彼はずっと、まるで人の感情を観察して楽しんでいるような目だった。
そして夜。布団に入っても、まぶたの裏には彼の顔が焼きついて離れなかった。落ちていく感覚の中でふわりと抱えられた時の、現実味のない浮遊感。彼の、見た目に反した優しげな声。
アレは人じゃない。どう考えたって怖い。怖いはずなのに、そう思うのが普通なのに。もっと知りたいと思ってしまった自分がいた。そんな自分が嫌になって、頭まで深く布団を被った。暑くて苦しくて、数分も持たずに顔を出したけど。
最終的に朝まで何度も寝返りを打ち、眠れぬまま夜は過ぎていった。
・
そして次の日。少しでも心を休めるために、私はお気に入りのカフェに行く。テラス席に座り、運ばれてきたいつものコーヒーと甘いケーキに目を輝かせた。
やっと一息できる。私はコーヒーの入ったカップを持って口に押し当てた。丁度その時、街中のラジオを聞いて、私は口に含んだばかりのコーヒーを盛大に噴いた。
『市街地を襲撃した犯人の一人、ハッピーケイオスに関する情報が入りました。彼は青い肌をしており、頭部に角と特徴的な黒い輪っかを持っています。見かけた方は真っ先に避難してください』
衝撃で手に力が入らなくなって、辺りにはカップが割れる音が盛大に響く。
内容は昨日の彼とはまるで違う。どう足掻いても信じられない事実を立て続けに押し付けられて、私は頭を抱えた。コーヒーで濡れてしまった服も今はどうでもいい。ああ、こんな形で彼の名前を知りたくなかった。
(え……え? 彼は不審者だけど、そんな人なんかじゃ…。でも何度聞いても彼で間違いないし、でも昨日助けてくれたし、でも、でも……!)
私は途端に訳が分からなくなって、その場を逃げ出した。彼がもたらす災害が恐ろしいからというのもあるが、彼に関する記憶から逃げたかった。私の知る彼、ラジオが語るハッピーケイオス。どっちが本物だろうと偽物だろうと、私が知る必要は無い。あの時の直感はやっぱり間違ってなかったんだ。
けれど、あの可思議な魅力に対する好奇心はどうしても消せなかった。だから、数年かけて彼について調べ続けた。ある日は一日中家にこもってあの日の特集や世界中の文献を検索してみたり、ある日は知らない町の図書館にまで遠出してみたり。そんな日々の中で、私に想いを寄せて伝えてくれた人が居た。恋愛をした事がないから、相手を好きになれるか分からないからと適当な理由をつけては、丁寧に全てお断りしてしまった。これが間違いだったのだろう。誰かと過ごせば忘れられたかもしれないのに。私は心のどこかで彼を、ハッピーケイオスを忘れたくないと願ってしまったのだろうか。
そしてある日、気晴らしに普通の小説を借りに行こうと近所の図書館へ向かった。
(これも見た…これも、見た…)
当たり前と言えば当たり前だが、見慣れた本ばかりだった。たまには読み返すのも良いか。そう考えていると古びた一冊の本に辿り着いた。
(こんな本、前はなかったのに)
ボロボロになったページを捲ると、とある一文が目に入った。
『法力を最初に行使した者──ハッピーケイオス』
その名を見た瞬間、やっと見つけられた嬉しさよりも、彼の“設定”に背筋が凍った。やはり、彼はただの男ではなかった。私はそのままペラペラと捲っては流し見し、急いで受付で貸出の手続きを済ませて図書館を出た──そのとき、誰かとぶつかりそうになった。
「……っと」
「ごめんなさい……!」
「いや、僕の方こそ。大丈夫?……でも運命の出会いって、こういうのが正しいんだっけ?」
あの声。
顔を上げると、そこにいたのは──
「お茶でもどう? 僕、甘いものが好きなんだ」
彼だった。
髪も服も顔も、あの時とは別人級に違っていた。けれど、あの目だけは変わらない。彼は屈託なく笑い、私の心に大穴を開けたまま、当然のように話を進めた。おかしい。全部おかしい。違和感だらけのソレに、私は戸惑ったが口から出た答えは決まったものだった。
「……いいですよ」
しかし次の瞬間。
「じゃあ、案内してくれる? 僕、土地勘がなくてねぇ。あと、できれば君のオススメの店がいいな」
誘った本人が場所を決めないとはどういうことだ。これが世の中のナンパの普通なのか? 思わず「普通は逆じゃないですか」と言いかけて飲み込んだ。
もしかするとこれはナンパではなく、ぶつかってしまった埋め合わせではないか。それなら納得がいく。しかし、さらに店選びが難しくなった。
「君、今とっても失礼な事考えてるでしょ」
「き、キノセイダトオモイマスヨー」
彼に鋭く睨まれて息が詰まる。バレたか。
しかしおかしいのはこの人であり、私は至ってまともである。…いや、よく分からない生き物を探すために数年をかけて、今目の前にいる人物にそれを重ねている時点で私もおかしい。今日は早く寝よう。
「んー、せっかくだから、ご当地のスイーツも気になるなあ」
彼は引き続き睨み節を利かせながら要望を追加した。仕方なく、私はお気に入りのカフェを案内することにした。知名度からご当地のスイーツとは言い難いかもしれないが、美味しさは保証しよう。
男と隣に並んで夏の日差しの下を歩く。道すがらも彼は特に何を語るでもなく、時折私の表情をちらりと見るだけ。その視線が何かを計算しているようで、無性に落ち着かなかった。
・
──カフェ。
彼は私より先に店に入るなり、笑顔でピースしながら人数を伝えてテラス席に座った。パフェを一気に三つも注文し、テーブルに所狭しと並べた。「これ、君の分ね」と何故か私の好みのメニューまで並んでいる。私はカップを握り締めながら、心の中で警戒を強めた。
「君、気づいてるよね? 僕が誰か」
「……はい」
「だよね、その話をするために君にここを案内させた」
彼の発言により、目の前の男の正体が確定してしまった。会いたかったような、会いたくなかったような。せめて今は、久々に人と普通の話をしたかったような。
「とりあえず食べながら話そうか」
「そう、ですね」
そうだ、このテーブルはさながら食べ放題でも頼んだのかと言わんばかりの数のスイーツが並んでいる。スイーツの量で完全に麻痺していたが、ドリンクもそれなりに多い。ドリンクバーなんて頼んだっけ。
「本当に、甘いものが好きなんですね…」
「うん。好きになったのはいつからか忘れたけど、昔からよく頭を使ってたから糖分は欲してたね。君も沢山食べなよ? その本を見つけるぐらいなんだから、君も相当“こっち側”の人間だろうし」
私の鞄の中から見え隠れしている本を指さして、彼は言う。知ってたんだ、この本。
「でもよく見つけたね。ああいうのって、禁書扱いされてるところも多いのに」
ケーキの上に乗ったベリーを人らしく器用にフォークで拾い上げながら、彼は絶対重大な事を何でもない事のように言った。
禁書扱いの本を借りられたのは、あそこが丁度都市から外れたちっぽけな図書館だからか。
「……だって、気になったんです。法力の事もですけど、貴方のことが」
「ふうん。それにしてはずいぶん長い間、調べてたみたいだ」
「調べないと、怖かったんです。貴方を知りたくないのに、知らないままで終わるのが」
私がスプーンをいじる手を止めると、彼は興味深そうに首を傾げた。
「それで、何か分かった?」
「……あの本の内容、本当に全部信じていいんですか?」
彼は少しだけ口元を歪めた。それは笑顔とはかけ離れていて、まさに“面白がっている”といった表情だった。もうどこまで聞いていいのか、話していいのかは分からない。しかし、ここで留まることはもう出来なかった。
「どこまで読んだ?」
「流し見ですけど最後まで。貴方が“法力を構築した初めての人間”で、“概念そのものに介入しようとした狂人”で、“いずれ世界を歪める人物”だって、堂々と書いてありました」
「へぇ、派手な書き方だ。僕の発言も多かったでしょ? 引用符付きで、あれこれと」
「……あれ、本当に貴方の言葉なんですか」
「さあ? あの頃の事とか、もう覚えてないなあ。っていうかあの著者、僕と話したことすらないのにね。何処で拾ってきたのやら。噂話のコレクションかな?」
そう言って彼は、パフェのクリームを一口すくって口に運んだ。にこにこしながら、ナチュラルに嘘か誠か判別つかない言葉を混ぜ込むその様子に、背筋が少しだけ冷たくなる。
「でも、君がその本を見つけたってことは……まあ、そういうことなんだろうなって思ったんだ」
「どういうことですか」
彼は紅茶をひと口飲むと、急に視線をまっすぐに向けてきた。 休日の昼間の賑やかな店内で、このテーブルだけは時間が止まったような気がした。
「君が、僕に会いたいと思ったってこと。違う?」
その言葉に喉がつかえて、言葉が出ない。あんな事があったのだから否定したい。が、理由も根拠も底を尽きていて、何と一緒に言っても否定するには全然説得力が足りない。
「いや、嬉しいよ。君みたいな人が、まだ僕を探してたってことがさ。普通なら────もう忘れてしまうと思ってたから」
「私は……」
言いかけたとき、彼がふっと声を落とした。
「そうだ、あと五品は来るからね」
「……え?」
「ここ、どれも美味しそうでさ。センスまでいいね、君」
突然の話題変更に動揺してしまう。何とか状況を飲み込んでも、滅茶苦茶なのは変わらなかった。
甘いものが好き過ぎるのか、食べること自体が好き過ぎるのか。もうこれ以上突っ込むのはよそう。食べる前から、本題に入る前から、こんな話だけで胃もたれしてしまうのは御免だ。
「安心して、全部奢るよ。巻き込んだからね、色々と」
違う、そこじゃない。そう言いたい気持ちを抑えながら私は口を開いた。
「ここ数年……ずっと、貴方で埋まってしまったんです。直接、何か悪い事はされたわけじゃない。でも……何も、許す気はありません」
そう言うと、彼は急に真面目な顔になった。さっきとも違う、あの事件とも違う、初めて会った日とも違うその表情に圧倒されてしまう。彼って、こんな顔できたんだ。
「許されたいとも思ってないよ。僕がまだ人間だったら、もうちょっとまともな関係になれたのかな、って。ちょっとだけ思っただけ」
スプーンでクリームをすくいながら、彼は続ける。
「君みたいな子はね、昔から僕の周りにはいなかったんだ。命張って、恥かいて、それでも誰かの役に立とうとする子なんて」
一瞬、空気が重くなった。彼の寂しそうな顔が、ひどく痛々しいものに見えた。目の前の通報対象は、静かに私に目線を合わせた。
「一目惚れだった。あの時落ちたのは君じゃなくて、僕の方さ」
その声には、底知れぬ静けさがあった。甘さと、狂気と、どこか懐かしい優しさが同居している。
私は言葉を失った。カップを握る手は完全に止まってしまった。一目惚れ? 彼が? 私に? 訳が分からないのに、ここ数年で一番彼の言葉が心に刺さった。
「嘘だと思っていいよ。どうせ信じても、君を泣かせる未来しかないし。でも、どんなに壊れても、君の顔だけはちゃんと覚えてる。壊れた頭でも、君の姿だけは正しく思い出せるんだ。不思議だよね?」
彼の声は恐ろしい程に穏やかだった。でもその奥に、何か熱を帯びたものがあった。それは嘘じゃないと語るには十分なもので、私は静かに頷く事が精一杯だった。
「君がいてくれたら、どんな世界でも楽しくなりそうだって思ったよ。きっと毎日が見応えのある面白いドラマに囲まれて。……まあ、僕がより良い世界、所謂“破滅”を望んでる時点で、何が起きても選ばれないのは分かってる」
どこか諦めたように笑うその表情は、まるで崖の端に立つ誰かのようだった。
「でもさ、もうちょっと君と、ヒヅキとお喋りしたいなって。もっと色んな姿を知りたいし、できればこれからも僕にヒヅキの時間をくれない?」
恋愛経験皆無の私でも分かる。それは、ささやかな──けれど限りなく“共犯”の誘いに近い、告白の言葉だった。多分、聞いてはいけない言葉だった。出会ってから一度も伝えていない、私の名前まで知っているのだから、余計に。そもそも会うべきではないことは分かっていたが、こんな事になるとは到底思えなかった。目の前の犯罪者はゴクリと喉を鳴らしながら私の返答を待っていた。
私は、胸の奥に張りつめていた何かが崩れる音を聞きながら、ゆっくりと息を吸った。あの日の、空を飛ぶような感覚を思い出して。
「じゃあ…これから言う事、約束してくれますか?」
法力を見つけた人は、案外お茶目かもしれない。私の台詞が予想外だったのか、一瞬だけ目を丸くして咳払いをする。
「何だい? 質問を質問で返すのはあまり好きじゃないけど、今回ばかりは僕の責任だから何でも答えるよ」
あんな事をしておいて、ちょっと上から目線だけど今は許そう。私は質問を続けた。
「もう、世界を滅ぼそうとしたりしませんか?」
「……」
沈黙。
「もう、私を裏切るような事しませんか?」
「……」
また沈黙。どうせきっと、また肯定ではないのだろう。
「これから、ずっとずっと、私の傍に居てくれますか?」
「勿論」
分かっていたかのように、すんなりと答えられた。
「何でこれだけ即答なんですか…」
「これだけで照れる君も大概だと思うけどね」
なんでも答えるって言ったばかりなのに。そう文句を言えるほどの余裕は、とうになくなっていた。熱い。顔に熱が集まって苦しい。心臓の音が壊れたように速くなる。まともに彼の顔を見れない。もう消えてしまいたい。
こんな気持ちになったのは多分、初めてだ。
「で、どうするの? 流石に辞めといた方が君の為だ」
「…いいですよ、お付き合いしても。てか、してください」
「え、さっきの約束、三分の一断ったけどね僕」
やっぱり沈黙はそういう意味だったんだ。明らかに肯定として受け取れるような雰囲気ではなかったけど。それが残念でやるせない気持ちになっているのに、彼らしいなと思うところがある。私、私が考えるよりも彼に溺れてるんだ。それでも、それが嫌だとも思わない。
「いいんです、傍にさえ居てくれたら。後は私が主導権を握って止めてみせますから」
「こんな化け物同様の相手に強く出るね、君らしい。尻に敷かれるってこういう事を言うのかな、新鮮でいいや」
さっきまでの緊張感は何処へやら。このカフェには、とんでもない事を言ってしまったと後悔する私と、心做しか一段落着いてホッとした表情でケーキを頬張るハッピーケイオス…私の唯一の弱点で、唯一の愛しい恋人が居た。
先程の出来事にボーッとしながらテーブルの上を片付ける。彼は大食いどころか早食いも得意なのか、見た目からは予想しがたいスピードで平らげていく。やっぱりここ、カフェじゃなくて食べ放題だな。
遂に最後の一品まで食べた私達は会計へ向かう。せめて財布ぐらいは出そうと鞄を漁っていると、彼は法力で現金そのものをその場にばら撒いた。店員や周りの客が驚いている中、私はここまでスムーズに法力を使う様子に、改めてこの人が本当に法力の第一人者なのだと感じた。店員に軽く礼をする彼に続いて、私もいつものように礼を言った。やっぱりいい人なんじゃないかと思い込んでは首を振って己の頬をペチペチと叩く。彼は、そんな私を怪訝そうな顔で見つめながらカフェのドアを開けた。目がチカチカするほど強い日差しと、一気に汗が吹き出そうになる温度によって私は少し正気に戻った。
「帰ろうか」
「やってみたかったんだよね」と続けて言う彼に手を握られる。恋人繋ぎだ。あの時の温かい感覚に私はもう一度包まれた。夏なのにお互いの手の汗が気にならないのは、私が心の底からハッピーケイオスが好きという証だろう。
果たしてこれが正解だったのかは分からない。正解があったのかも分からない。けれど、どんな結末を迎えてでもこの人と一緒なら、無条件でハッピーエンドになるんじゃないか。そんな予感がした。
・
ある程度歩いたところで、ふと一つの疑問が浮かんだ。
「そういえばケイオスさんってお家あるんですか?」
「あぁ、無いね」
「やっぱり」
「まあヒヅキの家に住めば問題ないよ、少し早めの同棲生活を楽しもうか」
「え!? で、でも、恥ずかしながら部屋も片付けてないので…当分は…」
「こう見えて僕、案外掃除できるからさ。心配ご無用」
(着こなしからして、全然そう見えませんけど!?)
「ベッドもシングルが一台だし…」
「二人でくっつけば問題ないよ。寝心地はともかく、寂しさで寝れないなんて事はないしさ」
そう言われると、ぐうの音も出ない。カフェの次は家を案内する事になるなんて。「傍に居るって約束したからね」と続けざまに言われてしまい、私は彼の提案を承諾する他なかった。
溜め息が出る程度には嫌だったが、ルンルンとリズム良く歩く彼を見るとどうでも良くなってしまった。
後日、部屋を片付けようとする彼に任せてみると、見事に更に汚くなったのはまた別の話だ。
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