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彼女の名はアオイ。今年パルデアへやってきてメイクのスペシャリスト、リップの元で仕事をしているド新人のメイクスタップである。
リップにはそれなりに目をかけてもらっていて、色々な現場に連れて行ってもらっており、今日もとあるショーに出演するモデルたちのメイクをする為に彼女たちの控室にメイク道具を広げてスタンバイしていた。
とは言え、アオイもまだまだ新人。モデルは大概リップのメイクを希望する為、あぶれたモデルがしかたがなくアオイの元に来るというのが常であった。
だが、アオイにメイクをしてもらったモデルはその出来に笑顔を見せてくれるので、そう言ったモデルは次回からもアオイのスタンバイしているブースに来てくれる事があった。ありがたいことである。
今日の現場に来るモデルのほとんどがアオイがいまだ会ったことのないモデルばかりなので、今日も自分のブースはほどほどの忙しさだろうと思っていた。
モデル一人一人にコンセプトがあるので、モデルの顔とコンセプトはファイリングして手元に置いてある。モデルが入ってくれば慌ただしくなるので予めおさらいをしておこうとアオイはファイルを開いた。
今日は今までの仕事の中でもかなり忙しい部類にはなるだろう、何せそれなりに大きなショーで、目玉のモデルが何人かいるのだがその中に有名な”チリ”という名前があるのだから。けれど、アオイのファイルにはチリのデータは一切入っていない。
何せ、彼女は他人にメイクを一切させない。自分で完璧にメイクをしてしまうし、リップのメイクであっても断り自分でメイクをするのだから新人のアオイは尚更勘定に入れていなかった。
モデルが入ってくる時間が差し迫った頃、リップが手を叩いてスタッフの意識を集める。

「それじゃあみんな、今日は忙しいこと間違いなしだけど最後まで気合い入れていきましょ~」

「はい!」

スタッフたちがそれぞれ返事をする。アオイも広げたメイク道具を確認しながらその時を待った。
コツコツと靴音が響いて、最初のモデルが入ってくる。

「チリさんです!」

一人のスタッフがそう言った。アオイはちらりとチリの方を見る。なるほど有名なだけあって実際に自分の目で見てもかなりの美人であった。すでに隣の控室で舞台衣装に着替えてきているから余計に見栄えがする。普段の歩き方はランウェイを歩く時と随分違うし、何ならポケットに手を突っ込んでいるが、オンとオフの切り替えが上手い人なのだろうとアオイは思う。
チリはそのままリップの方へと歩みを進めて何やら話をしている。そうして何事かを話し終えるとチリがこちらの方へやってくるのが見えた。
丁度アオイがスタンバイしている席の隣が空席なのでそこでメイクをするのかもしれない。リップも黙認するメイクを近くで見せてもらえるかもしれないとアオイはドキドキしながら椅子の傍に立っていた。

「自分がアオイやな、メイクして」

傍までやってきたチリは、隣の席に着くのかと思いきやアオイがスタンバイしている席に座った。そして簡潔にそう言ったのである。

「え?!」

アオイは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。チリは誰にもメイクをさせないことで業界では有名なのに、いきなりしかもド新人の自分に声がかかるのはおかしいと思ったのだ。チリは一番乗りで現場に入ってきていて、リップのメイクを受けることも勿論可能であるというのに、なぜわざわざ名の知れないスタッフのメイクを受けようと考えるのかがわからなかった。

「あの…私まだ新人なんですけど…よろしいんですか?今ならまだリップさんの手が空いてますが…」

アオイが備え付けてある鏡の向こうのチリに声をかけると、呆れたような顔をされてしまう。

「自分の事指名してるんやからはよせいや、それともできへんのか?」

「すみません。チリさんの今回のコンセプトを把握していないもので…」

そうしてチリも鏡の中のアオイに目を向けるとすぐに正面を向く。さっきからずっと真顔なのが底知れなくて恐ろしい。

「コンセプトは秋、ゴールドとブラウン基本で好きにしてみい」

「は、はい!」

アオイは戦々恐々としながらベースを始めた。震えそうになる手を何度叩いたかわからない。それでも舞台で映えるメイクを意識しながら目元を重点的にはっきりと色を置いていく。最後にリップのメイク、ラメなのどが入っていないブラウンのリップを筆で乗せていく。元々光沢の少ないリップだが更にマットな仕上がりにする為にティッシュオフをしてもらおうとアオイはボックスティッシュをチリの目の前に置いた。

「ティッシュオフお願いします…」

アオイがそう声をかけると、鏡の向こうのチリがちらりとこちらを見る。そうして手のひらで手招きするようなジェスチャーをした。顔を寄せると徐に顎を掴まれる。
何か粗相があったのかと感じてきつく目を閉じたアオイだったが、思ったような怒声も衝撃もやっては来なかった。ただ一瞬顔に布のような感触が被ってきて、次いで唇に何かが当たったような。
恐る恐る目を開けると、チリが微かに口元を緩めて笑っていた。

「色はこんくらいがベストやな、けどまあ上出来やん!次もよろしくなアオイ、呼んだらすぐ来れるように予定空けておくんやで」

そう言ってチリが席を立ちアオイの肩を叩いて去っていく。
足元にひらりと落ちたのは一枚のティッシュだった。唇の跡が残ったそれをアオイが拾い上げる。恐らくチリがティッシュオフしたものだろうとは推察できる。
さっきのは一体…。そう考えながらアオイはやけに現場が静かなことに気付く。もうかなりの人数のモデルが入ってきているはずなのに何故こんなに静かなのか、アオイが状況を把握したくて周囲を見回すと、みな一様にこちらを見ていた。
一部ではくすくすと笑う声、驚いたようなモデルの顔もあれば、リップのように呆れた顔をしている人もいた。
アオイは恐ろしくなってリップの傍に駆け寄る。

「今何があったんですか…?!」

血の気が引く思いでリップに尋ねると、リップは優しくアオイの頭を撫でた。

「ちょっと悪いオオカミが出ただけよ、今は気にせず仕事に戻りなさい」

そう宥められてアオイは渋々自分のブースへ戻る。それから着々とモデルがやってきてはメイクをし、ショーが始まっても合間合間にメイクを直していて大忙しだった。
その忙しさで何とかその場を乗り切れはしたが、撤収の頃になってどっと疲れたような気になった。

ーーーチリさん、何のつもりだったんだろう…

まさかこれから起こる災いの前触れなのではないかとアオイは恐れながらメイク道具を片付け始める。モデルたちはショーが大成功の裡に終了し、打ち上げの為既に現場を去っている。だからアオイは気兼ねなくため息が吐けるわけなのだが、そうも言ってられない事が起こった。
徐に手を掴まれたかと思うと紙のようなものを握らされる。アオイは驚いて思わず跳ね上がってしまった。

「リアクションでかすぎん?あ、これなチリちゃんの連絡先~登録しといてな」

既にメイクオフしたチリがにこやかにアオイの手のひらを指さしている。握らされたそれを確認すると、アドレスと番号、あとは何かSNSのIDと思しきものだった。
チリはそのまま、またひらひらと手を振りながら去っていってしまう。恐ろしい、実に恐ろしい人である。

「り、リップさん…これどうしたらいいんでしょうか…」

思わずリップに助けを求めると、一言。

「…権力に物を言わせてるわね、しかもセクハラ付き。電話だけ登録しておけばいいわよ、仕事の斡旋してくれるんでしょう?セクハラは躱して美味しい所だけもらっちゃいなさい」

そんな全くアドバイスにならないことを言われてアオイは落胆してしまう。
自分がチリに気に入られる要素など皆無だというのに、なぜ一日でこんなにも色んなことが起きてしまうのか。しかも、いつ来るかわからない連絡の為に予定を開けておくようなことはできないし、何が正しいのか分からなくなってくる。

それからとりあえず電話番号だけを登録したが、そこでアオイはひらめいた。チリは自分の番号など知らないのだから放っておけばその内忘れてもらえるのではないかと。だが、その思惑も空しくある日、チリの方から電話がかかってきた。どこから情報が漏れたのか分からないが、すぐに出なければいけないと三コールの内に通話ボタンを押す。

「はい…なんでしょう…」

アオイが恐る恐る電話に応対すると、向こうから明るい声音で返ってくる。

「〇〇スタジオ、今すぐ来て」

そうやってアオイは何度もチリに呼び出されることになった。スタジオや控室に着けばチリにメイクをするだけ。それなのに帰り際に仕事に見合わない高額な報酬を押し付けられるのだ。何度断っても取り合ってもらえず、手を付けることもできなくてチリからの報酬は別口座に着実に溜まっていってしまっていた。
そんなある時、またチリから連絡があった。別のスタジオで仕事をしている、その休憩中のタイミングだった。

「△△スタジオ、十時までに来てや」

そう言われてしまった。流石にこの突飛な呼び出しにも慣れてはきたが、アオイは今回ばかりは赴けない。

「すみません、今別の仕事で違うスタジオにいてお伺いできないんです…」

アオイが謝罪すると、一瞬チリが黙り込む。そして。

「呼び出したら来れるように予定空けとけって言うたよな」

地響きのような声で、電話口でも凄まれているのが伝わってくる。
アオイがすみませんという言葉を繰り返していると、後ろからリップがアオイのスマホをさらっていく。

「うちのスタッフをいじめないでちょうだい。そんなコトの為にアオイをあなたに紹介したんじゃないわ。それにあなたと専属契約をしているわけじゃないんだから、こっちの仕事が優先に決まってるでしょ?お金と権力でオトせる女じゃないのよアオイは…その辺勉強して出直してね~」

そう言ってリップが一方的に電話を切ってしまう。アオイにスマホを返しながらリップがため息を吐いた。

「ほんと困っちゃうわね、プライマリークールの男の子じゃあるまいし…いじめて気が引けるとでも思ってるのかしら?アプローチの仕方が一方的なのよ。アオイ、いつでも訴えていいからね~」

「…わ、かりました。リップさんありがとうございます」

何とも複雑な気持ちだが、一先ず現状が治められたことに安堵する。

「いいわよ、かわいい部下を守るのもリップの務めなんだから、そうだ…あなたにバレンタインの贈り物が届いてたわよ」

そう言ってリップが紙袋を渡してきた。
紙袋の表には”アオイさんへ”と書かれている。アオイはパルデアに来て日が浅い為馴染めていないが、どうやらこの地方は愛を伝える文化が盛んで、今日のようなバレンタインには男性から女性に、もしくは感謝などを込めてプレゼントを贈ることが多いらしい。紙袋の中身には”スタッフの皆さんとどうぞ モデル一同”という手紙付きでパティスリームクロジのお菓子の詰め合わせが入っていた。

「前にあなたが担当したモデルの子たちからよ、よかったわね」

リップはアオイにウィンクをしてそこで休憩が終了した。
それをテーブルに置いて、アオイは温かい気持ちになる。自分のメイクで喜んでもらえているのがわかって嬉しかった。残りの仕事も頑張ろうと、アオイは自分の頬をはたいて気合を入れる。その日は雑誌の撮影の為、モデルの数も多くはなく午後三時頃にはスタジオを出ることができた。
リップが構えているメイクスタジオ兼オフィスに戻ってきて、貰ったお菓子をスタッフと分けてお茶休憩をしていると、スタッフの一人がアオイを呼びに来た。

「アオイちゃん、お客様よ~」

そのスタッフがやけににこにこしているのに違和感を覚えながら、アオイはオフィスからスタジオを抜けて扉を開けて表へと出る。
すると突然視界に花が現れた。

「受け取ってください」

花の向こうでそんな声が聴こえた。聞き覚えのある声だと思って花を避けてみると、そこにチリがいた。
アオイの眼前に向けられた花はチリの持っていた花束だった。
赤いチューリップが四本、赤茶色いコスモスが数本に、大輪のラナンキュラス、ブーゲンビリア。赤やピンクで飾られた花束だ。
中でも赤茶色いコスモスはどこか嗅ぎ覚えのある匂いがする。チョコレートの匂いだ。花からチョコレートの匂いがする。反射的に受け取ろうとして、アオイは手を止めた。
なぜチリが花束をアオイに贈るのかがわからなかったからだ。以前から驚くほどの額を報酬で渡されたり、時折ご飯に連れて行ってもらったりしてはいたが、花束を渡されるようなことをした覚えはない。こちらがお礼を渡すならともかくなのだが。むしろ今日、チリの呼び出しをリップに断ってもらったばかりなのに、なぜ花なのだろうか。
そう思ってアオイが受け取らずにいると、チリがしょんぼりと眉根を下げる。

「あ~いきなり花束渡されても受け取れへんよな…ごめんな」

「えっと…こちらこそすみません…あ!もしかしてリップさんに渡すやつでしたか?すみません気が回らなくて!」

不意にその考えに辿り着いてアオイが花束を受け取ろうとすると、今度はチリが花束を引いた。

「んなわけないやろ!自分宛てに決まっとるわ!」

チリが思い切り突っ込みを入れてくるのに驚くアオイ。

「……好きです!前から気になってました!お付き合いしてください!」

チリがやけっぱちと言わんばかりの勢いで再びアオイに花束が差し出される。
思わず仰け反るアオイ。チリという人間は本当に意味が解らなかった。

「チリさんに好かれる要素が私にあるとは思えないんですけど…」

疑問に思ったことをアオイが口にする。アオイはあのショーでチリと初めて顔を合わせたというのに、一体いつアオイを好きになるタイミングがあったというのだろうか。

「他のモデルとかから話聞いたり、近くのスタジオの時覗いたりして…最初はアオイにメイクしてもらえるモデルが羨ましゅうて、メイクして貰うたら…他のモデルにメイクするんが憎らしくなって…」

「でも私メイクスタッフなんですけど…それがお仕事ですし」

「分かっとるわ!せやから頻繁に呼び出して予定埋めたろうって思ったんよ…あと専属になってもらおって思うて…」

そう言い連ねるチリ。本当に随分と一方的だった。

「……専属は、ごめんなさい。私まだまだ勉強中の身ですし、チリさんみたいな有名モデルの専属なんて分不相応です。あと今までいただいた報酬も高すぎるのでお返しします…」

「え…」

悲嘆に満ちた目を向けられて一瞬たじろぐアオイ。チリのそれは雨濡れの子犬の様だった。

「予定は事前にオフィスまで確認を入れてください。そうすればそれ込みで予定が組めますし…報酬も既定の額で十分です。それより多くは要りません…あと、まずお友達として、という事であれば…問題ないです」

そうしてアオイが花束の中から赤茶色のコスモスを一本だけ引き抜いた。

「お友達からならええの?」

アオイの行動にチリの表情が見る見るうちに明るくなる。

「絶対落としたるからな!あと電話以外も登録して!」

そう言ってチリがにこにこと笑みを湛えたまま去っていく。一方的な部分はあまり変わらないらしい。
チリの背中が見えなくなるまで見送ると、アオイはその場にへたり込んだ。
何かとんでもないことが更に起こりそうな気がしてしまう。そう思っていると、視界の端にリップのつま先が見えた。

「チャンスをあげちゃったのね…一度許しちゃったら怖いわよ、あの人可愛い子犬のフリしたオオカミだと思うから、子猫ちゃんは頭からペロッと食べられちゃうんじゃなあい?」

リップが他人事のようにくすくすと笑っていた。

「まあ、しつこいようならセクハラとかハラスメントで訴えちゃいなさい、リップ良い弁護士知ってるから勝訴間違いなしよ~」

そう言ってリップがスタジオへと入っていく。
手に残った赤茶色のコスモスを見ながら、アオイは自分の発言が本当にそれでよかったのか考えた。
チリの事は変な行動が多いだけで特別嫌いではない。気さくな方だし、アオイの仕事に文句をつけないし、褒めてくれるし、手先の器用な人だけど内面が不器用そうではあるが、とそこまで考えて首を振った。今まで見たチリは本の表面に過ぎない。無暗に好きになってはいけないと自分に喝を入れて何とか立ち上がってお尻の汚れをはたいた。

リップの予言通り、アオイが一度許してしまうとそれまでの不器用なアプローチはどこへやら。自分に見合わないエスコートをされたのは一度や二度ではなかったし、往来で肩を抱かれて歩いたのも数知れず。
他のモデルに嫉妬したと言っていたが、アオイがプライベートを割いたことで満足したのかチリからくる仕事の割合は比較的落ち着いていたのでそれでも甘く見ていたのだ。この奇特な人が友人で止まってくれると。まさか数年後にはクーベルチュールのようにドロドロに溶かされて外堀を埋められ、ハイスペックを見せつけられ二度目の花束を渡されて一生の約束をさせられるに至るだなんてこの時のアオイには知る由もなかったのだ。つまり頭からつま先まで、ものの見事に調理されてぺろりと食べられて彼女のものにされてしまったのである。
その頃にはすっかり相思相愛なのでお互い何も不都合はないのが幸いであった。



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