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short

人は声から忘れていくらしい。チリもそう思う。何度思い出そうと頭の中をひっくり返しても思い出せない声があった。
一番忘れたくない声だったのに、一番最初に思い出せなくなった。
彼女はどんな風に自分を呼んでいただろうか、どんな声音で、どんな時に、自分の名前を呼んでくれただろうか。後悔してももう遅かった。世界中どこを探したとしても、どんなに世界中に散らばる彼女の動画を探したとしても、もう彼女の声で自分の名を聴くことができない。
もっとに記録しておけばよかった。明日もあるだなんて思わすに、彼女の声を、自分に向ける表情を残しておけばよかった。



リーグは今日も忙しかった。朝から面接希望者が数人いてリーグの前でリーグが開くのを待っているらしい。
今はアカデミーの宝探しの時期なのでどうしても面接希望者が増えてしまう。バッジを全く持っていない者から八つ全て所持している者まで。
資料を確認しながら四天王で集まってミーティングを行う。

「今日の挑戦者は骨のありそうな子が多いですね」

ハッサクは全員に手渡された資料を見ながら感嘆の声を上げた。挑戦者の中に三人もバッジを八つ揃えている人物がいる。そんなことは滅多にないので今日はきっと忙しくなることが容易に想像できた。ハッサクは今日は授業の予定がない為問題ないが、横ではアオキが気持ち渋い無表情をして資料を見つめていた。

「ま、面接で振り落とされんかったらの話ですけどね」

同じく資料を見ていたチリがからからと笑っているが、その目には以前の闘志もなければ生気すらないように思われた。

「でも、チリちゃんで大体の人が止まっちゃいますからねーそれにポピーもいますからおじちゃんたちはゆぅーっくりしていてください!」

ポピーもチリを見つつ、それでも明るい声で会話に入る。

「ほなチリちゃんは面接室行くんで、あとの業務よろしくお願いしますわ」

チリはそう言って資料をたたんで近くのデスクに置くと、そのままオフィスを出て行った。
その背中が扉の向こうに消えるまで、ハッサクとポピーは視線を外さない。そうして扉が完全に閉じた時、ハッサクとポピーは大きく息を吐いた。

「チリちゃんのお目目、やっぱり怖いまんまなのです…」

ポピーが眉尻を下げて心配そうにチリが消えた扉の方を見ていた。
ポピーとハッサクが話していると、別のフロアからオモダカがやってきた。

「一見普段通りですが、やはりかなり無理をしているようですね」

ハッサクとポピーが何を話していたのかが分かっているのかオモダカが言う。

「やはり彼女の悲しみは癒える気配がありませんね。もう五年ですか、アオイくんが亡くなって…」

享年19歳。生きていれば今年で24歳になるはずだったアオイは、亡くなるその年パルデアを出てカントー・ジョウト地方へ旅に出ていた。そしてジョウトの山中で滑落事故がおこり、パニックになっている人物を助けようとして一緒に落下、それを庇って下敷きになった。そうしてアオイは帰らぬ人となってしまった。

「まとまった休みが取れるとジョウトの方へ行っているようなんです。彼女の遺品がまだ見つかっていませんから…」

回収された遺品の中で、唯一見つかっていないものがあった。彼女のスマホだ。他の物は全て見つかった。見つかったというよりは、崖の上に置き去りにされていたという方が正しい。荷物と共に彼女のモンスターボールも置かれていて、一見無くなった物などないのではないかと思われたが、スマホだけが見つからない。彼女が転落時所持していた物の中からもスマホを見つけることができなかった。だからチリはそれを探すためにジョウトへ向かっていた。
誰も止めなかった。いや、止められなかった。愛する人を事故で失い、折り合いの付け所に苦しんでいるチリを誰も止められるはずがなかった。そうしてもう五年が経ってしまった。
表面上、チリは至って常の通りで仕事はてきぱきこなす。だが、スマホを見ては何かを打ち込む姿を誰もが目撃していた。既にいないアオイに宛てた何気ない日常の一言。何が食べたい?この時間には帰れそう。まるで今だアオイが生きているかのような言葉で、そんな画面を見れば誰もチリが正気だとは思えない。きっと、アオイの遺体が荼毘に付されてパルデアに帰ってきた所為もあるだろう。遺体があって、それを見送る。そうすることで人は死を受け入れていくことが多いだろう。けれど、人の形をしていなければ、その人の死を受け入れられないという事もあり得る話ではあった。パルデアで執り行われたアオイの納骨式、基葬式の最中も牧師の言葉を他人事のように上の空でチリは聞いていた。その時に変だと気づければよかったのだろうが、今となっては仕方のないことだった。何度か心療内科への通院を薦めたが、結局彼女は「大丈夫です、お気遣いどーもありがとうさんです!」そう笑ってはぐらかしてきた。
そんな時だった。

「アオイからひっさびさに連絡あって、今度の休みにちょっとジョウトまで行ってきます」

チリがそんなことを言い出したのだ。
周囲は皆驚愕した。返事とは?遺品のスマホが発見されたということだろうか?そうしてオモダカが尋ねた。

「なんと返事がきたのです?」

そう言うと、チリは少し照れたように笑いながらスマホの画面を見せてきた。

<長い間返事できなくてごめんね、今ジョウトの◯◯ってとこにいるの>
<良かったらこっちで少し話そう。チリちゃん、待ってる>

二行に分けてそう綴られていた。

「彼女のスマホを拾った方のいたずらでは…?」

「この言葉の使い方、間違いなくアオイです!」

誰もチリの言葉を信じられなかった。その時のチリの目はもう唯人のそれではなかったからだ。
だから皆が口々に止めた。行っても碌なことはないと。
だがチリは止まらなかった。けれどこれ以上言及すれば、それこそ彼女がどんな行動に出るか誰にもわからなかった。本当ならば一人で行かせることなど言語道断。誰かが付き添わなければいけないが、それはチリが徹底的に拒否した。
だからオモダカはチリにある約束をさせた。

「GPSは常に起動させていてください。そしてこまめな連絡。1時間に1度は必ずトークアプリもしくは電話を、リーグ関係者の誰かに"必ず"行ってください」

オモダカの真剣な眼差しとは裏腹にチリは至って普通そうに手をパタパタと振った。

「そんな子供の使いやないんですよ~まあトップがそうせぇ言うんやったらやりますけど」

そうして二日後、チリはジョウトに向かい既に3日、消息が掴めていない。









ジョウトの地に降り立って、チリがまずしたのは定期連絡だった。
連絡先を選んでコールボタンを押す。数コール後に通話が繋がった。

「まいど~チリちゃんです、定期連絡させてもろうてます」

『今はどちらに?』

声の主はハッサクだ。消去法だった。アオキは兼業に兼業を重ねた社畜だし、掛けたところで碌な会話にならないので省く。ポピーに掛けるのは大人として聊か憚られた。オモダカは忙しそうなのでなんとなくスルーして、他に掛けて良さそうな連絡先を知らないチリは必然的にハッサクに連絡を入れることになった。

「目的地に向こうてます。そろそろ目的の場所に近うなってくるかと」

アオイが示した場所は、彼女の事故現場のすぐ近くの森の中だった。今は道なりに坂を上ってその森を目指している。

『いいですか、決して崖の方に近づいてはいけませんよ。何をするにも細心の注意を払う事です!』

電話口でハッサクが熱弁する。

「ほんまに子供の使いみたいになっとりますやん、問題ないですって!何べんも来た道なんやから早々滅多なこと起こるわけないんで」

相変わらずチリがからからと笑うが、誰も信じられるはずがない。

『目的地に着いたらまた連絡をくださいね!』

「はいはーい、わかりましたー!ほんなら電話切らせてもらいま…」

チリがそこまで言いかけた時だった。視界の端に人影が見える。目前にはもう目的の森の入り口が見え始めているのだが、その森の中、暗がりの向こうに人が立っていた。思わずスマホを顔から話して森に視線を向かわせる。
森の入り口に咲いた季節外れの彼岸花、それが導になるようにその人影へと向かっていた。

「アオイ…?」

チリにはその姿がアオイに見えた。森の暗がりの中、樹に手をかけてこちらを見つめている。黒地に赤い彼岸花の描かれた着物を着ているのだけが違和感だが、その顔は、間違いなくアオイだった。

『チリ?!一体どうしたんです!その場を動かずじっとしていなさい、人を向かわせますから…チリ!返事をしなさい!』

スマホの向こうで珍しくハッサクが声を荒げているのだが、そんなものもうチリには聞こえていなかった。
チリの視線は、意識はもう完全にアオイの方へ向いている。
チリは通話が繋がっていることも忘れて上りかけていた坂を一気に駆け上がった。
そうして森の中へ入っていく。チリが近づくとアオイの姿が離れていく、その後ろ姿を追ってどんどんと森の中へと入っいていたのでチリが追いかける。チリはアオイのことしか見ていなかったので、そこに立ち入り禁止の看板があることにも気づかなかった。
暫く森の中を走っていくと、やがて急に周囲が光に包まれて森が開けた。そうして眼前には平屋のジョウト風建築の廃屋が聳えている。優に四百坪ほどはありそうな大きな廃屋は、周囲を彼岸花に囲まれていて異様な雰囲気を放っていた。

「待ってなアオイ!なんで置いて行くん!」

周囲を見回してアオイの姿を捜す。アオイは、チリのいる場所から左手の奥に見える玄関らしき場所へと入っていった。それが見えたので慌ててチリも後を追う。玄関は引き戸でかなり古びて薄黒く汚れていた。引っ掛かりに手をかけて引くと、ギギギという軋んだ音がする。戸の隙間からは埃のようなカビのような、もしくは玄関の土間の土が湿ったそれなのか、とにかく空気が淀んでいて鼻が重くなった。
大きく戸を開いても中は薄暗い。他に明かりの取れそうな窓がない上に、玄関を上がった先に続く廊下は左右どちらも襖で閉め切られていた。
仕方がないので明かりを点けようと、チリは背負っていたリュックから懐中電灯を取り出した。そこでようやく、さっきまで通話中だったことを思い出してスマホを見る。通話は切れていた。そして何度電源を入れても応答がない。通話したままだったから充電が切れてしまったのかもしれないと思い、チリはスマホをリュックの中へとしまった。そうして片手に懐中電灯を持ちなおすとスイッチを入れる。前方の一~二メートルほど先が照らされる。明かりの中にはひらひらと埃が煌めいているのが分かった。足元を見ると埃や土汚れが見受けられ、所々床に劣化で傷んだ形跡もある。チリは足元に注意しながらアオイを捜して一歩玄関の上がり框へと足を進めた。
そうして玄関を上がって二~三歩進んでいくと、懐中電灯の明かりで廊下の突き当りが見える。特に置かれている物はなく、壁には竹の筒のようなものに彼岸花が活けられているくらいだった。その突き当りの左手に向かって廊下は折れていて、丁度ひょっこりとアオイが顔を出す。

「アオイ!」

チリが名前を呼ぶ。アオイはそれににこりと微笑んでこちらに手招きをした。

「チリちゃん、こっちこっち」

そう言ってアオイが曲がり角の向こうへと姿を消す。パタパタと足音のようなものが遠のいていくのが聴こえて、チリは慌てて突き当りの角を曲がった。
角を曲がって懐中電灯の明かりを向ける。そうして一歩踏み込んだ時、じゃりっと何かを踏んづけた。
驚いたチリが懐中電灯で足元を照らす。足を持ち上げて踏んだものを見てみると、それは鍵だった。紐で木札のようなものと繋げられた古びた鍵。簡単な鍵山が二つほどしかついていない、見るからに時代を感じさせる代物だった。
木札の方を見れば物騒な文字が彫り込まれて黒くなぞられている。

『座敷牢』

屋敷自体がかなり年代物のようなので、そんな家に座敷牢があっても不思議ではないとチリは思ったが、別に鍵を持って行く必要もないので廊下の端に置こうとすると、奥から声をかけられる。

「チリちゃん、鍵を落としちゃったの。持ってきてくれる?」

暗がりの向こうでアオイがそう言った。アオイが言ったのだからこの鍵は必要な物なのだろう。正直木札も付いていて邪魔ではあるが、懐中電灯を持つ手の指に引っ掛けてチリは更に廊下の奥へとアオイを追った。
左手の壁は襖ばかりだったが、右手の壁は土壁が続く。ギシギシと床板を軋ませながらチリが進んでいくと、廊下が二手に分かれていた。まっすぐ進む廊下と、右手に曲がる廊下だ。さてどっちに行くべきかと考えていると、右手の方から声がかかった。

「右だよ」

再びアオイの声がした。なのでチリは迷うことなく右手の角を曲がった。そうするといくらか明るくなった。理由はとても簡単だ。廊下の右側の何枚かは雨戸で閉め切られているが、廊下の奥の方の雨戸は取り払われていて外から明かりが差し込んでいたのだ。
そしてその差し込んだ明かりの向こうにアオイが立っている。さっきよりも距離が近くなったことと、外の明かりとが合わさってより鮮明にアオイの姿を見ることができた。柔らかな微笑みを浮かべながら後ろ手に腕を組んでチリを待っているようだった。そうして数歩、チリが前へ進むと再びアオイが振り返って先に進んでいく。これ以上距離ができるのは避けたかったチリは駆け足で後を追った。
取り払われた雨戸の前を通った時、一瞬外の景色が見えた。中庭がそこにはあり、中央には松らしき木が一本とその周囲を彼岸花が囲っている。月明かりに照らされた中庭は随分と風情があるように思われた。そんな窓の前を通り過ぎて再び暗い廊下に懐中電灯を向ける。
足を進めていくと、懐中電灯に照らされた廊下の先にきらりと光るものが見えた。近づいてみると、また鍵だった。けれど、今度のカギは木札などどこに使う鍵かわかるようなものは付属していない。しかし、これもアオイが必要な物かもしれないと思ってチリはそれを拾って更に先へと進んだ。
いくらか廊下のなりに進んでいくと、やがてまた両側が襖になっているような廊下へと出る。右に曲がってきたわけだから同じ場所に戻ってきたわけではないだろう。そうしてその廊下の突き当りはまたしても分かれ道になっていた。左右に進むことができるが、アオイがどちらへ曲がったのかは残念ながら見えなかった。両方の廊下へ懐中電灯の明かりを向けながらどちらに向かったらいいものかと考える。

「左にいるよ」

明るい声でアオイが言った。ならば左へ、チリは足を進めていく。またもや左側が襖、右側が土壁という似たり寄ったりな廊下を進んでいると、不意に背後から足音が近づいてきた。キシキシと床を軋ませて、徐々にこちらに近づいてくる。嫌な予感がしたチリは左手側の襖の一つを開けると中へ入って身を隠した。足音が同じ廊下内へと侵入してきて、やがてチリのいる襖の前で足を止める。
チリが息を呑んで物音を立てないように堪えていると、勢いよく襖が開けられた。









「はあ…捜したんですよ」

想いきり襖が開けられて身構えていたチリだったが、思ったようなことは何一つ起こらなかった。そうして顔を上げると、同じように懐中電灯を持った女性が立っていた。キャップを目深に被った軽装な登山服姿の茶髪の女性だ。

「何でこんな廃屋に一人で入っていくんですか?立ち入り禁止の看板見えてないんですか?!」

女性の声が怒った様子でチリに話しかけてくる。

「一人やないで?ここで待ち合わせしとるから、自分気にせんで帰りや」

チリが事も無げにそう言うと、女性が深い溜息を吐いた。

「こんな所で待ち合わせ?碌な相手じゃないですよ…入る前におかしいと思わなかったんですか?」

「はあ?自分なんなん?勝手についてきたんは自分やろ、それで人の彼女に文句つけんなや…!」

チリが苛立って反論した。今の女性の発言はアオイを馬鹿にしているようにしか聞こえなかったからだ。

「とにかく、ここから出ますよ!さあついてきてください!」

チリの意見などお構いなしに女性がチリの腕を掴んで引っ張る。女性は思ったより力が強くてチリが抵抗を見せても少しずつだが引っ張られてしまう。

「離せっちゅうに!」

このままではアオイを追えないと思ったチリは肘で女性の背中を思い切り殴った。女性はくぐもった呻き声を上げたが、腕を離すことなくこちらを睨んでくる。

「殴るなり蹴るなりお好きにどうぞ!」

女性はそう吐き捨ててチリの腕を脇に挟み込むように抱えなおして来た道を戻る。きっとこの女性は自分が正しいことをしていると思っているのだろう。チリがどうしてこんな場所に来ているかなど、この女性には一切わからない事なのだから仕方ない。けれど、みすみす引きずられて行くわけにはいかない。どこかで隙をついて腕を引き抜かなければとチリは思案する。
そうして一度抵抗を止めた。そうして大人しい振りをして油断を誘おうと思ったのだ。そうして暫く引っ張られて行くと、やがて女性が立ち止まる。それは玄関と繋がる廊下に突き当たった時だった。そうして女性は玄関の方へ懐中電灯を向けると再び深い溜息を吐いた。

「閉められてる…進むしかないかな…」

女性が言うように玄関は閉められていた。だがそれが何だというのだろうか、閉められているなら開けて出ればいいだけのことだとチリは思ったのだ。そんなチリの考えを察知したのか、女性が僅かに顔を上げてチリを見つめてくる。そうして玄関の方へ向き直ると、そのすぐそばまで行って土間に降りた。懐中電灯を持ちながら玄関の戸口の引っ掛かりに手をかける。ギッという音は鳴るが一向に開く気配はない。何度か扉を引いたが結局戸が開くことはなかった。
そうして女性がチリの腕を放す。

「なんやねん、非力やな…まあええわ。自分はここで待っとったらええよ」

女性を置いてチリは再び屋敷の奥へと進んでいく。すると、女性はチリの後をついてきていた。

「ついてくんなや」

チリが冷たく言い放っても、女性はまったく気にしない様子で後をついてくる。
再び、チリが隠れた襖の前まで戻ってくるとまたアオイの声がした。

「チリちゃん、帰っちゃったのかと思ったよ」

懐中電灯で照らすと、白い足袋を履いた足が見える。

「そんなことするわけないやろ、ちょーっと迷惑なお姉ちゃんがおっただけやから、アオイは気にせんでええんよ」

後ろの女性に聞こえるようにわざと声を這ってそう返すチリ。ちらりと振り返ってみるも、女性は自分のモンスターボールを眺めて全くこちらを気にしている様子はない。暖簾に腕押しの様だった。
アオイが再び踵を返して廊下の奥へと進んでいく。チリがそれを追いかける。女性もそれについてきた。
しばらく歩くと、やがて左右どちらの壁も土壁に変わって、その所為か少し肌寒くなってきた。
チリは先を歩くアオイに話しかける。

「肌寒なってきたけど、アオイは平気?」

「私は慣れちゃった!あ、着いたよ!ここ開けてほしいの」

アオイが廊下の行き止まりで立っていて、その正面には木戸があった。ようやくアオイに追いついて、チリはほっと安堵の息を吐く。そうしてアオイが開けてほしいという木戸の方を見た。古めかしい金属製の錠前が木戸が開かないように取り付けられている。
チリが木札の付いている鍵を取り出すと、横からアオイが口を挟んだ。

「何も付いてない方だよ」

アオイがそう言ったので、チリはカギを持ち換えて何もつけられていない鍵を錠前に差し込んだ。かちゃりと軽快な音がして錠前が外れる。そうして木戸に手をかけようと思ったが、この扉には引っ掛かりもノブも存在していなかった。
どうやって開けるのだろうかとチリが考えていると、横でアオイがくすくすと笑う。

「チリちゃん、扉を押してみて」

「押す…?」

そうしてアオイに言われるがままチリが扉を押す、木戸は回転した。どうやらこの扉は回転式だったらしい。懐中電灯で先を照らすと、先がないように思われたが少し懐中電灯を下に傾けると、下へと続く階段があった。

「先に行くね!」

アオイがそう言って先に木戸の向こうへと消えていった。
さあ自分も後に続こうとチリが思っていると、女性が再びチリの腕を掴んだ。

「違和感を覚えないんですか。本当に?」

そう言って女性が自分が被っていた帽子をチリに深く被せてくる。深く被ったことで目が覆われて一瞬にして周囲が見えなくなってしまう。

「ちょっ!なにすんねん!」

チリが帽子を脱ごうとすると、その腕を女性が止める。

「一つ、季節外れの彼岸花」

女性は静かな声でチリに語り掛ける。

「二つ、玄関にはあなたの足跡だけ」

この女性は何が言いたいんだろうと考えるが、頭に霞がかかって上手く思考が働かない。

「三つ、軋まない廊下。四つ、夜の中庭…」

何のことを言っているのか分からない。自分が歩いていても女性が歩いていても間違いなく廊下は軋んでいたではないか。夜の中庭だって、変なところなど一つもなかった。チリは変だとは何一つ思わなかった。だってアオイがそこにいるから。アオイだって何も言わなかった。だから変ではないのだ。
女性がチリの腕をゆっくりと放す。そうしてその手はチリの両耳を塞ぐように当てられた。手袋がされているその手越しに、女性の声が微かに聴こえる。

「目で見ないで、耳で聴かないで、あなたの知っている声を思い出して」

女性が変なことを言っている。見聞きしないで何がわかるというのだろう。変なことを言うなと突き飛ばしてやろうかと思って腕を持ち上げた時だった。

―チリちゃん、まだ降りてこないの?―

アオイの声が鮮明に聴こえた。耳は塞がれていて、女性の声は遠く聞こえるのに何故アオイの声は鮮明に聴こえたのだろうか。

ーどうしたの?早く降りてきてよー

そもそも、アオイの声はどんな声だっただろうか。わからない。正解がわからない。今さっきまで聴いていたアオイの声が思い出せない。
すると、また手のひら越しに女性が話しかけてくる。

「そうだよチリちゃん。本当はもう憶えてないの、思い出せなくて正解なんだよ」

急に女性の言葉が砕ける。そしてチリの両耳に当てられていた手が離された。

「忘れちゃっても仕方がないんだよ、だってもう五年も前だもん…」

耳を覆っていた手が離されたことによって、女性の声が鮮明になる。どこか、懐かしい響きの声だった。

「ここから先は何が起こるかわからないから、この子と一緒にここにいて」

そうして女性はチリの手から木札の付いた鍵を取り上げると、代わりにモンスターボールのような物をチリの手の中に握らせる。そうしてキィと扉が回転する音がして、チリは慌てて帽子のつばを引き上げた。扉の周囲には自分一人。アオイも、さっきの女性ももう姿がない。そうして女性に握らされたものを確かめると、それはやはりモンスターボールだった。
直接懐中電灯の明かりを当てるのは憚られたので、モンスターボールの中からポケモンを呼び出す。
中から出てきたのはユキメノコだった。
チリはこのユキメノコを知っている。だってこのユキメノコは。

「アオイのユキメノコ…」










「なんで…自分がここにおるん」

ユキメノコを前にして、チリは瞠目した。本来ならここにユキメノコはいない。アオイのポケモン達は全てアオイの実家でアオイの母親が世話をしているはずだからだ。ユキメノコはただチリを見つめるばかりで返事をすることはない。したところで、きっとチリにはその言葉の意味を理解することはできない。
チリは考えた。さっきの女性の言葉の意味を、なんであの女性はチリと五年前のことを知っていたのかを。
一つだけ、思い当たることはあった。けれどそれは絶対にありえないことで、そしてそれを確かめる為には女性の言葉を無視して扉の下へと続く階段を降りていかねばいけない。
チリは扉に懐中電灯を向けながら、ユキメノコの方を見やった。

「下に行く言うたら、自分は止めるか?」

チリがユキメノコにそう尋ねると、ユキメノコは首を横に振った。そしてすいっとチリの横を通ると先導するように扉の前に立つ。
キィと音を立てて扉を押し、チリは一歩階段を降りた。古い木の踏み板がギシギシと軋んで言い知れぬ不安感のようなものが押し寄せてくる。
懐中電灯の明かりの中にゆらゆらと揺らめくユキメノコの背中を時折確かめながら、チリは階段を降りる。
そうしていると足元の感覚が変わった。木の床のような感覚ではない、まるで地面のような固い感触。下に向けて懐中電灯の明かりを当てると、周囲にはたくさんの彼岸花が咲いている。つまり足元は地面という事だろう。
真っ赤な彼岸花の細い道が奥へと延びていく。周囲はとても静かで先に降りているはずの二人の気配もわからない。
懐中電灯の明かりに照らされた空間。壁は土をくり抜いたようにごつごつとしており、木の柱と梁で支えられていた。上よりもずっと空気が冷たく淀んでいる。
チリは再びユキメノコへと視線を向けた。ユキメノコが一つ頷いて先へと進む。その後についてチリは奥へと進んだ。

「きゃああああああああああああ」

ユキメノコと二人進んでいると、奥から悲鳴が上がった。どちらの声かわからない。悲鳴が途切れると、奥の方からバタバタと足音のようなものが聴こえる。

「チリちゃん助けて!あの人おかしいよ!」

暗がりに彼岸花の柄の着物が見えた。けれど、声が違う。アオイの声じゃない。一瞬にして全身に鳥肌が立ち冷や汗と共に恐怖が沸き起こる。
彼岸花の描かれた袖がチリの腕を掴もうと手を伸ばしてくる。チリが避けようとする前に、ユキメノコが間に入った。

「なんで!どいてよ!なんでなんで!なんでみんな邪魔するの!ようやく迎えに来てくれる人が現れたのに!!!!!」

その声は恐らく少女という年頃の声だとチリは思う。酷く取り乱していて、同じような言葉を何度も繰り返し叫んでいた。
チリは声の主の顔が見えるように懐中電灯を持ち上げる。思わず息を呑んだ。
彼岸花の着物の上にある顔、それはもはやアオイの顔でもなければ生きている人間のそれでもなかった。
頬骨が浮くほどこけて浅黒くくすんだ肌。眼球の無くなった空洞の様な眼窩。ぼさぼさの黒髪を振り乱す少女のようなものがそこにいた。チリが懐中電灯を取り落とすと、ユキメノコがそれを拾ってチリの前に立つ。
そして少女の向こうの暗闇から、ユキメノコの持つ懐中電灯の明かりに照らされて女性が現れた。

「私から盗ったもの、返して…これ以上、私の大事な人を傷つけるなら許さない」

「アオイ…」

明かりの中に立っていたのはアオイだった。怒ったような悲しんでいるような、なんとも言えない表情で少女の背後に立っている。
アオイがチリの方に視線を向けた。

「結局、来ちゃったんだね。でも、そこから先はダメだよ。戻れなくなっちゃうから」

アオイがそう言って、再び少女に視線を戻す。そして少女の腕を掴むと奥へと引きずっていこうとする。

「いや!放して!助けて!助けて!!!」

少女の足がじたばたと足掻くが、それでもアオイは少女を引きずって暗闇の中へと進んでいく。

「アオイ!待って…!どういうことなん!!!」

チリがアオイを追いかけようと一歩踏み出そうとすると、今度こそユキメノコがそれを阻んだ。

「ユキメノコ。アオイを追いかけな!何がどうなってんのか聞かな!さっきまで…さっきまでアオイは…」

チリがどんなに言ってもユキメノコはどかない。それどころか通路に大きな氷の結晶を出現させて通れないようにしてしまった。
ならばとチリが自分のモンスターボールを取り出す。だが、何度押してもモンスターボールが起動しない。

「クッソ…!こんな時に!」

他のモンスターボールも同様に何度押しても起動しない。アオイのモンスターボールは起動したのになぜ。これではアオイを追いかけられない。

「いやあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

分厚い氷すらも貫通するほどの断末魔のような声が響いて、分厚い氷が一気に弾けて粉々に砕け散った。まるでテラスタルを打ち破られた時の様なガラスが砕けるような音共に。
何が起きたのかと砕けた氷の奥に目を凝らしてみる。そうすると、再びアオイが姿を現した。

「さっきの声…なんなん」

恐る恐るチリが尋ねる。

「説得。かなりごねられちゃってね…多分あんまり響いてない」

そうしてアオイが困ったように笑う。

「あの女の子、誰なん…」

「元々ここに住んでた子。この地下の座敷牢で一人ぼっちで死んじゃったんだって…だから、迎えに来てくれる人を待ってたみたい」

チリの質問にアオイが淀みなく答えていく。

「なんであの女の子がアオイに見えてたん?アオイは…アオイは自分やろ?」

確信ともいえる質問をすると、アオイが少し俯いた後チリの方へと近づいてきた。
そうしてチリの手を取ると、その手の中に四角くて平べったいものを持たせ、包み込むようにチリの手を握る。

「あの子がそう思い込むように仕向けたから。チリちゃんの心が弱っていたから、あの子の弱い幻覚でもチリちゃんの思い込みがあの子を私だと認識させた。チリちゃんはあの子のことを”アオイ”だと強く信じ込んでいたから、私が横にいても視野が狭くなっていたから気づかなかっただけ」

「分かってたら…あんなこと言わへんかった。背中、殴ったりせんかった…ごめん…ごめんなアオイ…」

自分の心の隙が、幻覚に引っ張られて誤った認識をしてしまった。自分の愛しているアオイが横にいたのに、それすら気づかないほど視野が狭くなっていた。理解は追いつかないが、それはとても悔しくて悲しいことだとチリは思う。

「でもね、私がチリちゃんに触れるのも”チリちゃんの思い込み”のお陰だったりするんだよ」

「ずっと間違うた認識しとったんに、何がお陰やねん」

アオイが包み込んだチリの手を小さく揺らしながら微笑む。

「チリちゃんがここに来てからずっと、私の事”存在してる”って思ってたでしょ?ここは他と少し違う場所で、気持ちの力が強く作用する場所なの…だからその思い込みが私をここに実在させた」

「屁理屈にしか聞こえん…」

「それでもいいよ、チリちゃんにとってここは夢の世界みたいなものだから。夢から覚めたらそんな事重要じゃなくなる」

夢から覚める?そんなの冗談じゃない。チリは自分の手を握っているアオイの手首を空いている手で掴んだ。

「覚めんくてええよ。ここおったらアオイずっと一緒にいてくれるやろ?だったらチリちゃんここずっとおってもええよ」

チリがそう言った瞬間、アオイが目を見開いて手を放そうとした。

「なんでそんなこと言うの!それはここで死ぬって言ってるのと同じだってわかってるの?!私は嫌!帰って!!!」

今までこんなにも大きなアオイの声を聞いたことがあっただろうかという怒声だった。それが土の壁に反響してさらに大きくこだまする。

「せやかて、アオイが死んだなんて受け入れられん…!アオイのおらん世界に意味なんてあらへん!!!」

チリも負けじと怒鳴り返す。五年間ずっと思っていた。アオイのいない世界は色褪せて、自分がなんで生きてるのかもよくわからない。寂しい、淋しい。本当にさみしかったのだ。
けれど一抹の理性が一歩をずっと踏み出させてくれなかった。だから今まで”アオイは生きている”そう思い込みながらなんとかごまかしていたにすぎない。でも、ここにはアオイがいる。ごまかす必要もなく存在してる。なら、もうここでいいじゃないか。そう思う事の何が悪い。

「確かに、事故とは言え勝手に死んじゃったのは申し訳ないと思う。でも、本当はこんな所まで来てほしくなかった!!!」

アオイがそう言ってチリを突き離そうとする。

「いやや!アオイ、もうウチを置いて行かんで!アオイのおらん世界はもう嫌なんよ!チリちゃんもそっち連れてってや!」

アオイの手首をチリが頑として放さない。

「それじゃあ私がここに来た意味がないよ!放して!」

意地でもアオイはチリの手を解こうとする。けれど、チリも必死だからかなかなかその手を振りほどけず、アオイはキッとチリを睨む。

「チリちゃん。私はチリちゃんにこんなところで死んで欲しくない。立ち止まって欲しくない。生きてて欲しいから、その為だったらなんでもするよ」

不意に、アオイの抵抗が止んだ。そうして静かに目を閉じると、睨むような目つきをやめてチリの目を見つめてくる。

「何するって言うん?」

「チリちゃんから私の記憶全部消しちゃうの。出会ったことも、楽しかったことも悲しかったことも、私に関すること全部」

アオイがチリに笑顔を向けながらそう言い放つ。

「なんでそんないけずするん?チリちゃんのこと嫌いになってしまったん?」

「大好きだよ、愛してるよ…今でもずっと。だから忘れて欲しいんだよ、元気になってほしいんだよ!貴方はまだ生きてるんだから!」

そう言ってアオイが隙をついてチリの手を振りほどいた。

「忘れることは悪いことじゃない。忘れることは生きることの一部、新しい記憶を重ねていく為の処理なんだから…ね?」

まるで宥めすかすかのような言い草に、逆に腹が立つ。勝手に死んだくせに、今度は勝手に記憶を消すと言い出す。アオイは酷い人間だ。けれど、アオイはそうなったとしても、チリに生きろと言っている。忘れて生きろと。
確かに、アオイのいない世界は生きる価値のないくらい魅力がないように映ってしまう。それまで自分がどんな生活をしていたのか分からないほど、アオイの存在はチリの世界を彩っていた。それを忘れてしまったら、世界は一通りの色を思い出すはするだろう。その彩があったことを、忘れてまで生きたくない。
どこまでも、チリに選択できることは少ないのだと痛感した。

「なあアオイ、今チリちゃんがおとなしゅう引き下がったら、記憶消さんでいてくれる?アオイが死んだこと受け入れて、その日までちゃんと生きるって約束したら、記憶消さんでいてくれる?」

アオイは頷く。

「でも本当に消さなくて良いの?五年もチリちゃんを苦しめた記憶だよ…無い方が幸せになれるかもよ」

そうダメ押ししてくるのだ。そこまでして、チリに生きてほしいのか。とんでもないエゴだとチリは思った。さっきからめらめらと燃えていた怒りの炎が、ここにきて一気に燃え上がる。

「ふざけんなや!それもこれもぜーーーーーんぶ、チリちゃんのもんや!渡さへん!死ぬまで抱えて生きてやるわ!チリちゃん誰やと思うてんねん!」

「パルデアの四天王、カッコ良くて美人で、おちゃめで、背筋のシャンと伸びたつよーい私の大好きなチリちゃん」

アオイの声が嬉しそうにそう紡ぐ。

「そやろ!チリちゃん強いねん!強いから、強いから…生きていける…!」

「うん」

アオイはきっと計算づくだったのだ、記憶を消すと言えばチリが抵抗を見せるとわかっていてあえてそう言ったんだ。自分から”生きる”と言わせる為に、無理にでもアオイが死んだことを受け入れさせようとする。
もっと一緒にいたい。アオイと一緒にいられたのなんて、人生の中のほんの一瞬でしかない。もっと、もっとアオイと一緒にいたかった。
なのに、なんで自分より先に逝ってしまったのか。

「アオイ」

「なに?チリちゃん」

チリがそう呼びかけると、当たり前のようにアオイが応える。

「ウチがちゃーんと生きて、そんで死んだら。迎えに来てくれる?」

アオイが一瞬目をぱちくりと瞬かせた。そうして優しく微笑む。

「うん。必ず。その前に来たらまた追い返しちゃうから」

「なあアオイ。約束くれへん?どんな形でもええねん。アオイと約束したいう証拠が欲しい。それがあったらチリちゃん100でも200でも生きていける」

「200歳は長生きすぎない?でも、それくらいなら」

微かにアオイが笑う。

「アオイ、ずっと愛しとるよ」

チリがそう呟いた。

「私もだよチリちゃん。愛してる。私の人生は最期まであなたで満たされて幸福でした」

二人は最期の口づけを交わした。触れるだけの微かなキス。アオイの唇はひんやりと冷たくて、きっとこれが血の通わない温度なのだと思う。そうしてアオイはチリの左手を取る。薬指に口付けると、自分の左手の薬指にも同じように口付ける。
お互い手袋をしているから、何か変わったのかがわからない。するとアオイが自分の左手の手袋を外してチリに見せた。
薬指に、赤い彼岸花が咲いていた。指の付け根から爪の生え際までまっすぐ伸びた奇麗な赤い彼岸花。
チリも自分の手袋を外して確かめるが、懐中電灯の明かりの下では白く飛んでよく見えない。

「起きたらわかるよ……約束、ちゃんと守ってね」

「アオイもな」

そうして一度抱きしめあう。

「ユキメノコ、チリちゃんをお願い。私はあの子と一緒に行くから」

アオイが傍らにいたユキメノコに伝えると、ユキメノコは静かに頷いた。

「ユキメノコもありがとう。こんな所まで来てくれて…じゃあね」

アオイがユキメノコの頭を優しく撫でると、ユキメノコはその手にすり寄った。まるで主人の手を覚えるように。そうしてユキメノコが再びチリの前に立つ。チリの袖を引いてふわふわと漂いながら階段の方へと先導を始める。
引っ張られながら、チリはアオイを振り返った。最後に、最後にもう一度だけその顔が見たくて。

「チリちゃん、またね」

アオイがそう言って笑った。今までで一番かという程に綺麗な、綺麗な笑顔だった。それが最後のアオイの顔、別れの姿。その笑顔を見ながら、チリは階段を上がる。数段上がっただけで、もうアオイの姿は見えなくなって、階段を上がるごとに周囲が温かく明るくなるのを感じた。






そうしてチリはジョウトの病院の個室で目が覚めた。
チリはどうやら、一週間ほど行方不明になった末アオイの事故現場で倒れていたらしい。現場は崖下で、落ちればひとたまりもない場所だったが、チリに外傷は一つもなく、ただその場に横になっていただけのような状態だったそうだ。自分の記憶では一~二時間程度の感覚だったが、夢のようなものだとアオイが言っていたから深く考えるのはやめた。
そしてその一週間、チリがどうやって生存していたのか、それはアオイのユキメノコのお陰だったらしい。捜索隊がチリを発見した時、傍にはユキメノコがいたそうだ。ユキメノコがチリの体を冷やして冬眠状態のようにしていたというのだ。触った瞬間の温度の低さに捜索隊は驚いたそうだが、ユキメノコが一生懸命脈があることを伝えてくれたらしい。そうしてチリはそのまま病院に運ばれて適切な処置を受け意識を取り戻したという訳だった。
幸いなことに後遺症はなく、リハビリもして一月後には退院できた。ハッサクにもオモダカにも、更にはポピーにもこれでもかという程叱られアオキには大きなため息を吐かれて、なんといっていいやら分からない気持ちだったが、それでも、アオイのお陰でようやく視野が戻ってきた気がする。チリは、自分が思っていた以上に周囲に心配をかけていたようだった。
退院してすぐ、ジョウトの警察からチリに連絡が入った。チリが発見された際、その手にはアオイのスマホが握られていたと聞いた。
それは警察が回収して、然るべき調査をした後、中に入っていたデータからチリに返すのが適切とアオイの母親とも連絡を取って判断が決まり、チリは今日アオイのスマホを受け取りに行く。まさかユキメノコその受け取りに同伴することになるとは思わなかったが、チリが再び危ない行動に走らないようにという意味も込められていると言い聞かせられれば頷く他なかった。
そうして警察署の一室で女性警官からスマホを受け取った。

「中には音声データが三十件ほど入っていました…全て、チリさん宛てのものです」

スマホを起動すると、どこからともなくロトムが入ってきて機体が宙に浮いた。

「最後に録音されたデータを再生します」

ロトムが唐突にそう言った。女性警官は不思議そうにロトムに問う。

「最後のデータは無音だったわ、再生させる必要なないと思うけれど…それに録音された日付は…」

するとロトムが女性警官の言葉を遮るように機体を揺らして否定を現した。

「データは確かに保存されています」

ロトムが断言して音声データを再生する。
再生から数秒は確かに無音だったが、ロトムはそのまま再生を続けた。すると、アオイの声が流れ始める。

『チリちゃん。大丈夫だよ、チリちゃんはちゃんと生きていけてるよ』

とても穏やかで優しい声だった。女性警官は動揺しているようだったが、そんなことはどうだっていい。スマホロトムを掴んで、チリはその日付を確認する。
チリが救助隊に発見されたその日に録音されたものだった。本来ならあり得ない。死んだ人間が録音を残すことなどできはしない。けれど、ゴーストポケモンが存在するのだから、人間の霊がいたとしても不思議ではなかった。
チリはその時、アオイが死んでから初めて泣いた。五年分の涙が溢れるように、ぼたぼたと零れてやまなかった。ユキメノコがチリの背中にそっと手を当てる。涙が止まるまでチリはアオイのスマホを抱きしめたまま暫く動けなかった。



チリはその後、パルデアのリーグへと復帰した。チリはそれまでの憑き物が落ちたようにハツラツとした顔を見せた。アオイと最後に撮った写真をデスクに置いてはいたが、もうあの異常な眼差しも常軌を逸したアオイのトークアプリへの送信もない。ただ、時おり思い出したようにいつかアオイに話したいことをメモアプリに記録してはいるようだが、周りは皆以前より安心してチリを見守ることができた。心に一区切りつけられるようになったのだと。
そして変わったことといえば、チリは時折グローブを外した左手を見つめることがあった。
職員が何を見ていたのか尋ねると「内緒や」そう言ってグローブをはめてしまう。
だが、一部の目撃談によれば、ジョウトでの失踪事故から目覚めてから左手の薬指に白い彼岸花型の痣ができているということらしい。それだけだ。















アオイは玄関を飛び出して目の前にある坂道を下った。アオイは六年制のスクールに十歳から通っていて、今日から最終学年の六年へと上がる。
自分の中に掲げる夢の為に最後の一年をどう過ごそうかと思案しながら、坂の下にある停留所に止まっているバスへと飛び乗った。
バスの運転手とアシスタントのピカチュウに朝の挨拶をしながら、奥に開いている席を見つけて通路を移動する。
すると、一つの席の前を通り過ぎようとしたところで左手を引かれた。
何だと思って振り返ると、同じスクールの制服を着た十歳ほどの女の子かもしくは男の子が、喜々とした赤い目でアオイを見つめてきていた。すでに約束されたも同然の綺麗な顔をしている。アオイは、見かけない子だなと思いながらその子の傍にしゃがみ込んだ。

「どうかした?」

アオイがそう尋ねると、その子はにんまりとひと好きする笑顔を浮かべる。

「お姉ちゃん!お名前教えてください!ウチ、チリ言います!チリちゃんて呼んだってください!」

元気な子だな、と思いながらアオイは問われた事へ返事をする。

「私はアオイ、同じスクールみたいだし、よろしくねチリちゃん」

アオイがそう返すと、チリが増々目を輝かせた。

「アオイちゃん…アオイちゃん言うんやぁ…アオイちゃん!チリちゃんのお嫁さんになってください!絶対に幸せにします!」

朝のバスの中が騒然としたのは言うまでもない。

「え?えっとチリちゃん?私たち初めましてだよね…?」

仰天するアオイがそう尋ねると、チリはにこにこしながら頷いた。

「アオイちゃんが坂降りて来よるところからビビビ!っときとってん!絶対運命のお嫁さんやって!そんでアオイちゃんの左手、これチリちゃんとお揃いやねん!だからぜーーーーーったい!運命やと思う!せやからお嫁さんになってな!アオイちゃん!」

チリが一息にまくしたてると、自分の左手も見せてくる。その左手の薬指には白い指に更に白く色抜いた白い彼岸花が咲いていた。
アオイの左手にも、生まれつき赤い彼岸花のような痣がある。本当に色以外場所も形もそっくりだった。

「アオイちゃんここ座って!」

チリが自分の隣である窓側の席を指す。そろそろバスが出発してしまう時刻なのでアオイは仕方なく、チリの隣に座った。
スクールに着くと、友人が校門前で待っていた。

「アオイ―!おはよ…って、あんた何したの…」

友人が怪訝な眼差しを向けてくる。それもそのはず、アオイの左手をいまだにチリが握って放さないのだ。
そうしてアオイが何か言う前に、チリが先に言葉を発する。

「アオイちゃんはチリちゃんのお嫁さんやねん!取らんでな!」

友人がぽかんと呆気にとられた後、アオイの方を見てくる。

「あんた、こんな将来美人どうやってひっかけたのさ…しかもかなり年下」

「私もわかんない」






こののち、チリはアオイがあと一年で卒業することを知り、仰天した。
しかも、アオイの将来の夢は自分が住むこのど田舎地方にポケモンリーグを誘致することで、そのために卒業後には各地方のリーグを巡って勉強する計画があることを知った。

「アオイちゃん!チリちゃんも一緒に行くからあと一年待ったって!!!」

チリがそう言ってアオイを引き留めると、アオイは案外あっさりと出発を後らせてくれた。

「いいよ、一年の間にチリちゃんがお家の人説得できたら一緒に行こうね」

そう言って、本当に出発を延期してしまった。それを聞いた友人がアオイと二人になった時に尋ねた。

「あんだけ卒業したらすぐ旅に出るって何年も前から言ってたのに、どういう心変わり?」

アオイはその問いに、少しだけ首をひねって考える。

「わかんない。でも、今度は一緒に行こうって思ったんだ…なんでだろう?私チリちゃんに絆されちゃったのかな…?」

「いや知らんし、まあアオイがいいならいいんだけどさ…」

アオイもよくはわからない。ただ、本当に”今度は一緒に行こう”と思ったのだ。



赤い彼岸花の花言葉「再会」「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」
白い彼岸花の花言葉「想うはあなた一人」「再会を楽しみに」
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