short
「別れるなんて言うたら自分を殺してウチも死んだる」
低く鋭い唸るような声音でチリが言う。チリの手が真っ白になるくらい強く包丁が握り込まれていて鬼気迫るものを感じた。
「今度は何があったのかな、別れるなんて私言ってないでしょ?」
アオイはそう言いながらチリに近づくと包丁の刃を握り込んだ。一瞬熱いと感じるような痛みが走り、指の付け根付近から血が垂れた。
「あ…」
チリが怯んだ。
白くなるほど柄を握っていた手が緩んで、アオイはそのまま包丁を拐う。台所へ入ってぬるま湯を出すと食器洗剤を付けて包丁を洗った。洗剤がとても傷口に染みる。
背後に気配を感じると、チリがアオイの服の裾を掴んだ。
「あ、アオイ…ごめ、そんなつもりやなくて、ウチのこと嫌わんといて!後生やから!」
哀願してくるチリを肩口で小さく振り返って見る。
「嫌わないけど、理由は聞かせてください」
こんなことは取り立てて珍しいことでもなかった。彼女と付き合い始めて五年余り、週に一度か二度は起こっている。最初は驚いたがしかし、痛みは別としてその事象は慣れてしまうと日常の一コマだ。
彼女はどうやらヤンデレとかメンヘラと呼ばれる性質の人間らしい。
出会った頃は、顔が綺麗で明るい人なんだなという印象だった。
正直それしかなくて、それ以上興味もなかった。
もしかしたらクラスの子達があまりにキャーキャーとチリの話をしていたから逆に冷めてしまったのかもしれない。しかし、自分がどんな感情をチリに抱こうと宝探しの期間が過ぎれば、リーグチャレンジが終れば関わることなど無いと思っていた。
結論から言うと、その考えは間違っていた。むしろテーブルシティやジムのある町で偶然会うことが頻発したのだ。そうしてチリに声をかけられている内、気付けば連絡先を交換していた。チリは連絡まめで、二~三日に一度は必ず電話かトークアプリにメッセージを寄越す。そうして電話なら三~五コールの内に出ないとかなり心配されるし、メッセージに既読をつけてから十分以内に返事を出さないとだくりゅうのごとくメッセージが送られてきた。メッセージに関しては一応年上に送るものだから同年代の子に気軽に返すのとは訳が違う。失礼にならないように言葉を選んでいるとそれなりに時間がかかってしまうのだ。それをそのままチリに伝えても「もっと気軽に返してもええんよ、チリちゃんとアオイの仲やん」と返ってくる。アオイがチリの中でどういう立ち位置なのかわからないが、礼儀としてきっちり線引きはしておきたかった。そうしてそんなチリとのやり取りが続いて四年余り。転機が訪れたのはアオイが十八の誕生日を迎える頃だった。
トークアプリにチリから連絡が入っていて、誕生日を祝いたいと送られてきたのだ。親友達から既に祝いの席を設けてもらう予定があったので、何の気なしに"お気持ちだけで十分です。いつも気にかけてくださってありがとうございます"と返せば、ものの数十秒で返事が届く。"ええんよ、どうしても会ってお祝いしてあげたいねん"そう言われてしまうとこれ以上断りを入れるのはかえって失礼になると思い、結果的に誕生日の日の夕方にセルクルタウンで落ち合うことになった。
落ち合った先で花束をプレゼントされて、そうして言われたのだ。
「アオイ、誕生日おめでとう。そんで、チリちゃんとお付き合いしてください」
度肝を抜かれた。誕生日を祝う言葉はまだ分かるが、続いた台詞は告白だった。
しかしアオイの言葉は考えるまでもなく決まっていた。
「それは無理だと思います」
チリは面食らった顔をして、そしてどんどん表情がなくなっていく。
「なんで?」
無感情な声音は恐ろしさすら感じさせたが、ヌシポケモンと対峙するよりかはまだマシだった。ヌシポケモンに出会ってなければ竦み上がっていたことだろう。パラドックスポケモンは、あれとは比べてはいけない気がするので割愛する。
「感情の釣り合いがとれないからです。私には付き合うとか恋だとか、そう言ったものが分かりません。だからお付き合いはできないです」
誰かが言った。お互いが同じだけの感情を持っていなくてはいつか関係は破綻すると。片方の愛だけでは長くは続かないと。
「チリさんが傾けてくれる分の感情を私は返せません。チリさんが疲れるだけですよ」
そうはっきりと言えば、チリは空を見上げるように首を傾ける。アオイは申し訳ないと思った。自分には親愛や友愛は分かっても情愛はわからない。アオイの中ではチリは親愛の対象以上にはなっていなかったし、何をどうすれば情愛の感情が芽生えるのかすらアオイにはわからない。
そうして暫く、チリは空を見上げていた。一呼吸ついて、アオイに視線を戻した時、チリは笑っていた。
「大丈夫やでアオイ。付き合うてればそのうち分かる、チリちゃんが分からせたるからなーんも心配せんでええんよ」
まさかの切り返しに、今度はアオイが面食らう番だった。
「だから付き合お」
朱色の瞳に睨まれて、アオイはそれ以上拒絶の言葉を言い出せなかった。言っても良かったのだが、これ以上何を言っても全て同じように返される気しかしなかったから諦めるのだ。
「チリさんの人生を無駄に使うことになりますよ」
「無駄なんてひとっつもないで、アオイがおれば全てが満たされるんやから」
その目はまるでハブネークのようで、アオイはこの人は本気なんだな、とどこか他人事のように思いながら結局付き合うことに了承した。
付き合ってから聞かされたことだが、チリがアオイにそう言う意味で興味を持ったのは四天王戦だったという。アオイと同年代の少女達はチリにキャーキャーと憧れの視線を向ける中で、アオイだけが自分を眼中に入れていなかった。通りすぎていく景色と同じような扱いを受けて、そして瞬く間にチャンピオンランクに上り詰めたアオイをいつの間にか自分が探すようになったのだと。アオイの中に自分を刻み込んで目が離せないようにしたかったのだと。こんなに誰かが気になったのは初めてなんだと。
フタを開けてみれば、やはりチリは日々いつアオイが離れていってしまうのかを気にしながら生活することになった。自分の一挙手一投足、言動に至るまでを気にして雁字搦めになっている。
チリに申し訳ないから何度か別れを切り出したこともあったが、最終的に包丁を持ち出されてはしょうがない。その内アオイが包丁の刃を掴むとチリが怯むことが分かったので、今日も今日とて自分の手を供物にチリを落ち着かせる。手のひらには綺麗に治らずできた傷跡が何本もあったが、アオイは知っている。傷跡が増える度にチリが喜んでいることを。傷があれば他所に行けないと思っているのかもしれない。
しかし、アオイもそろそろ分かり始めているのだ。これが自分の愛なんだと。別れたければ包丁を持ち出されようが何をされようが別れてしまえばいい。それをいちいち宥めて、痛みに慣れないのに傷を作るのは、きっとチリに安心して欲しいからだ。自分はもう逃げないんだと知って欲しいからだ。でも、今さら言ってもチリは変わらないだろう。いつかの別れに怯えるだろう。だから行動で示し続けることがアオイの愛だ。
「私が今度オモダカさんのお使いでイッシュ地方に一ヶ月も行くのが心配だったんだね」
傷の手当てはチリにさせる。それもチリが安心できる要素の一つだから。
「アオイは人気者やから、行ったら戻ってこんかもしれん…ウチのことなんて忘れてまうかもしれん。そんなん耐えられん…アオイはずっとチリちゃんのや…他の誰でもないチリちゃんのや」
傷に当てられたガーゼにチリの指が食い込む。じりじりと焼けるような痛みにアオイが眉をしかめると、チリはその表情を確認して包帯を巻く。
「戻ってくるよ。だってこの傷もきっと簡単には治らない。チリちゃんには責任取って治療してもらわないといけないんだから」
「こんなあっさい傷、ひと月で治ってまうよ」
吐き捨てるようにチリが言う。
「うーん…しょうがないな。チリちゃん次のお休みいつ?行きたい所ができたから、主張前に済ませたいな」
「話しそらすんか」
「二人のお墓買いに行こっか。それで土地も決めて名前も入れちゃうの」
アオイは有無を言わさず話を続ける。結婚とかそういう手もあるけれど、きっとチリは今度は離婚に怯えるだろう。だったらいっそ、墓まで決めてしまえばいい。名前を入れれば消すことはできないし、設置すれば必ず誰かの目に入る。誰かの目に入れば後はSNSの力であっという間に世間に知れるだろう。後戻りができない。
「同じお墓に入る約束、しに行こうか」
チリは包帯が巻かれたアオイの手を握りながら、今までで一番安心したような顔をしていた。
そしてそれはアオイも一緒だろうと思う。
低く鋭い唸るような声音でチリが言う。チリの手が真っ白になるくらい強く包丁が握り込まれていて鬼気迫るものを感じた。
「今度は何があったのかな、別れるなんて私言ってないでしょ?」
アオイはそう言いながらチリに近づくと包丁の刃を握り込んだ。一瞬熱いと感じるような痛みが走り、指の付け根付近から血が垂れた。
「あ…」
チリが怯んだ。
白くなるほど柄を握っていた手が緩んで、アオイはそのまま包丁を拐う。台所へ入ってぬるま湯を出すと食器洗剤を付けて包丁を洗った。洗剤がとても傷口に染みる。
背後に気配を感じると、チリがアオイの服の裾を掴んだ。
「あ、アオイ…ごめ、そんなつもりやなくて、ウチのこと嫌わんといて!後生やから!」
哀願してくるチリを肩口で小さく振り返って見る。
「嫌わないけど、理由は聞かせてください」
こんなことは取り立てて珍しいことでもなかった。彼女と付き合い始めて五年余り、週に一度か二度は起こっている。最初は驚いたがしかし、痛みは別としてその事象は慣れてしまうと日常の一コマだ。
彼女はどうやらヤンデレとかメンヘラと呼ばれる性質の人間らしい。
出会った頃は、顔が綺麗で明るい人なんだなという印象だった。
正直それしかなくて、それ以上興味もなかった。
もしかしたらクラスの子達があまりにキャーキャーとチリの話をしていたから逆に冷めてしまったのかもしれない。しかし、自分がどんな感情をチリに抱こうと宝探しの期間が過ぎれば、リーグチャレンジが終れば関わることなど無いと思っていた。
結論から言うと、その考えは間違っていた。むしろテーブルシティやジムのある町で偶然会うことが頻発したのだ。そうしてチリに声をかけられている内、気付けば連絡先を交換していた。チリは連絡まめで、二~三日に一度は必ず電話かトークアプリにメッセージを寄越す。そうして電話なら三~五コールの内に出ないとかなり心配されるし、メッセージに既読をつけてから十分以内に返事を出さないとだくりゅうのごとくメッセージが送られてきた。メッセージに関しては一応年上に送るものだから同年代の子に気軽に返すのとは訳が違う。失礼にならないように言葉を選んでいるとそれなりに時間がかかってしまうのだ。それをそのままチリに伝えても「もっと気軽に返してもええんよ、チリちゃんとアオイの仲やん」と返ってくる。アオイがチリの中でどういう立ち位置なのかわからないが、礼儀としてきっちり線引きはしておきたかった。そうしてそんなチリとのやり取りが続いて四年余り。転機が訪れたのはアオイが十八の誕生日を迎える頃だった。
トークアプリにチリから連絡が入っていて、誕生日を祝いたいと送られてきたのだ。親友達から既に祝いの席を設けてもらう予定があったので、何の気なしに"お気持ちだけで十分です。いつも気にかけてくださってありがとうございます"と返せば、ものの数十秒で返事が届く。"ええんよ、どうしても会ってお祝いしてあげたいねん"そう言われてしまうとこれ以上断りを入れるのはかえって失礼になると思い、結果的に誕生日の日の夕方にセルクルタウンで落ち合うことになった。
落ち合った先で花束をプレゼントされて、そうして言われたのだ。
「アオイ、誕生日おめでとう。そんで、チリちゃんとお付き合いしてください」
度肝を抜かれた。誕生日を祝う言葉はまだ分かるが、続いた台詞は告白だった。
しかしアオイの言葉は考えるまでもなく決まっていた。
「それは無理だと思います」
チリは面食らった顔をして、そしてどんどん表情がなくなっていく。
「なんで?」
無感情な声音は恐ろしさすら感じさせたが、ヌシポケモンと対峙するよりかはまだマシだった。ヌシポケモンに出会ってなければ竦み上がっていたことだろう。パラドックスポケモンは、あれとは比べてはいけない気がするので割愛する。
「感情の釣り合いがとれないからです。私には付き合うとか恋だとか、そう言ったものが分かりません。だからお付き合いはできないです」
誰かが言った。お互いが同じだけの感情を持っていなくてはいつか関係は破綻すると。片方の愛だけでは長くは続かないと。
「チリさんが傾けてくれる分の感情を私は返せません。チリさんが疲れるだけですよ」
そうはっきりと言えば、チリは空を見上げるように首を傾ける。アオイは申し訳ないと思った。自分には親愛や友愛は分かっても情愛はわからない。アオイの中ではチリは親愛の対象以上にはなっていなかったし、何をどうすれば情愛の感情が芽生えるのかすらアオイにはわからない。
そうして暫く、チリは空を見上げていた。一呼吸ついて、アオイに視線を戻した時、チリは笑っていた。
「大丈夫やでアオイ。付き合うてればそのうち分かる、チリちゃんが分からせたるからなーんも心配せんでええんよ」
まさかの切り返しに、今度はアオイが面食らう番だった。
「だから付き合お」
朱色の瞳に睨まれて、アオイはそれ以上拒絶の言葉を言い出せなかった。言っても良かったのだが、これ以上何を言っても全て同じように返される気しかしなかったから諦めるのだ。
「チリさんの人生を無駄に使うことになりますよ」
「無駄なんてひとっつもないで、アオイがおれば全てが満たされるんやから」
その目はまるでハブネークのようで、アオイはこの人は本気なんだな、とどこか他人事のように思いながら結局付き合うことに了承した。
付き合ってから聞かされたことだが、チリがアオイにそう言う意味で興味を持ったのは四天王戦だったという。アオイと同年代の少女達はチリにキャーキャーと憧れの視線を向ける中で、アオイだけが自分を眼中に入れていなかった。通りすぎていく景色と同じような扱いを受けて、そして瞬く間にチャンピオンランクに上り詰めたアオイをいつの間にか自分が探すようになったのだと。アオイの中に自分を刻み込んで目が離せないようにしたかったのだと。こんなに誰かが気になったのは初めてなんだと。
フタを開けてみれば、やはりチリは日々いつアオイが離れていってしまうのかを気にしながら生活することになった。自分の一挙手一投足、言動に至るまでを気にして雁字搦めになっている。
チリに申し訳ないから何度か別れを切り出したこともあったが、最終的に包丁を持ち出されてはしょうがない。その内アオイが包丁の刃を掴むとチリが怯むことが分かったので、今日も今日とて自分の手を供物にチリを落ち着かせる。手のひらには綺麗に治らずできた傷跡が何本もあったが、アオイは知っている。傷跡が増える度にチリが喜んでいることを。傷があれば他所に行けないと思っているのかもしれない。
しかし、アオイもそろそろ分かり始めているのだ。これが自分の愛なんだと。別れたければ包丁を持ち出されようが何をされようが別れてしまえばいい。それをいちいち宥めて、痛みに慣れないのに傷を作るのは、きっとチリに安心して欲しいからだ。自分はもう逃げないんだと知って欲しいからだ。でも、今さら言ってもチリは変わらないだろう。いつかの別れに怯えるだろう。だから行動で示し続けることがアオイの愛だ。
「私が今度オモダカさんのお使いでイッシュ地方に一ヶ月も行くのが心配だったんだね」
傷の手当てはチリにさせる。それもチリが安心できる要素の一つだから。
「アオイは人気者やから、行ったら戻ってこんかもしれん…ウチのことなんて忘れてまうかもしれん。そんなん耐えられん…アオイはずっとチリちゃんのや…他の誰でもないチリちゃんのや」
傷に当てられたガーゼにチリの指が食い込む。じりじりと焼けるような痛みにアオイが眉をしかめると、チリはその表情を確認して包帯を巻く。
「戻ってくるよ。だってこの傷もきっと簡単には治らない。チリちゃんには責任取って治療してもらわないといけないんだから」
「こんなあっさい傷、ひと月で治ってまうよ」
吐き捨てるようにチリが言う。
「うーん…しょうがないな。チリちゃん次のお休みいつ?行きたい所ができたから、主張前に済ませたいな」
「話しそらすんか」
「二人のお墓買いに行こっか。それで土地も決めて名前も入れちゃうの」
アオイは有無を言わさず話を続ける。結婚とかそういう手もあるけれど、きっとチリは今度は離婚に怯えるだろう。だったらいっそ、墓まで決めてしまえばいい。名前を入れれば消すことはできないし、設置すれば必ず誰かの目に入る。誰かの目に入れば後はSNSの力であっという間に世間に知れるだろう。後戻りができない。
「同じお墓に入る約束、しに行こうか」
チリは包帯が巻かれたアオイの手を握りながら、今までで一番安心したような顔をしていた。
そしてそれはアオイも一緒だろうと思う。
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