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short

文具店でレターセット一つ選ぶにも様々な吟味を重ねてしまう。
今回は季節感を意識した薄桃色の紙にインクの色はグラスグリーン。
机の上に筆記用具を広げ、アオイはぐいと腕まくりをした。書き出しはなんとしようか、適当な紙に下書きをしつつ心は早く書き出したいとうきうき踊る。

"チリちゃんへ"

大好きな恋人の名前をしたためるだけでドキドキしてしまう。もう幾度となく書いていると言うのに、まるで初めて書くかのようなときめきがそこにはあるのだ。

"すっかり暖かくなりましたね。この手紙をチリちゃんはどこで読んでいるのかと想像しています。"

"私は今、寮の自室でこの手紙を書いています。窓からはもうすっかり春の匂いがしているのがわかるんです。瑞々しい新芽の香り、開いた花の香り、鮮やかな色、普段から賑やかなアカデミーも春の陽気ですっかり染まっている今日この頃です。"

無難すぎる書き出しに苦笑しながらも、アオイはペンを滑らせる。

"実は数日前、クラスの子の温めていたタマゴが突然五つも産まれちゃったんです。しかもパピモッチだったので教室が一瞬でパン屋さんみたいな匂いになったんです。タマゴも春の陽気で目が覚めちゃったのかもしれませんね。"

"だから私、パンを焼いてみたくなっちゃって…なので今度、自分で焼いたパンでサンドウィッチを作ろうかなって思ってます。その時には是非チリちゃんにも食べてほしいです。"

"それではまた。 愛を込めて アオイ"

簡単な手紙、内容だってあってないようなもの。
それでも、アオイは手紙をしたためる為にとっておきの出来事をチリに内緒にしておくのだ。
レター用紙を綺麗に折り畳み、封筒の中に高いところからワンプッシュのコロンを振りかける。チリからもらったアオイをイメージしたコロンで、チリに会う時にはいつも手首や首筋に付けていくもの。甘いのにキツすぎず、花の匂いよりも果物の匂いに近い香りは子供っぽすぎず大人すぎずアオイはとても気に入っている。けれど、普段使いしてしまうとすぐに減ってなくなってしまいそうなのでチリに会う時とそして、チリに手紙を送る時だけ特別に振りかける香り。
ニヤニヤしてしまう口角を手で伸ばしながら糊で封筒を閉じ、更にピンクのシーリングワックスで封をする。
スタンプは春の花。切手も貼って郵便局へ出しに行く。
会った時に話しても良い、電話やメールで言っても良いことをわざわざ手紙にして送り合う。それがチリとアオイの二人の趣味。






郵便ポストに届いた薄桃色の可愛らしい封筒に、見慣れた愛しい文字の形で書かれたチリへの宛名。
リーグの勤務が終わった週末の夜。いつもよりどっと疲れたような、それでいて少しの解放感に満ちているこのタイミングで届いたプレゼントとも言える手紙に心踊らせながらチリは家へ入った。
すぐに開けるのはナンセンス。まずは場を整えること。風呂に入って夕飯を適当に済ませ、グラスにスパークリングワインを注いで準備する。
ペーパーナイフで封を開けると、中からはふんわりとコロンが香り立つ。チリが贈ったアオイをイメージしたコロンだ。香りは人の好みもあるからアオイが使わなくても瓶を可愛いものにしてインテリアにでもしてもらおうかと思っていたが、アオイはかなり香りを気に入ってくれてチリに会う時、そして手紙の封筒によく使ってくれる。今ではすっかりこの香りと言えばアオイを想起してしまうほどにアオイとこの香りは良く良く馴染んで本当にアオイの香りになってしまった。
中の便箋を取り出して開くと、薄桃色の用紙にグラスグリーンの文字が映えていた。

「パピモッチ孵化で教室パン工房化て、珍事すぎやん」

思わずくすりとしてしまう。チリと一緒にいない時のアオイのささやかな日常の一コマ。手紙にしたためるために大事にとって置いたお気に入りの出来事。
直接会って話す事ももちろん好きだが、こうしてアオイの文字で書いてある話を読むのもチリにとってはとても良い栄養になる。
手紙を読みながら飲んでいたスパークリングワインを一気に飲み干してチリは寝室へ向かった。寝室にあるデスクにはファイルが一冊。クリアホルダーなのでアオイの手紙と封筒を全てこのファイルに収納していた。一通しまうと前のものを読み返したくなってしまい、気付いたら長いこと読み耽ってしまう。
そうしてひとしきりアオイの手紙を読み返してからチリもアオイへ送る手紙の構想を練るのだ。
アルコールが入っている状態で書くのは失敗のモトなので、アルコールが抜けてからペンを取る予定だ。
チリは便箋も封筒もいつも同じ、セピア色に黒のインク。ただし、アオイに倣って封蝋を使うようになって、チリはアオイ専用チリマークの印章を捺していたりする。そしてアオイに手紙を書く前までの生活では一切家になかったリボンやドライフラワー。花も一緒に贈るつもりでその都度種類やリボンを変えて封蝋でとめていたりするのがこだわりだ。
アオイもチリからの手紙は全部取ってあって、お互いよく見返しているのだと思うと心が暖まる。
電話やメールで事足りるようなささやかな出来事を綴って送り合う、付き合い始めてからできたチリとアオイ二人の趣味。
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