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うっすら嗅ぎ慣れない匂いが漂ってきてチリは不意に目が覚めた。
スマホロトムで時間を確認すると深夜三時を少し過ぎた当たり。そして本当ならば隣で寝ているはずの彼女の姿がないことで、チリは眠気も覚めやらぬ中身を起こしてベランダの方へ目を向けた。
月明かりに照らされて白い煙をまとう女が一人。
ベランダへ続く窓は閉めきられていたが何かの拍子に女の吸っている電子タバコの匂いが入ってきたのだろう。
けれど、それにしては匂いに苦味もない。どちらかと言えば果物のような甘く爽やかな匂いがする。
ベッドから降りて適当に服を探す。脱いでいたのは元より上だけなのでシャツを羽織るとチリはベランダへと続く窓を開けた。

「フレーバー変えたん?」

チリがそう声をかけると、女…アオイが煙の影から振り返った。

「タバコ、辞めるつもりなので。ニコチンタールフリーのリンゴの煙吸ってました」

アオイはその清楚でハツラツとした見た目に反して喫煙者だった。
正確には"チリが喫煙者にさせてしまった"という方が真実に近いと思う。


アオイはアカデミー在学中に若くしてパルデアのチャンピオンランクへ到達した稀有な存在だった。同年代にはネモという強いライバルもいて、お互い切磋琢磨し勉学に励み、きっと素晴らしい青春を送ったことだと思う。
四天王としてリーグに在籍しているチリとももちろん面識があり、チリはアオイの事を頗る気に入っていた。
最初はチリの恋愛対象外だったはずのアオイも成長し、様々なアオイの浮いた話を聞くようになり、自身のアオイへの好意に気付いてしまったわけだがしかし。
今更どう声をかけて良いやら分からなかった。
と言うのも、チリは以前アオイから告白をされたことがあった。
その時アオイはまだアカデミー在学中で、そう言った観点から見てもチリがイエスと返すことはなく、いずれアオイも今よりも様々な人間に出会い経験を積むことで本当に好きな人を見つけるに至るだろうと、あの時のチリは考えていたのだ。
それが逆に自分の首を絞めることになろうとは思いもせずに。
チリが告白を断っても、アオイは変わらず明るく気さくに話しかけてくれて、アオイがリーグに就職してからも仕事の相談に乗ったり、逆にこちらの愚痴を聞いてもらったり、対等に持ちつ持たれつの関係になった。
そんな中、アオイはどんどん綺麗になっていき、ひと度リーグの外へ出れば男女問わず声をかけられるほど。終いには別の地方からもプレゼントやファンレターが届くまでになっていた。
そんなアオイが、サシ飲みの時に時折見せる子供っぽさに知らず知らず優越感を覚えていたり、出会い頭に浮かべる柔らかい笑みを可愛いと思うようになっていった。
一度告白を断った分際で自分から告白しても良いものか思案しながら半年も経過。
そうしてある時、アオイから微かにタバコの匂いがするようになったのだ。
その時はまだ喫煙所の近くを通ったのかと思う程度だったが、一ヶ月も経てばそれが偶然付いた匂いでないことくらいチリにも判った。
アオイの側に喫煙者の影がある。
それは同時にアオイに恋人が存在する可能性を突きつけた。
だからチリはあるサシ飲みの席でアオイに問うたのだ。

「恋人でもできたん?」

チリがそう尋ねると、アオイは苦笑しながら頬を掻く。

「もしかしてタバコ臭いですか?すみません…結構臭い付いちゃうみたいで」

アオイが店内をキョロキョロと見回してチリの方へと視線を向ける。

「今私が座ってる方が風上なので席変わりましょう」

そう言ってアオイが荷物を持って立ち上がろうとした。

「いや、別に臭いとか思うとるわけやないからそんなん気にせんでええよ」

チリが止めるとアオイは一つ頷いて座り直す。

「いやな?最近タバコの臭いさせとるからてっきり恋人でもできたんかな~って」

「そうなんですね、でも恋人とかではないんです。今は仕事の方が大事なので」

中身が半分に減った清酒の小さなグラスを傾けながらアオイが呟いた。
それはつまり、これから恋人になる可能性がある相手がいるという解釈もできるのではないだろうか。
考えてみると最近は二人で会うことも以前と比べてかなり減ったと思う。ひと月の間に二、三回会っていたのが今では二ヶ月に一度ほど。リーグ内では度々顔を会わせるが、仕事中に駄弁るわけもないので挨拶をして別れるのがリーグ内での常だ。
現在進行形の好意を持っているチリとしては芳しくない。けれど、止めることもチリにはできない。
そんなもどかしい状況に陥っていた。
そんな時、アオイから一本の電話を受け取った。

「もしもーし、珍しいなこないな時間に電話やなんて」

数コールの内に電話をとる。
時刻は夜の十一時を過ぎた当たりで、普段のアオイならまずかけてこない時間帯だった。

『おや、チリの番号でしたか。それは失礼しました』

電話口の声はアオイではなかった。しかし向こうの声はチリもよく知る上司、オモダカの声であった。

「なんでトップがアオイのスマホ使うとるんです…」

『アオイさんと談笑しながら一杯酌み交わしていたのですが、途中でアオイさんが寝てしまいまして…スマホの短縮でご家族かご友人にでも迎えに来ていただこう、と思ったんですが…夜分に失礼しました』

それでは、とオモダカが通話を切ろうとするのでチリが慌てて捲し立てた。

「ウチが迎えに行きます!ウチが迎えに行きますんでアオイに変なことせんでくださいよ!」

『変なこと、ですか?例えばどんな…おやおやアオイさん。泣いてもいいですが目を擦ってはいけませんよ…』

『あ、オモダカさんすみません…』

電話の向こうでアオイの声がする。
アオイが泣いている。チリの前ではどんなに酔っても泣いたことも眠ったこともなかったのにオモダカの前では寝たり泣いたりするのかと腹が立ってしまう。

『場所はハッコウシティ東の"ラグーン"というバルです。ではよろしくお願いしますね』

オモダカは一方的に場所を伝えてくるとそのまま通話を切った。
チリは急いで家を出るとハッコウシティへ空飛ぶタクシーで向かう。移動の道すがら目的のバルを調べ、ハッコウシティに到着してすぐに目的の場所へ直行した。
バル・ラグーンへついて、ステンドグラスのはまった扉を押し込むと、ドアベルが控えめにカランコロンと鳴る。
店内を見回すとオレンジの薄明かりの中、カウンター席にオモダカと並んで座り、テーブルに突っ伏しているアオイの背中が目についた。

「迎え、来ました」

アオイが寝ている様を微笑んで見つめていたオモダカに声をかけると、オモダカは驚くこともせずにチリに視線を向ける。

「随分早かったですね」

「そう遠くもないですから」

短く返答すると、オモダカは再びアオイに視線を向けた。

「電話の後また眠ってしまったんですよ。ふふふ、可愛い寝顔ですね」

―――寝顔、チリちゃんはいっぺんも見たことあらへんわ。

心の中で吐き捨てて、チリはアオイの荷物を取ると眠っているアオイの腕を引いて自身の背中に背負った。
一瞬だけ見えたアオイの寝顔は成人してなおあどけなさの残る顔だった。だがその頬には幾筋も涙の跡が残っている。
起きている時はいくらでも繕えるが、寝ている時の表情は紛れもなく素のものだろう。
もやもやとした気持ちを抱えたままチリはアオイを背負った後、ポケットからそれなりの酒代をテーブルへ置いて踵を返した。

「ほな、トップもお疲れさんです」

振り向きもせずにそう言ってチリは店を後にした。
アオイを向かえに来たものの、実のところチリはアオイの家を知らない。実家の場所は知っているが、現在住んでいる場所はテーブルシティのどこかである事くらいの情報しか持ち合わせていなかった。
なのでチリは自身の家にアオイを連れ込んだ。
スーツのままでは皺になるだろうと上着やスラックスを脱がせて、代わりにチリの普段着に袖を通させる。下心はあったがここで手を出すほどチリも落ちぶれていないので、アオイをベッドへ寝かせてチリはリビングのソファでコーヒーを飲みながら夜を明かした。翌日が休みで助かったと思う。
朝の六時をまわった頃、寝室から大きな物音がしたので様子を見に行くと、アオイがベッドから転がり落ちていた。

「自分何しとんねん」

床に転がって悶絶しているアオイに声をかけると、アオイが驚いた顔でチリに目を向けた。

「え、なんで私…どうしてチリさんが…?オモダカさんと飲んでたはず…」

混乱したように言葉を溢すアオイの側に膝をつき、チリが話し始めた。

「短縮の一でチリちゃんが呼ばれたんよ、なんでやねん。普通短縮って親とか恋人とかやろ?なんでチリちゃんやねん。自分の家知らんから取り敢えずチリちゃん家連れてきたんやで」

ツンツンとアオイの額を指で小突きながら、チリはアオイの様子を確認した。

「そ、それは大変ご迷惑をお掛けしました…このお詫びは後日改めてお返ししたいと…」

アオイが真っ青な顔をしながら起き上がってチリに何度も頭を下げてくる。
だが、すぐにアオイはなにかに気付いて顔を上げた。

「でも、私…短縮の一は母なんですけど…オモダカさんがそう言ってたんですか?」

そう言ってアオイがキョロキョロと部屋を見回すので荷物の場所を指してやるとすぐに中を漁ってスマホを取り出した。
すいすいと画面を操作すると、やがてチリに向けて画面を見せてくる。
そこには短縮の一に"母"という文字と番号が映し出されていた。そして二と三は未登録だ。
これはオモダカに一杯食わされた気がする。その意図がなんであるかは不明だが、確実にチリにアオイを迎えにこさせるように謀られていた。

「でもすみません。ご迷惑をお掛けしたことは変わりませんから…お詫びは絶対にさせてください…」

そう言ってアオイがまた頭を下げた。

「別に迷惑かって言われたらそれほどでもないけど…ん?」

チリがモゴモゴと言葉に困っていると、足元にペン状の物が落ちていた。ゴールドカラーのフォルムはどこかで見たことがありそうな気がする。

「なんやったかな…」

チリがそのペン状の物を拾う。よく見るとそれはコンビニなどでよく見かける加熱式タバコのそれだった。

「あ…えっと、それは…」

今度はアオイが言葉を詰まらせる番だった。

「これって加熱式タバコやな、アオイのなん?」

チリが尋ねるとアオイは一瞬下を向いてしまう。

「私のです…」

アオイはどこかバツが悪そうな表情だ。
チリは改めて手元の加熱式タバコを見つめる。そして、なんだアオイか、と安堵した。
アオイが喫煙しているというのは以外だが、それが恋人ではない事が判ったのだからそこまで問題はない。
何せアオイだって成人しているのだ。喫煙することで誰かに咎められるような事はない。

「いつから吸ってたん?」

アオイに加熱式タバコを返しながらチリが尋ねる。
ここからはひたすらチリの尋問タイムだ。アオイの情報を根掘り葉掘り引き出してやる。

「半年くらい前から…」

「吸い始めたきっかけは?」

「…好奇心です」

返答までにタイムラグがあった。恐らく好奇心というのは嘘だろう。よく見るとアオイの目が泳いでいる。

「ふーん。好奇心な…誰か吸ってたん見て憧れたん?」

「いえ、偶然コンビニで見かけて…吸ってみようかなと思って買いました」

今度はすぐに言葉が返ってくる。恐らく真実なのだろう。自身の知らないところでアオイが変化していくというのはなかなかに気分が悪い。そんな学びを得た気がする。

「でもタバコって最初噎せるって言うやん?それに後味苦いっても聞くし、そこまでして吸いたい理由ってなんやったん?」

これはかなり踏み込んだ質問だった。プライベートの、しかも以前フラれた相手に話してくれる内容とも思えない。けれど、どうしてもアオイの変化の理由が知りたかった。

「好きな人が…甘くて女の子らしい匂いの子が好きだって聞いたので…」

アオイに好きな相手がいる。その事実がチリに重くのし掛かってくる。もし、アオイが告白してくれた時に頷いていれば、アオイは今頃チリの彼女だったはずなのに。
しかし、思いもよらずアオイが返答をくれたわけだが、どうも話がおかしいと感じる。

「真逆の匂いやん、好かれたないんか?」

匂いだけで好きな相手が振り向いてくれるわけではないにしろ、好感をもってもらえる情報をなぜふいにしてしまったのか解らなかった。

「望みがないって、分かってたので…諦めたかったんです。相手に好きになってもらえる要素が自分にはないんだから早く諦めようって」

アオイが正座をして自身の膝の上で強く手を握っていた。

「昔のアオイにはチリちゃんに告白する勇気あったやん…なんもせんで諦めたん?それともやってから諦めたん?」

好きな相手の恋愛を応援するような言い方になってしまっているが、もし、もしこのままアオイが相手を諦めるなら、チリにも再びチャンスがあるかもしれないと思っていた。

「頑張ったんですけど…えへへ、ダメだったんです…離れた年の差は絶対に縮まりませんから、相手にとって私はずっと子供のままなんです」

作り笑いを浮かべるアオイの目にうっすらと涙がたまっていた。ふるふると震える肩をチリが思い切り抱き寄せる。

「そうやな。アオイは最初っから諦めてかかる子やないもんな…頑張ってダメやったんならしゃーないよな…アオイはちゃんと踏み出せる強い子やで、凄い子や」

抱き締めると、僅かにアオイの肩が跳ねた。けれど、控えめにチリの服を掴んでくる。
アオイの匂いはタバコの匂いに混じって花のようなフルーツのような匂いがした。

「なあアオイ、傷心中に漬け込んで悪いんやけど、もういっぺんだけチリちゃんの事好きになってみいひん?」

「へ…?」

アオイが勢いよく顔を上げる。

「こんなん言うの狡いって分かっとるんやけど…今更アオイの事好きやって言うたらやっぱ引く?」

こんなのは禁じ手もいいところだと思う。けれど、もう自分のプライドだなんだと気にしていたらいつまで経ってもアオイに想いを伝えられそうになかった。アオイはちゃんと人に想いを伝えられるのに、チリがうだうだしている方が逆に格好悪い。アオイだって当たって砕けたのだから、チリも当たって行かねばと思う。

「……」

アオイはチリを見上げたまま硬直していた。けれど、見れば見るほどアオイの目に涙がたまってそして、零れた。

「ごめんなアオイ、やっぱあかんよなこんな狡!ほんまごめんっ!」

チリが袖でアオイの涙を拭うと、その袖を掴まれる。

「嘘吐かないでくださいっ…!タバコ臭い子より甘くてお菓子みたいな子が好きだって聞きました…!」

その言葉にチリはムッとした。どこの誰が言ったかは知らないが、それは確実にチリの言葉ではない。確かに甘くていい匂いの女の子は可愛いと思う。
だがしかしだ、正直好きな子の匂いであれば極端に自分の鼻に合わない匂いでない限りはどんな匂いだって構わない。今のアオイの匂いだってそうだ。
タバコ臭いのが何だというのか、これだってアオイを構成する一部だ。全然オッケーである。

「いや嘘ちゃうし、その情報ソースどこやねん!こっちは本人やぞ!確かに昔は恋愛対象に見れんくてフッてしもうたけど…今は絶賛後悔中やねん!アオイはかわええし優しいし、締めるとこはきっちり締める真面目さんやし、努力家でポケモンにも好かれとる!せやで!今更好きになってもうたんよ!今更アオイの魅力に気付いた愚かもんや!」

がっと捲し立てるとまたしてもアオイが硬直した。そして自身の頬をつねっている。

「初恋は叶わないって言いますけど、二度目の初恋は叶うんですね…」

アオイの涙が再び溢れて、アオイの手が、膝が涙で濡れる。

「チリさん、好きです…フラれてから色んな人と会って、ちょっと良いなって人もいたんです…でも。チリさんほど好きになれる人はいませんでした…!私はチリさんを諦めたくてタバコ吸い始めたバカです…!でも、でも私からもお願いします…もう一度だけ、ご再考いただけないでしょうか…!」

目も鼻も赤くしたアオイがチリを見上げる。
あまりにもチリに都合が良すぎて、チリも自分の頬をひっぱたいた。痛い。夢じゃない。

「こちらこそ、もういっぺんチリちゃんの事好きになってくれてありがとうございます!付き合うて下さい!!!」

こうしてお互いなぜか畏まった口調で告白しあった。
それが今までの経緯だ。
晴れてアオイと付き合い始め、アオイの一挙手一投足を間近で見つめることが出きる権利を得られたのはまさに僥倖。決して手離すことがないように、チリは日々アオイに好意を行動と言葉で伝えている。
この日の夜も散々アオイにチリの愛を伝えて愛し尽くしたわけなのだが、起きてアオイが横にいないのは寂しいものがある。
勝手にベッドを抜けるだなんて、きっとチリの愛を貰い足りないのだろう。そういう事にしておこう。

「起きたんなら声かけえや、目え覚めてかわいこちゃんがおらんなんて悲しすぎるわ」

チリがアオイの腰を抱き寄せると数時間前の余韻からかアオイが熱い息を漏らす。

「起こしたら、悪いと思って…」

少し視線を落とすとアオイの足の指がもじもじと動いていた。

「アオイ、ちょいそれ貸し」

チリがそう言ってアオイから電子タバコを拐う。
一口吸って煙を含むとアオイの顔に煙を吹き掛けた。

「朝までぐっすり寝れるようにしたるわ、もういっぺん気張りや」

チリは電子タバコにキャップをはめるとアオイを抱き上げて室内へ戻った。
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