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時をかけるチリちゃん


玄関が開かれると、一瞬チリと目が合う。
目が合った瞬間、チリはアオイの腕を掴むとそのまま家の中に引きずり込んだ。そうしてその勢いのまま玄関の上がり框に放り投げられる。
玄関に倒れ込んで、アオイはすぐに手をついて上体を起こした。

「あの、チリさん!さっきの…」

一瞬見えたチリの目は明らかに”怒り”の感情が燃えていて、アオイは息を呑んだ。さっきまでの哀願するよう、決意のこもったような、そんな目じゃない。こちらに対して明確な怒りを示している。

ーーーもう、遅かったの…?

アオイは言いかけた言葉の続きが言えないまま、カタカタと震えるしかなくなった。玄関がガチャリと音を立てて閉まるとチリが一歩前に出る。その一歩にびくりとアオイの体が跳ねた。

「なあアオイ、どこやったん?」

そのままアオイは玄関に張り倒される。痛くはなかったが、体が強張って言う事を聞かない。

「チリちゃんの指輪、どこやったん?家中探してもないねん、捨ててしもたん?なあ」

何を言われるかと身構えていたアオイは一瞬だけ体から力が抜ける。

「ゆ、指輪…?何の指輪…?」

アオイは確かめるようにそう尋ねた。もしかしたら違う誰かとの指輪の話かもしれない。もしかしたら自分は、もうチリの中では全くどうでもいい、もしくは酷く嫌悪する相手なのかもしれない。チリが不在の間に悪さをして指輪を隠してしまった悪い人間なのかもしれない。そんなことを考えていると、覆いかぶさってきたチリの両手がアオイの顔の両脇にドンと音を立てて突かれる。

「アオイとチリちゃんの結婚指輪やろ!本気で言うとるんか!…あいつになんかされたん?そんでチリちゃんと結婚したん嫌になってしもうた…?気いついたら戻って来とって、でもアオイの荷物どこにもないねん、クローゼットも全部空っぽ、写真もなくなっとるし、カギかて玄関に置いてある…この家のどこにもアオイがおらん!」

怒鳴るようにそう言われてアオイは一瞬考えた。自分とチリの結婚指輪、チリ本人がそう言った。アオイ自身の記憶には何ら変化がなく、それはチリも同様のように思われた。

「え…チリちゃん?なんで?なんでわかるの…?私、だって………あ…あぁ…チリちゃんだ…何にも変わってない、私のチリちゃんだ…!」

チリの問いに答えられないまま、アオイはチリに抱き着いた。何も変わってなかった。どういう事かはわからないが、何も変わらなかった。

「ちょっ、アオイ?どういう事なんそれ?」

「チリちゃんの指輪!ここにあるよ…!病院で点滴するからって、点滴すると浮腫むから指輪外してたの!」

そう言ってアオイは首からチリの指輪を引っ張り出す。

「私の指輪、ずっと着けてたんだよ!チリちゃん絶対帰ってくるって…ずっと…ずっと…待ってた…!」

引っ張り出した指輪を紐から外す。そしてアオイは自分の指にはめられていた指輪を引き抜いた。指輪があった指の付け根にはドオーの顔の痕が残っていた。この指輪は表面上はシンプルなプラチナの指輪だが、内側に赤い石が二つ、そしてドオーの口が浮き彫りになっているデザインだった。ずっとはめられていたのでその痕はくっきりと残っている。チリの指輪の方はひし形の黄色い石が二つにその石の間に浮き彫りになったひし形、それらのひし形を囲むように蝶のような形の浮彫がある。マスカーニャの仮面が模されたものだ。そしてお互いの瞳の色が石としてはめ込まれている。
指輪とアオイの顔を交互に見て、何かを思い出すようにチリは首をひねった。

「病院…?あ、ああ!そういう事!そういやチリちゃん吹っ飛んできた石で頭打っとったな…あ"あ"…冷静になってきたわ、そりゃそうよな。ここに色んなもん残しておけるわけないもんな…すまんなアオイ、痛かったやろ…チリちゃんも気が動転してもうて焦ってたわ」

チリはアオイの顔の両脇から手を離すと体を起こしてアオイを一緒に立ち上がらせた。とりあえず二人玄関に上がる。
見つめあって、手のひらを合わせて指を絡める。軽い口づけを一つ、二つ。次第にお互い淡く口を開いて舌を絡める。何度も角度を変えて唇を合わせていく。
チリの勢いにアオイが仰け反りそうになると、その腰をぐっとチリが押さえこんで再び唇を合わせた。アオイもチリの首に腕を回してそれに応える。
そうして口づけの終わりに軽く唇同士が触れ、そして名残惜しげに離された。次いで二人外したままの指輪をお互いの指にはめなおす。まるで数年前の結婚式の指輪の交換の再現の様だった。

「チリちゃんの手、指輪の痕すっかりなくなってしもうとる。またしっかりはめなおさんとな」

チリがアオイの薬指に口づけを落とす。アオイはそれに応えるようにチリの左手を自分の頬を寄せた。
そうして目を合わせた時、チリの真っ赤な虹彩にゆらゆらと火が点ったように見える。アオイはその目がどうしようもなく愛おしくて思わず涙がこぼれた。
そんなアオイの涙を指で拭うと、チリはアオイの腕を掴んで階段の方に誘導した。

チリによってとろとろに蕩かされたアオイは余韻が冷めやらぬ様子でくったりとしていた。チリはアオイの余韻が冷めるのを待って体を離すとベッドから降りて脱ぎ散らかされた中から自分のシャツを拾って羽織った。そうしてアオイの体を拭くものを取りに行こうと思って扉の方に向かうと、背後でどさりと物音がする。
振り返ってみると、アオイがベッドから落っこちていた。そしてゆるゆると腕を立てて体を起こし、ベッドを手すりに立ち上がった。

「寝とってええよ」

チリがそう言ってもアオイは首を縦に振らない。ふらふらとチリの元まで歩いてくると、チリのシャツの袖を掴んだ。

「離れたくない…」

か細い声でアオイが呟く。どんな思いでその言葉を絞り出したのかが痛いほどわかる為、チリはアオイをぎゅっと抱きしめる。

「そんなら一緒にお風呂行こか」

チリがそう提案すると、アオイが腕の中で頷いたのがわかった。ふらふらのアオイの手を引いて階段を降りる。
まさかお天道様が高い内からしけこむことがあろうとは思いもよらなかったが、こればっかりは仕方がないだろう。お互いの空いた時間を、寂しさを埋めるための心のコミュニケーションが必要だったのだ。自分の寂しさと虚無感、アオイの苦しみと悲しみを癒すためにもチリはアオイをこれでもかという程愛さずにはいられなかったのだから。チリに連れられて階段を降りるアオイの体には少し血の滲んだ歯形と赤い花が沢山咲いていた。今までこんなに血が滲むほど噛み痕を残したことはなかったので申し訳なさがあるが、そこにはかなりの満足感があった。そして首筋にまで咲いた花は数日は消えないだろう、明日からアオイは着る服に困ることになるだろうが、肌寒くなってきたのでハイネックでどうにかしてほしい。
そうして二人ゆったりと風呂に入って、いざ上がろうかと思った時チリは気付いた。

「アオイの服ないやん」

失念していた。アオイは過去のチリと別居するために荷物をまとめて引っ越してしまっていたからここにアオイの服が一切ない。
あるのは今部屋に脱ぎ散らかされている服だけだろう。それは洗濯するにしても、それまでアオイに何を着せたらいいだろうか、そうしてチリはあることをひらめき空調の温度を上げた。

「チリちゃん、これ結構スースーするね」

アオイはいわゆるチリシャツ(今チリが考えた彼シャツの類語)状態だった。勿論下は何も履いていない。仕方ないだろう、チリとアオイではサイズが違うのだから。決してやましい気持ちからではない。
勿論アオイにだけそんな無防備な状態にしておくのはフェアではないので、チリは逆に下着以外は身につけていない状態でリビングのソファ、アオイの隣に座っていた。空調で室温を上げているので、アオイの衣服が乾くまでの時間程度なら問題ないだろう。
アオイの方はというと裾を気にしながらスマホロトムを操作している。

「トップに連絡入れてくれるか?チリちゃんのご帰還やでーって」

アオイのスマホを覗きながらチリが言う。チリの言葉にアオイは頷いた。

「そのつもり………よし、送信したよ」

そうしてアオイはオモダカに送ったメッセージをチリに見せる。簡潔に”チリちゃんが戻ってきました。時間が取れた時にお返事ください”と文字が打ってある。
その画面を確認してアオイはスマホをテーブルに置いた。

「チリちゃん、お帰りなさい」

ふわふわとほほ笑むアオイに心臓がきゅうっとなる。アオイの肩を抱いて自分の肩に抱き寄せながらアオイの頬を撫でた。

「ただいま、アオイ」

見つめあって、二人で暫く額を合わせる。穏やかにお互いの気配や体温を確かめていく。そうして額を離した後、アオイの肩を抱いたままチリが話し始めた。

「そんでアオイ、過去のチリちゃんとどんな話したか教えてもらおか」

詰め寄るような口調でチリが言う。

「特別な話は何もしてないよ、設定的には私ただの同僚だったし……ただ」

アオイの語尾にチリの眉がピクリと動いた。

「ただ、何?」

チリがアオイに言葉の続きを促す。

「私結構冷たく接してたつもりなんだけど、何か…その、告白?のようなものをされてしまいました」

アオイは困ったように眉尻を下げる。そんな表情も可愛いのだが、だがしかしだ。

「はぁ~…アオイはチリちゃんキラーやねんから、どんなアオイでもチリちゃんは好きになってまうんよ。あ"~とんでもないわこの子~とんだスケコマシやわ~」

チリが大げさに嘆くようなそぶりを見せる。過去に飛ばされたチリは毎日それはもう気が気ではなかった。同じ自分だからわかる。チリはきっとアオイの事を愛してしまう。今のチリの場合は出会ったのがアオイがまだ少女の頃なので大人の忍耐力で乗り越えたが、過去のチリが出会ったのは現在のチリに愛されてそれはもう可愛く色っぽく成長した大人のアオイなのだ。遠慮なく好きになってしまうだろう。我ながらとんでもない奴だ。

「本当に何もなかったんだよ!ただ何日か置きにご飯作りに来てちょっと適当な会話して、一回バトルしただけだし…」

「待て待て待て、バトルしたんか!チリちゃん以外のチリちゃんと!」

「ちょっと意味わかんないけど、ずっと軟禁状態だからポケモン達も暇だって言われちゃって…オモダカさんに確認したらバトルくらいなら許可するって…」

「手持ちは?どっちが勝ったん?」

「臨時四天王用に編成したあくタイプ…ぎりぎりだったけど何とか私が勝った。チリちゃんの席を守ってるんだから相手がチリちゃんでも負けられないって思って…」

「アオイがあくタイプ…!しかもチリちゃんの席守ってくれとった上に?過去のチリちゃんの世話までして?まさか今までの仕事もそのまんまして?どんなハードスケジュールぶっ込んでんねん!体壊すわ!人のこと言えんけど」

実の所、チリも過去の世界でかなりゴリゴリに仕事を詰め込んでいた。アオイがまだパルデアにいない、逢いたくても姿すら見ることができない。過去の自宅で一人虚しく過ごす日々、アオイのいない食卓では味気なくてなかなか食べる気にもなれなかった。そんな寂しさを埋めるにはこれでもかというくらい仕事を詰め込むのが一番だった。今頃過去に戻ったチリが悲鳴を上げる体に困惑しているだろう場面を想像すると胸のすく思いだ。睡眠不足と栄養ドリンクの過剰摂取で暫く体の不調に苦しめられればいい。

「それとね、ゾロアークが一回だけチリちゃんに変化したの…私が寂しいって思ってたのばれちゃってたみたいで、気を使わせちゃった」

アオイがポツリと吐露する。チリもアオイのソロアークはゾロアの頃から知っている。何せ二人が付き合い始めた後にアオイが卵から孵した子だ。アオイがずっと抱えて温めて、アオイがどうしても卵を抱いていられない時にはチリが預かっていた時もある。なのでほぼ二人の子と言っても過言ではない。なので勿論どんな性格かも知っている。チリが頼まなければ人に化けることのないゾロアークが自分の意志でチリに化けたという事は、それだけアオイが精神的に弱っているように見えたという事だろう。

「アオイの子らは頼もしいのばっかしやな、ええ子揃いや」

チリはそう言ってアオイを抱き寄せている手でアオイの頭を撫でる。

「チリちゃんのドオー達もね。凄いんだよ、テレビ点けられないように妨害したり、家の外に勝手に出ようとするとガードしたり、買い物した荷物運んでくれたり、過去のチリちゃんの足止めもしてくれて…」

「うわっ、チリちゃんの子もええ子揃いやん…」

これはお互いポケモン達を可愛がらなければと思う。

「話逸れてもうたけどアオイ、さっき告白されたって言うとったよな…何言われたん?」

「言ってもいいの…?」

「ちょっと確認したいこともあるしな」

そうチリが言うと、アオイは思案するように瞳をきょろきょろと動かす。そして一度決意したように目を閉じると言葉を選ぶように恐る恐る話し始めた。

「過去のチリちゃんが、私の旦那さんはどんな人かって…自分の方が幸せにするから、自分に乗り換えないかって…そんなこと言ってて。それって今が変わっちゃうってことでしょ、今までの十年が無くなっちゃうって思ったら怖くて…突き飛ばして逃げちゃった…それで、それがもっとまずいことだって気付いて急いで戻ってきたら…」

「もう今のチリちゃんが戻ってきとったってわけやな。あん時のアオイのびくびくした目ぇ、そういう訳やったんやな。でも嬉しいで、今のチリちゃんに操立てしてくれたんやろ?」

チリはそう言ってアオイの瞼に指を滑らせた。ほんのりと赤くなって僅かに腫れている。チリと再会した後に流した涙だけでは今も残るほど腫れはしなかっただろう。未来が変わってしまったらどうしようと、不安と恐怖で胸を痛めたことだろう。腫れた瞼が痛々しいが、それが同時に今のチリとの思い出を守る為の過程でなったものだと思うと愛おしかった。
だからチリも、アオイに言わねばならない。アオイの安心をより強める為にも。

「チリちゃんな”自分が未来に行った”なんて記憶ないんよ。同じ時間軸なら、今のチリちゃんが憶えとらんはずないやろ?」

そうなのだ。今のチリには自分が”未来に行った”という記憶は一切ない。アオイがパルデアに来る前までの生活も凡そ思い出せるが、その中に空白の期間など存在しない。一か月間未来に飛んで誰かの世話になった記憶もない。そして極めつけがあった。
チリは一度アオイに回していた腕を外すと、アオイと向かい合う。

「アオイさん、出身校名を教えていただけますか?」

面接時の標準語がアオイを襲う。突然投げつけられた質問にアオイは困惑した様子を見せる。

「お、オレンジアカデミーです」

「ええ、ええ。そうですよね…それ聞けてほんま良かったわ」

「学校名が何かしたの?」

「チリちゃんが行った過去な、オレンジアカデミーなんてなかったんよ。在ったんはグレープアカデミー…これに気付いた時鳥肌たったし絶望したわ。同じ時間軸の過去やったらいつか戻れるって信じられた。けどそもそも世界線すらちゃうってなったら、ほんまに戻れるんかわからんくなった。でもアオイとの十年は絶対に失いたくない、それだけが心の拠り所やったわ」

「チリちゃん…」

今度はアオイが膝立ちになってチリを抱きしめた。胸にチリの頭を抱えるようにして優しく抱擁する。着ている物はチリのシャツなのに、香ってくる匂いはアオイの香りだ。安心する落ち着く匂いだ。チリもアオイの背に腕を回して抱きしめ返す。

「過去から来た連中がみんながみんなグレープ軸から来たかはわからん。でも、軟禁するんは正解かも知れん。世界線が違うても過去は過去やし知らん方がええのは変わらん。特に世界線すらちゃうってことは悟らせんのが一番ええ、こっちにしてみればもう過去の事やからどうとでもなるけど、あっちからは未来の話やからな」

「うん。そうだね…私もそう思う。チリちゃんがオレンジ軸?に戻ってこれて本当に良かった…けど、じゃああのチリちゃん、やっぱり私の知らないチリちゃんだったの?!それもそれで問題だよ!グレープ軸?に私が越してくるかもわかんないし、ハルコなんてやっぱりいないわけだし!一人の人生狂わせちゃったかもしれない…どうしよう…」

アオイが慌てふためくのでチリはそれが気に入らなくて、より強くアオイの体を抱きしめる。

「ほっとけ、どうとでもなるわ。ならんくてもアオイの事散々困らせた慰謝料や、せいぜい足掻けばええわ」

「一応同じチリちゃんだよ!もう…!」

アオイがそうやって困っているのを知らんぷりしながら、チリはアオイの胸に耳を押し付ける。トクトクと心音が聴こえてくる。アオイの音、アオイが存在している音だ。耳に届くくぐもった心音すら愛おしくてしょうがない。そうしてチリがアオイの心音を聞いていると、上からアオイの声が降ってくる。

「今の話も結構重要な話だよね。オモダカさんにも後で説明しなくちゃね」

「それもこれも、ぜーんぶ後でええわ。なあアオイ、チリちゃんの為にご飯作ってくれへん?アオイのご飯が恋しゅうてしゃあなかったんよ」

チリがそう言うと、アオイがぱっとチリから体を離す。見上げるとアオイの目がキラキラと輝いていた。

「任せて!何作ろっかな、そうだ!チリちゃんが戻ってきたら一緒に食べたいなって思ってた料理があるの、すぐ支度するね!」

アオイはソファから降りるとパタパタとキッチンに向かって行く。シャツがあおられてアオイの可愛い尻がチラリズムしている。なかなかいい眺めだった。

「チリちゃんも手伝うさかい二人で料理しよー」

チリもソファから立ち上がってキッチンへ向かう。

「チリちゃんは下着だからダメ!油とかはねたら危ないから座ってて!久しぶりにチリちゃんにご飯作るんだって思うと私嬉しいの、だから…ね!」

こうなったアオイはチリをキッチンへ入れてはくれないだろう、大人しくダイニングテーブルの椅子に座ってアオイが喜々として料理を作る様子を眺めることに徹することにした。
平凡な幸せがこんなにも愛おしい。戻ってこられた喜びを再び噛みしめた。
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