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時をかけるチリちゃん


外に出た日から、チリは考えていた。自分はどうやったら過去へ帰れるのだろうと。明日で丁度未来の自分と入れ替わって三十日になる。
そろそろ帰れてもいいのではないだろうか。十年前に戻れば、そこにはきっとまだ誰にも踏み荒らされていない新雪のようなハルコが存在している。もしかしたらすでに結婚相手と出会っているかもしれないが、付き合っているかどうかはわからないのだから、チャンスはあるのではないだろうか。そんなことを延々と考えてしまっていた。
恐らく明日、ハルコはここに来るだろう。その時に指輪について探りを入れられないものかと思案する。

「結局諦められてへんやないかい」

自分で自分に突っ込みを入れると、チリはカップの中に残っていたコーヒーを一気にあおった。やけ酒としゃれこみたい所だが、如何せんこの家にアルコールはないのだからしょうがない。コーヒーも飲みなれてしまえば眠気を阻害することもなく、そのうちうとうととしてくるだろう。
過去が変われば未来も変わる。ならば、ハルコの未来を自分で上書きしてしまいたい。どうせよく知りもしない未来なのだから、ちょっとくらい自分の手心を加えたって大きな問題にもならないんじゃないだろうか。
チリは寝支度を整えて二階に上がる。早く過去に戻りたい反面、今夜目を閉じて過去に戻っているようなことはあってほしくない。
せめて最後にハルコと会って話がしたい。あと一回、ハルコと会って話すまではどうか戻らないでほしいと願いながら、チリはベッドの中で目を閉じた。



「チリさん、おはようございます」

心配をよそに朝はやってきた。いつものようにハルコが買い物袋を引っ提げて玄関の前に立っている。

「最初はカギ持っとったんやから、そのまま使って入ってきたらええのに」

玄関を開けながらチリがそう言うと、ハルコは首を横に振る。

「そこまでする必要もありませんから」

相変わらず冷たい声音が徹底されて、チリは寂しい思いが募る。まるでこおりタイプの技の威力を上げるとけないこおりの様だ。
本来の話し方はきっともっと砕けている。病室で言葉をかけられた時がそうだったように。あの時のようにもう一度話してくれたらと思わずにはいられない。
ハルコを玄関の中に迎えながら、その手の買い物袋を引き取ってハルコを家に上げる。
ダイニングで荷物を置くと、各々が荷物の片付けをするという流れももうだいぶ馴染んできた。ハルコは台所用品、チリは生活雑貨をそれぞれの置き場に収納していく。そうして買い物袋を空にした後、いつものようにハルコが訊いた。

「スパゲティグラタンとカレーとチャーハン、どれがいいですか?基本の味付けは全部ミートソースですけど」

それは一つの味付けで今台所にある食材でできる料理。大体いつも二択か三択を出してくる。

「そんならスパゲッティグラタン」

それが一番調理に時間がかかりそうだったから。少しでも長居をさせたいチリは最近選択肢の中の一番時間がかかりそうな料理を選ぶようになった。
とは言ってもチリはそれほど料理には詳しくない。しかし、ミートソースの缶詰がキッチンカウンターに置かれているのを見るに、ソースから作るわけではなさそうなので何となくチャーハンとカレーはすぐに出来てしまいそうだと考えたのだ。

「わかりました。グラタン皿を出していただけますか」

ほぼ一か月一緒にいると、もうチリが訊ねなくともハルコは用を言い付けてくれるようになった。これも随分進歩したと思う。
流しで手を洗って、ハルコは鍋に水を入れている。コンロに鍋をかけながら換気扇のスイッチも押していた。
チリはハルコの背後にある食器棚からグラタン皿を出した。以前まで同居人がいたからか、この家には大体の食器がふた皿揃えてある。今取り出したグラタン皿も茶色い皿と緑色の皿で二人分最初から揃えてあった。
それをカウンターの上に置くと、ハルコは今生のトマトをカットしている所だった。

「皿出したで」

「ありがとうございます。鍋に塩入れてくれますか」

チリが皿を出すと、すぐに次の用がやってくる。カウンターの上にある塩の調味料ポットを取ると、鍋の中にすり切り一杯入れると一気にブクブクと湯が沸き立ち始めた。

「そろそろお湯沸くで、どうする?」

チリが訊ねるとハルコは少し考えるように手元を見て、そしてチリの方を見やる。

「パスタ入れていただいて大丈夫です。タイマーは八分、上に蒸し器皿を置いてこれ一緒に蒸してください」

そう言ってハルコはトマトより先に切っていたのであろうブロッコリーの入ったボウルを見せた。チリはそれを受け取って自分の手元に置くとパスタストッカーから二人前取り出して鍋に広げ入れた。冷蔵庫に張り付けてあるタイマーを八分にしてスイッチを入れる。一人暮らしをしていた頃は家でパスタを茹でるという事がなかったので、ハルコが初めてパスタを買ってきた時は思わず「そういやパスタって家でも作れるもんやったな」と言って、ハルコに「そうですよ」と至極真面目に返された記憶がもう既に懐かしさを覚える。
そうして鍋の淵に蒸し器皿をひっかけて皿の中にブロッコリーを放り込んで蓋をした。
少し目を離した隙にハルコはまた別の事をしていた。グラタン皿にバターを塗り広げている。風味付けと後何かの意味があったらしいがその辺りはすっかり朧気になってしまった。
そうしている間にハルコはミートソースの缶詰に手を付けようとしていたので、チリは慌てて声をかけた。

「手ぇ切ったら危ないで、チリちゃんやるから缶切り貸し」

「いえ、これくらい…」

ハルコは渋るが、チリにはこんな些細なことでも格好つけられるチャンスなのだ。例え今のチリとハルコの間に未来がなくとも、せめて少しでもいい印象は残していきたかった。ハルコの手から缶と缶切りを取ると台の上でキコキコと缶の縁を押して切っていく。
少しだけ切り残しを作って開けるとチリは缶をハルコに差し出した。

「できたで」

そう言って缶を渡した時、ハルコの眉間にわずかにしわが寄った。そうしてすぐに横に首を振るような仕草をすると「ありがとうございます」と缶を受け取っていた。
缶を開けている間に時間が経過していたらしく、キッチンタイマーがピピピピピッとアラーム音を鳴らした。ハルコはアラームを止めると、コンロの火も止めて鍋の蓋を開けようと手を伸ばす。

「あつっ!」

蓋を掴む前にハルコが手を引いた。

「どうしたん?!」

鍋の方を見ると、丁度手前に鍋の空気穴がきていて恐らくその蒸気が手にかかったのだと思われた。
チリはハルコの手を引っ張ると、流しの蛇口を上げて水を出して、流れ出る水の中にハルコの手を突っ込んだ。

「堪忍な、蓋のことまで気い回らんくて痛い思いさせてしもた…」

流水でハルコの手を冷やしながら謝るチリ。最後に蓋に触れたのは間違いなく自分で、その時空気穴の位置まで考えていなかった。少し考えれば蒸気が出て危ないという事くらいわかっただろうと後悔する。ハルコの事ばかり考えていたからか、結局それがハルコに痛い思いをさせることになって自己嫌悪に陥ってしまいそうだった。

「チリさん、これくらい料理をしていればよくあることです。ちょっと湯気が触れただけなので火傷という程でもありませんから気にしないでください」

ハルコはさも気にしていないという風に言うと、空いていたもう片方の手で水を止めた。そうして手を拭くと再び鍋の蓋を掴む。菜箸を取って器用に蒸し器皿の取っ手をひっかけて鍋から外すと、中のパスタの様子を見た。菜箸で一本すくい上げて指でつまむと口の中に放り込んで硬さを確かめている。

「ちょっと柔らかくなっちゃいましたね、でも問題ありません」

そう言ってハルコは鍋をコンロから降ろすと流しにザルを置いてパスタをあけた。軽く水気を切って空になった鍋の上に乗せると、再びグラタン皿に向き合う。皿のそこに少しミートソースを敷いて、パスタを一人前くるりと束ねて乗せるとトマトとブロッコリーを入れて再びミートソースをたっぷりかける。そして上からパラパラとチーズを散らす。それを二人前作るとふた皿ともオーブントースターの中へ。温度を調節して時間を十分ほどにセットする。

「チリさん、お片付けしましょう。お皿を洗うので拭いてください」

ハルコはそう言って使った鍋から洗い始めた。そうして洗い終わった鍋を水切り籠の上に乗せる。そして使った他の調理器具も順番に洗い始めた。
チリはハルコに言われるがまま布巾で鍋の水気を拭きとっている。さっきまでは自分から何をするか聞いていたくらいなのに随分と気持ちがしぼんでしまっていた。

「お片付けもう済んじゃいましたよ、ありがとうございます。チリさん、次はポケモン達のご飯の用意、お願いしますね」

ぽんぽんとハルコに背中を叩かれる。まるであやされているようだと感じてしまった。こちらが気を利かせるどころか逆にハルコに気を使わせてしまったようで恥ずかしかった。チリはそそくさとダイニングを出ると物置からポケモンフーズと皿を持ってくる。丁度チリがダイニングに戻ってきた時、チンッとオーブントースターが鳴って、ダイニングにはチーズの焦げた香ばしい匂いがしていた。
ハルコが既にダイニングテーブルの上にランチョンマットを置いていた。いつの間にやらお茶とサラダまで用意されていて、ミトンをはめてグラタン皿をテーブルに置いている。
チリはポケモン達の更にフーズを入れて並べるとダイニングテーブルの方へ寄った。ハルコはキッチンの方から出てきてカトラリーケースをランチョンマットの横に置いた。

「熱いですから気を付けてください」

そう言うと、ハルコは小さな声で「いただきます」と呟いてフォークでくるくるとパスタを巻き始めた。
チリも「いただきます」と口にしてパスタを巻く。ふわふわと湯気が舞っていかにも熱そうだった。それを少し冷まして口の中に入れる。市販のソースを使っていても、やはりハルコの作る料理は美味しかった。普通ならパスタを茹でてソースをかければいいのに、食材を足してオーブントースターに入れるひと手間が加えられている。まるで愛情をかけられているかのように錯覚してしまう。きっとハルコにとっては”誰かの為に手間をかける”ことがとても身近なものなのだろう。
一口食べるごとにそんな気が増していくようだった。それでも、グラタン皿の中をすっかり空にしてしまうのだから自分でも呆れてしまう。けれど残すことはしたくなかったのだからしょうがないだろう。
チリはハルコが皿を持って行ってしまう前に空になった皿を回収すると流しへ持っていって洗い始めた。いつもなら「大丈夫です、私がやります」と言い出しそうなのに、ハルコは何も言わずに冷蔵庫を開け始める。そうして次々食材を出して作り置きの料理を作り出す。気落ちしているチリの気持ちを察して好きなようにさせてくれているのだろうというのが簡単に分かってしまう。もしかしたらハルコは自分の精神年齢、十年前のチリよりも年上なのかもしれない。だからチリが何をしてもなびかないし狼狽えたりせず、逆に気を使ってくれるのかもしれない。
チリが考え事をしながら皿を洗っている間に一品出来上がってしまっていて、チリは慌てて皿を洗う手を速めた。作り終わってしまったらすぐにハルコは帰ってしまう。目的だった質問ができないまま、もしかしたら明日には自分は自分の時間で目を覚ますことになるかもしれない。手早く泡を洗い流して水切り籠に並べていく。最後にグラタン皿を濯いで水切り籠へ置くとチリはハルコの方を見る。
ぼんやりとするような眼で手元を見ながらも危なげなく調理を進めていく。出来上がったものを保存容器に移していつものように蓋を閉め切らずに乗せただけの状態にしていた。そうしてハルコがチリの退いた流しで自分の使った調理器具を洗い始める。
その背中を眺めながら、チリは腕を伸ばしてハルコの腰に腕を回す。一瞬びくりとハルコの肩が跳ねた。

「チリさん、離してください」

ハルコはすぐに平静さをもってチリにそう言った。
ああ、全く動じていない。爪痕が残せない。そう思うとチリはハルコの腰に回した腕を離すことができなかった。

「なあ、ハルコちゃんの旦那さんってどんな人?」

「…チリさんには関係のないことです」

「答えてくれんのなら離せへん」

「チリさん…」

ハルコの語気が強くなった。けれどチリは離せない。とんだ我がままだ、これではもっと子供みたいではないか。

「何でそんなことを気にするんですか」

一向に離れようとしないチリを背中にくっつけたまま、ハルコは洗い物を再開する。サァァっと水の流れる音だけが響く時間ができた。

「ハルコちゃんのこと好きやから」

絞り出すようにチリが言うと、ハルコが丁度洗い物を終えて水を止める。

「私、あなたに優しくしたつもりはないです。そんな人間のどこが良いっていうんですか」

「ハルコちゃんは優しいで、いっつも無表情やったり不機嫌そうな顔しとるけど、全部理由があってそうしとるっちゅうのは見てれば分かる。なあ、旦那さん今何しとるん?ハルコちゃんこんな目の下隈作って一生懸命働いとるのに何で…もうおらんのやろ、せやから寝ながら泣いてまうんやろ!だったら…!」

チリがそう言いかけた時、腕の中のハルコが動いた。体をねじってチリを突き飛ばす。

「そんなこと言わないで!!!帰ってくる!絶対帰ってくるんだから!!!」

ハルコは自身の胸元を強く握るとしゃがみこんでしまう。チリは再びやってしまったと思って血の気が引いた。それはハルコの地雷だった。
けれど、口から出てしまった言葉を今更無かったことにすることはできない。
チリはハルコの傍に膝をつくともう一度、今度は正面からハルコを抱きしめる。

「なあハルコちゃん。チリちゃんが十年前に戻ったら…ハルコちゃんのこと捜してもええ?ハルコちゃんのこといっぱい笑かしたるから、チリちゃんにしとかん?ハルコちゃんのこと幸せにする。ウチならずっとずっと一緒にいたるから…お願いやからこっち見てくれへんかな」

「そんなことできっこない…きっと捜すこともできない…だからハルコなんて捜さないで…」

腕の中にいるハルコの声は震えている。涙声でもしかしたらもう泣いてしまっているのかもしれない。

「ほんならそんなレアなハルコちゃん見つけたらチリちゃんのもんってことでええやろ、チリちゃん四天王やから捜索範囲ごっつ広いで」

「あなたの傍にいなければ良かった…こんなことになるなら、違う人に頼めば良かった…」

再び腕の中でハルコが身じろいだ。チリの腕から抜け出すと、ダイニングにある荷物をひったくって玄関へ駆け出す。
後を追おうとすると、まさかドオーがチリの前に立ちふさがる。この先はチリの領分ではないと言うように。ダイニングから廊下に出られない中、チリは声を張り上げた。

「そんな後悔も吹っ飛ばしたる!一からハルコちゃんのこと落として見せる!首洗って待っとれ!!!」

バタン。玄関が閉まる音がした。もしかしたら、例えあと数日チリが未来に残ることになっても、ハルコはもうここへは来ないかもしれない。それでも、後悔なんてさせない。絶対に今より笑顔を増やして見せる。けれど、せめてもっと奇麗な別れ方をしたかった。せめて最後はお互い笑顔で別れられれば良かった。こんな別れも全部、全部上書きしてやる。チリは決意をもってきつく目を閉じると、一度だけ強く壁を叩いた。
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