時をかけるチリちゃん
ーーー嘘、こんなこと、チリちゃんに限ってあるわけない!
アオイはスマホロトムをもって病室から逃げ出すように退室する。そして見舞客の待機ロビーでしゃがみ込むと泣いた。静かに、静かに泣いた。
チリは三日前、暴漢に絡まれていたアオイを庇って怪我をした。ポケモンの技の影響で飛んできた拳ほどの石が額に直撃し、そのまま気を失って倒れたのだ。すぐに警察と救急に連絡を入れて、やってきた救急車で病院へと搬送された。表面上怪我は大したことはなかった。脳のレントゲンにも異常はなく、すぐに目が覚めると思いますと医師もそう言っていた。にもかかわらずあれから三日、チリは目が覚めなかった。不安で不安でアオイは仕事も手につかず、見かねたオモダカに強制的に休暇を取らされたのだ。そうしてほとんど泊まり込みでチリの病室で彼女の目が覚めるのを待っていた。
しかし、目が覚めたチリはアオイの事がわからなかった。そんなことがあるのかと一瞬頭が真っ白になって、それ以上会話をするのが怖くてナースコールを押した。
そうして看護師が来るのを待って、アオイは病室から逃げ出したのだ。
泣いて苦しくなった息を整えて、アオイは何とかオモダカに電話をかける。数コールの内に電話が繋がった。
「オモダカさん、アオイです。チリちゃん目が覚めました」
『そうですか、では今からそちらに伺います』
「でも、その…」
『どうかしましたか?』
「私の事が、わからないようでした…」
そうして二人黙り込む。
『本当にただの記憶喪失か、それとも例のあの現象か…確かめる必要がありそうですね』
「はい…それでなんですけど、今後私の事はハルコと呼んでいただけませんか。もしチリちゃんが”戻ってきた時”すぐに判断がつくかと」
『そうですね、しかしあなたはそれでいいのですか?どのくらいの期間かはわかりませんが、チリはあなたの事をハルコと呼びますよ』
アオイはぐっと唇をかみしめた。辛い。チリが自分を憶えていないだけにとどまらず自分の事を違う名前で呼ぶ可能性があるなんて、今想像しただけでも辛かった。しかし、それが一番簡単で分かりやすい判断の仕方だという事は分かりきっている。
「いいんです。オモダカさん、チリちゃんは”現在の自宅”に帰るんでしょうか?」
『あと何日か退院まで猶予はありますが、もしあなたが嫌だというのならこちらで別室を用意してそちらにチリを収容することも可能ですよ』
収容というかなり物騒な単語が出てきたが、オモダカの言う通り今後彼女は”収容措置”という手段が取られることになるだろう。本当にただの記憶喪失でもそうじゃなくてもだ。
「…私が出ていきます。ひと部屋貸していただけるなら、チリちゃんの退院までに私がそちらに移ります」
『そうですか。わかりました。では手配はしておきますから、あなたは自宅に戻って引っ越す準備をしてください、病院に着いたらまた電話します』
「わかりました。お願いします…失礼します」
アオイはそうして電話を切った。一仕事終えたが、これから自宅に戻って荷造りをしなくちゃいけない。憂鬱な気持ちを抱えたまま、アオイはエレベーターホールへ移動して下に降りるボタンを押した。
そうして待ちながら考える。チリの記憶喪失が、ただの記憶喪失か違うのか。
記憶喪失事件、というのは大穴事件後、稀に報告される事案だった。ある日突然、記憶が飛ぶのだ。きっかけがある者もいれば瞬きや睡眠の為に目を閉じたらそうなっていた例もある。ただし普通の記憶喪失と違うのが”年数をまたいだ記憶喪失”という点だった。
ある例を上げれば、目が覚めたら五年経っていた、という事例だ。被害者と言っていいかはわからないが、あえて被害者と呼んでおく。被害者はいつものように睡眠をとるために布団に入り、寝付く前にトイレに行きたくなったので起き上がると五年が経っていたと証言した。そして鏡で自分を見てみると、布団に入った時と着ている物も髪の長さも違う。パニックになった被害者は病院に駆け込み、そうして事が露見した。それから約一週間後、被害者は”戻ってきた”のだ。被害者は病院に駆け込んですぐ入院措置が取られていたが、ある朝看護師が病室に検温へ行くと、被害者は神妙な面持ちで看護師に尋ねた。
”今が何年何月か教えていただけませんか?”
看護師は不思議に思いながらも現在の年月日を伝えると、被害者は安堵の表情を浮かべ、終いには泣き出してしまった。そうして事情を聴きとると、自分は五年前に戻っていたと語ったのだ。そうして一週間余りを向こうで過ごしたと。
こんな事件が大穴事件後、年に数回起こるようになり、年を追うごとにその件数は減少傾向にあるが今だにゼロにはなっていない。
こういった手合いの事件は”タイムスリップ事件”としてリーグ関係者にもその情報が周知されている。ポケモンやパルデアの大穴が何らかの形でかかわっていないとも限らないからだ。そうしてタイプスリップ案件と認定されると、被害者は病院もしくは監視者付きの一室に隔離されることになる。タイムパラドックスの発生を抑える為にできるだけ外界の情報を入れない様にする措置だ。そうなると被害者が”戻ってきた”ことが確認できるまでほぼ軟禁状態になってしまうのだが、こればかりは申し訳ないがお互いの為にも我慢してもらう他ない。
アオイは病院の外へ出るとコライドンをボールから出した。
「一旦お家に帰ろうか」
アオイはそうコライドンに声をかけてライドする。コライドンはこちらを心配するように首をかしげたが、アオイはその頭を優しく撫でて出発を促した。
向かう所はセルクルタウン。チリとアオイが一緒に住んでいる家だ。数年前、二人が籍を入れるのを機に共同で建てたもの。リーグやテーブルタウンからそれほど離れていなくて、尚且つポケモンが遊びやす場所、というのを条件に場所を探してセルクルタウンの南に場所を決めた。セルクルタウンの川を挟んで南側には大きな池があり、週末にはチリとポケモン達と一緒に池のほとりでピクニックをするのが習慣になっていた。
チリのポケモン達は今自宅にいてアオイが世話をしている。お互いチリを心配しながら助け合って生活していたが、今後の事をポケモン達にも話さなくてはいけない。
自宅前でコライドンを降りて、アオイはポケットからドオーのキーホルダーのついたカギを取り出した。チリが持っているカギは通常のドオーで、アオイが持っているのはよく見れば色違いドオーのキーホルダー。たまにごっちゃになることもあったけれど、結局どちらも同じカギだからいいかと二人で笑いあった。
そんな何でもない記憶が思い出されて、アオイは再び泣きそうになったが、顔を上げて何とか堪えた。
震える手でカギを差し込み捻る。かちゃりと音が鳴った。ノブを掴んでドアを引くと、玄関にはチリのポケモン達が揃っていた。その中でもリーダー格のドオーが一歩前に出てきてアオイを出迎える。
「チリちゃん目が覚めたから、近い内に帰ってくるよ」
そう言ってアオイは一匹ずつ頭や体を撫でてやる。アオイの言葉がわかったのか皆が皆嬉しそうに鳴き声を上げた。
「でも私は暫くお家を出なくちゃいけないの、皆と離れるの寂しいけど…チリちゃんは帰ってくるから大丈夫だよ」
そう言ってアオイは全匹をぎゅっと集めて抱きしめる。幅が足りないけれど、気持ちは伝わったと思う。玄関でポケモン達と話している内、オモダカが手配した業者がやってきて、アオイは自分の荷物だけを手早く箱にまとめて片づけた。
そうして再びチリのポケモン達に向き直る。
「チリちゃんが退院するまでは毎日来るからね。あとダイニングにご飯用意してるから、皆で仲良く食べるんだよ、明日の朝また来るね」
そう言ってアオイは業者と共に家を出た。しっかり施錠してコライドンに再びライドする。テーブルシティのリーグの社宅に空きがあるのでそこに越せるように手配されているらしい。オモダカには感謝しかない。そうアオイが考えていると、そのオモダカから連絡が入った。
「もしもし、アオイです」
『荷造りは済みましたか?』
「問題なく終わりました。そちらはどうでしたか?」
『最終記憶が十年前、あなたがパルデアに越してくる二か月前でした。ほぼ確定でタイムスリップ案件です。あなたは今後どうされますか?』
どうする、とは恐らくチリへの対応の事だろう。他人に任せるか、自分がするかを選ばせてくれるらしい。
「私が定期的に様子を見に行きます。ポケモン達の様子も気になりますし…今あの家の事に詳しいの私だけですから」
『わかりました。では収容期間中のチリの対応はあなたに一任します。何かあれば私の方に一報入れてください、それからその期間中のあなたの仕事なんですが』
オモダカがそこまで言いかけた段階ですでにアオイは何を言われるのか察しがついていた。
「できれば全て午後からで、入場制限していただけると助かります」
『話が早くて助かります。チリが不在の間はあなたに一次試験の面接と二次試験の実技テストをお願いしますね』
「わかりました。詳しい相談は明日にでもリーグに伺います」
『くれぐれも無理なスケジュールは組まないように』
「それアオキさんにも言ってあげてください」
軽く談笑してアオイはオモダカとの通話を切った。そうしてふうと息を吐く。チリがタイムスリップ案件だと認証された以上、彼女もまたあの家で隔離されることが決まった。行動範囲も接触できる人間もかなり制限されるし、目覚めたら十年経っていたという現実は今もチリを混乱させている事だろう。
決まった期間があるわけではない為、こればかりは早く現在のチリが戻ってきてくれることを祈るしかない。
アオイは左手の薬指を見やる。チリと揃いのプラチナのオーダーメイドリング。病院に搬送された際にチリの指輪はアオイが預かっていて今は紐に通されて首から下げている。二つのリングを目の前にかざしてアオイは一人呟く。
「早く戻ってきてね、チリちゃん…私もこっちでハルコとして頑張るから」
自分に気合を入れて、アオイはコライドンの首を優しく撫でた。
「あなたにも辛い思いをさせちゃうな…ごめんね」
コライドンもアオイとはもう十年近く一緒に行動してくれている家族も同然の存在だが、チリの監視役を引き受けた以上、コライドンは傍に置けない。コライドンは頻繁にモンスターボールから出てしまうし、姿を見られると現在に何らかの支障が出てしまう可能性があるからだ。もしかしたらアオイとコライドンが出会う世界そのものがなくなってしまうかもしれない。チリが自身を憶えていないことも悲しいが、コライドンと出会えなくなることもまた同じくらい悲しい。アオイは出発する前にもう一か所に電話をかける。
数コールで相手と通話が繋がった。
「もしもし、ペパー?」
『お、アオイ。チリさん怪我したって聞いてたけど大丈夫か?』
「昼間目が覚めたよ…でも。タイムスリップ案件に認定されちゃって」
大穴事件の関係者であり、オーリムの息子であるペパーも勿論この事件についての情報は共有されていた。故にアオイはこの話をためらいなく話すことができる。
『うわぁ、まじかよ…おつかれちゃんだなアオイ。おれ達にできることがあったら何でも頼れよな、親友なんだからさ』
「うん…早速で申し訳ないんだけど、コライドンを預かってほしくて…過去のチリちゃんがコライドンを見たことでお互いに悪い影響が出ちゃう可能性があるから」
暫くペパーが黙り込んだ。そして数秒の後にペパーの方から話し始める。
『チリさんの記憶、何年前までの記憶だったんだ…コライドンの姿を見られちゃまずいって、まさか』
「十年前、私がパルデアに来るよりも前だった」
『それって、アオイの事も憶えてねぇってことかよ!』
改めて他人に言われるとその事実がより深く自分の中に影を落としてくるのを感じる。
「こればっかりは仕方がないよ…正直きついけど。でもやっぱり傍についてたいし…そうだペパー、私暫くハルコって名乗ることにしたの、チリちゃんが戻ってきた時、一番わかりやすい判別方法だと思って…だからもし私に話しかけることがあったらハルコって呼んでほしい。他の二人にもこれから伝えるつもり」
他の二人とはもちろんボタンとネモの事である。特に二人はリーグの関係者で、もしかしたら収容期間中にチリと接触する可能性がある。チリがいるならば監視役の自分が一緒にいることになるだろうから、あらかじめ口裏を合わせてもらう必要があった。
『はぁ~アオイは本当に真面目ちゃんの一途ちゃんだな!わかった!コライドンは暫く預かってやる!色々大変だろうけど無茶すんなよな!ペパーお兄さんとの約束だぞ!』
こんな時に聞くペパーのちゃん構文は心が癒える気分だ。
「ありがとう、夕方には預けに行きたいんだけど大丈夫そう?」
『おう、大丈夫ちゃんだぜ!』
「コライドンの事よろしくお願いします」
そう言って電話口で大きく頭を下げるとアオイは通話を切った。
そうして再びコライドンを見やって、その首を抱きしめる。しばらくこの背中を見ることができないのだと思うと寂しいが、リーグ勤務が終わったら毎日会いに行こうと心に決めて、ようやくアオイはテーブルシティへと向かった。
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