時をかけるチリちゃん
この家に越してきて数日が経った。チリは家中を見て回ったが、この家には違和感が多かった。
一番顕著だったのが二階だ。初日の夜に風呂に入ろうと衣類を探しにチリは二階へ上がった。階段を上がると三畳ほどの縦長の廊下。左手は窓になっていて今は茶色のロールカーテンが下りている。右手には扉が二つ。何とはなしに奥の扉を開けると扉のすぐ脇の壁を手で探るとすぐにスイッチに手が当たる。ぱちりと押して明かりをつける。ここはどうやら書斎らしい。扉の突き当りの壁には窓があり、窓の下には長机が置かれており椅子が二脚。机の上にはデスクスタンドが机の左右に一つづつ設置されていた。まずそこでチリはおや?と思った。一人で使うなら机はもう少し小さくてもいいはず、椅子だって二脚も必要ないし、スタンドだって一つでいいはず。それとも何か理由があって二人分用意していた?
そんなことを考えながら部屋を見回す。左側には本棚があったが今は置いておいて右側にはウォークインクローゼット。開けてみると衣類が仕舞ってあったが、どうやら外出着がメインのようで部屋着のようなものは一着も入っていなかった。だがそれでも不審な点がある。ウォークインクローゼットはそれなりに広く設えられているのだが、上段下段衣類ラックを含め右半分には一切物が置かれていなかった。一人で生活しているならばわざわざ半分だけ空けておく必要なんてなく、好きなように衣類をかけておけばいい。この不自然な空間は一体何なのだろうか。チリは首をひねりながらウォークインクローゼットを閉じた。
この部屋には必要な物が無いようなので明かりを消して一旦部屋を出て、廊下の手前のもう一つの扉を開ける。下を一通り見ていたからもうこの部屋が何なのかは簡単に予想できた。扉を開ければ案の定そうだ。
「うん、寝室やなぁ」
明かりを点けながら当たり前のことを口にする。
右手の壁側に頭を向ける形で大きめのベッドが置かれており、ベッドの頭上には窓があった。今は遮光カーテンが引かれているが丁度この窓から朝日が指すようだ。実に健康的である。
左手側には隣の部屋と同じくウォークインクローゼットがあり、チリはとりあえず左側を開けた。ウォークインクローゼットの上段には一つに引き出しが二つ付いているケースが二段重ねに積まれていて、下の引き出しを開けると肌着やら下着やらが整然と詰め込まれていた。そうして次は上の引き出しを開けると、ここには部屋着が入っている。左右の引き出しで季節が違うらしく、チリは適当に七分丈の物を取り出すと引き出しを閉めた。必要な物を取り出して、ではクローゼットを閉めようかと思ったが、そこでふと隣の部屋のクローゼットの事を思い出して右側に扉も開け放ってみた。
案の定というか、やはりというか、右側は何も置かれていなかった。そこで下段の方を覗いてみると、そこには圧縮袋に入れられた布団とベッドカバーやシーツなどの寝具類の替えが入ったケースが置かれていただけで、こちらには特に違和感はなかった。
クローゼットを閉めてチリは考える。この空間は一体何なのだろうと、まず思い浮かんだのはルームシェアだが、それなら相手が使っていたからの部屋があってもおかしくないが、家の全ての部屋を見たが空き部屋は存在していない。ならば恋人か?つい最近別れたのだろうか。十年前のチリが考えた所でどうしようもないことだが、この妙な空間がやけに気になってしまうのだった。
次にハルコがやってきたのは初日から二日後の昼前だった。
インターホンが鳴り画面を確認すると、両手に買い物袋を持ったハルコがそこに立っていた。急いで玄関まで迎えに行く。
「チリさんこんにちは、失礼します」
そう言って玄関に入ってくるハルコ。チリの後ろからわらわらとポケモン達がやってきてハルコを出迎える。どこか仲良さげに見えた。
ハルコは持っていた買い物袋の一つを玄関に置くと、それを一番乗りとばかりにドオーが咥えてダイニングの方へのっしのっしと歩きはじめる。
「ちょい待ちドオー!中身確認せな!」
チリがドオーの咥える買い物袋を検めようとしゃがむと、背後からハルコが声をかけた。
「その袋には割れるものや傷むものは入っていないので大丈夫です。彼率先してお手伝いしてくれるんです…ありがとうドオー」
ハルコにそう声をかけられるとドオーは嬉しそうに鳴き声を上げて再び買い物袋を咥えるとダイニングへ向かう歩みを進めた。
「なんや、ハルコちゃんドオーと仲いいん?」
チリがそう尋ねるとハルコは決まり悪そうに視線を逸らす。
「チリさんが入院している間、ポケモン達のお世話を任されていたので…」
そう言ってハルコは一生懸命に荷物を運ぶドオーの後ろ姿を眩しい物でも見るように目を細めてみていた。
「なんやハルコちゃんには何から何まで世話になっとるみたいで、えらいすまんなぁ」
なるほど、とチリは思った。初日に鍵を持っていたのはここにいるポケモン達の世話をしに来てくれていたからだったらしい。恐らくそれだけ親しい間柄ではあったのだろう。
チリはハルコの方へ振り返ると、ハルコが持っていたもう一つの買い物袋を受け取る。
「ハルコちゃんもはよ上がり」
「お邪魔します…」
チリが促すと、ハルコはいそいそと靴を脱いで玄関に上がった。
そうして二人リビングに向かう傍らチリが話しかける。
「ハルコちゃんが作ってくれたご飯、あれ美味しかったで!チリちゃん好みの味付けでびっくりしたわ~」
チリがそう言ってカラカラ笑う。ハルコはチリの半歩後ろにいる為表情は窺えないが、一体どんな表情をしているのか。チリが肩口から盗み見るように視線を向けると、ハルコはやわらかく微笑んでいた。がしかし、すぐにチリと目が合って見られていると気づいたハルコは表情を整えてしまい無表情に戻ってしまった。
―――なんや、愛らしい顔しとるなあとは思うてたけど、笑うとごっつかわええやん。なんでいっつもあんなムスッとした顔してんねやろ
チリが盗み見ているのに気づいたハルコは少し俯き加減でチリに返しの言葉を告げる。
「それは良かったです。また作り置いて行く予定だったのですが…大丈夫ですか?」
先ほどの言葉は決して世辞ではなく本心だったので、ハルコが料理を作ってくれるのならばチリに断るという選択はなかった。
「かまへんよ、むしろありがたいわ~チリちゃんもうすっかりハルコちゃんの料理の虜になってしもうたからな」
そう言いながら二人でダイニングへ入ると、キッチンカウンターの傍で荷物を運び終えたドオーが得意気に待ち構えていた。
「おっ!ドオーいい仕事っぷりやな、ご苦労さん」
そう言ってチリが頭を撫でてやるとドオーは嬉しそうにゆるゆるとした笑顔を浮かべる。
ハルコはドオーが運んでくれた袋の中から一つ一つ物を取り出しては冷蔵庫や棚の中にしまっていく。かなり慣れた手つきだった。
チリも買い物袋から物を取り出して仕舞いながらハルコに尋ねた。
「なあハルコちゃん、やっぱウチとハルコちゃんって実は結構仲ええんとちゃう?」
すると、冷蔵庫に卵のパックを入れようとしていたハルコの動きが一瞬止まった。すぐに活動を再開してパックをしまい冷蔵庫を閉じるが、チリからは背中しか見えない為表情が窺えない。
「仕事の同僚なんです。比較的年が近くて同性なので自然と組んで仕事をすることが多かったんです…」
「ふーん?そうなん」
面接を担当するチリだからだろうか、その言葉の中に潜む違和感を見つけた。恐らく彼女は噓を吐いている。それがどんな噓かまでは分からないが、先ほどの笑顔と言い、明らかに彼女はチリの前で本心を隠すように行動しているように見えた。
それに病院での態度を見るに、ただの同僚ではないだろう。少なくとも友人か、もしくは親友か。
「せやったらハルコちゃんは何か知っとる?この家少し前まで誰かもう一人住んどったみたいなんよ。今のチリちゃんがハルコちゃんになんか話してへんかな~って」
ハルコはチリに背を向けたまま、再び冷蔵庫に物を詰めつつ言葉を返してくる。
「そうですね、一緒に住んでいた方がいたのは知っていますが…別れたとか仲違いしたとかそういう話は特に聞いていませんね」
淡々とそう答えるハルコ。無感情な声音で表情も窺えないとやはりそれが嘘か実かの判断がつけられない。
「そっか~やっぱりここ、もう一人住んどったんやね。まあそれだけ分かればええわ、おおきにねハルコちゃん」
そこで一瞬会話が途切れて沈黙が流れる。ただ各々が物を片付ける音だけが室内に響いていた。
その沈黙を先に破ったのは意外にもハルコの方だった。
「お昼、もう済ませましたか?」
「いんや、まだやで」
初日の時のようにハルコは昼ご飯の話をはじめる。
「おかず作るついでなので、何か食べたいものありますか?ある材料しかありませんけど」
ハルコにそう尋ねられ、チリは先ほどハルコが持っていた卵の事を思い出した。ひとパック一ダースの卵は一人で使い切るには少し多すぎる。
「ハルコちゃんは卵でどんな料理作れる?」
チリにそう聞かれてハルコは首を傾げた。そうして冷蔵庫を開けたり炊飯器を開けたりしながらふむ、と考えてからチリを見やる。
「チリさんはカルボナーラとオムライスどちらが良いですか?」
どうやら今ある材料でその二つが作れるという事らしい。炊飯器の中には今朝炊いたご飯が保温されていて、冷凍するつもりではあったが二人で食べるなら空にできるだろう。
「ハルコちゃんの料理ならどっちも食べてみたい気持ちはやまやまなんやけど…せやな今回はオムライスで!」
チリがそう答えると、ハルコはうんと一つ頷き袖をまくると流しで手を洗い始めた。
そうして手を持参したタオルで拭くと、冷蔵庫からベーコンと牛乳、卵とバターを取り出す。そしてさらに野菜室から玉ねぎを取り出して、戸棚から缶のコーンをひと缶。そしてフライパンをコンロの上に置いた。手始めにフライパンの上にバターをひとかけ落としておく。まな板を取り出して玉ねぎを縦半分に切り、片方はラップに包んで冷蔵庫へ戻す。そして残った半分の皮を剥いで先端と根っこを切り落とすとサクサクと横に切れ込みを入れ始めた。横に何段か切れ込みを入れると今度は縦にザクザクと切っていく。あっという間にみじん切りが完成した。
換気扇のスイッチを入れてコンロにも火を点ける。そしてフライパンの上のバターをある程度溶かしてフライパン全体になじませるとみじん切りにした玉ねぎを投入して木べらで炒め始める。こげないように火加減に気をかけながら玉ねぎが半透明になるまで炒めて火を弱める。そして間のコーンを開けるとスプーンでひと匙ふた匙とフライパンに加えていく。残ったコーンは密閉容器に入れて冷蔵庫へ、そしてまな板の上にベーコンを置くと短冊切りにしてこれもまとめてフライパンへ投入した。再び火加減を少し強め主にベーコンを炒めていく。
そこでチリははっとした、またぼーっと眺めてしまっていたと。
「ハルコちゃん、ウチもなんかお手伝いすることある?」
チリがそう訊くと、ハルコはフライパンをしばらく眺めた後でチリを見やる。
「ではお皿を出していただけますか?それが終わったらフライパンにご飯を入れてください」
「うっしゃ!チリちゃんに任せとき!」
元々の腕まくりを更にぐっと引き上げてチリも流しで手を洗う。そして手を拭いて食器棚から大きめの皿を二枚取り出してカウンターに並べる。そしたら今度は炊飯器の保温を切って蓋を開ける。そうしているとハルコがフライパンをこちらに向けてくるのでフライパンの中にご飯をドンと移し入れた。
「えっ?!こんなに?」
思わずハルコがそう驚きの言葉をこぼす。
「またハルコちゃんが自分はええですーってならんようにしこたまぶち込んだるからな~ぎょうさん食べぇ」
二人で食べるには若干多いくらいのご飯をフライパンに盛るとハルコが一瞬クスリと笑う。
「本当にたくさん食べられそうですね」
そう言ってハルコはフライパンをコンロに戻すと塩コショウを少々とコンソメの粉末をさらさらとかけてご飯をかき混ぜ始めた。
「チリさん。次はケチャップをお願いします。量は…一先ず大匙三くらいで」
チリは頷いて冷蔵庫からケチャップを取り出す。大匙が大体どのくらいなのかはよくわからないが、とりあえずコレクレ―のコインくらいの大きさに三か所、ケチャップを絞り出した。ハルコが特に何も言わないので恐らく大丈夫なのだろう。そうしてさらに軽く炒めるとあっという間にケチャップライスが完成した。それを半分ずつ皿に盛ると、フライパンのケチャップをキッチンペーパーで軽く拭って再びバターをひとかけ落とした。
ボウルに卵を五つ割入れて、牛乳を少々と塩コショウを適量入れかき混ぜる。さっとかき混ぜた後、コンロに火を点けてフライパンを温めた。
ある程度フライパンが温まったところで卵液を半量流し込む。すぐにフライパンの中で卵が固まり始め、それを崩すように菜箸でかき混ぜながらフライパンの奥へとまとめていく。そうして楕円を作るとフライパンの柄をトントンと叩きながら角度を調節してくるりと閉じ口を下に返した。そうして軽く火を入れると出来上がったオムレツをケチャップライスの上に乗せてナイフでオムレツに切れ目を入れる。ふわふわの半熟卵がすっぽりとケチャップライスを覆ってしまった。
「チリさん、あとは私一人でも大丈夫なので、ポケモン達のご飯の用意をお願いします」
ハルコにそう言われて、チリはポケモン達のご飯を取りに物置へと向かった。人(匹)数分の皿と共にダイニングへ戻り、一皿ずつご飯をあけていく。そうして全員分の用意ができると、キッチンからハルコが出てきた。
「チリさんも座ってください」
そう言ってハルコがチリの席に水とオムライスを置いた。ふわふわ卵の上には粉パセリがかけられ、なんとケチャップでドオーの顔が描かれていたのだ。
「食べるん勿体なくなってまうやん」
できれば写真に収めたいが、退院してから電子機器の類は返却されていなかった。テレビを見ようにも点けようとする度にポケモン達が妨害してくるのでここ数日全く外界の情報が入ってこない。ここに移動してくる空飛ぶタクシーの中で説明されたが、どうやら電子機器、主にスマホはオモダカからの命令で暫く返却できならしい。どういう事かはわからないが、チリがどれだけ駄々をこねようが仕方がないことだと早々に見切りをつけて大人しく言う事を聞くことにした。
だから今、チリには目の前の料理を記録する術がない。
「ハルコちゃん、このドオーオムライス写真に撮ってくれへん?今記録できるもんなんも持ってへんからハルコちゃん頼むわ」
チリがそう言って両手を合わせると、ハルコは席を立ってその辺に置いていた自身の手荷物からスマホを取り出した。そしてチリの後ろからオムライスに向けてスマホのカメラレンズを構えるとカシャリと一枚写真を撮る。
「こんな感じでいいですか?」
ハルコは撮った写真をチリに見せた。金色ドオーがにっこりしていて愛らしい一枚になっている。
「おおきにね、ほないただきます!」
スプーンを手に取ると、端の方から卵を崩して救い上げる。ふわふわ卵は牛乳が入っているからまろやかでバターの風味がかすかにしている、ケチャップの酸味とのコントラストがとてもいい。具材として入れたコーンはシャキシャキと甘く、ベーコンの塩味と合わさっていいアクセントだった。かなりの量があった割にはあっさりと完食してしまって驚きだ。やはりハルコは料理が上手い。
この後、ハルコは再び何品かのおかずを作り置いてあと片づけを済ませると、ブレイブバードのようなスピードで帰っていった。
そんな風に数日置きにハルコが午前中にやってきては昼ごはんとおかずを作っていくのが少しづつ習慣化し始めている。
一番顕著だったのが二階だ。初日の夜に風呂に入ろうと衣類を探しにチリは二階へ上がった。階段を上がると三畳ほどの縦長の廊下。左手は窓になっていて今は茶色のロールカーテンが下りている。右手には扉が二つ。何とはなしに奥の扉を開けると扉のすぐ脇の壁を手で探るとすぐにスイッチに手が当たる。ぱちりと押して明かりをつける。ここはどうやら書斎らしい。扉の突き当りの壁には窓があり、窓の下には長机が置かれており椅子が二脚。机の上にはデスクスタンドが机の左右に一つづつ設置されていた。まずそこでチリはおや?と思った。一人で使うなら机はもう少し小さくてもいいはず、椅子だって二脚も必要ないし、スタンドだって一つでいいはず。それとも何か理由があって二人分用意していた?
そんなことを考えながら部屋を見回す。左側には本棚があったが今は置いておいて右側にはウォークインクローゼット。開けてみると衣類が仕舞ってあったが、どうやら外出着がメインのようで部屋着のようなものは一着も入っていなかった。だがそれでも不審な点がある。ウォークインクローゼットはそれなりに広く設えられているのだが、上段下段衣類ラックを含め右半分には一切物が置かれていなかった。一人で生活しているならばわざわざ半分だけ空けておく必要なんてなく、好きなように衣類をかけておけばいい。この不自然な空間は一体何なのだろうか。チリは首をひねりながらウォークインクローゼットを閉じた。
この部屋には必要な物が無いようなので明かりを消して一旦部屋を出て、廊下の手前のもう一つの扉を開ける。下を一通り見ていたからもうこの部屋が何なのかは簡単に予想できた。扉を開ければ案の定そうだ。
「うん、寝室やなぁ」
明かりを点けながら当たり前のことを口にする。
右手の壁側に頭を向ける形で大きめのベッドが置かれており、ベッドの頭上には窓があった。今は遮光カーテンが引かれているが丁度この窓から朝日が指すようだ。実に健康的である。
左手側には隣の部屋と同じくウォークインクローゼットがあり、チリはとりあえず左側を開けた。ウォークインクローゼットの上段には一つに引き出しが二つ付いているケースが二段重ねに積まれていて、下の引き出しを開けると肌着やら下着やらが整然と詰め込まれていた。そうして次は上の引き出しを開けると、ここには部屋着が入っている。左右の引き出しで季節が違うらしく、チリは適当に七分丈の物を取り出すと引き出しを閉めた。必要な物を取り出して、ではクローゼットを閉めようかと思ったが、そこでふと隣の部屋のクローゼットの事を思い出して右側に扉も開け放ってみた。
案の定というか、やはりというか、右側は何も置かれていなかった。そこで下段の方を覗いてみると、そこには圧縮袋に入れられた布団とベッドカバーやシーツなどの寝具類の替えが入ったケースが置かれていただけで、こちらには特に違和感はなかった。
クローゼットを閉めてチリは考える。この空間は一体何なのだろうと、まず思い浮かんだのはルームシェアだが、それなら相手が使っていたからの部屋があってもおかしくないが、家の全ての部屋を見たが空き部屋は存在していない。ならば恋人か?つい最近別れたのだろうか。十年前のチリが考えた所でどうしようもないことだが、この妙な空間がやけに気になってしまうのだった。
次にハルコがやってきたのは初日から二日後の昼前だった。
インターホンが鳴り画面を確認すると、両手に買い物袋を持ったハルコがそこに立っていた。急いで玄関まで迎えに行く。
「チリさんこんにちは、失礼します」
そう言って玄関に入ってくるハルコ。チリの後ろからわらわらとポケモン達がやってきてハルコを出迎える。どこか仲良さげに見えた。
ハルコは持っていた買い物袋の一つを玄関に置くと、それを一番乗りとばかりにドオーが咥えてダイニングの方へのっしのっしと歩きはじめる。
「ちょい待ちドオー!中身確認せな!」
チリがドオーの咥える買い物袋を検めようとしゃがむと、背後からハルコが声をかけた。
「その袋には割れるものや傷むものは入っていないので大丈夫です。彼率先してお手伝いしてくれるんです…ありがとうドオー」
ハルコにそう声をかけられるとドオーは嬉しそうに鳴き声を上げて再び買い物袋を咥えるとダイニングへ向かう歩みを進めた。
「なんや、ハルコちゃんドオーと仲いいん?」
チリがそう尋ねるとハルコは決まり悪そうに視線を逸らす。
「チリさんが入院している間、ポケモン達のお世話を任されていたので…」
そう言ってハルコは一生懸命に荷物を運ぶドオーの後ろ姿を眩しい物でも見るように目を細めてみていた。
「なんやハルコちゃんには何から何まで世話になっとるみたいで、えらいすまんなぁ」
なるほど、とチリは思った。初日に鍵を持っていたのはここにいるポケモン達の世話をしに来てくれていたからだったらしい。恐らくそれだけ親しい間柄ではあったのだろう。
チリはハルコの方へ振り返ると、ハルコが持っていたもう一つの買い物袋を受け取る。
「ハルコちゃんもはよ上がり」
「お邪魔します…」
チリが促すと、ハルコはいそいそと靴を脱いで玄関に上がった。
そうして二人リビングに向かう傍らチリが話しかける。
「ハルコちゃんが作ってくれたご飯、あれ美味しかったで!チリちゃん好みの味付けでびっくりしたわ~」
チリがそう言ってカラカラ笑う。ハルコはチリの半歩後ろにいる為表情は窺えないが、一体どんな表情をしているのか。チリが肩口から盗み見るように視線を向けると、ハルコはやわらかく微笑んでいた。がしかし、すぐにチリと目が合って見られていると気づいたハルコは表情を整えてしまい無表情に戻ってしまった。
―――なんや、愛らしい顔しとるなあとは思うてたけど、笑うとごっつかわええやん。なんでいっつもあんなムスッとした顔してんねやろ
チリが盗み見ているのに気づいたハルコは少し俯き加減でチリに返しの言葉を告げる。
「それは良かったです。また作り置いて行く予定だったのですが…大丈夫ですか?」
先ほどの言葉は決して世辞ではなく本心だったので、ハルコが料理を作ってくれるのならばチリに断るという選択はなかった。
「かまへんよ、むしろありがたいわ~チリちゃんもうすっかりハルコちゃんの料理の虜になってしもうたからな」
そう言いながら二人でダイニングへ入ると、キッチンカウンターの傍で荷物を運び終えたドオーが得意気に待ち構えていた。
「おっ!ドオーいい仕事っぷりやな、ご苦労さん」
そう言ってチリが頭を撫でてやるとドオーは嬉しそうにゆるゆるとした笑顔を浮かべる。
ハルコはドオーが運んでくれた袋の中から一つ一つ物を取り出しては冷蔵庫や棚の中にしまっていく。かなり慣れた手つきだった。
チリも買い物袋から物を取り出して仕舞いながらハルコに尋ねた。
「なあハルコちゃん、やっぱウチとハルコちゃんって実は結構仲ええんとちゃう?」
すると、冷蔵庫に卵のパックを入れようとしていたハルコの動きが一瞬止まった。すぐに活動を再開してパックをしまい冷蔵庫を閉じるが、チリからは背中しか見えない為表情が窺えない。
「仕事の同僚なんです。比較的年が近くて同性なので自然と組んで仕事をすることが多かったんです…」
「ふーん?そうなん」
面接を担当するチリだからだろうか、その言葉の中に潜む違和感を見つけた。恐らく彼女は噓を吐いている。それがどんな噓かまでは分からないが、先ほどの笑顔と言い、明らかに彼女はチリの前で本心を隠すように行動しているように見えた。
それに病院での態度を見るに、ただの同僚ではないだろう。少なくとも友人か、もしくは親友か。
「せやったらハルコちゃんは何か知っとる?この家少し前まで誰かもう一人住んどったみたいなんよ。今のチリちゃんがハルコちゃんになんか話してへんかな~って」
ハルコはチリに背を向けたまま、再び冷蔵庫に物を詰めつつ言葉を返してくる。
「そうですね、一緒に住んでいた方がいたのは知っていますが…別れたとか仲違いしたとかそういう話は特に聞いていませんね」
淡々とそう答えるハルコ。無感情な声音で表情も窺えないとやはりそれが嘘か実かの判断がつけられない。
「そっか~やっぱりここ、もう一人住んどったんやね。まあそれだけ分かればええわ、おおきにねハルコちゃん」
そこで一瞬会話が途切れて沈黙が流れる。ただ各々が物を片付ける音だけが室内に響いていた。
その沈黙を先に破ったのは意外にもハルコの方だった。
「お昼、もう済ませましたか?」
「いんや、まだやで」
初日の時のようにハルコは昼ご飯の話をはじめる。
「おかず作るついでなので、何か食べたいものありますか?ある材料しかありませんけど」
ハルコにそう尋ねられ、チリは先ほどハルコが持っていた卵の事を思い出した。ひとパック一ダースの卵は一人で使い切るには少し多すぎる。
「ハルコちゃんは卵でどんな料理作れる?」
チリにそう聞かれてハルコは首を傾げた。そうして冷蔵庫を開けたり炊飯器を開けたりしながらふむ、と考えてからチリを見やる。
「チリさんはカルボナーラとオムライスどちらが良いですか?」
どうやら今ある材料でその二つが作れるという事らしい。炊飯器の中には今朝炊いたご飯が保温されていて、冷凍するつもりではあったが二人で食べるなら空にできるだろう。
「ハルコちゃんの料理ならどっちも食べてみたい気持ちはやまやまなんやけど…せやな今回はオムライスで!」
チリがそう答えると、ハルコはうんと一つ頷き袖をまくると流しで手を洗い始めた。
そうして手を持参したタオルで拭くと、冷蔵庫からベーコンと牛乳、卵とバターを取り出す。そしてさらに野菜室から玉ねぎを取り出して、戸棚から缶のコーンをひと缶。そしてフライパンをコンロの上に置いた。手始めにフライパンの上にバターをひとかけ落としておく。まな板を取り出して玉ねぎを縦半分に切り、片方はラップに包んで冷蔵庫へ戻す。そして残った半分の皮を剥いで先端と根っこを切り落とすとサクサクと横に切れ込みを入れ始めた。横に何段か切れ込みを入れると今度は縦にザクザクと切っていく。あっという間にみじん切りが完成した。
換気扇のスイッチを入れてコンロにも火を点ける。そしてフライパンの上のバターをある程度溶かしてフライパン全体になじませるとみじん切りにした玉ねぎを投入して木べらで炒め始める。こげないように火加減に気をかけながら玉ねぎが半透明になるまで炒めて火を弱める。そして間のコーンを開けるとスプーンでひと匙ふた匙とフライパンに加えていく。残ったコーンは密閉容器に入れて冷蔵庫へ、そしてまな板の上にベーコンを置くと短冊切りにしてこれもまとめてフライパンへ投入した。再び火加減を少し強め主にベーコンを炒めていく。
そこでチリははっとした、またぼーっと眺めてしまっていたと。
「ハルコちゃん、ウチもなんかお手伝いすることある?」
チリがそう訊くと、ハルコはフライパンをしばらく眺めた後でチリを見やる。
「ではお皿を出していただけますか?それが終わったらフライパンにご飯を入れてください」
「うっしゃ!チリちゃんに任せとき!」
元々の腕まくりを更にぐっと引き上げてチリも流しで手を洗う。そして手を拭いて食器棚から大きめの皿を二枚取り出してカウンターに並べる。そしたら今度は炊飯器の保温を切って蓋を開ける。そうしているとハルコがフライパンをこちらに向けてくるのでフライパンの中にご飯をドンと移し入れた。
「えっ?!こんなに?」
思わずハルコがそう驚きの言葉をこぼす。
「またハルコちゃんが自分はええですーってならんようにしこたまぶち込んだるからな~ぎょうさん食べぇ」
二人で食べるには若干多いくらいのご飯をフライパンに盛るとハルコが一瞬クスリと笑う。
「本当にたくさん食べられそうですね」
そう言ってハルコはフライパンをコンロに戻すと塩コショウを少々とコンソメの粉末をさらさらとかけてご飯をかき混ぜ始めた。
「チリさん。次はケチャップをお願いします。量は…一先ず大匙三くらいで」
チリは頷いて冷蔵庫からケチャップを取り出す。大匙が大体どのくらいなのかはよくわからないが、とりあえずコレクレ―のコインくらいの大きさに三か所、ケチャップを絞り出した。ハルコが特に何も言わないので恐らく大丈夫なのだろう。そうしてさらに軽く炒めるとあっという間にケチャップライスが完成した。それを半分ずつ皿に盛ると、フライパンのケチャップをキッチンペーパーで軽く拭って再びバターをひとかけ落とした。
ボウルに卵を五つ割入れて、牛乳を少々と塩コショウを適量入れかき混ぜる。さっとかき混ぜた後、コンロに火を点けてフライパンを温めた。
ある程度フライパンが温まったところで卵液を半量流し込む。すぐにフライパンの中で卵が固まり始め、それを崩すように菜箸でかき混ぜながらフライパンの奥へとまとめていく。そうして楕円を作るとフライパンの柄をトントンと叩きながら角度を調節してくるりと閉じ口を下に返した。そうして軽く火を入れると出来上がったオムレツをケチャップライスの上に乗せてナイフでオムレツに切れ目を入れる。ふわふわの半熟卵がすっぽりとケチャップライスを覆ってしまった。
「チリさん、あとは私一人でも大丈夫なので、ポケモン達のご飯の用意をお願いします」
ハルコにそう言われて、チリはポケモン達のご飯を取りに物置へと向かった。人(匹)数分の皿と共にダイニングへ戻り、一皿ずつご飯をあけていく。そうして全員分の用意ができると、キッチンからハルコが出てきた。
「チリさんも座ってください」
そう言ってハルコがチリの席に水とオムライスを置いた。ふわふわ卵の上には粉パセリがかけられ、なんとケチャップでドオーの顔が描かれていたのだ。
「食べるん勿体なくなってまうやん」
できれば写真に収めたいが、退院してから電子機器の類は返却されていなかった。テレビを見ようにも点けようとする度にポケモン達が妨害してくるのでここ数日全く外界の情報が入ってこない。ここに移動してくる空飛ぶタクシーの中で説明されたが、どうやら電子機器、主にスマホはオモダカからの命令で暫く返却できならしい。どういう事かはわからないが、チリがどれだけ駄々をこねようが仕方がないことだと早々に見切りをつけて大人しく言う事を聞くことにした。
だから今、チリには目の前の料理を記録する術がない。
「ハルコちゃん、このドオーオムライス写真に撮ってくれへん?今記録できるもんなんも持ってへんからハルコちゃん頼むわ」
チリがそう言って両手を合わせると、ハルコは席を立ってその辺に置いていた自身の手荷物からスマホを取り出した。そしてチリの後ろからオムライスに向けてスマホのカメラレンズを構えるとカシャリと一枚写真を撮る。
「こんな感じでいいですか?」
ハルコは撮った写真をチリに見せた。金色ドオーがにっこりしていて愛らしい一枚になっている。
「おおきにね、ほないただきます!」
スプーンを手に取ると、端の方から卵を崩して救い上げる。ふわふわ卵は牛乳が入っているからまろやかでバターの風味がかすかにしている、ケチャップの酸味とのコントラストがとてもいい。具材として入れたコーンはシャキシャキと甘く、ベーコンの塩味と合わさっていいアクセントだった。かなりの量があった割にはあっさりと完食してしまって驚きだ。やはりハルコは料理が上手い。
この後、ハルコは再び何品かのおかずを作り置いてあと片づけを済ませると、ブレイブバードのようなスピードで帰っていった。
そんな風に数日置きにハルコが午前中にやってきては昼ごはんとおかずを作っていくのが少しづつ習慣化し始めている。
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