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時をかけるチリちゃん

目が覚めるといつもの天井ではなかった。重だるくて動かせない体に左の額も痛い気がする。
はて、何故だろうと考えたチリは起きる前の最後の記憶を漁った。
リーグ勤務から帰宅して、あれやこれやと寝仕度を整えてベッドにダイブしたはずだったのに、起きてみればここは、恐らく病院の個室に見える。

「う…」

重い体を起こそうと右肘を曲げようとして、そこで自分の腕に管がついているのに気付いた。辿っていくと点滴パックが一つ。ますます訳がわからないでいると、ガタリと近くで物音がしたが、残念なことにチリの視界の外でのことだった。そうしてコツコツと早足の足音が近づいてきてチリの右手を唐突に掴んだ。

「チリちゃん、目覚めたんだね!良かった…本当に良かった…」

女性だった。濃いセミロングの茶髪に琥珀色の目の愛らしい印象を受ける女性。今は目に涙を浮かべてチリの手を両手で握っている。
しかし、チリはこの女性に見覚えもなく、掴まれた手や女性に対する返事をどうしたものかと妙に冷静に考えてしまった。

「えっと…どちらさん?」

悪いとは思ったが、それ以外にかけられそうな言葉が見つからなかった。案の定女性は涙をためた目を見開きポカンとしている。そして徐に手を離すと、覆い被さるように手を伸ばしてチリの左側の枕元にあったナースコールを押した。
物の一分足らずで部屋の扉が開き、看護師の女性がやってきた。
そして看護師が来るや否や。

「目が覚めました。記憶にかなり混濁が見られるようです。私は職場の方に連絡をするので席を外します」

女性は早口にそう言ってスマホロトムをひっ掴むと看護師と入れ違いに病室を出ていった。
看護師に次いで医者らしき白衣の初老の男性が遅れてやってきて、看護師と何やら会話をした後、チリを見やる。

「おはようございます。目覚めたばかりで申し訳ないんですが。チリさんはお怪我をされて三日程眠られていたのですが…最後の記憶がどの辺りなのか教えていただけますか?」

穏やかな口調で医師が尋ねてくる。チリは誤魔化してもしょうがないので正直に"家で寝た記憶が最後"という旨を伝えた。
医師はそれらをカルテらしき物に記す。そんなことをしている間に再び病室の扉が開き、やって来たのはオモダカだった。

「記憶障害が出たと聞きましたが、どの程度なんでしょう」

オモダカはチリを横目に医師に尋ねる。
医師は先程チリが答えた内容を話すと、今度はオモダカがチリに尋ねた。

「今が何年何月かは覚えていますか?」

「いや、流石にそんなん忘れるわけ無いやん。◯年の五月、《宝探し》でえげつなってくらい忙しかったですやん」

チリがそう答えると、側にいた看護師が小さな声で「えっ?」というのが聞こえた。医師とオモダカは顔を見合わせているがその表情は芳しくない。看護師が慌てたように病室を出ていって、オモダカがふぅと息をついて話し始めた。

「目が覚めないだけで怪我自体は軽傷だと聞いていましたが、どうやら違うようですね」

看護師が戻って来た時、その手には卓上カレンダーがあり、看護師はチリに見えるように数字の書いてある面を見せる。

「は?△年十月…?十年先の年やん…冗談きっつ…」

「冗談ではありません。ですが、そう考えればあなたが彼女を覚えていないのも頷けます。一先ずあなたは静養してください。恐らく数日で退院できるでしょう。使いを送るのでこちらから連絡するまでは自宅待機をお願いします」

そう言ってオモダカはいつものように腰の辺りで腕を組み直し病室を後にし、チリは看護師から精密検査の日程を聞かされることになった。
そして検査が滞りなく終わり、健康状態も脳も問題ないという診断が出て、チリは二日後退院することが決まった。
退院の日までリーグの関係者が数人見舞いに来た以外は特に何事もなく、あの女性も目覚めて以降姿を見ていない。なんだったのだろうとモヤモヤしている内に翌日までに退院が迫っていた。
そして退院の朝を迎えると、コンコンと病室の扉がノックされ、あの女性が封筒を持って入ってきた。

「チリさん、退院おめでとうございます。手続き等は済ませましたので十五分後には病室を出ましょう。それから、ご自宅なんですが…現在チリさんは十年前とは別の住居にお住まいです。住み慣れない場所だとは思いますが、定期的にお伺いしてサポート致しますのでご安心ください」

女性は淡々と説明をし、病室内のチリの私物を持ってきていた鞄に詰め始めた。そして鞄とは別の紙袋をチリに向けて差し出す。

「チリさんも着替えてください」

紙袋の中身はチリの衣服だった。入院着で出るわけはないので当たり前なのだが、目覚めた時に見た彼女と随分印象が違って驚きが隠せない。
しかし、チリの混乱を別の意味に捉えたのか、女性は荷物を詰め終えると鞄を持ってチリに言った。

「外に出ていますから、着替えたら呼んでください」

そうして女性はチリの返事も聞かずに病室の外へと出ていった。
仕方がないのでさっさと着替えてベッドの下に出されていたブーツを履く。そうして立ち上がって扉の手すり状のノブに手を掛けると扉をスライドさせた。

「呼ぶ言うたって、チリちゃん自分の名前知らんのやけど。なんて名前なん?」

着替え終えたと声をかければ済む話だったが、これをきっかけに彼女が誰なのかを聞く口実にする。

「ハルコです。今後チリさんの記憶が改善されるまで定期的にお家に伺うようにオモダカさんから言付かっています」

「へ~ハルコちゃん言うんや自分。似合うとる名前やね。しっかしトップも人使い荒いな~暫くかかるかも知れへんけどよろしゅうな、ハルコちゃん。ウチのことはチリちゃんでええで」

常套句のように言っている言葉を告げると、無表情だったハルコの眉間に若干皺がよった。

「いえ、チリさんで大丈夫です」

突き放すようにそれだけ伝えられる。会話をする意思が向こうに無ければ、いくらフレンドリーなチリでもお手上げと言わざるを得なかった。

「時間ですね、空飛ぶタクシーを待たせてありますから急ぎましょう」

言われるがままに病院を出てタクシーに乗り込む。移動した先はテーブルシティから程近いセルクルタウン。
その南側に建てられた二階建て一軒家だった。
十年前のチリはテーブルシティにあるリーグの社宅であるマンションに住んでいたはずだが、この十年でかなりの心境の変化があったらしい。通勤に前より時間がかかるのにあえてこの場所に家を建てているのだから相当なのだろう。
東向の玄関に立つと、ハルコが上着のポケットからドオーのキーホルダーがついた鍵を取り出し鍵穴に差し込む。手早く鍵を開けて扉を開けると雪崩のようにチリのポケモン達がドオーを筆頭にチリに飛びかかってきた。

「自分ら、チリちゃんに会えて嬉しいんは分かるけど体重考え!病院逆戻りするわ!」

口ではそう言うも、十年前と変わらない自信の手持ちに安堵は隠せない。なんとかポケモン達を落ち着かせていると、ハルコはただこちらをぼんやりと見つめながら玄関のドアを押さえている。思考の読めない虚無のような目に、チリは違和感を覚えながらようやく玄関を潜った。

玄関に入ると両サイドに下駄箱があり、ハルコはその下駄箱の上に鍵をおく。そうして先に玄関を上がり、スッと延びる廊下の突き当たりにある扉を潜っていった。チリもポケモン達をモンスターボールにおさめて玄関に上がった。左手の壁には階段が見える。階段に続く枠の奥、同じ左側の壁には扉が三つ。右側に一つ扉があって、最後にハルコが潜った突き当たりの扉がひとつある。一つ一つ確認していくと、左の階段横の扉は物置だった。掃除用具やらストックやらが積まれていて、天井が段になっているから、階段がこの上に続いているのだろう。物置の扉を閉めて数歩進み、次のドアを開けるとトイレ。更に奥の扉は脱衣所と風呂場。右手の唯一の扉を開けると、そこはリビングのようだった。扉の正面は大きく明かりの入る掃き出し窓で、今はカーテンが大きく開かれている。入って右側の壁には棚が備え付けられていて、その上には写真立てがいくつか置かれていた。棚の上の壁にはテレビが固定されている。棚の方へ近づいて写真立てを見てみると、それは自分とポケモン達の写真だった。撮った記憶はないが、恐らく十年の間に撮った物なのだろう。そうして振り替えるとL字のソファとテーブル。そしてこの部屋はどうやらハルコか潜った扉の場所と続いているらしく、左に同じような掃き出し窓と空間があるのが見える。角を曲がるとそこはキッチンとダイニングのようだった。
カウンターキッチンの前にはダイニングテーブル。対面するように椅子が二脚置いてあった。奥側の椅子にはハルコが置いたのであろう上着と荷物が置かれている。ハルコはというと、キッチンに立っていた。

「キッチンお借りしてます。お昼を用意するように言われているんですが、食べられそうですか?」

流しで手を洗いながら、チリに気付いたハルコが尋ねてくる。訳も分からず頷くと、ハルコはあらかじめ用意していたのであろう材料で料理を始めた。
キッチンのどこかから出した深鍋に水をはって火に掛ける。そうしてお湯を沸かす間にボウルに干し椎茸と乾燥ワカメを入れると水を入れて浸した。次いでまな板を出してネギを切り始める。輪切りにしたネギを小皿に移して、今度は板かまぼこを数ミリの厚さに切っていく。チリはただただハルコの手際を眺めていることしかできなかったが、突っ立っているチリに気付いたハルコが顔を上げる。

「チリさん。座っていた方が楽だと思いますよ。暫くかかりますから」

「お、おん…」

ハルコに言われるがままに空いている方の椅子を引いて座る。ハルコはすぐに視線を手元に戻すと、鍋を見てお湯が沸いているかを確認していた。どうやらまだ沸いていないらしい。ハルコはまた別の片手鍋を取り出すと、水に浸していた椎茸とワカメを別の更に取り出して、戻した出汁を鍋にあけ、醤油とみりんと砂糖を加えて火にかける。一旦換気扇のスイッチを入れて、そうしている内に再びお湯を沸かしている深鍋を確認し、今度は沸いていたらしくハルコはどこからか乾麺の蕎麦を取り出すと一束お湯の中に投入して菜箸でかき混ぜる。放っておくと吹き零れるようで、火を調節しながらくるくると菜箸を回していた。数分間茹でた蕎麦を流しに持っていきざるにあけると水で洗い、空いた鍋の上にざるを置く。煮立った汁の匂いがふわふわと香ってきた。ハルコは片手鍋の中身を確認して火を止めると丼を食器棚から取り出して蕎麦を盛り始めた。具材にワカメと椎茸、ネギとかまぼこを乗せて火にかけて温めた汁を注ぐと、箸と共にチリの前のテーブルに運んで来る。

「どうぞ」

それだけ言ってハルコはキッチンへ戻っていく。思わずチリが尋ねた。

「ハルコちゃんの分は?」

「…ありませんけど」

ハルコがさも当たり前のようにそう返してくる。

「一人で食べるなんて気まずいやん、ハルコちゃんの分用意できるまでウチ待ってるから用意してな」

ハルコはキョトンとした顔をしていたが、一向に箸を持たないチリを見て渋々といった様子で鍋に水を張り始めた。

「伸びてしまいますから、先に食べててください」

ハルコがそう言うが、チリはハルコが来るのを待つ素振りを見せる。
そうして数分後、もう一つ丼をもってハルコがダイニングテーブルにやって来た。そして徐に自分の丼とチリの丼を交換して、チリが何か言う前に手を合わせると蕎麦をすすり始めてしまった。

「交換せんでもええのに…チリちゃんが言うたんやん待つって」

呆気にとられていたチリがそう言うと、蕎麦を飲み込んだハルコが顔を上げる。

「私が気になってしまっただけですから、どうぞ食べてください。お口に合わなければ残していただいて結構ですから」

そうしてハルコは再び丼の蕎麦に視線を向けて食べ進める。チリもしょうがないので箸を持って蕎麦を掬った。香りだけでも美味しそうだったが、実際に食べてみてもなかなかに美味しかった。椎茸とワカメの風味のバランスがいいし、薄味の病院食ばかりだった胃にはほどほどに味があってとても良い。寒くなり始めの今の季節に暖かい蕎麦は指先も胃も温まって気分が良かった。
そうして具材まで綺麗に食べ終えると、先に食べ終えていたハルコが丼を回収していく。

「洗いもんならチリちゃんがやるで、ご飯作ってもろたし」

チリがそう言葉を掛けると、ハルクは首を横に振る。

「洗い物は私がするので、チリさんはポケモン達のご飯をお願いします。本当はすぐあげたかったんですが、私の不手際です。物置にご飯の袋があるのでお願いします」

代わりの用を言いつけられれば従うしかなく、チリはさっき見た物置にポケモンフーズを取りに行き、フーズの袋と一緒に置いてあったご飯皿を人(匹)数分持ってダイニングへ戻る。モンスターボールからポケモン達を出してご飯を食べさせていると、ハルコはまた別の料理を始めていた。

「今度はなに作っとるん?」

チリが尋ねると、ハルコは視線を手元に置いたまま答える。

「お夕飯の準備です。温めるだけのおかずを作っておいていきますから、食べる時に取り分けて温めてください」

そうしててきぱきと数種類のおかずを作ると、それらをそれぞれタッパーに入れる。まだ熱いからか蓋はされておらず、ハルコは使った調理器具の後片付けを始めた。そうして片付けを終えるとチリの方を見やった。

「私はそろそろお暇します。すみませんが粗熱がとれたら蓋をして冷蔵庫にしまってください。お米は食器棚の下に、パン類は冷蔵庫に入っています。数日後にまたお伺いしますが、外出はなさらないようにお願い致します。必要なものがあれば可能な範囲で用意しますので」

そう一息に捲し立てると、ハルコは上着と自分の手荷物を持ってチリに一礼し、足早に廊下に消えていった。ポケモン達が何やら話し合い、ドオーがハルコの後を追いかける。見送りだろうか。
そうして遠くでガチャリと音がして、次いでバタンと扉が閉まるような音がする。ハルコが帰ったようだ。
呆気にとられっぱなしだったチリだが、一人になってようやく息をつけたような気がした。ハルコはずっと無表情でぶっきらぼうな物言いだったから変に力が入ってしまったのだろうか。とりあえず、ポケモン達が食べ終った食器を回収し、久しぶりにポケモン達と戯れるためにポケジャラシを探しにいくことにした。
この家で過ごす一ヶ月の始まりだった。
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