The Unowned Soul
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「──失礼いたします。」
静かな声とともに、障子がそっと開いた。
そこに立っていたのは、一番隊副隊長、雀部長次郎であった。山本総隊長への報告を終え、その後の容態を確かめに訪れた彼は、少女の姿を目にした瞬間、足を止めた。
血と泥に塗れ、必死の形相で刀を抱え込んでいた幼子。あの時の獣のごとき面影はない。短く切り揃えられた髪に、柔らかな着物。そこにはただ、少し緊張した面持ちでこちらを見つめ返す、あどけない一人の少女が座っていた。
「随分見違えましたね。」
長次郎は静かに息を漏らすと、部屋へと足を踏み入れ、少女の前へ出た。その瞳には柔らかな光が宿っている。そこへ、隊士の手によって食事が運ばれてきた。細かく刻んだ野菜と、よく解された鶏肉の粥が湯気を立てている。
「どうぞ。お腹が空いているでしょう」
隊士が少女の目の前に膳を置く。だが、少女はピクリとも動かなかった。目の前に置かれた粥を見つめつづけている。
少女にとって食事とは、他者から力ずくで奪い取るものだった。泥に塗れながら誰にも取られぬよう喰らいつくすのが彼女の知る食事である。なぜ、誰も何も奪おうとしない。ただ、温かな匂いをさせるものが、自分の目の前に差し出されている。これを食べたら、何かを差し出さなくてはいけないのか。体を硬くする様子から察した彼は、自ら匙をとると、粥を少量すくって彼女の口へと運んで見せた。
「一口だけ、食べてごらんなさい」
意を決したように小さな口を開け、おそるおそるその匙を含んだ。舌の上に広がったのは、熱さと、じんわりとした甘み。噛む必要すらないほど柔らかく、喉を通って胃の中へと落ちていく温かな心地よさ。少女の瞳が、大きく見開かれる。気づけば、涙がボロボロと溢れ落ちていた。
彼は、必死に飲み込む少女の頭に、そっと大きな手をのせた。
「ゆっくりでいい。誰も奪いはしない」
溢れた涙が頬を伝い、着物の胸元に小さなシミを作っていく。ただ、胃を満たしていくその熱が、自分が確かに生きているのだと突きつけていた。二人は、少女が最後の一滴まで粥を平らげるのを静かに見守った。器が空になると、首がぐらりと揺れる。空腹が満たされ、眠気に抗えないままにうつらうつらとしている。そのまま畳へと倒れ込みそうになった体を、彼がそっと受け止める。抱き上げた小さな体は驚くほど軽く、すでに寝息を立て始めていた。起こさないよう注意しながら、部屋の奥に敷かれた布団の上に横たえる。その寝顔は、ただのあどけない幼子の顔だった。完全に眠ったことを確認すると、彼は静かに立ち上がった。足音を殺して部屋の外へ移動すると、二人は静けさの中で話し始める。
「それで、一番隊はこの子をどうなさるおつもりですか?」
彼女の問いに、彼は障子の向こう側に視線を落としたまま、数秒の間、沈黙を守った。
「……あの幼子には、死神として素質があります。ですが、あの刀といい、未だ不明な点が多すぎるのも事実です。」
「さりとて、このまま流魂街へ送り返せば、更木で起きた異変が再発する恐れがある。放置は危険です。総隊長のお達しがあるまではひとまず四番隊で経過観察とし、動向を注視したいと考えております」
「……分かりました。この子の身体の不調も含め、こちらでしばらく預かりましょう」
卯ノ花は静かに頷き、いつも通りの柔らかな笑みを浮かべた。
夜が更けた一番隊執務室。
重々しい燭台の炎が揺れる中、山本元柳斎重國は、机上に置かれた刀を鋭い眼光で見つめていた。
「……長次郎よ。」
「現場の惨状、そして現場に残された霊圧の痕跡……ワシの見立てでは、あの男たちを切り裂き、命を奪ったのは幼子本人ではない。この刀の意志によるものだ」
元柳斎はゆっくりと髭を撫で、刀から漂う歪んだ気配の奥底を探るように目を細めた。
「刀が自らの持ち主を守るため、襲い来る郎党どもを斬り伏せた自衛行動。主に応え、霊力を引き出す様は死神と斬魄刀の繋がりに酷似しておる。だが、通常の浅打とは異なる異質なものだ」
「あやつは死神としての素質を持ちながら、その力を制御できておらぬ。扱いを誤れば、瀞霊廷にとっても災いとなろう」
「……総隊長」
長次郎が静かに口を開いた。
「あの者が真央霊術院に入学し、自らの力と心を律する術を学ぶその日まで──身柄の管理、および観察は私が引き受けます」
元柳斎がゆっくりと目を開け、側近の副隊長を見つめる。
「憐れみではございません。あのような危険な素質を持つ者を野に放つわけにはいかず、かといって芽を摘むには惜しい。なれば、この長次郎の目の届く範囲で御し、死神として総隊長殿のお役に立つか否かを見極めるのが最善かと。」
元柳斎は、ふっと短く息を吐いた。
「……好きにせよ。ただし、万が一その力がおのれの手を離れ、害をなす存在となれば、その時はお前が責任を持って斬り伏せよ。」
「──御意」
長次郎は深く頭を下げた。
数日後、傷の治療を終え、四番隊の隊舎から引き渡された私は、一番隊執務室──山本総隊長の前に連れて来られた。総隊長から「名を何と申す。」と静かに問われた。その時だった。背後から、誰かが囁いた。懐かしく、愛おしく、そして背筋が凍りつくほどに恐ろしい声。導かれるようにその声を辿り、私の口から自然とひとつの名が溢れ落ちていた。それが己の名なのか、あるいは別の何かなのかも分からぬまま。
「神代結碑螺。」
こうして神代結碑螺は、一番隊副隊長・雀部長次郎忠興のもとでその命を繋ぐこととなった──。
少女は己の力について、何も知らない。
その日から、私の日常は一変した。
静かな声とともに、障子がそっと開いた。
そこに立っていたのは、一番隊副隊長、雀部長次郎であった。山本総隊長への報告を終え、その後の容態を確かめに訪れた彼は、少女の姿を目にした瞬間、足を止めた。
血と泥に塗れ、必死の形相で刀を抱え込んでいた幼子。あの時の獣のごとき面影はない。短く切り揃えられた髪に、柔らかな着物。そこにはただ、少し緊張した面持ちでこちらを見つめ返す、あどけない一人の少女が座っていた。
「随分見違えましたね。」
長次郎は静かに息を漏らすと、部屋へと足を踏み入れ、少女の前へ出た。その瞳には柔らかな光が宿っている。そこへ、隊士の手によって食事が運ばれてきた。細かく刻んだ野菜と、よく解された鶏肉の粥が湯気を立てている。
「どうぞ。お腹が空いているでしょう」
隊士が少女の目の前に膳を置く。だが、少女はピクリとも動かなかった。目の前に置かれた粥を見つめつづけている。
少女にとって食事とは、他者から力ずくで奪い取るものだった。泥に塗れながら誰にも取られぬよう喰らいつくすのが彼女の知る食事である。なぜ、誰も何も奪おうとしない。ただ、温かな匂いをさせるものが、自分の目の前に差し出されている。これを食べたら、何かを差し出さなくてはいけないのか。体を硬くする様子から察した彼は、自ら匙をとると、粥を少量すくって彼女の口へと運んで見せた。
「一口だけ、食べてごらんなさい」
意を決したように小さな口を開け、おそるおそるその匙を含んだ。舌の上に広がったのは、熱さと、じんわりとした甘み。噛む必要すらないほど柔らかく、喉を通って胃の中へと落ちていく温かな心地よさ。少女の瞳が、大きく見開かれる。気づけば、涙がボロボロと溢れ落ちていた。
彼は、必死に飲み込む少女の頭に、そっと大きな手をのせた。
「ゆっくりでいい。誰も奪いはしない」
溢れた涙が頬を伝い、着物の胸元に小さなシミを作っていく。ただ、胃を満たしていくその熱が、自分が確かに生きているのだと突きつけていた。二人は、少女が最後の一滴まで粥を平らげるのを静かに見守った。器が空になると、首がぐらりと揺れる。空腹が満たされ、眠気に抗えないままにうつらうつらとしている。そのまま畳へと倒れ込みそうになった体を、彼がそっと受け止める。抱き上げた小さな体は驚くほど軽く、すでに寝息を立て始めていた。起こさないよう注意しながら、部屋の奥に敷かれた布団の上に横たえる。その寝顔は、ただのあどけない幼子の顔だった。完全に眠ったことを確認すると、彼は静かに立ち上がった。足音を殺して部屋の外へ移動すると、二人は静けさの中で話し始める。
「それで、一番隊はこの子をどうなさるおつもりですか?」
彼女の問いに、彼は障子の向こう側に視線を落としたまま、数秒の間、沈黙を守った。
「……あの幼子には、死神として素質があります。ですが、あの刀といい、未だ不明な点が多すぎるのも事実です。」
「さりとて、このまま流魂街へ送り返せば、更木で起きた異変が再発する恐れがある。放置は危険です。総隊長のお達しがあるまではひとまず四番隊で経過観察とし、動向を注視したいと考えております」
「……分かりました。この子の身体の不調も含め、こちらでしばらく預かりましょう」
卯ノ花は静かに頷き、いつも通りの柔らかな笑みを浮かべた。
夜が更けた一番隊執務室。
重々しい燭台の炎が揺れる中、山本元柳斎重國は、机上に置かれた刀を鋭い眼光で見つめていた。
「……長次郎よ。」
「現場の惨状、そして現場に残された霊圧の痕跡……ワシの見立てでは、あの男たちを切り裂き、命を奪ったのは幼子本人ではない。この刀の意志によるものだ」
元柳斎はゆっくりと髭を撫で、刀から漂う歪んだ気配の奥底を探るように目を細めた。
「刀が自らの持ち主を守るため、襲い来る郎党どもを斬り伏せた自衛行動。主に応え、霊力を引き出す様は死神と斬魄刀の繋がりに酷似しておる。だが、通常の浅打とは異なる異質なものだ」
「あやつは死神としての素質を持ちながら、その力を制御できておらぬ。扱いを誤れば、瀞霊廷にとっても災いとなろう」
「……総隊長」
長次郎が静かに口を開いた。
「あの者が真央霊術院に入学し、自らの力と心を律する術を学ぶその日まで──身柄の管理、および観察は私が引き受けます」
元柳斎がゆっくりと目を開け、側近の副隊長を見つめる。
「憐れみではございません。あのような危険な素質を持つ者を野に放つわけにはいかず、かといって芽を摘むには惜しい。なれば、この長次郎の目の届く範囲で御し、死神として総隊長殿のお役に立つか否かを見極めるのが最善かと。」
元柳斎は、ふっと短く息を吐いた。
「……好きにせよ。ただし、万が一その力がおのれの手を離れ、害をなす存在となれば、その時はお前が責任を持って斬り伏せよ。」
「──御意」
長次郎は深く頭を下げた。
数日後、傷の治療を終え、四番隊の隊舎から引き渡された私は、一番隊執務室──山本総隊長の前に連れて来られた。総隊長から「名を何と申す。」と静かに問われた。その時だった。背後から、誰かが囁いた。懐かしく、愛おしく、そして背筋が凍りつくほどに恐ろしい声。導かれるようにその声を辿り、私の口から自然とひとつの名が溢れ落ちていた。それが己の名なのか、あるいは別の何かなのかも分からぬまま。
「神代結碑螺。」
こうして神代結碑螺は、一番隊副隊長・雀部長次郎忠興のもとでその命を繋ぐこととなった──。
少女は己の力について、何も知らない。
その日から、私の日常は一変した。
