いずれ現実で再会を

 彼女と初めて会ったのは、僕がまだ聖都の兵営に居た時の事。

 大切な家族を、友人を、故郷を、全てを失った僕はただ只管に強くなる為、燻る復讐心の為、剣を振るっていた。己の昨日も捨てて。

「ファイノン、顔色が悪いがちゃんと休めているか?」
「う、うん!大丈夫、ちゃんと、休めてる…」

 それでも、あの日の光景が忘れられないで、毎日、あの日の夢を見ていた。皆が寝静まっている隠匿の刻に何度も起きて、上手く眠れない日々が続いた。そして平気な振りをして日々の訓練に参加して、また悪夢に飛び起きる。そんな日々を繰り返していたら、体調を崩すのも訓練に集中できなくて怪我をするのも至極当然だった。

「今日は安静にしててくださいね。あと、ちゃんと寝るように」

 兵舎で一人寝台に横たわる僕にそう医官が告げ、部屋から出ていくその背を僕はぼんやりと見つめる。最悪だ、体調を崩した挙句、無理して訓練に参加して怪我をするなんて。外から訓練を励む皆の声聞こえる。その声が僕に焦りを募らせた。強く、ならないといけないのに。こんな所で寝ている場合じゃないのに。
 でも、どうしたらあの夢を見なくなるか分からなかった。あの頃の僕は、誰かに相談することも分からなかったんだ。

 眠らないといけないと頭では分かっていても、あの夢を見るかもしれないと思うと眠るのが嫌だった僕は、ただただ寝台に横たわっていただけだった。自分の至らなさと、あの日の事と、様々な事が頭に浮かんでは沈んでいく。身体が疲れている状態でそんなことをしていれば、眠くなるのも当然で、僕の瞼は次第に下がっていく。あぁ、眠りたくない。

 ふと、聞こえていた声が、周囲の音が遅くなる。まるで、映像をゆっくりと再生しているかのように。何だろうと思って、僕が閉じかけていた瞼をゆるりと開けると、視界に色が無くなっていた。何が起きているかは分からなかったけれど、何か異常な事が起きている事だけは分かった僕は、眠気も吹き飛んで上体を勢いよく起こす。そして周囲を見渡してみるが、誰かが居るわけでも、何かがあるわけでもなかった。

「な、なにが…起きて――」
「眠れないの?」
「うわぁぁっ!?」

 突如として聞こえた声に、僕は驚いて寝台から転げ落ちてしまう。その拍子に頭を打ってしまった。痛みを堪える様に目を強く瞑り、頭を擦りながら起き上がろうとすると、「あ、ごめん。驚かせちゃったね…大丈夫?」と鈴として透き通るような声が近くで聞こえた。薄らと目を開けその人の姿を捉えた僕は、大きく目を見開く。
 夜空の色を持つ美しい髪がさらりと肩を流れ、落ちる。閉じられた瞼は開く事は無く、ただ長い睫毛が目元に幽かな影を落としている。透き通るような白い肌が、腕が、手がこちらに差し出されている。僕はその人に――その女性に、目が離せなかった。

「…?ねえ、大丈夫?睡眠不足で脳が働いてないの?」

 その言葉と共に彼女は僕の腕を掴み、引っ張って起き上がらせる。されるがままに起き上がった僕は、勢い余って彼女に打つかってしまった。ふわりと鼻腔を擽る甘い香りに、見上げたすぐ先に彼女の顔があることに、僕の身体は瞬時に熱を持つ。そのせいか、それとも元々だったのか僕を掴んでいた彼女の手は、酷く冷たく感じた。

「ご、ごめん……あれ?」
「どうしたの?」
「色が、ある…」

 そこで漸く僕は、彼女と僕に色があることに気が付いた。周囲は未だ色がないと云うのに。ここは一体何なのだろう。彼女なら何か知っているだろうか、そう思って僕が口を開く前に、彼女が先に口を開いた。

「ここは、夢と現実の狭間…のような空間」
「え…?」
「私と私が許可したモノ以外は、入室を許可されていないから色が無いの」

 そう言いながら彼女は僕の腕から手を放し寝台に座り、僕にも座る様に促す。おずおずと彼女の隣に腰を下ろして、ちらりと彼女を見ると、僕が見ているのが見えているかのように、彼女は顔をこちらに向けた。な、なんだか変に緊張する…。

「ねえ、貴方の名前を聞いてもいい?」
「え…?あ、うん。僕は―――エリュシオンのファイノン」
「……そう、ファイノン……」
「……ね、君は?」
「私?私は…観測者。観測者の―――」

 ほんの少しだけ悲しい表情をした気がした彼女は、そう言って続けて名を名乗る。名前の前に言った謎の称号に、僕は頭に疑問符を浮かべてしまう。観測者、観測者?観測…もしかして彼女は学者か何かなのだろうか。顎に手を当てて少し思案した後に彼女を見やれば、彼女は小さく微笑んでいた。その表情に、どうしてか心臓が高鳴り僕は息を呑んだ。

「ふふ、観測者が何か考えているの?」
「―――……」
「…?ファイノン?」
「っあ、ごめん…えっと…そう!観測者って何かなって…考えてたんだ」
「ふふ、そう……。私は、別の場所からこの世界を観測しているの。だから観測者、分かりやすいでしょ?」
「別の、場所…?それって――」
「どこかは教えられない。そういう制約だから……本当は貴方とこうして話すのも、あまり良くはないのだけれど」

 そう言って苦く笑った彼女は俯き、さらりと垂れた髪が目元を隠す。本当は良くないのに、どうして彼女は僕と話すことをにしたのだろうか。思ったままに聞いてみると、彼女は顔を上げて僕の方に顔を向ける。

「……貴方が、ちゃんと眠れていないようだったから」
「……!」
「睡眠は大事だよ、ちゃんと取れていないと……また今回と同じような事が起きる。そしてそれは、今回よりももっと酷く」

 その言葉に、今度は僕が俯く。彼女の言う通りだ。この状態が続けば、いずれ今回よりも酷い状態に陥ってしまうだろう。最悪、死んでしまう可能性だってあるのだ。でも、どうしたらあの夢を克服できるのか僕には分からなかった。自然と膝に置いてある拳に力が入る。本当に分からない、知らないんだ僕は。だって今までで一度も、こんな事、なかったんだから。
 ぐるぐると、どうしたらいいか考えて、答えに行き着かなくて焦って、拳をさらに強く握る。僕は、ぼくは――。
 そっと拳に、嫋やかな手が触れる。壊れ物を扱うようなその手つきに、僕は顔を上げ彼女を見つめる。その表情には慈愛の色が見えた。

「悩みがあるのなら、誰かに打ち明けるのが良いんだよ。一人で抱え込めば抱え込むほど、それは鉛となって心の奥底に沈んで…積もっていくから」
「―――ぁ…」
「それにここは…私と貴方以外居ない。聞き耳を立てる人なんて居ないの」

 「だから、ね?」と彼女は眉を少し下げて微笑む。初対面の人に己の胸の内を打ち明けるのは、少し…いや、大分躊躇いがある。あぁ、でも、世界を観測している彼女からしたら、僕はただの観測対象でしかないのかもしれない。それは少し寂しいと思ってしまったけれど、だからこそ話しやすい相手ではあると思った。そして、話すことであの夢を見なくなるなら、話してもいいとも思った。
 何度か逡巡した後に、己の拳に視線を落とした僕は口を開き、ぽつりぽつりと語った。夢を――大切なモノを目の前で奪われていく、あの日の夢を見る事。それが酷く鮮明で、実際に今目の前で行われていると錯覚してしまう程で飛び起きてしまう事。それから――他の事も。
 本当は夢の事だけを打ち明けるつもりだった。でも、彼女があまりにも真摯に受け止めてくれるから、気が付いたら僕はあの日から抱えていたものを吐き出していた。
 守りたかったのに守れなかった故郷の事。僕みたいな凡人が神託に選ばれた事。僕なんかが英雄になんてなれるのか不安な事。本当は、あの黄金の麦畑でのんびりとしていたい事。でももうそれも出来ない事。アグライアやトリビー先生達にも言えなかった事を、赤裸々に彼女に語る。触れていた彼女の手は、溶け合うかのように同じ温かさを持っていた。
 泣きたくなるのをぐっと堪えて、僕は無理に笑う。泣きそうな顔を誤魔化すために。泣く資格なんてないから。誰一人として守れなかった、あの地に”僕”ごと全てを置いていった僕に。
 視線を彼女に移せば、彼女は酷く悲痛な表情を浮かべて僕を見ていた。どうして彼女がそんな顔をするのか分からなくて、僕は思わず目を丸くする。

「ど、どうし―――」
「ファイノン。貴方はまだ、哀惜の中に居るんだよ。それなのに…無理に笑う必要は無いよ」

 彼女は拳に添えていた手を離し、そして僕の手を優しく持ち上げて両手で包み込んだ。彼女は、僕を思って心を痛めている。だから、あんな表情をしたのだと分かって、目の前が滲んでいく。泣いちゃ、駄目だ。

「…だっ、て……ぼく、は……泣く、資格なんて――」
「泣く事に、資格なんて必要ない、泣きたいと思ったら泣けばいい。それで誰かが責める事なんてないんだよ。それに……泣きたい時に泣かなくて、一体いつ泣くというの?」
「そっ、れは……」

 彼女が僕の名を優しく呼びながら、僕の頭を抱き寄せた。彼女のゆっくりとした心臓の音が、聞こえる。

「……もし、それでも泣く気がないと云うのなら…そうだな…ここを夢の中だと思って。夢で泣いたとしても、現実では泣いていないという事になるでしょ?」

 少し暴論すぎやしないか。なんて口にするつもりだったけれど、言葉を紡ぎながら僕の頭を撫でる彼女の手つきが、いつかの母さんと重なって僕の瞳に溜まっていた涙が、ひとつ 零れる。
 堰を切ったかの如く、僕の瞳から次々と涙が零れていく。止まれ、止まれと、何度か強く思ったけれど、堰き止められた水が一度溢れ出したら止められない様に、一度流れてしまった涙は止まることを知らない。最初は声を上げない様にしていたけれど「誰も聞いていないから、声を出して泣いても良いんだよ」と彼女が優しくそう言って僕の背をあやす様に撫でるので、気が付けば嗚咽を上げながらわんわんと泣いていた。
 こんなに声を上げて泣いたのは一体いつぶりだろうか。そんなことを頭の片隅で思いながら、ただただ、僕は彼女の腕の中で泣き続けた。 

 気が付けば、僕はぐっすりと眠っていた。あの夢を見ることなく、以前よりも心が軽やかになって。


「よく眠れた?」

 次の日の隠匿の刻。僕が寝台に寝転がる前に、彼女はまた僕に会いに来てくれた。

「うん!君のお陰だよ、ありがとう!」
「そう、よかった」
「それに、前よりも少し…心がスッキリした気もする」
「そうなの?それはきっと、貴方が私に色々と打ち明けてくれたお陰ね」
「ううん、君が、教えてくれたお陰だよ…だから…その……」
「うん?」
「また、君と喋りたい…駄目、かな」
「……!ふふ、駄目なんかじゃないよ。そうだな…私と喋りたい時は私の名前を呼んで」

 「そしたら会いに行くから」そう言って柔らかい笑みを零した彼女を今でも鮮明に憶えている。
 それから、本当に彼女は僕が名前を呼べば必ずその日の内に会いに来てくれるようになった。僕はそれがとても嬉しくていつも楽しかった事、驚いた事、彼女に聞いて欲しい事、聞きたい事、沢山の事を話した。


「ね、観てた?僕、大地獣に一人で乗れるようになったよ!」
「うん、観てたよ。凄いね、流石ファイノン」
「えへへ!」


「このクッキーとっても美味しいから、君に食べてもらいたかったのに…」
「ごめんね、ここは人以外は来られないの……ちなみに、クッキーって…キメラクッキー?」
「?うん、そうだよ。いいよね!キメラ型のクッキー!」
「……………そう…えっと、アグライアにも勧めてみたらどうかな」
「たしかに!アグライアにも勧めてみるよ!」

「そんな……キメラってあんなに美味しい物食べてるのかい…!?」
「………(あぁ、やっぱ気が付いてなかったんだ…)」


「今度、シタロースに鑑定について教えてもらうんだ!」
「ふふ、そうなの。じゃあ、一流の鑑定士になる前に、私の髪飾りを鑑定してみてほしいな」
「え?どうしてだい?」
「この髪飾りには、本物と偽物の宝石が埋め込まれてるの。しかも、並みの鑑定士じゃ区別が付かない位に巧妙な偽物がね」
「へぇ…!分かった、それをちゃんと区別出来たら、僕も一流の鑑定士、ってわけだ!」
「ふふ、そういう事」
「ん?でもなんで、わざわざ偽物が埋め込まれてるの?」
「え、うーん…趣き?」


「見て!この服、僕の好きな色が全部入ってるんだ!」
「あ…っと……うーん、と…げ、芸術的、だね…」
「ほんと?」
「う、うん…!アグライアにも見せてみてね…!」
「うん!」

「なんでか分からないけど、色の授業をしたよ。なんでだろう…?」
「……そう、だね…なんでだろうね…(センスが壊滅的だったから、だなんて言えない…)」


「……ねぇ、君は…本当に、こちらには来られないの?」
「うん。私の肉体が別の場所にあるから」
「そっ…か」
「………新しく出来たカフェの料理、とても美味しそうに食べてたね。もしかして、一緒に行きたかったの?」
「……うん。君にも食べてほしくて…」
「ふふ、ありがとう。気持ちだけでも、とても嬉しいよ」


 そう、沢山の事を彼女と話した。
 ―――僕が他の人に言わなかった心の内も。

 紛争の咆哮を初めて聞いた時。ふと、本当に英雄になんかなれるのかと不安になった時。やはり、未だに見るあの悪夢を見た時。仲間を、助けられなかった時。紛争の火種を手に入れた時。その試練を受けた時。フレイムスティーラーと対峙した時。僕が背負いの火種を継ぐ者だと民会で言われた時。アグライアが亡くなった時。
 僕の気持ちが沈んでいる時は、彼女は必ず会いに来てくれた。名前を呼んでいてもいなくても、絶対に会いに来てくれて、そして寄り添ってくれる。そしてそれは―――今、この時も。


 一つ、瞬きを落とす。目の前の、トリノン先生の、シーフ――ザグレウスの、プライベートルトロの色が無くなり、聞こえていた戦火の音も人々の騒然たる声もゆっくりと流れる。

「――ファイノン」

 後ろから聞こえる彼女の声に、僕が名を呼びながら振り向けば、いつもの凪いだ表情の彼女が僕の近くまでやってくる。初めて会った時は僕が見上げていたのに、気が付けば僕が彼女を見下ろす様になっていた。僕の目線より下にある彼女の顔を見やる。

「やっぱり、来たんだね」
「うん、あまりにも、多くの事が一度に起きすぎているから」

 そう言いながら、彼女は僕の手を掬って両手で優しく包み込む。彼女はいつも、こうして接触を以ってして僕の心に寄り添ってくれる。こうしてくれる彼女に、どれだけ僕は救われただろうか。
 いつだって僕の話を聞いて真摯に受け止めてくれる。僕と一緒に悲しんで、悩んでくれる。僕の憂いに関して、彼女は否定もしなければ肯定もしないけれど。でも、それが却って僕の沈んだ心を和らげてくれていた。彼女は僕の心の支えで、大切な――愛しい人。
 いつからか――いや、多分最初から、僕は彼女の事を一人の女性として見ていた。一目惚れ、だったんだと思う。そんな人に、こんなに尽くしてもらって、嫌いになる方が難しいというものだ。彼女と関われば関わる程、どんどんと好きになっていった。好きになりすぎて、一時期彼女を避けてしまう程に。
 けれど、例えこれでお別れだとしても、僕は彼女に想いを告げる事は無いだろう。なにせ、彼女が僕に気が無いのは火を見るよりも明らかだったから。

 いつだったか、僕が躓いて彼女を押し倒してしまった事があった。その時の僕は熟した林檎の様に真っ赤だろうと、自分でも分かるぐらい顔が、全身が熱かったのに彼女は顔色を一つも変えず、まるで子猫にじゃれ付かれているかの様にくすくすと笑っていた。きっと、彼女の中での僕は初めて会った時と変わらず、幼子のままなのだとその時に理解してしまった。
 この想いを捨ててしまった方がいいかもしれないと、思った時期もあった。けれど、その思いとは裏腹に彼女への想いは日に日に増していくばかり。だから、寧ろ吹っ切れて彼女に積極的に好意を示していたけど、終ぞ気付かれることは無かった。

「僕はこれから、ケファレの火種を返還して、それを継ぐよ」
「……そう」

 彼女は俯き、そのまま口を閉じる。いつもと、少し様子が可笑しい彼女に僕は眉を寄せる。どうしたのだろう。体調が良くない?何か、思い悩んでいるようにも―――。

「ねぇファイノン」

 彼女が顔を上げる。どこか意を決したような、そんな表情をしていた。彼女は僕の手をきつく握る。

「ここから、出よう」
「え…?」
「ここから出て、外へ――天外へ行くの。火追いの旅も、再創生もない、そんな世界へ」
「なにを、言って」
「だから―――」

 どうして彼女がそんな事を言い出したのか、分からなかった。何が彼女にそう言わせているのか分からなかった。けれど、手を離して一歩下がった彼女が、僕の前に手を差し出した時、その表情を見て理解した。

「お願い、ファイノン。私の手を取って」

 いつだって彼女は僕を思って言葉を紡いでくれていた。だから、悲痛に歪めるその表情だって僕を思っての事だと、僕は知っている。
 皆に託されたモノを、全てを背負う僕に、彼女は唯一の逃げ道を示してくれたのだ。それがどうしようもなく嬉しかった。

 そんな思いを噛み締めて、僕は一歩下がり緩く頭を振る。僕の反応に、彼女は息を呑み「そう」と小さく呟いた後口を噤む。

「気持ちは、嬉しいよ。でも、ごめん。僕は――前へと進まなければいけないんだ」
「……その先に、貴方自身の破滅が待っていたとしても?」
「だとしても、僕は行くよ」

 だってもう――トリアン先生もアナイクス先生もアグライアもモーディスもサフェルさんも、居ない。もう居ないんだ。僕しか、この先に進める者は居ないから、だから僕がやらなくちゃいけない。皆の想いを背負った僕が。例えこの先に、何も無かったとしても。

「……やっぱり貴方は、直向きに前へと進む人だね。そこが、素敵ではあるけど」
「あはは、ありがとう」

 悲しさを含んだ笑みを浮かべて二歩前へと進んだ彼女が、僕の背にそっと手を回す。少し心臓が騒がしくなったけれど、僕も同じように彼女の背に手を回す。そして、僕よりも小さくて華奢な彼女をきつく抱き締める。きっとこれが、最後の抱擁となるから。

「ファイノン」
「うん」
「どうか、悔いのない選択をするんだよ」
「…うん」
「……貴方が悲しかったら私も悲しいし、貴方が嬉しかったら私も嬉しいんだ…だって、私にとって貴方は―――……」

 そこまで言って彼女は押し黙る。どうしたのだろうか、そう思って彼女の顔を見る。いつもの凪いだ表情…いや、少し眉が下がっている気がするし、顔が、少し、赤い…?

「…やっぱりなんでもない」
「え…!?そこまで言って⁉流石に気になるよ…!」
「ふふ、だったら…次、また会った時にでも聞いて」
「……!」

 優しく微笑みそう言った彼女に、僕は目を見開く。次、次なんて…。

「…僕は、君を憶えていないかもしれないんだよ」
「その時は、私が思い出させてあげる」
「……僕が、僕ではなくなっているかもしれないよ」
「そうだね。でも、だとしても、それがどうしたと云うの?貴方は貴方だよ、どんな貴方でも」
「っ……ぼ、くが…この世に、居ないかも――」
「貴方の魂がある所まで会いに行くよ」

 今度は彼女が僕をきつく抱き締める。僕は思わず肩を跳ねさせてしまったけれど、ゆっくりと、しかしてしっかりと彼女と同じぐらいの強さで抱き締め返す。ずっと触れ合っていたから、身体が同じ温かさになっている。まるで、一つに溶け合ってしまったかのように。

「例え貴方が太陽になろうとも、人ではなくなろうとも、形がなくなろうとも…貴方の魂がある限り」
「……」
「必ず貴方と再会を果たし、私はまた…貴方と抱擁を交わすの」

 「だから、この抱擁を最後だと思わないで」力強く、彼女はそう言った。まるで、僕たちの再会が必ず訪れると分かっているかのような、そんな言い方。
 本当に再会出来るかなんて分からない。けれど、きっと彼女は例え出来ないと分かっていても、会いに行く方法を探してくれて、それで……本当に会いに来てくれそうだな。そう思うと嬉しくて頬が緩むと同時に、鼻の奥がツンとする。

「……うん、もう思わないよ」
「それなら、よかった」

 そっと、彼女は離れる。名残惜しいけれど、もう、行かなければいけない。

「…最後まで観ているから。だから…もし、心変わりをしたら呼んでね。すぐに連れ出してあげるから」
「…あはは、それは頼もしい…のかな?」
「ふふ、どうだろう。でも、頭の片隅にでも置いていて」
「うん、ありがとう」

 少し悲しそうな表情の彼女が、軽く片手を上げる。別れの時間だ。

「……それじゃあ…またね、エリュシオンの――――」
「…!」

 悲しそうな笑みで彼女は僕の名を呼んだ。僕が故郷に置いてきた名を。あぁ、そうか、君はずっと…僕の事を見ていたんだね。泣き出しそうになるのを、なんとかぐっと堪え笑みを作る。そして、僕も彼女の名を呼んで、再会の意味を含んだ言葉を紡いだ。

 そうして、一つ、瞬きを落とせば、色も音も全てが元通りとなる。

 トリノン先生に少し心配されてしまったけれど、大丈夫であることを伝えて、胸に手を当て一つ深呼吸をする。もう、覚悟は出来ている。彼女のお陰で少しだけ軽やかになったその足で、僕は、創世の渦心へと――――。





 最初、ファイノンに近づいたのはただの同情からだった。どう足掻いても破滅へ向かう彼が苦悩しているのを見て、可哀そうだと思った。だから、少しでも心穏やかに破滅に向かうことが出来たならば、と思っただけだった。

 そう、ただそれだけだったのに。

 気が付けば私はファイノンの事を観ている時の方が多くなった。制約で出来る事が限られている中、彼の為に出来る最低限の助言をするようになった。時折、同業者から忠告を貰いながらも、出来る限りの手助けもした。


 いつからか私は、彼の幸せを願うようになったんだ。

 ファイノンが幸せそうに笑う姿を、楽しそうに戦友と手合わせする姿を、嬉しそうに人々と会話している姿を見る度に、彼がずっとそうであれば良いのにと思うようになった。

 だから、星穹列車があの地に行くことになって、私はとても喜んだ。彼等の介入であの地に巣くう闇が、暴かれ断ち切られる可能性が高かったから。いや、それよりも―――ファイノンが幸せになる可能性が少しでも見えたから。

 でも、それでも、やはり火追いの旅は終盤に差し掛かり、終末は訪れてしまった。彼が、背負う時が来てしまった。だから、だから私は彼が彼のままでいるうちに外へ連れ出そうとした。彼に蔓延る全てを取り払うことが出来る力を持っていたから。彼が破滅に向かうその様を見たくなかったから。でも―――彼はやっぱり私の手を取らなかった。彼は、強い人だから。そこが愛おしいと思うと同時に、少し、寂しくもあった。



 意識が肉体へと戻ってくる。机に伏せていた頭をゆるりと上げて、窓の外にあるそれを見る。
 虹色に輝くメビウスの輪のような環。その交点には一等輝く何かがある。あの世界について彼女等は何処まで知れただろうか。そろそろ、私に助力――ほぼ意味の成していない――を求めに来る頃だろうか。片隅であの世界を観測しながら、ぼんやりと窓の外を見ていると。
 丁寧に三回、部屋の扉がノックされ私の名を呼ぶ声がする。「どうぞ」と声を出したと同時に部屋の扉が開かれた。

「あら、戻って来ていたのね」
「うん、そろそろ呼ばれるかなって」
「ふふ、流石あんたね。その通りよ」

 椅子から立ち上がり、廊下へと向かうさらりと靡く赤い髪を追う。やっぱり呼び出された。それならば、話を円滑に進めるために、あの亜麻色の髪を持つ彼女の方も観測しておくべきか。

「何処に居るんだったっけ」
「確か…ステーションの封鎖部分、だったかしら」
「分かった……ごめんね、あんまり手助けできなくて」
「いいのよ、あんたには制約があるでしょう。制約違反であんた自身が消えたりでもしたら、私達は悔やんでも悔やみきれないわ。それにそれは、私達の本望でもないのよ」
「…そう、だよね」
「……あまり気負いすぎないでね」
「うん、ありがとう姫子」

 姫子に背を向け、私はアンカーを使って宇宙ステーションへと向かう。
 私は観測者の制約で出来ないことが多い。その中でも、辛うじて違反にならないように試行錯誤して、彼女――ヘルタに、天才達に情報を与え助力をする。それが、私が今できる最大限の事。本当はこの身が消えて無くなったとしても、あの世界について教えてしまいたいけれど、姫子にああ言われてしまえば…なにより、ファイノンと再会の約束したのだから、そんな事は出来ない。
 ふと、ステーションから見える広大な宇宙を見つめる。

 私達はいずれ現実で再会を果たすだろう。確証はないけれど、そう確信している。けれど…私は祈らずにはいられない。


 どうか、どうか―――再会を果たすまでに、魂もろとも居なくならないで、私の愛しい人。


 どの星神に捧げるべきか分からない祈りを。





〇補足〇

観測者
多分、浮黎あたりの派閥。お目目を宇宙と接続し、目を閉じる事で数多の世界を観測する事が出来る代わりに、様々な制約に縛られている者達。制約は極力傍観者でいるような内容が多い。因みに違反した者は、その重大さによっては肉体を失い宇宙と同化してしまうこともある。
観測者全員、体を弄り人間ではなくなっている。殆どが人前に姿を見せない。

夢主
観測者 兼 ナナシビト。なんかヤベェ世界があるって聞いたから観に行ったら本当にヤバかったし、気が付いたら観測対象を好きになってた。割と観測者になって年数が経っているので、制約の穴を熟知している。制約を改正する人が助言を求めに来るぐらいには。
己が眼でその景色を見たいと思うタイプ。観測者にそういうタイプは少ない。だからナナシビトになった。ただ、武力は無いので基本的に安全になるまで列車に居る。

ファイノン
夢主に一目惚れした。自分が弱っている時には絶対傍に居てくれるし、しかも夢主が無自覚に「貴方だけだよ(意訳)」なんてよく言うので、抜け出せないくらいに好きになる。今回の話では垣間見えなかったけど、愛が重い。
最初、夢主が本当に存在しているか疑っていた、というか途中まで自分が見ている幻覚か何かだと思っていた。だから、そうじゃないと知った時すっごい喜んだし、嬉しくてひっそりと泣いた。

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