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運命はきっと左利き

 島野とその例の後輩との出会いは三ヶ月ほど前に遡る。
 桜舞い散るうららかな春の日。期待に胸を膨らませた新入生たちが続々と校門をくぐっていくのを、島野は彼らの遥か頭上、屋上のフェンス越しに見下ろしていた。どいつもこいつも幸せそうな顔しちゃってさあ、などとお得意の嫌味を心の中で呟いて、蟻のように群がる生徒たちを無感動に眺める。

「そういやお前聞いたか?今年の新入生に、一人『バケモノ』がいるって噂」

 島野の足元に座り込んでパックジュースを啜っているのは友人の伊沢だ。人懐こそうな目元を好奇に染め、ストローを咥えたまま島野の方を見上げている。

「何それ。つーかバケモノってどういうワードチョイスだよ」
「何でも入試はオール満点。加えてスポーツの方も死角なしで、中学の頃はフェンシングで世界大会にも行ってるってハナシ」
「フェンシングぅ?そりゃまた随分とけったいなスポーツを嗜んでらっしゃるんだな」

 伊沢は「ちょっと面白そうだろ」とにやにや笑ってみせているが、島野はこの男もそのバケモノ相当のキレ者であることを嫌というほど知っているので、それ以上何も言わなかった。
 公立校とは言え県内屈指の進学校である自校の入試で満点を取ったのは、何もそのバケモノ新入生くんが初めてではない。厳密に言えば、二年前にも二人ほどいたのだ。何を隠そう、島野と伊沢の不真面目コンビである。

「まず間違いなく良いとこの坊ちゃんだろうに、それがまたどうしてこんなふっつーの公立校に来たのかねぇ」
「まァ偏差値だけは高ェけどな」
「何にせよ、俺はそいつに赤丸チェックしてんの。つー訳で、今から入学式に乗り込みに行くからお前も来い!」

 伊沢はシュバッという効果音の聞こえてきそうな機敏さで立ち上がると、「はぁあ〜〜?」と全力で抗議の声を上げた島野の手を引いて、そのまま勢いよく駆け出した。
 心底楽しそうに笑いながら跳びはねるように階段を下りていく伊沢の背を、島野は諦めと共に遠い目で見つめる。こうなった伊沢を振り切るのには相当な体力を使わねばならないことを既に学習しているからだ。大きな溜息をひとつ落として、島野は無心で転んでしまわないよう足を動かすことに専念した。
 がっちりと掴まれた腕をほどくことも出来ずに、なし崩し的に連れてこられた体育館。少しだけ開いたままになっている扉の隙間から、伊沢が館内の様子を伺う。声を潜めて「ほら、あれだよあれ」と壇上を指差し、波多野を手招いた。一目見るまで帰さないとでも言いたげな伊沢の視線に負け、島野は緩慢な動作で壇上へと視線を滑らせた。
 そこに、"彼"がいた。
 新入生代表として流れるような挨拶をする一人の生徒。遠目からでも、その異常なまでに整った造形はありありと見て取れた。ぴん、と美しく伸びた背筋から、すらりとしなやかな四肢が伸びている。歳の割に発育の良い体躯と、まだほんの少し幼さを残した頬の線のギャップが印象的だった。切れ長の瞳は理知的な光を湛え、形の良い鼻筋と薄い唇が白い肌の上に完璧に配置されている。
 十八年間生きてきて、島野は初めて「美しい」だとか「綺麗」だとかそういった形容詞が男性に送られることの意味を知った。彼の纏っているのは、女性的で繊細な柔らかな美ではなく、少年が青年へと変わるその孵化の瞬間にのみ現れる美しさだ。

「……島野?」

 両の目を見開いたまま微動だにしなくなった同級生を訝しく思った伊沢がその肩を揺さぶるまで、島野は瞬きすることすら忘れ、壇上の一点をただひたすらに見つめていた。
 件の新入生が、それまでろくすっぽ島野の耳に入っていなかった挨拶の終わりを告げると、波多野ははたと我に返った。

「以上、新入生代表、瀬戸礼二」

 瀬戸礼二。せとれいじ。セトレイジ。
 飴玉を転がすように、彼の名前をリフレインする。たった五文字のその言葉が、島野の胸に妙につかえたような気がした。
 拭いきれない違和感を燻らせたまま、島野の瞳は席に戻る瀬戸の姿を追い続けた。
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