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ミス・イエスタデイ

 『アイドル』という存在がそれを目にする者にもたらす影響について、鷺沢文香は未だ明確な答えを見つけられないままでいる。
「ファンレターって、ラブレターみたいなものよね」
 今しがた受け取ったばかりの一通の手紙を手に、隣のソファに腰掛けている奏が詩人のように言った。
 その意図をうまく汲むことができず、文香は読んでいた本のページから奏の横顔へと視線を移し、彼女の次の言葉を待つ。事務所備え付けのペーパーナイフをペールブルーの封筒へ走らせながら、奏は言葉を継いだ。
「だって、そう思わない? ほら、見て。この手紙だって、速水奏というアイドルに対する熱い思いが、こんなにたくさん綴られて……」
 奏はすらりと伸びた白い足を組み直し、隣に座る文香の顔を覗き込む。
 奏が手にしているのは、アイドルとしてデビューしてから彼女が初めて受け取ったファンレターだ。夕方からの仕事に備え、共演者である奏と事務所で待機していたところ、つい先ほどプロデューサーが彼女へ預けていったのだった。
 便箋に並んだ丸い文字を白い指先でなぞりながら、奏はうっそりと呟く。
「『初めてライブを見た時から、ずっと応援しています』、『大人っぽくて綺麗な奏さんに憧れています』。差出人は中学生の女の子だけれど……これは、まごうことなき愛の言葉でしょう」
 奏よりも先にデビューしたということもあり、文香はこれまでに何度かファンからの手紙を受け取っている。ただ、そこに並ぶ賛辞の言葉をどう受け止めるべきなのか、考えあぐねているというのが正直なところだ。
 「あなたの笑顔を見ていると元気が出る」とか、「明日も頑張ろうと思える」とか、そんな言葉を掛けてもらえるのはとても恵まれていることだと思う。けれども、その熱意をどう処理していいのか、文香はデビュー以来密かに頭を悩ませていた。
 もともと自分から志望して進んだ道というよりは、スカウトされてなるようになったという方が正しいというのも、判断に困っている理由かもしれない。
 そんな具合だったから、奏の言うようにファンの声を「愛の言葉」などと意識したことは一度もなかった。ゆえに、恍惚の色を乗せた奏の声に応える言葉は、文香にはまだ見つけられない。
「愛、ですか……」
 子どものように鸚鵡返しをするだけの文香に、奏は「文香もそのうち分かるようになると思うわ」と曖昧に笑って、再び視線を手元の便箋へと戻した。
 それと同時に、事務所にも沈黙が戻る。仕事の入り時間まではまだあと四十分ほど猶予があったので、文香は膝の上で開きっぱなしになっていたハードカバーを持ち上げた。
 そのまま暫くページを捲っていると、ふと脳裏にひとつの古ぼけた封筒の影が浮かび上がって、文香は思わず手を止める。過去の自分が覗いてしまった、密かな想いのかたちを思い出す。
――そうだ、確か、あの手紙は。
「……ラブレター、と言えば。奏さんとお話ししていて、思い出したのですが……私、実は以前、ある一人の女性の綴ったラブレターを読んでしまったことがありまして……」
 目まぐるしく過ぎるアイドルとしての日々の中で忘れかけていた記憶が、古いビデオテープの巻き戻し再生のように、文香の瞼の裏へ一気に蘇ってくる。
 それは、文香がアイドルとしてステージに上がるようになる、ちょうど一年ほど前の夏の日のことだった。



 昼下がり、古書店のカウンターでページを捲っていた文香へ声を掛けたのは、一人の若い女性だった。
「すみません、本の買取をお願いしたいのですが」
 年の頃は二十代後半かそこらだろうか。大きな紙袋の取っ手を掴む左手の薬指には、真新しそうな銀色の細い指輪が光っている。
「その、店長は昨日から体調を崩してしまいまして、お店に出られなくて……大変申し訳ありませんが、復帰次第の査定でも問題ありませんでしょうか」
 世話になっている店長――文香の叔父は、流行りの風邪で昨日から寝込んでいる。もともと本を売りに来る客はあまり多くなく、雇われの身である文香には、女性の持ち寄ってきた本の値段を決めることはできなかった。
 すみません、とおずおず頭を下げる文香に、女性は「いえ、大丈夫です」と微笑んでみせ、下げていた紙袋をカウンターへと下ろした。
「では、お手数ですがこちらにご住所とお電話番号をお願いできますか」
 カウンター上にペンとメモ用紙を並べると、女性はやや焦った様子で肩に掛けたトートバッグから手帳を取り出し、照れ臭そうにはにかんだ。
「つい先日結婚して、北陸の方からこちらの旦那の実家に越してきたばかりなんです。だからまだ住所を覚えていなくて……」
「それは……その、ご結婚、おめでとうございます。暫くはお忙しいかと思いますが、風邪も流行っていますし、ご自愛ください」
「ふふ、ありがとうございます」
 慣れない手つきで連絡先を記入しながら、女性がふとカウンターの上の紙袋へと懐かしむような視線を送る。
「……学生時代の古い本ばかりなので、値がつくようなものはないかもしれません。何となく捨てきれずにこっちまで持ってきてしまったんですが、どうしても本棚に入りきらない分が出てしまって」
「そうですか……きっと、たくさんの思い出の詰まった本たちなのですね」
 そう文香が微笑み掛けると、女性は「じゃあ、ご連絡お待ちしてますね」と笑顔で会釈をし、店を後にした。その背中へ「ありがとうございました」と声を掛け、後ろ姿を見送ってから、文香は女性の置いていった紙袋へと手を伸ばす。
 予めある程度中身を把握しておいた方が、叔父への言付けが円滑に進むだろう。そんな考えから、文香は紙袋に詰められた本たちを取り出して、カウンターへ並べていく。
 女性が預けていったのは、その殆どが文庫本だった。ジャンルは青春小説からミステリーまで幅広く、彼女が読書好きな性質であることが伺えた。
 彼女が先ほど言っていた通り、大体どれも十年ほど前に出版されたものばかりだったが、その中には現在でも人気のある作家の作品もちらほらと混ざっているようだった。
 詳しい査定は文香の仕事ではないが、叔父へ引き継ぐ前にざっと一通り状態を見ておくところまではやっておこうかと、一冊ずつ手に取ってぱらぱらとページを捲っていく。
「……とても大事に、されていたのですね」
 誰に言うでもなく小さくこぼして、そっとカバーを撫でる。年季は入っているが、どれもとても状態が良い。これならば、叔父もそれなりの値で買い取ってくれるだろう。
 紙袋の底に残った最後の一冊は、気難しそうなタイトルのハードカバーだった。表紙を見ただけでは内容の見当がとんとつかなかったが、どうやら理系の専門書のようだ。
 この一冊だけどうにも女性の趣味から逸脱しているように思えて、疑問を抱きページを送っていくと、最初の数ページ目に何かが挟まっているのが分かった。
――これは……手紙……?
 経年でやや黄ばみを見せている白い封筒には、宛名も差出人の名前も見当たらない。封もされておらず、電灯に透かして見ると、薄く便箋の影が見えた。
 当然、中身を読むべきではないのは分かっているのだが、何故だか無性に気になって仕方がない。どうしてかは分からないが、自分は今これを読まなくてはならないのではないか――。
 そんな衝動に抗えず、数瞬逡巡した後、文香は封筒からその中身を取り出した。



「……それで、その手紙はどうしたの?」
 それまで黙って文香の話に耳を傾けていた奏が、文香が口を噤んだタイミングでそっと問い掛けた。
「はい、それが……その後、その女性が代金を受け取りにいらした際に手紙のことをお尋ねしたのですが、もう必要のないものだから処分してください、と言われてしまいまして……」
「そう……でも、たとえ当の本人にそう言われても、なかなか捨てにくい代物よね」
「ええ、本当に。背景を知ってしまっただけに、その本も、お店に並べるのが何だか忍びなく……」
 あの夏の日、文香が手にしたその手紙は、女性が意中の相手への気持ちを綴ったであろう一通のラブレターだった。忙しない日々の中で隅に追いやられてしまっていた記憶だったが、文香はその手紙の文面を今でもしっかり覚えている。
『突然こんな手紙を渡してごめんなさい。
 卒業したらきっともうあまり会うこともないと思うので、最後に私の気持ちを伝えておこうと思います。』
 そんな書き出しで始まるその恋文は、恐らく、彼女が高校を卒業する際に相手に渡すはずだったものだろう。便箋には、整った筆跡で淡い恋のエピソードや進路の話が記されており、文香のてのひらの中で数年越しの思いを伝えていた。 
 その手紙を守っていた一冊も、持ち主のもとへ帰ることはできず、かと言って新たな主のもとへ送り出すにはやや気が引けるので、あの日以来、ともに文香の自室で静かに時を送るばかりとなっている。
「そのラブレターのお相手は、今頃どうしているのかしらね」
 それは明確な問い掛けではなく、空想に浸るような声色だった。奏の言葉に、文香はそっと瞳を伏せる。
「……今、あの手紙が、私のもとにあるということは。彼女の思いは、相手の方に伝わらなかったのかもしれませんね」
「そうね、その可能性も高いけれど……でも、本当のところは分からないものよ」
 奏は諭すような口ぶりで文香に優しくそう言うと、自身の左手首へと視線を滑らせ、「そろそろ時間ね」と席を立った。
 つられて、文香も掛け時計へと目線を上げる。懐かしい記憶に思いを馳せているうちに、知らず知らず次の現場への入り時間が迫っていたらしい。
「ああ、そういえば今日のバラエティの収録、共演者が変更になったんですって。さっきプロデューサーさんから連絡が入ってたわ」
 奏に促され手元の端末の液晶を確認すると、確かに一通のメッセージが届いている。
 メールを開封すると、共演予定だった俳優がスキャンダルで急遽出演キャンセルとなり、その代わりとして先日デビューしたばかりの男性アイドルユニットが出演することになったという旨が記されていた。
「新人アイドル同士、実りの多い収録になると良いのだけれど。行きましょうか、文香」
「……はい、よろしくお願いします」
 荷物を肩に掛け、いつもの不敵な笑みを浮かべた奏の後を追いながらも、文香は再び自身の心を件の夏の日へ潜らせていた。
 


 メイクや衣装の準備を終え、別の現場から直行してきたプロデューサーに連れられて、文香と奏はスタジオの控室へ案内された。テーブルに置かれているペットボトルのミネラルウォーターで喉を潤し、奏と共に番組の流れなどを軽く確認し合う。
 これから行われる収録は、「学校」をテーマとしたバラエティ番組の一コーナーだ。スタジオに数名の高校生たちを招き、彼らの悩みをゲスト達が解決するという内容で、奏や文香の所属する346プロからも既に何度か出演者が出ている。
 そうした中で、今回は駆け出しアイドルであり現役の高校生である奏と、学生たちよりも少しだけ人生の先輩である文香に声が掛かったらしい。
 バラエティ番組への出演はこれが初めてという訳ではないが、賑やかな雰囲気のスタジオセットの中でスタッフに求められた振る舞いをしなくてはならない収録は、文香にとってはまだまだ肩の荷が重い。不安からとくとくと速さを増していく心音を誤魔化すように、文香は席を立った。
「……あの、奏さん。少し、外の空気を吸ってきても良いでしょうか」
「まだ時間に余裕はあるし、行ってきた方がいいわ。文香、あなた随分青白い顔をしてる」
 気遣いの表情でそう返してくれた奏に会釈をし、ドアノブに手を掛ける。ぱたり、と小さな音を立ててドアが閉まると同時に、文香は胸の中に溜めていた息を吐いた。
 デビュー前よりは大分マシになったとはいえ、やはりまだまだ人前に出ることへの緊張感は拭いきれていない。首から掛けた名札の紐を、縋るようにきゅっと一度握り締めた。
 スタジオのエントランスを目指して廊下を進んでいくと、前方の曲がり角の方から賑やかな話し声が近付いてくる。
「それにしても、今回は本当にvery luckyだったよね! まさか突然決まったTVの仕事でstudentたちと共演できるなんて」
「うむ。代役とはいえ、こうして生徒たちの声を直接聞くことのできる機会を与えてくれたプロデューサーに感謝したい」
「いや~、たまたまスケジュールが空いてて良かったですねえ。深夜帯とは言え俺たち初の地上波出演が学生モノの企画って、ちょっと出来すぎてて怖いくらいじゃない?」
 人懐こそうな笑みを浮かべる金髪の青年と、その後ろを連れ立って歩く長身の男性が二人。それぞれ異なる雰囲気を纏った三人組が、角を曲がって文香の方へと向かってくる。
 今しがた聞こえた会話から、彼らが急遽出演が決まった新人アイドルユニットだと推測し、文香の四肢に僅かに力が入った。
 後ほど控室の方で正式に挨拶をさせてもらうことにはなるだろうが、一先ず軽く名乗るくらいはしておいたほうが良いだろう。段々と近づいてくる距離に、声を掛けようと文香は唇に力を込めた。
「あの、お疲れ様です。私――」
「Wow,ミスさぎさわ! Nice to meet you! 顔色が良くないみたいだけど、大丈夫かい?」
「……えっ?」
 擦れ違いざま、軽く頭を下げようとしたまさにそのタイミングで、金髪の男性がたたた、と文香の元へ駆け寄ってきた。
「こら、るい。初対面の相手にそんなに飛び付いたら驚かれちゃうでしょ」
「Sorry,ミスターやました。ミスさぎさわも、ビックリさせちゃったね。俺はS.E.Mの舞田類。今日はよろしく、ミスさぎさわ!」
 弾けるような明るい声でと共に差し出された舞田の右手を握り返し、「よろしくお願いします」と挨拶を返すと、薄いアイスブルーの髪の男性からも握手を求められた。
「同じく、私はS.E.Mの硲道夫。我々S.E.Mはデビューしたばかりの新人だが、生徒たちに対する情熱では他に引けを取らないと自負している。鷺沢さん、急に決まった共演ではあるが、今日はよろしく頼む」
 移動中に奏から教えて貰ったのだが、個性的なアイドルが多数在籍していることで知られる315プロ所属の新ユニットであるS.E.Mは、何でももともと教職に就いていた三人のメンバーで構成されているらしい。
 今回の仕事が彼らに回ってきたのは偶然の巡り合わせであるとは言え、これ以上の適任はいないのではないだろうかと考えると、やや運命めいたものを感じる。
「……鷺沢文香です。バラエティ番組は不慣れで、あの、とても緊張していて……ご迷惑をお掛けしてしまうかもしれませんが、本日は、どうぞよろしくお願いします」
 舞田や硲の挨拶を受け深々と頭を下げると、残る一人のメンバーである長身で茶髪の男性が、やや照れの混じった調子で後ろ髪をかき上げた。
「それにしても、さっきまで事務所で見てた映像で歌って踊ってたアイドルの子が目の前にいるって状況、未だに全然慣れないのよね……」
「何言ってるのさミスターやました。ミスターやましたもso coolでamazingなアイドルだよ!」
「たはは……ありがとね、るい。というわけで、二人と同じくS.E.Mの山下です。おじさんなるべく頑張るから、今日はお手柔らかにね」
 差し出された手を取ると、山下はもう一度気恥ずかしそうな笑みを浮かべた。ともすれば困り顔のようにも見えるその笑顔がとても印象的で、気負ったところのない柔らかい表情に、無意識のうちに強張っていた文香の肩からそっと力が抜けていく。
 それからすぐに目に入ったのは、彼の首に掛かっているパスだった。文香が下げているものと同じ、出演者であることを表す名札。そこには、彼の口からは出てこなかったフルネームが並んでいる。
「よろしくお願いします、山下、次郎さん……」
 大きくしなやかな指を握り返しその名を声に出した瞬間、文香の脳裏で記憶の風船がぱあんと大きな音を立てて弾けた。
 山下次郎、教師……それは、忘れかけていたパズルの答えが急に目の前に降ってくるような、そんな感覚だった。
――まさか、まさかそんなことが。
 逸る気持ちを抑えることもできず、衝動のままに文香は口を開いた。
「あの、S.E.Mの皆さんは、少し前まで学校の先生をされていたのですよね……?」
「Yes、そうだよ! 俺はEnglish,ミスターはざまはMathematics,そしてこっちのミスターやましたはScienceを教えるteacherだったんだ」
 仮説は確信に変わりつつあった。『事実は小説よりも奇なり』とはよく言ったもので、まさに今、文香はそのフレーズの意味を身を以て感じている。
 あの日、文香が女性から預かった文庫本の中に紛れていたのは――そう、化学の専門書だった。そして、便箋の冒頭に記されていた宛名は、山下のぶら下げている四文字と同じものだ。
 そこに思い至ると同時に、件の手紙に記されていた言葉たちが、解き放たれたように一気に文香の体の中を駆け回っていく。

『山下次郎様
 突然こんな手紙を渡してごめんなさい。
 卒業したらきっともうあまり会うこともないと思うので、最後に私の気持ちを伝えておこうと思います。
 クラスの友達はみんな「あんなだらしない奴のどこが良いの?」と口を揃えて言うけれど、私は山下君の笑顔が好きでした。少し困ってるみたいに眉を下げて笑う山下君を見ていると、何だか優しい気持ちになれたから。
 それに、委員の仕事で図書室にいる時は、分厚い本を読むあなたの横顔をよく盗み見ていました。知らなかったでしょう?
 一度だけ、あなたの読んでいた量子化学?の本を本屋さんで買ってみたこともあります。文系の私には何が何だかさっぱりで、結局最初の数ページで読むのをやめてしまったことも、今ではいい思い出です。
 風の噂で、教職を目指していると聞きました。山下くんなら、きっと良い先生になれると思います。
 いつか、私達が今よりずっと大人になった時にでも、またあの笑顔を見せてください。それでは、お元気で。』

「Hey,ミスさぎさわ。どうかした?」
 舞田に呼び掛けられ、文香ははたと我に返る。そして、再び衝き動かされるままに言葉を紡いだ。
「あの、山下さん……! その、山下さんの笑顔……とても、とても素敵だと思います。とても優しい、笑顔だと」
 伝えなければ、否、伝えたいと思った。彼女の想いと、アイドル・山下次郎への素直な言葉を。
 そうして、彼女の言葉を借りて、文香は初めて気付いた。誰かの笑顔に力を貰うということの意味と、そして、人々を笑顔にするのがアイドルという存在であるということに。
 急に声を張った文香を、S.E.Mの三人はやや呆気に取られたように見つめていたが、直に舞田がわっと歓喜の声を上げた。
「Exactly、ミスさぎさわ! それなのに、ミスターやましたってばいつもいつもさっきみたいに自信がないって言うんだ」
 舞田の大仰な台詞に、隣の硲もうんうんと頷いている。当の山下はというと、未だに鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、文香とメンバー二人の顔を交互に見つめている。
「あの、私……申し訳ありません。初対面の方に、不躾に……」
 血液が集まり赤くなっていた胸が冷静さを取り戻し、先ほどの己の発言がいたたまれなくなる。伺うように前髪の隙間から盗み見た山下の目は、どこか遠くを眺めるときのように細められていた。
「いや、ごめんなさいね。せっかく褒めてくれたのに、こちらこそ驚いちゃって。まさか若い子にそんな風に言って貰えるなんてね……」
「山下くん、過度に恥じる必要はない。彼女や舞田くんの言う通り、君は既に十分アイドルとして魅力的だ」
「ちょっとも~、はざまさん。そういうのはホント良いですって……」
「Oh,ミスターやました。Strawberryみたいに真っ赤だネ!」
 眼前で繰り広げられる軽やかな掛け合いに思わず口元を緩めると、山下がおほん、とひとつ喉を鳴らして文香の方へ向き直った。
「……昔、学生時代かな。同じようなことを言ってくれた子がいて、おじさんちょっと懐かしい気持ちになっちゃった。今の今まで忘れてたんだけどね」
 山下の声には、かつての青い日々の思い出が滲んでいる。
 彼の記憶の中の人物と、自分が思い浮かべている姿は、もしかしたら同じではないのかもしれない。それでも、願わくばそれが彼女の言葉であればいいと、文香はそう思った。
「……その方は、今でもきっと……どこかで山下さんの笑顔に出会っているのではないかと思います」
 テレビの液晶や街頭ビジョンの中に山下の姿を見つけた彼女はさぞ驚いて、それからうんと喜んだことだあろう。そうであればいいと、文香は笑む。
「うん、そうね……どこかで見ていてくれたらいいね」
 そう言って伏せられた山下の瞳に、先ほど事務所で聞いた奏の言葉の意味を少しだけ垣間見た気がした。
 「誰かを応援したい」という気持ち、「元気を分けてくれてありがとう」という気持ち、そして「誰かを笑顔にしたい」という気持ち。それらすべては、ファンからアイドルへ、アイドルからファンへのかけがえのない愛の言葉なのかもしれない。
――いつか、自分がもっとアイドルとして輝けるようになったら。その時は、あの手紙をきっと彼の元へ帰そう。まだ少し震えてしまうこの両足で、しっかり歩いて行けるまで。
「……まだまだアイドルとしては未熟な私ですが……改めて、これからよろしくお願いします」
 いつの間にか、憂鬱だった心は晴れやかに澄み渡っている。静かな決意を込めて放たれた文香の言葉に、山下も大きく頷いた。
「大事なこと、思い出させてくれてありがとね。こういうのってガラじゃないんだけどさ……なってしまったものはどうにもならないし、アイドルってやつ、頑張っていきましょ。もちろん、お互い無理しない程度にね」
 あたたかく寄り添うようなその言葉に、文香はしっかりと頷いてみせる。それを見届けた山下が、「あらら、いい笑顔じゃないの」とくしゃりと笑った。
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