このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

空は飛べない

 どこまでも広がっていく、抜けるような青。かつて、柏木翼にとって、この空はただ飛ぶためだけのものだった。
 河川敷の夏草に腰を下ろして、不規則に浅く繰り返す息を整える。ランニングを終えた後の心地の良い疲労感を全身に感じながら、翼はだらりと背中を後ろに倒して、視界一杯に広がる青空をその瞳に映した。
「空、高いね」
 翼がそう声を掛けると、斜め前あたりに座り込んでいた想楽がくるりと首だけで振り向いて、まだ乱れたままの息で「そうですねー」と気のない返事を寄越した。
 いつからか始まった315プロ総出での早朝ランニングは、今ではすっかり日々のルーティーンと化していた。もう何度走ったか分からないコースだが、毎回不思議と隣を走るメンバーが変わったりするので、走り出すときはいつも決まって「今日は誰の隣だろう」なんてわくわくしてみたりしている。
 風に乗って、輝と薫が「俺が一番だった」「いいや僕が」と張り合う声が聞こえてくる。そこから少し離れた場所では、High×Jokerの面々がいつものようにけらけらと笑い合っているのが見えた。
「想楽くんと走るの、今日が初めてだね」
「始めの頃は、最後尾に着いていくのがやっとという感じだったのでー。大分体力が付いてきたのかもしれないですね」
 そんな、お互いの距離を近付けるための下準備のような、取るに足らない話をひとつ。身体の中の余計なものを取り去るみたいに吹く風に揺られている間に、想楽の息も静かになったようだった。
「……改めて言うようなことでもないんだけど、休憩がてら、少し聞いてくれる?」
 翼がそう切り出すと、想楽はよいしょと身をよじって、にじりにじりと側へ近づいてきた。翼もまた同じように身じろぎをして、想楽が落ち着くためのスペースを空けてやる。
「想楽くんの名前を初めて聞いた時、てっきりあの『空』の方だと思ったんだ。それで、勝手にああ良い名前だなあ、なんて思っててね」
「それ、よく言われますー。普通、こんな字書かないですし」
 想楽は何も気にしていない風でそう答えて、右手の人差し指でくるくると宙に「想楽」と書いてみせた。その指先はそのまま頭上を指して、想楽の視線もまた上を向く。つられて、翼も再び空を見た。
「空が高いって、面白い表現ですよねー。空なんて、もともとあってないようなものなのに」
「あってないようなもの、かあ。それはどうして?」
「だって、僕たちが見ているのは『空』っていう物理的な物体とかじゃなくて、地球と他の天体との間の果てのない空間に過ぎないじゃないですかー。それなのに、空が在るだとか高いだとか」
 想楽はそこで一度息を吸って、言葉を交わし始めたこのひとときの中で初めて翼を真っ直ぐに見据えた。
「まるで、頑張れば届くみたいに言うでしょう」
 そう言って首を傾げる想楽のあかい瞳を、翼はじっと見つめ返す。にんまりと弧を描くその口元を、今更憎らしいとは思わない。
「……そうだね。少なくとも、少し前までのオレはそうだったのかも」
「翼さんは、パイロットだったんですよねー? きっともう飽きるほど聞かれていると思うけど、アイドルを選ぶの、怖くなかったんですか?」
「うーん、そうだなあ。怖く、はなかったかな。それに、それを言うなら……あのまま陸から空を見上げているだけの毎日がずっと続いて行くことの方が、よっぽど」
 怖かったよ。いっそ、空なんて目指さなければ良かったと思うほど。
「……オレはね、ずっと自分はパイロットになるんだって、そう思って生きてきて。でも、その可能性はある日突然、びっくりするくらい簡単に途切れてしまって……そしたら今度はプロデューサーにスカウトされて、また新しい可能性が手渡されたんだと思ったんだ」
 己に言い聞かせるように話す翼の声を聞きながら、想楽は足元に咲く小さな野花の花弁を撫でている。
「でも、それも違ったんだ。オレは新しい可能性を貰ったんじゃなくて、アイドルになって初めて、この空みたいにどこまでも続く可能性が目の前に広がっているんだってことを知ったんだよ」
「『可能性は無限大さ』……ってことでしょうかー」
 俯かせていた顔を上げ、鼻歌交じりにそう言う想楽に破顔して、翼は自身のつま先を見た。履き潰されたランニングシューズは、もうそろそろ替え時だろうか。
 空へと続く梯子を踏み外したあの日から、この足で、躓きながらもここまで歩いてきた。この両足は、いつだって力強く地面を蹴ってきたのだ。
「……空が高くて、届かなくって、本当に良かった。少し手を伸ばしたくらいじゃ絶対に届かない場所だからこそ、オレはいつまでも、飛ぶことを夢見ていられる。この身体で、オレのままで、どこまでだって飛んでいけるような……そんな気がしてるんだ」
 見上げた空に果てはない。ずっと夢見ていた形とは違っていても、翼の瞳は、今でもただひたむきにこの青い空を見据えている。
「あのままパイロットを続けていたら、なんてそんなのはたらればも良いところだけど……もしオレが今でもあのコックピットにいたら、きっとガラス越しの空しか知らないままだったと思うよ」
「なるほど。確かに、飛行機で飛ぶより生身の方が気持ちは良さそうですよねー」
「あはは、そうだよね」
 朗らかに笑う翼の心中を気にも留めていない様子で、想楽はぐいっと大きく両腕を頭上へと伸ばして身体をほぐしながら、「それにしても」と切り出した。
「うちのユニットの某クリスさんにしろ、翼さんにしろ、何かその人なりの核みたいなものがあって良いですねー。僕にはそういうのって無いので、羨ましいな」
 よっこいしょ、と立ち上がりながら言った想楽の声が言葉のわりにあまりにもからりとしていたものだから、翼は思わずくちびるの端からやわい笑みをこぼした。
「……想楽くんが、空くんじゃなくて良かったな。楽しいことを想うって書いて『そら』って、とっても素敵な名前だね」
「ふふ、ありがとうございますー。でも、そんな風に言われたのは初めてですよー」
「そう? ……あ、そろそろ行こうか。輝さんたちが手を振ってるみたいだ」
 おーい、と声のする方へ振り向くと、土手を上がった先の対岸の方から、事務所の面々が手を振っているのが見えた。
 二人で縦になって、緩やかな坂を上っていく。ふと草を踏む音が止まったので振り返ると、後ろを着いてきていた想楽が立ち止まって、翼の頭の上の方を指差した。
「見て、翼さん」
 想楽の視線の先で、真っ直ぐに伸びていく白いひとつの線が、今まさに快晴を横切っている。
「わあ、飛行機雲だ。綺麗だなあ」
 晴れ渡る青空を見上げたまま、二人は暫し立ち止まる。
「でも、あの飛行機がどんなに飛んでも、きっと翼さんの目指すところには届かないんだろうな」
 抜けるようなこの広い青に、もう夢を託す必要はない。翼は初めて立ったステージのことを思い出す。ジェットエンジンなんてなくても、歓声という名の追い風を受け、この身ひとつで飛んでいくのだ。
 二人の間を、解けていく夏の風が通り抜けていく。静けさの中、「今日は空が高いから」と想楽が笑った。
1/1ページ