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迷子犬と雨のビート

 握野英雄は窓の外を見ていた。時計の針は午前十時を回ったところだ。
 今しがた降り出した俄雨が、灰色に烟った都会の街並みを横切っては消えていく。何度も何度も繰り返されるその光景は、決して戻らないかつての日々の切っ尖のようになって、英雄の胸を細く突き刺すように打ち続ける。
 がちゃり。背後で扉の開く音がする。反射的に振り返った先には、先程「少し買い物に出てくる」と事務所を出て行った天道輝の姿があった。
「いやー、降られた降られた」
「おー、おかえり。……っておい、随分ずぶ濡れじゃねえか」
 見れば、輝のワイシャツはしっとりと水を吸って、肩のあたりなんかは完全に色が変わってしまっている。
「傘持ってきてたよな。そんなに激しく降ってんのか?」
「ん? ああ、違う違う。さすがに傘さしてたらここまで濡れねえよ」
 額に張り付いた前髪を耳の方へと流しながら、輝は英雄の問いにからりと笑った。その口ぶりから察するに、どうやらこの雨の中を傘をささずに帰ってきたらしい。
「ったく、風邪引くなよ? 何があったか知らねえが、生でくしゃみなんてしたら大変だ」
「確かに。くしゃみして『くーっしゃみーっ』なんて言ってられないもんな」
「はは……」
 午後には生放送の仕事が控えている。英雄と輝はそれぞれのユニットの代表として、今度公開する映画のPRのためにお昼の情報番組に出演することになっているのだ。いつも通りの輝の軽口に心の中で「この現状が何よりも寒いんだが」と突っ込んで、英雄は再び窓の方へと視線を戻した。
 今日みたいに薄暗い雨の日は、英雄は決まって同じ光景を思い出す。家を飛び出して来たのであろう、深夜にも関わらず街を徘徊する学生や子どもたち。彼らが突然の雨に降られ、どこに帰ることもできずにコンビニやカラオケ店の軒先でぼうっと宙を眺めていた、あの光景を。
 警察官という肩書きは脱ぎ捨てても、英雄の生きる正義は何一つ変わらない。自分は歌うことで彼らを救いたいのだと、英雄はぎゅっと拳に力を込めた。
 急に黙り込んだ英雄の心中を知ってか知らずか、革張りのソファへと腰を下ろした輝がぽつぽつと話し始める。
「小学校低学年くらいの女の子が、駅前で雨宿りしてたんだよ。その子、丸めた画用紙を大事そうに抱えてたんだけど、傘を持ってなかったみたいでさ」
「画用紙……? 学校で描いた絵か何かか」
「ああ。そんで思い切って声掛けたんだよ。そしたらさ、『お母さんにプレゼントするから濡らしたくなくて』ってさ。ほら、母の日近いだろ? それで、その絵を持って帰ろうとしてたのに雨が降っちまったって落ち込んでたんだ」
 何でもないことのようにそう話す輝に相槌を打ちつつ、英雄は思う。自分だったら、女の子に声を掛けた時点で確実に即事案だろうな、と。
 何せ子どもには「知らない大人に声を掛けられたら警戒しろ、逃げろ」と教え込む時代だ。にも関わらずソツなくその女の子の気持ちを聞き出してしまうあたり、さすが輝と言わざるを得ないだろう。
「じゃ、傘はその子にあげてきたってワケか」
「ご名答。そんな理由を聞かされちゃ、何もせずに置いていくなんて出来ないからさ。仮にお前でも、同じことしただろ?」
 英雄は「まあな」とはにかみながら、隣で笑うまっすぐな横顔を見た。その晴れやかな笑顔からは、後悔などは微塵も感じ取れない。
 朝、事務所の玄関で鉢合った時に見たからよく覚えている。輝の持っていた傘には、英雄じゃちょっと買うのに躊躇するようなブランドのタグが付いていた。
 コンビニ傘でもあるまいし、あれをすんなり渡しちまうあたり輝らしいというか何というか――そう言葉を返そうかと口を開き掛けた瞬間に、英雄の脳裏に今の今まで忘れていたひとつの夜の出来事が舞い戻る。

「傘、ないのか」
「…………」
「じゃあこれ、やるよ。署までは走ればすぐだから、遠慮しなくていい。ほら」
「……変なお巡りさん」
「変で結構。君が濡れないことの方が大事だ。……じゃ、補導される前に帰れよ。ああ、あと、辛くなったらいつでも俺のところに来てくれ。話し相手くらいにはなってやれるからさ」

 そうだ、思い出した。自分もいつか、夜の商店街の軒先で小さくなっていた女の子に傘を渡したことがあったっけ……。
 まだ一、二年前の話だと言うのに、随分前のことのように思えて、英雄の意識はゆったりと思い出の中を歩き回る。
「英雄? どうした?」
 輝の声ではたと我に返った英雄は、ほろ苦く笑いながら後ろ髪を掻き上げた。
「いや、俺も前に同じようなことしたことがあったなって思い出しただけだ。悪いな、急にぼーっとして」
「そっか。英雄はお巡りさんだったんだもんなあ。俺よか全然そういう経験は多いわな」
「あー、まあな。でも、今の俺たちは……」
「ああ、『アイドル』だもんな」
 そう言って、英雄と輝はどちらともなく笑い合う。前職を、過去を捨てることはできない。否、捨てる必要などないのだと、そう気付かせてくれた人達がいる。
「よし、それじゃ今日も頑張りますか! 英雄、放送中のミニライブで気合い入れすぎて音外すなよ?」
「はは、耳が痛いな。輝こそ、今日はダジャレ封印で頼むぜ? 俺、苦笑いすると顔ヤバくなっからさ」
 そんな風に軽口を叩き合っていると、再び扉が開く音がして、プロデューサーがひょっこり顔を出した。どうやら、移動の時間が迫っているらしい。
 ぽつぽつと降り止まない雨を横目で見ながら、英雄はぱん、と自身の頰に喝を入れる。
 自分は、夜の子供たちにとってのもう一つの家のような存在でいたい。それが難しいなら、せめて、辛いときに逃げ込める秘密基地のような場所でいたい――。
 あの日手渡したコンビニ傘は、きっと輝のブランド傘のようには大事にして貰えなかっただろう。でも、それでもいい。例え一時であっても、降りしきる冷たい雨からあの子を守ってくれただろうから。
「プロデューサー、今行くよ」
 英雄はきゅっと顔を上げ、先を行く輝の背を駆け足で追い掛けた。


 激しさを増すばかりの雨は、繁華街のビルの隙間を縫って通行人の肩を濡らしている。どんよりとした曇天の中、街頭ビジョンの明かりだけが鮮やかだった。
『はい、それでは天道さんと握野さんのお二人に、DRAMATIC STARSとFRAMEのコラボ新曲をスペシャルバージョンでお届けして頂きましょう!』
『いつも応援してくれてる皆を思って歌わせてもらうぜ! な、英雄!』
『ああ! 君たちはみんな、一人じゃないんだ』
 重たく暗い視界にぱっと光が射したような心地がして、道行く一人の少女がその顔を上げた。少女は足を止め、液晶の中で輝くその笑顔を食い入るように見つめている。
 くたびれたビニール傘の柄を持つ少女の指に、ぐっと力がこもる。その細い指の間には、『握野』と掠れた油性マジックの文字があった。
 アイドル・握野英雄が彼女からのファンレターを受け取ることになるのは、それから僅か数日後のことである。
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