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潰れた声の本音こそブルース

「楽しいんだよ、悪いことってさ」
 夜明け前の、静かで薄暗い大気を僅かに震わせて、彼はあっけらかんと笑った。
 僕は知っている。彼がもう僕らと同じ子どもではなく、けれどもありとあらゆる意味で大人にもなり切れず、時たまこうして白んでいく空をひとり眺めていることを。そして、そういう時に限って、彼は何故だか僕を呼ぶ。
「春名さん、またお友達と徹夜でカラオケですか?」
「ご名答。やっぱオレらん中でジュンが一番賢いな」
 馬鹿か。そんなの、ハヤトだってナツキだって知ってる。四季くんでさえも。僕は心中でそう吐き捨てて、悲しみとも怒りともつかない感情のままに、悟られぬように舌を打った。
 そういえば、舌打ちなんて自分は一体いつ覚えたんだろう。誰に教えられた訳でもないのに。
 世間にはそういう「いつの間にかできている」、もしくは「いつの間にか知っている」出来事がたくさんあって、それらについて考えるとき、僕は己の世界の不確定さが怖くなる。所詮、僕は自分自身の価値観を通してしかこの世界を見ることができない。そのことに気付いたとき、自分がこれまでどれほど閉じた光を見ていたのかと思い知らされたと同時に、気付けば自分の世界の中にいくつもの真新しい粒子が流れ込んでいることが分かって、足が竦むような心地がした。
「この間も明け方までクラブとやらにいて、プロデューサーさんにほどほどにしとけって言われたばかりでしょう」
「あ、ジュンも今度一緒に踊りに行く? こう、低音がずどどどーって身体ん中に響いてさ、すげえ気持ち良いよ」
「行きませんよ。行くわけない」
 春名さんは少し前に十九歳になって、「アイドルになる前にはできなかったから」とか何とかそんなもっともらしい理由を喋りながら、ふらりと夜の街へ消えていくことがある。本人曰く同い年の高校時代の友人とカラオケだのバーだので遊んでいるとのことだが、僕らの立場からすればそれがあまり好ましくない行為であることくらい明白だ。
 もちろん、大学進学を決めた僕らと違い「卒業後は芸能活動一本でやっていく」と宣言した彼の決意や覚悟を疑ったことは一度もない。けれども、ユニットでの仕事を終え、僕らとは違う方向へ進んでいく彼の背中を見送るとき、僕には「若里春名」という人間の輪郭がぼやけて見えることがある。
「さっきも言ったけどさ、悪いことするのって楽しいんだよな。もちろんそれで誰かを思いっきり傷つけたりとか、そういうのは駄目だけど」
 プシュ。公園のベンチに腰掛けた春名さんが、アルミ缶のタブを持ち上げて言う。
「世の中って色んなことがあるよなあ。オレが知らないことも、ジュンが知らないことも」
 そう言って笑う春名さんの手の中で、コンビニエンスストアで見かけたことのある発泡酒の星のマークが、歩道沿いに並ぶ街灯に照らされてキラリと瞬いたように見えた。
 ビールなんて飲むなよ、あんたまだ未成年だろうが。たったふたつしか違わないのに、そうやって大人ぶるなよ。
 当然そんなことが言えるはずもなく、僕は僅かに俯いて、けろりと笑う春名さんの笑顔を下から睨み上げるようにして恨んだ。
「……それ、他のみんなの前ではやめてくださいね。特に、四季くんの前では」
 彼なら真似しかねませんよ、と付け加えると、春名さんは「大丈夫大丈夫、ジュンの前でしかやんないから」と手のひらをひらひら振ってみせる。
 なんて、なんて軽薄なんだろう。その在り様こそが若里春名という人間に他ならないことは理解しているつもりだけれど、だからこそ、僕には彼が分からないのだ。
 仏頂面のまま動かなくなった僕を余所に、東の空は徐々にその彩度を上げていく。僕はただ、少しずつ昇り始めた太陽が彼の悪事を照らすのを待つばかりだ。
「俺は知っててジュンが知らないこと、ひとつ教えてやろうか」
 何も言わずじっと彼を見やるだけの僕に、春名さんはにたりと笑って、まだ半分程度中身の残っている缶を手渡そうとする。
「それ、ノンアルだからさ。シキが真似したくらい、どうってことない」
「……そういう問題じゃないでしょう。法律的にどうとかそういうことでなく、態度の問題です。大体、こんな時間に公共の場所でこんなものを飲むなんて、危機管理能力に問題が――ってちょっと、何へらへら笑ってんですか」
 春名さんが近づけてきたそれに印字されている「Alc. 0.00%」という文字列に、己の眉根が寄るのが分かった。僕は盛大な溜息を吐いてそれを春名さんに押し返そうとしたけれど、どうしてか春名さんは「いいから」とぐいぐい押し付けてくるばかりで、結局は僕の方が根負けして飲みもしない缶ビールの紛い物を受け取る羽目になってしまった。
「言ったろ、悪いことは楽しいんだって」
 僕には分からない。春名さんの言っていることも、それから、若里春名という人間についても。けれども、こうして胸に残り続ける違和感こそが僕にとっての若里春名その人であり、彼を彼たらしめている証なのかもしれなかった。
 行き場をなくしている缶の中身は既にぬるくなってしまっている。僕はそれを暫くじっと見つめてから、乾ききった飲み口に唇をつけた。
「…………不味い」
 喉を通り過ぎる不快な苦みに盛大に顔を顰めた僕を、春名さんが指を差してからかう。それはひどく僕の神経を逆撫でしたけれど、朝日を受けてなめらかに上下する頬を見ていたら、どうしてかいつものように説教をする気にはなれなかった。
 じき、夜が明ける。
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