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砂漠の流刑地

 鏡は苦手。毎朝こうして起きぬけの姿を映すたび、自分のかたちが嫌でも分かってしまうから。
 時計も好きじゃない。きっとずっと止まることなんてない二本の針は、あたしをきりきり追い立ててばかりだ。
 それでも、今日は、今日だけは、この姿のまま出掛けよう。なんの飾り気のない、等身大の自分のままで。


『明日のオフなんだけど、ちょっと行きたいところがあるから付き合ってくれない?』
 肝心の行き先とか、メンバーとか、そういう大事なことは何ひとつ書かれていない不親切な文面だったのに、それを受け取ったアスランは何の淀みもなくあたしに『Yes』を投げて寄越した。それが昨日の夜更けのこと。
 そしてさっき、先に待ち合わせの場所に着いていたアスランは、いつものツインテールもスカートも取り上げてまっさらになったあたしの姿を見て、ほんの一瞬だけ驚いた顔をした。でも、その後すぐにいつもの調子に戻って、「待っていたぞ、サキ」なんて言って笑った。その笑顔が本当に優しかったものだから、あたしもいつも通り「うん。パピッとしゅっぱーつ!」なんて言っておどけてみたりしたけど、やっぱりちょっと噛み合わない。
「して、サキよ。我々は何処へ?」
「あのね、ここから電車で一時間くらい行ったところにひまわりの名所があるんだって。それをどうしてもアスランと見たくて」
 アスランが頷いて、それから二人で改札を抜けて電車に乗った。
 一応アイドルとして名前と顔が売れてきた自覚はあるのか、アスランは慣れない帽子とサングラスに落ち着かない様子だ。そわそわと揺れる肩が子どもみたいで、何だかかわいい。
 一度大きなターミナル駅で電車を乗り換えて、鈍行に15分ほど揺られた頃、隣のアスランがうつらうつらと船を漕ぎ始めた。
 昨日も夜遅くまで厨房に立っていたのだと、今朝メールで教えてくれたのはかみやだ。そんな状態でもこうして誘いに乗ってくれたのだから、もちろんそのまま寝かせてあげることにして、暫くの間は束の間の一人旅気分を味わうことにする。
 窓枠の外側、線のように次々と足早に流れていく景色は、まるであたしたちのよう。どんなに頑張ったって、決してひとところには留まれない。力の限りもがいて、めちゃくちゃに腕を振っても、背中を押す時間の波は止め処ないのだ。
 がたんがたん。二人を乗せて揺れる箱から振り落とされないように、あたしはぎゅっとアスランの手を握った。この姿じゃきっと周りの人に変に思われてしまうけれど、そんなことはちっとも気にならなかった。アスランは、いつだってあたしを強くしてくれる、ただ一人の戦友だから。
 それからいくつか駅を通り過ぎた頃には、四角いビルもうんと減って、電車を囲む世界は緑になった。射し込む光が、幾分か柔らかくなったような気がしてきた時、握った手を強く握り返す力を感じた。いつの間にか目を覚ましたアスランは、何も言わずにあたしの右手をあたためてくれる。
「終点まで、まだ30分くらいあるね」
「うむ。サキよ、我の肩にその身を預けてもよいのだぞ」
 いつもの大袈裟な響きじゃなくて、しっとりと振ってくるみたいな声色があまりにも柔らかかったから、あたしは言われる通りアスランの肩にこてんと頭を預ける。頬越しに伝わってくる体温が心地よくて、何だかあたしまで眠くなってしまった。
 アスランもひとつあくびなんかして、袖でごしごし目元を擦っている。そのまま二人で身体を預けあって、どこまでも行ける気になったりして。すっかり羽根の生えたみたいな気持ちになって、あたしの意識は夢の中を自由に飛び回る。
 もちろん電車は予定通りに終わりの駅に辿り着いて、あたしとアスランは都心から一時間の片田舎までしか行けなかったのだけれど。



「アスラン、すっかり有名人になったね」
 背丈ほどもある大輪のひまわりの間を縫うように歩きながら、後ろを着いてくるアスランを振り向く。思い出すのは、電車に乗る前のこと。
 どんなに帽子やサングラスで武装したって、肩に乗せたサタンばっかりは誤魔化せない。駅のホームでも、電車の中でも、そこかしこから「カフェパレードのアスランだ」って声が聞こえてきていたのがその良い証拠だ。
「何故だ……我の仮初めの装いは完全無欠だった筈……」
「アスランがっていうか、サタンが、かな?」
 本気で分かってないって顔で狼狽えるアスラン。そういうところ、嫌いじゃないよ。彼の的外れな台詞も、あたしはパピッと笑い飛ばす。
 今こうしてアスランと一緒にいるのは、アイドル『水嶋咲』じゃない。浮かれた様子でひそひそ囁かれた名前はアスランのものだけで、『水嶋咲』なんて彼らの目には写っていなかった。それを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、あたしには分からない。
「あのね、あたしこの間一人で歌わせてもらったでしょ?『カフェパレード』の歌じゃなくて、『水嶋咲』のための、『水嶋咲』だけの歌」
「うむ。サキの歌唱、実に素晴らしかったぞ。まさしくパピ族の末裔にふさわしい舞台であった」
「ふふ、ありがと。あたしも、あの歌大好きなんだ。……でもね、」
 ときどき、分からなくなっちゃうこともあるよ。
 そう呟いた声は、夏の太陽に向かって伸びる大輪の花に吸い込まれて、アスランに届いたかどうかは分からない。
 あの歌の詞のように、好きなものについて考えてみる。カフェパレードは、あたしにとってすごく大事なもの、大好きなもの。こだわりのメイク道具とか、色とりどりのコスメとか、フリルのスカートも、みんなあたしのお気に入りだ。そして、もちろん、アイドルの『水嶋咲』も。そういうきらきらしてて、嬉しくなるくらい好きなものたちを、ひとつひとつ大切に宝箱の中へと仕舞っていく。
 そして、いつも最後に困ってしまう。アイドルじゃない自分のことは、どこに仕舞えばいいのだろう?
 全然かわいくなんかなくて、電車に乗っても水嶋咲だって気付いて貰えないような、どこにでもいる普通の男の子。そんな自分を、あたしはどうやって守っていけばいい?
「サキ?」
 急にだんまりを決めてしまったあたしを気遣って、アスランがまたそっと手を取ってくれる。少し汗ばんだ彼の手のひらは、あたしを安堵させる天才だ。
「あたしは『僕』をどうしたらいいんだろうって、ずっと考えてたの。……アスラン、驚いたでしょ?あたし、スッピンは全然かわいくなんかないんだ」
 遠くの街路樹に張り付いている蝉の声が、ジリジリと焼きつくようだった。空は快晴。雲ひとつない爽やかな青空なのに、あたしの笑顔は少し湿っぽい。
「確かに、驚かないではなかったが……サキは、サキであろう?その器は異なろうとも、清く気高き魂を取り違える筈もない」
 アスランはそう言って、顔を真っ赤にしながら「アーッハッハッハ!」と高笑いをした。それが照れ隠し以外のなにものでもないことを、あたしはよく知っている。
 どうして、自分を飾らないままこうしてアスランに会わなくちゃなんて思ったのだろう。そんな風に自分の心に問い掛けてみるけど、答えはきっともうとっくのとうに用意されている。
 あたしは、ありのままの自分を受け容れたかった。受け容れて欲しかった。他の誰でもないアスランから、『サキはサキだ』って伝えて貰いたかった。それは感傷とか寂しさじゃなくて、自分が自分として生きていくための栄養みたいなものなんだと思う。
 あたしはこれから先も、アイドル『水嶋咲』として走っていく。かわいくない『僕』も、とびきりきらきらの『水嶋咲』も、大事に抱えて生きていくのだ。
「ありがとう、アスラン。今日、来てくれて嬉しかった」
 あたしは目一杯背伸びをして、アスランの頰に触れるか触れないかのキスをした。普段のつやつやのピンクのじゃない、何の変哲もない男子高校生のくちびるに、アスランはめいっぱいその顔を赤くしてくれる。
「『私はあなただけを見つめる』。ひまわりの花言葉、知ってた?」
 火照った頰のまま首を横に振るアスランと、満開のひまわりの中にすっぽりと埋もれて、今度こそ二人でどこまでも歩けるような気がしてしまった。ひまわり畑のど真ん中、たくさんの黄色い太陽に守られているみたいだ。
 神様、お願いだから、今だけはここに留まらせて。
 まつげに光ったちいさな雫を、アスランの指先が音もなく掬った。
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