解けゆく春
街路の桜が、その蕾を膨らませ始めている。フード越しに感じる陽光が、先週よりもあたたかくなっている気がした。
「今日も平和やなあ……ヒーローが暇なんはええことや」
午後のパトロールの終わりがけ、ファットが丸みを帯びた声で笑った。彼のコスチュームがつくる黄色の曲線を、空から滲んだ西日が溶かしている。
季節外れの卒業式の明くる日、ほとんど身ひとつで大阪へと越してきてから、はじめての春を迎えようとしている。ファットガム事務所のサイドキックとして活動する日々は目まぐるしく、環はあっという間にひとつ歳を重ねた。
卒業後の進路については悩まなかった。卒業後にインターン先へとそのまま就職するという流れは慣例だったけれど、決してそれが理由ではない。
大阪に暮らす人々の生活を、文字通りその大きな体躯で支えるヒーロー・ファットガム。その慈愛に満ちた仕事ぶりを間近で見つめることができたのは、環の人生にとって大きな転換点となった。地域に根差した活動を地道に積み上げるその背中に、自分もこの人のようなヒーローになれたら、と胸の内にあたたかな火が灯るようだった。
何より、まだ個性の扱い方も危なっかしかった自分をインターン生として受け入れてくれた彼に報いたいと思った。個性の伸ばし方や現場での立ち回りといったヒーローとしての目線はもちろん、ひとりの人間としても、彼が授けてくれたものはあまりにも多かった。
自分という存在に自信を持つこと。自らの能力に誇りを持つこと。その大切さを根気強く説き、ひとりで立てるようにと導いてくれた師のことを、環は掛け値なしに尊敬していた。からかうような軽口が臆病な自意識を刺してくるのは相変わらずだけれど、それも彼なりの背中を押す方法なのだと、今ではもうよく知っている。
「平和なのは、ファットが毎日こうしてこまめに見て回っているからじゃないですか」
普段はその大雑把な性格や生活態度に小言を投げるばかりだけれど、今日くらいは素直に思っていることを伝えてみようか。そんな風に思うのは、肌を撫でる初春の大気のぬくもりが心地良いせいかもしれない。
「なんや、環。今日はやけに褒めるやん」
「別に、今日に限ったことじゃない……改めて口にする機会がないだけで、すごいなって、いつも思ってますよ」
「そらおおきに。せやけど、それを言うたらジブンもやで。サンイーターも、この街を守っとる立派なヒーローやねんで」
返ってきた裏表のない言葉に、何だかとても恥ずかしいことを言ったし言われた気がして、熱が集まってくる頬を隠すようにフードを目深に被り直した。ありがとう、と小さく呟くと、ファットの大きなてのひらがぽん、と背中に添えられた。人好きのするからりとした笑顔の後ろで、夕暮れがグラデーションをつくっている。
敵わないな、と思う。ファットの朗らかな大らかさに、環はいつもたやすく丸め込まれてしまうのだ。
どれだけ背伸びをしたところで、十二年の経験値の差はそう簡単に埋まるものではない。さっきだって、先に素直になったのは環の方だったのに、ファットが寄越した真っ直ぐな賛辞に、こんなにも胸が躍っている。
彼の隣に立つときは、自然と視線が上向きになる。身長差のために当然環が見上げる形になるのだけれど、そういう物理的なものだけではなくて、精神的な在り様についてもそうだと感じている。彼は、環の心に新しい角度をくれた。
誰かが自分を慈しんでくれることが、こんなにも気持ちをあたたかくしてくれることを、ファットに出会うまでの環は知らなかった。それから、そのふくよかな愛が自分だけに向けられるものではないと知った日の、あの軋むような鈍い痛みも。出会ったときには性質の差からむしろ苦手とすら感じていたのに、環からファットへの思いは日に日に角が落ちていき、気付けば光を反射してきらめく憧憬へと形を変えていた。
「ほな、そろそろ戻ろか。帰りにたこ焼き買ぉていかなな!」
好物を思い浮かべているであろう楽しそうな横顔に、思わず口元が緩む。十二も上の男性をそんな風に思うのは失礼かと思わないでもないけれど、彼が時折見せる子供のような一面はとてもかわいらしくて、環の本能をくすぐってやまない。
「待って、ファット。いい歳して走らないでくださ……、?」
贔屓のたこ焼き屋の方角へと意気揚々と駆け出したファットを追おうとしたところで、重心が後ろに引っ張られ、踏み出した右足が空を蹴った。咄嗟に振り返ると、マントの裾をぎゅっ、と掴む小さな手が目に入る。三つか四つくらいの小さな女の子が、心細そうに環のマントにしがみついていた。
「おかあさん、どこ……?」
夕方の商店街を行き交う人の波に呑まれたのか、どうやら母親を見失ってしまったらしい。少女の大きな目には、今にも溢れそうな涙の海が満ちている。
環はもう一度ファットを呼び止めて、少女の目線に合わせて身を屈めた。不安に揺れる瞳に、できるだけ優しく語りかける。
「……迷子、かな。お母さんとはぐれてしまったんだね」
環の問いに、少女が控えめに頷く。
母親の方はこのあとファットと二人で探すとして、まずは目の前の少女の不安を和らげてあげたい。どうにか気を紛らわせられないか、と思案したところで、ひとつのアイデアが浮かんだ。思い出したのは、今朝の朝食だ。
「ファット、この子のお母さん、一緒に探そう。まだそんなに遠くには行ってないだろうし、きっと向こうも必死に探しているだろうから」
「おお。ほな、ファットさんが肩車したろな。ほんなら嫌でも目につくやろ」
「ありがとう。でも、その前に、少しだけ。……ええと。お兄さんのここ、見ててくれる?」
環は少女の前に両手を差し出すと、てのひらいっぱいに赤いばらの花を咲かせた。少女は潤んでいた両目を見開いて、わぁっ、と感嘆の声を漏らし、次々と開いていく花びらを興味深そうに見つめている。少女の笑顔に、環はほっ、と胸を撫で下ろした。
「お花、喜んでもらえてよかった。そうしたら、一緒にお母さん、探しに行こうか」
「うん! おにいちゃん、ありがとう!」
「よぉし、ほな、こっからはファットさんの出番やな! すぐにおかんに会わせたるから安心したってな」
少女を肩に担いだファットは、本人の言った通り恐ろしく目立った。はじめての高さに興奮していた少女は数分も経たないうちに母親の目に留まり、今度はしっかりと母親に手を引かれながら、住宅街の方面へと消えていった。
何とお礼を言ったら良いか、と何度も頭を下げる母親に、ファットがにっかり笑って「今後ともうちのサンイーターをご贔屓に!」なんて言うものだから、環は背中におかしな汗をかく羽目になった。
遠ざかっていく二人の影を見送り、元の帰路につこうと踵を返したところで、ファットがにやりと意地の悪い笑みを浮かべる。
「それにしても、あの奥手な環が女の子に花を贈るようになるなんてなあ。ファットさん、びっくりして十キロは減ったで」
「ちょっと、語弊しかない言い方はやめてください。というか、どういう理屈なんだ……」
にまにまと口元を抑えているファットは、環をからかうことをやめない。むずがゆくてたまらないのに、昨年までよりもさらに遠慮がなくなったこの距離感を好ましいと感じている自分もいる。
「せやかて、やけに情熱的な真っ赤な薔薇やったやん。あんなんいつどこで食うたん?」
「今朝。頂き物のばらのジャムを、トーストに塗りました」
「は~~~~、小洒落たもんもろてから。プレゼントちゅうことは、絶対女の子からやろ。こぉんな大人しそうなツラしてるくせに、環も隅に置けへんな」
「ファット、セクハラ……いや、パワハラか……? まあどっちでも良いけど、貰ったのはこの間ファットと助けたお婆さんです」
花を贈りたいのも、プレゼントを貰いたいのも、それ以外だってぜんぶ、ファットだけなのに。
環がいつか異性の恋人と添い遂げることを当たり前に信じているであろう彼に、そんな風に告げたら、いったいどんな顔をするのだろう。
正式に事務所のサイドキックとなった頃合いからだろうか、ファットはたまに環のプライベートの様子を気に掛ける素振りを見せるようになった。曰く、守りたいと思う誰かがおるちゅうんはええことやで、らしい。
そうした話題を振られるたび、環の心は少しばかり重たくなる。いつか同じ気持ちが返ってくるかも、なんて淡い期待は抱いていなかったけれど、彼にとって自分はただの部下でしかないのだと自覚する瞬間には、舌の奥の方が苦味走った。
どうか守らせてほしいと願う存在なら、環はとうに見つけている。これまで庇護されてばかりだった分、今度は自分が支えたい、と強く思うのは、他でもないファットに対してだけなのだ。
沈みゆく夕日が、辺り一面を橙に染めている。何度も一緒に歩いた道に、ファットのやわらかな声が寄り添うように降りてくる。
「でも、驚いたんはほんまやで。個性でちっさい子にあんな風に優しくできるなんて、やるやん、環」
そう言って、ファットはわしわしと環の髪をかき混ぜた。頭に感じるグローブの感触は、何度経験しても、やっぱりどうにもこそばゆい。
ファットはいつだって、環が欲しいと思うものを飾らずに与えてくれる。少しの進歩も逃すまい、と気にかけてくれる。それがどれだけ環の心を掬い上げてくれているのか、きっとファットは知らないのだ。
だから、あなたがこんなにも眩しい。
環は切れ長の瞳をさらに細め、胸を満たしている思いをありのままに夕映えに落としていく。
「……俺に力の使い方を教えてくれたのは、ファットです」
「ん? まあ、扱い方とか伸ばし方って言うたらそうやろうな」
「うん、でも、それだけじゃなくて。……俺は、自分の個性であんな風に誰かが笑ってくれるなんて、こっちに来るまでは想像もしなかったんだ」
ファットは環に会話のペースを委ね、一呼吸ごとに短く相槌を打っている。ばらばらの形の影をつくっている二人の身体を、同じ春の風が靡いていった。
「だから、俺が優しく在れているのなら、それはファットが俺にそうしてくれたからで……」
ふ、と息を吐いて、呼吸のペースを整える。身体中の血液が集まってくるみたいに、首から上が熱くなるのを感じていた。環はまだ駆け引きというものを知らない。頬が真っ赤に染まっていくのは自分でも分かっていたけれど、それを誤魔化す術は持ち合わせていなかった。
環はつま先に落としていた視線を上げて、ファットの視線を捉まえる。
「これからは、俺がファットの力になります」
胸のなかで育まれ続けてきた思いが、輪郭を持った音として大気を震わせる。それは『サンイーター』としての決意であり、誓いであり、そして、どうしようもなく『天喰環』の祈りだった。
弾けるように破顔して、ファットが環の背をばしん、と叩く。
「ほんまに頼もしゅうなったなあ。こりゃファットガム事務所の未来は安泰やで!」
「うん、そうなるように頑張ります」
ファットはきっと、この切なさに気付いている。
普段から周りをよく見ている人だから、環の耳の先の尖りが赤く色づいているのが夕日のせいではないことなんて、たぶんとっくに見抜かれてしまっている。
自分はまだどうしようもなく子どもで、日に日に大きくなっていく気持ちの正しい吐き出し方なんて分からない。だから、今はせめて部下として、彼の隣に相応しい人間になりたい。
そんな風に思っていると、ふと環の視界を影が覆った。フードを外された、と気付いたときには、既につむじにファットのてのひらの温度を感じていた。
「……ありがとうな、環」
西日が眩しいのだろうか、ファットは丸い瞳を少し細くして、そう静かに笑った。嬉しいくせに何かを諦めているみたいなその笑顔を、環ははじめて見る顔だ、と思った。
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ふわふわと宙に浮きそうな思考を何とか繋ぎ止めている。
「環、大丈夫か? ほい、これ飲みや」
「ありがとう、ございます……」
ファットが差し出してくれたグラスに口をつける。冷水が喉を通っていく感覚が心地よい。こんなはずではなかった、という青い後悔とともに、環はアルコール混じりの生ぬるい息を吐いた。
大阪に越してきて二度目の春、環はニ十歳の誕生日を迎えた。
成人のお祝いは、当日にファット馴染みの飲み屋を貸切って事務所総出で盛大に行ってもらった。はじめてのビールは噂に違わず苦かったし、かわるがわる勧められた焼酎の良さもまだ全然分からなかったけれど、何よりファットや同僚たちの気持ちが嬉しかった。
それだけでも十分ありがたいと思っていたところに、今朝になってファットから「改めてゆっくり祝いたいから」と食事に誘われて、環は柄にもなく舞い上がった。大切な人が自分の人生の節目をめでたく思ってくれている。そう思うと、胸の内にあたたかいものが広がった。
退勤後に連れてこられたのは落ち着いた雰囲気の小料理屋で、個室にはファットとふたりきり。心の奥の方から滲み出るどうしようもない嬉しさと、久しぶりにふたりで夜を過ごす緊張で、環は知らず知らずのうちに慣れないアルコールに呑まれてしまった。
「すみません、ファット。せっかく誘ってくれたのに……」
「謝らんとええよ。俺の方こそ、ええ飲みっぷりやったからつい飲ませすぎてしもて、ごめんな」
冷えたグラスを頬に当てると、耳元で氷がガラスに触れる軽い音が鳴った。アルコールが入っているせいか、ファットの笑顔がいつもよりやわらかいような気がして、好きだな、と反射的に思う。
ファットの元でサイドキックとして働き始めてから、もうすぐ二年。師への尊敬の延長線上にあった環の思いは、この一年で少し欲深くなったように思う。共に過ごす時間が増えていくほど、胸の内に巣食っている感情は綺麗なだけではいられなくなって、まだ見ぬ出口を求めてもがいている。
環、と自分だけ下の名前を呼んで貰えることが嬉しかった。去年まではそんな些細な喜びを大事に抱きしめていられたのに、今ではもっとファットからの「特別」を望んでしまっている。
「酒はなぁ、体質との相性もあるし、ゆっくり自分のペースを掴めばええよ。せやから、今日みたいにガンガン飲むんはもぉやめとき」
サイドキックとしての働きぶりがいくら板についてきても、ファットは未だに環に対して庇護者の顔をよく見せる。歳の差があるので仕方ないとは思いつつも、環にはそれがどうにももどかしく感じられた。
「……ファットはいつもそうだ。こっちに来てもう二年になるのに、未だに子ども扱いが抜けない」
不意に、唇の端から本音がすべり落ちていく。
酒の力を借りる、という言い回し自体は耳にしたことがあったけれど、実際に体験してみると腑に落ちたような気がする。気が大きくなる、とはこういう状態のことを言うのだろうか。理性のリミッターが緩み、普段は隠しているはずの気持ちを次々に曝け出してしまう。
「えー、そんなことないで。サイドキックとしてこれ以上ないってくらい頼りにしてんで、ほんまに」
「仕事については、信頼して貰ってるのは分かってるつもりです。でも……」
「でも、なんやねん」
「……ファットの中の『天喰環』は、いつまでも子どものままだ」
赤い顔で上目遣いにファットを見やる。ファットは僅かに目を瞠って、手にしていた猪口を机に置いた。環の視界に、ファットの手の中できらきらと光を反射していた薩摩切子が映り込む。
この一年、隣に立っていて分かってきたことがある。恐らく、ファットは環が向ける温度に気付いたうえで、その意味から目を逸らしている。そして、本当に少しずつだったけれど、ファットの寄越す視線には、環と同じ熱が灯るようになっていた。
ファットがこの気持ちに応えようとしないのはたぶん思いやり故のことだろう、と環は自身を納得させてきた。優しい彼のことだから、ひと回りも歳が違うだとか、一時の気の迷いだとか、そんな風なことを考えているのかもしれない。
環は肌に当てていたグラスを離し、膝の上でぎゅっ、とてのひらを結ぶ。
「……ファット。俺、もう大人になったよ」
ファットの瞳をじっと見つめたまま、熱い頬に残った結露の雫を指先で拭う。淡い期待と緊張で視界は少しだけ潤んでいたけれど、ファットが小さく息をのんだように見えたのは、たぶん環の自惚れではない。
「……せやけどな、環。そない言うてるうちはまだまだおこちゃまやで。そりゃ確かにお前の実力は今すぐにでも独立できるレベルやけど、メンタルは相変わらずなとこもあるやろ」
「仕事の話じゃないって、さっきも言っただろ」
「仕事にしろプライベートにしろ、ファットさんやって、ハタチのころはまだまだどうしょうもないガキやったで」
「はぐらかさないで、ファット」
傲慢すぎるだろうか、という自問自答を、もう何度も繰り返している。けれど、ただひとりを見つめ続ける日々のなかで、ファットが自分にだけ見せてくれる表情があることを、環はもう知ってしまった。
「ファット。俺を拒まないで。俺をファットの隣にいさせてください」
微かに震える唇はこの期に及んで真っ直ぐな愛の言葉を喋らなかったけれど、これでいい、と思った。今の環にはこれが精一杯だったし、上辺だけ取り繕ったような睦言では、きっとファットには届かない。
ふたりの間に横たわる沈黙を、左胸の早鐘が急かすように叩いている。見つめ合うこと数秒、先に視線を外したのはファットの方だった。ふっ、と表情を緩めたファットは、困ったような笑顔をつくって見せて、それから環の髪を撫でた。
「拒むも何も、環が好きなだけおったらええよ。……こないに慕ぉてもろて、俺は幸せ者やな」
幸せ、という言葉の響きとは裏腹に、ファットは今にも泣き出しそうに見えた。頭から離れていく右手の体温を引き止めたいと思うのに、環の身体は思ったように動いてはくれない。
本当は気付いているくせに、とか、いい大人が逃げるな、とか、言いたいことはたくさんあった。けれど、その笑顔があまりに寂しそうだったから、環はそれ以上何も言えなくなってしまった。
思考はとうに冷えている。小皿に少しずつ残っていた一品料理を手早く片付けている間に、ファットが会計を済ませてくれていた。ご馳走様でした、と両手を合わせて頭を下げると、ファットはいつもの調子で朗らかに笑った。
この夜のことを無かったことにできるほど環は大人ではなかったけれど、同時に、この夜を引き摺って心を乱すほど子どもでもなかった。ファットと別れて乗り込んだ帰りのタクシーの後部座席で、環はひとり静かに泣いた。
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卒業シーズンを迎え、繁華街のざわめきがその勢いを増している。ヴィラン犯罪に加え一般市民間のトラブルも何かと増加傾向にあるこの時期、界隈のヒーロー事務所はパトロールやら事件の事後処理やらでどこも立て込んでいた。ファットガム事務所もその例外ではなく、所長であるファットはここ三日ほど事務所に泊まり込んでいる。
時刻は二十二時を少し過ぎたところ。今日を乗り越えれば溜まっている書類仕事がひと段落すると言うので、環はファットの制止も聞かず事務所に残り、黙々と雑務を片付けていた。
入所して三年。インターン生として事務所に籍を置いていたころと比べると、随分と視野を広く持てるようになったと思う。雇い主であるファットの得手不得手を把握し、そのうえでフォローが必要な場面を見極める。サイドキックとして忙しなく日々を送るなかで、自然とそんな立ち回りが身に着いていた。
フロアのあちこちに散らばっている書類をかき集めながら、環はしょぼしょぼと目を擦っているファットへ声を掛ける。
「ファット。あとどれくらいですか」
「一時間もあれば終わると思うんやけど……あかん、限界や。ちぃとばかし仮眠さしてくれ……」
夕方に発生したヴィラン同士の小競り合いの仲裁のせいで、ファットは脂肪を使い切っている。先ほどまでデスクの上に所狭しと広げられていたデリバリーのファストフードは、すべてファットの胃袋に収まってしまったようだった。いま食べたら絶対に眠くなりますよ、という三十分前の環の忠告は、三十路を迎えてなお衰えない食欲とヒーローとしての義務感にすんなり負けてしまったらしい。
「はあ、言わんこっちゃない。だから終わるまで我慢しろとあれほど……。十分後くらいに起こせば良いですか?」
「うう、環ぃ~~! ほんまにありがとうなあ。ほな、悪いけどよろしゅう頼むで……」
言うが早いか、ファットは電池が切れたおもちゃのようにばたり、とデスクに突っ伏した。程なくして、規則正しい呼吸のリズムが環の鼓膜を揺らし始める。静かになった空間を満たすのは、壁に掛かったアナログ時計の秒針の音と、ファットの穏やかな寝息の響きだけだった。
書類の整理を終え、給湯室へ。コーヒーメーカーの電源を入れ、抽出を待つ間、環は先ほどのファットの姿を思い出していた。
どんな見た目でもファットがファットであることに変わりはないし、もちろん彼の容姿に惹かれたわけではない。単に慣れの問題というのもあるだろう。けれど、数か月ぶりに目にするコミット後の佇まいに、環は確かな緊張を覚えていた。
ファットが常日頃から何の気なしに環に寄越す、師から弟子への、上司から部下への距離感。それだけでも手一杯なのに、もし、今のファットに触れられたら……そこまで考えて、環は小さくかぶりを振った。
触れたい。触れられたい。他者との性的な接触の経験がない環にとって、その感情は全くもって未知のものだった。そして、いつしかそうした感情をファットに向けるようになってしまった自分自身に対しても、ひどく狼狽え戸惑っている。
サイドキックとして、彼に相応しい人間になりたい。ひとりの人間として、ずっと隣にいさせてほしい。他の誰でもない、自分ひとりだけに触れてほしい。三年の月日とともに育ち続けている願いは、どんどん身勝手なものへと形を変えているようにすら思えた。
彼が纏っているすべてをひとつひとつ取り去って、その剥き出しの本音に触れてみたい。スーツの下に隠されている素肌の手触りを想像するのは、もう何度目か分からなかった。
カップから立ち上る香ばしい湯気が、環の罪悪感を刺激する。機械音が止まって訪れた静寂に、環の乾いた溜息が染み込んでいった。
耳の先に微かな体温が流れ込み、意識が浮上を始める。
「おはようさん。お陰様でさっき終わったから、ちゃちゃっと鍵閉めて帰ろか」
ゆっくりと目蓋を持ち上げると、帰り支度をしているファットと目が合った。ファットのデスクに積まれていた書類の山はすべて片付いており、環の肩には薄手のブランケットが掛けられている。
どうやらファットを仮眠から起こしてコーヒーを差し入れたあと、少しの間眠ってしまっていたらしい。彼の作業が終わるのを待っていようとソファに腰掛けてからの記憶がぼんやりとしている。靄の掛かったような回想を整理し終えたところで、環は緩慢な動作でまばたきを繰り返した。
「……すみません。ファットに小言を言っておきながら、結局俺も眠気に抗えなかった」
「そないなこと気にせんでええで。環も頑張ってくれたんやし」
からりと笑ったファットが、環の髪を軽く掻き混ぜる。頭上からもたらされたそのあたたかさに、まだ少し白んでいた環の思考が急激に現実に引き戻された。
目覚める直前、肌に伝わったぬくもり。目を閉じていても分かる彼の気配。尖りの直線をなぞるように往復してから、名残惜し気に離れていった指先に感じた切なさ。その仕草は、いつものからかうような戯れではなかった。
微睡みの中を彷徨う環に、ファットは確かに触れたのだ。
その事実に心が追いついた瞬間、環の中で何かが爆ぜる音がした。それはファットへの憧憬であり、叶わぬ思いへの諦念であり、それから、どうしようもなく恋だった。
衝動的に立ち上がり、ファットの手首を掴む。そのままぐい、と力任せに引っ張れば、大きな体躯が前につんのめった。
「え、ちょ、急にどないしたん!?」
背に投げられる焦りの滲んだ疑問符に振り向くことなく、早足で歩を進める。その強引さに慌てた声を上げるファットを給湯室へと押し込んで、環は後ろ手に扉を閉めた。
場所を移したのは、フロアの天井に設置されている監視カメラを避けるためだ。脳が沸騰しているような心地さえあるのに、一方でどこか冷めている、不思議な感覚だった。
状況を掴めずに目を白黒とさせているファットが口を開く前に、環は自身の右耳を指差した。
「……ファット。さっき、俺のここ、触ったでしょう」
先ほど触れられたのと同じように耳殻の輪郭線を人差し指で撫で上げると、ファットの喉が僅かに上下したのが分かった。それを肯定と取り、環は続ける。
「ファットはずるい。……あんな優しい手つき、勘違いするなっていう方が無理だ」
「たまき、」
「俺の気持ちに向き合わないくせに、自分ばっかり無遠慮に触れて、振り回して。俺がどれだけファットに触れたいと思ってるか、あなたが知らないはずがないのに」
ずるいよ、と続けた声は掠れている。耳に届いた抗議はひどく子どもじみていて、それを惨めに感じるけれど、それでも伝えなくてはいけないと思った。
一度目の春。赤く染まった耳の先には気付かない振りで、彼は笑った。
二度目の春。泣き出しそうな笑顔とともに、大きなてのひらが髪を撫でた。
そうしてまた季節が巡り、三度目の春を、環はいま始めようとしている。
「ファット、聞いて。俺はファットのことが他の誰よりいちばん大事なんだ。もっとあなたに触れたいし、触れてほしいって、そう思ってる。だから、」
無かったことになんてしないで。涙混じりの懇願がこぼれ落ちてしまう直前、環の唇にファットのとろけるような体温が降った。堰を切って溢れ出るはずだった環の感情は、そのすべてが、リノリウムを蹴って距離を詰めたファットの口内に受け止められていく。
はじめて感じる唇の熱さに、世界中がふっ、とその動きを止める。そっと重なるだけの、心を解くようなキス。自身の唇にファットの唇が触れたのだと理解するのと、彼のそれが微かに震えていることに気付いたのは、ほとんど同時だった。
「……堪忍な、環。何を今更、と思われてもしゃあないけど、せめてそれは俺から言わせて」
眉を寄せるファットの表情は切なげに揺れている。ファットもこんな顔するんだ、などと未だ処理が追いついていない脳みそが間の抜けた感想を弾き出している間に、環の身体はファットの両腕に抱き竦められていた。
背中から伝わる体温と、抱き締める腕の力強さ。耳元で息づく熱い呼吸。はじめての感覚が一気に押し寄せてきたせいでろくに思考が回らず、環はファットの言葉を聞き漏らすまいと意識を保つので精一杯だった。
「俺もおんなじ……環が一番や。悪いけど、もう離してやれそうにないねん。どこにも行かんといてや」
いつか似たような気持ちが返ってくればいい、なんて淡い希望はとっくに仕舞い込んでいたはずだった。自分に対する視線が少しずつ熟れていくのに気付いたときだって、彼はそれを押し殺しているように見えたから、これ以上を期待するなと必死に言い聞かせてきた。それなのに、心の底で捨て切れていなかった欲望が、ファットの言葉で、鼓動で、無防備に差し出されている。
「環の気持ちも、自分の気持ちも、見ないフリばっかで……ようさん傷つけたよな。環は勇気出してぶつかってきてくれとったのに、ええ歳してほんまに情けないわ」
ごめんなあ、と呟いたファットのてのひらが、環の背をゆっくりとさすり始める。往復するその優しいリズムに、環の瞳に溜まっていた涙のひと粒がついに溢れた。
行く当てもなくぶら下がったままだった両手を、そろそろとファットの背中へ回す。伺うように少しずつ腕に込める力を強めてみると、ファットが微笑んだ気配がした。
心地の良い熱に包まれながら、大切な人と同じ思いを渡し合えることの尊さを思う。これまでひとりで大事に守ってきた感情は、これからのふたりを繋ぐものへとその姿を変えていくのだろう。
「……俺、ファットのこともっと知りたい。さっきから知らないことばかりで、頭がパンクしそうなんだ」
「そうやな。今日までやきもきさせてしもた分、ファットさんがどれだけ環を大事に思てるか、ちゃあんと伝えなあかんな」
「うん。その、俺はファットがはじめてだから、ぜんぶ教えて」
環の返事に身を固くしたファットが、ふと耳元へと唇を寄せる。突然近付いた吐息の感覚に身じろぎをした瞬間、逃がすまいとでも言うように、環の鼓膜に欲を滲ませた低い囁きが注ぎ込まれた。
「……そないにかわいいこと言われたら、我慢できんくなってまうで」
我慢ができなくなる。その言葉の意味するところに理解が追いつくと同時に、全身の血が沸騰するように熱くなり、環は唇をはくはくと震わせた。咄嗟に勢いよく身体を離して見上げると、うっすらと赤みの差した頬でにんまりと笑うファットと目が合う。
良いようにからかわれたことは明白だったけれど、それよりも、環の意識ははじめて聞いたファットの声色に揺れていた。心の淵を甘くなぞって溶かしてしまうような、そんな誘惑を孕んだ声だった。
確かに教えてほしいとは口にしたけれど、これは想定をとっくに超えてしまっている。こんなことが続いたら、免疫のない心臓は呆気なく弾け散ってしまうに違いない。
環は思わず視線を落とし、ぎゅっ、と自身のTシャツの裾を握り込んだ。
「……ファット、あの」
ゆっくりでお願いします、と絞り出した環の蚊の鳴くような声に、ファットが楽しそうに破顔した。
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生まれたての朝日がカーテンのレースを透かしていた。休みの朝なのについ習慣でつけてしまった情報バラエティ番組では、ニュースキャスターが軽やかに春を告げる。
朝食後のカフェオレは、ファットの希望通り、ミルク多めに砂糖を少し。ダイニングテーブルの向かい側、マグカップを受け取った彼の表情が、湯気の向こうで綻んでいる。
何気ない日々をふたりで積み重ねていくうちに、気付けばファットが隣にいるのが当たり前になっている。ファットと生活を共にするようになってもう数年になるけれど、彼にコーヒーを手渡すとき、環の胸には決まってあの夜の記憶が蘇る。
彼が心を差し出してくれたこと、きつく抱き締めてくれたこと。あの瞬間から、ふたりの人生はゆっくりと溶け合い始め、今では互いが互いの帰る場所として生きている。
ふたり揃ってのオフは二ヶ月ぶりで、加えてファットは脂肪を使い切っていた。昨夜は業務の疲れからすぐに眠ってしまったから、環の肌は知らず知らずにファットの体温を呼んでしまう。
「やっぱり環の淹れてくれるカフェオレがいっちゃん美味いわあ」
満足そうに微笑むファットの目尻には、出会った頃よりもやや深くなった皺が刻まれている。それなのに、窓から射し込む朝日に光る少年のような瞳はあの日のままで、そのコントラストが環の欲をどうしようもなくくすぐった。睫毛、唇、首筋、鎖骨。無意識に、彼を構成するパーツを上から順に視線でなぞっていく。
縋るような環のまなざしにファットはすぐに気付いたようで、悪戯っぽく笑いながらカップを置き、椅子を引いた。立ち上がったファットが自身の元へと辿り着くまでの、そのたった数秒が、環にはひどく待ち遠しく思えた。見下ろすようにして立つファットの手が、環の顎を掬い上げる。
「……朝からなんて目ェしてんの」
返す間もなく、環の視界はファットのつくる影で覆われていく。捧げるように降ってくる唇の温度は、何度経験しても環をたまらない気持ちにさせる。啄むような触れ合いに先に音を上げたのは環の方だった。
金色の髪の向こうにちらつくテレビ画面には、桜前線が映し出されていた。空を彷徨っていたファットの手がテーブルの上のリモコンへと辿り着いて、耳の内側に響く水音がその存在感を増していく。電源が切れた液晶に、重なるふたりのシルエットが反射して見えた。
離れていく唇を名残惜しい気持ちで見つめていると、ファットが火照った顔で言う。
「やーらしい顔。環がこーんな表情するなんて、はじめは想像もできんかったわ。ほんま、スケベに育ってしもたなあ」
「誰のせいだと思ってるんだ……。というか、ファットはそう言うけど、俺は割と早いうちからファットをそういう目で見てたし」
シャツの裾にてのひらを滑り込ませると、頭上でファットが喉を鳴らす気配がした。腹筋の窪みのひとつひとつを親指の腹で撫で上げれば、じんわりと腹の底に広がっていく熱を止めることはできなくなる。まだ幼さが残る時分に切なく夢想していた素肌を、この数年ですっかり欲張りになってしまった環の右手が暴いていく。
身じろぎとともに浅い息を吐いたファットが、再び環の方へと距離を詰めてくる。その唇を左手で制して、環は席を立った。
「ファット、ストップ。悪いけど、準備してくるから先に寝室に行っててくれる?」
「……たまきぃ。ジブン、分かっててやっとるやろ。そっちから誘ってきたクセに、こないな生殺し……」
お預けを食らったファットは唇を引き結んで頬を薄く染めている。幼子のように口を尖らせる仕草が可愛くて、環の口の端から思わず笑みがこぼれた。このままここで無邪気な表情が切羽詰まった色に染まっていくのを堪能するのも悪くないけれど、どうせなら、ベッドの上での醍醐味に取っておきたい。
「……昨日先に寝ちゃった分、たくさん頑張るから。いい子で待ってて」
つま先立ちになり耳元でそっと囁くと、ファットが身体を固くして息を呑んだのが分かった。ぎゅっと目を閉じて「待ちますけどもぉ……!」と絞り出したファットの言葉を、環の弾むような笑い声が追いかける。
ふた口ほどしか飲んでいないままのカフェオレは、もう大分冷めてしまったかもしれない。環はファットの頬に唇を寄せ、ぬるい幸せを享受した。
「今日も平和やなあ……ヒーローが暇なんはええことや」
午後のパトロールの終わりがけ、ファットが丸みを帯びた声で笑った。彼のコスチュームがつくる黄色の曲線を、空から滲んだ西日が溶かしている。
季節外れの卒業式の明くる日、ほとんど身ひとつで大阪へと越してきてから、はじめての春を迎えようとしている。ファットガム事務所のサイドキックとして活動する日々は目まぐるしく、環はあっという間にひとつ歳を重ねた。
卒業後の進路については悩まなかった。卒業後にインターン先へとそのまま就職するという流れは慣例だったけれど、決してそれが理由ではない。
大阪に暮らす人々の生活を、文字通りその大きな体躯で支えるヒーロー・ファットガム。その慈愛に満ちた仕事ぶりを間近で見つめることができたのは、環の人生にとって大きな転換点となった。地域に根差した活動を地道に積み上げるその背中に、自分もこの人のようなヒーローになれたら、と胸の内にあたたかな火が灯るようだった。
何より、まだ個性の扱い方も危なっかしかった自分をインターン生として受け入れてくれた彼に報いたいと思った。個性の伸ばし方や現場での立ち回りといったヒーローとしての目線はもちろん、ひとりの人間としても、彼が授けてくれたものはあまりにも多かった。
自分という存在に自信を持つこと。自らの能力に誇りを持つこと。その大切さを根気強く説き、ひとりで立てるようにと導いてくれた師のことを、環は掛け値なしに尊敬していた。からかうような軽口が臆病な自意識を刺してくるのは相変わらずだけれど、それも彼なりの背中を押す方法なのだと、今ではもうよく知っている。
「平和なのは、ファットが毎日こうしてこまめに見て回っているからじゃないですか」
普段はその大雑把な性格や生活態度に小言を投げるばかりだけれど、今日くらいは素直に思っていることを伝えてみようか。そんな風に思うのは、肌を撫でる初春の大気のぬくもりが心地良いせいかもしれない。
「なんや、環。今日はやけに褒めるやん」
「別に、今日に限ったことじゃない……改めて口にする機会がないだけで、すごいなって、いつも思ってますよ」
「そらおおきに。せやけど、それを言うたらジブンもやで。サンイーターも、この街を守っとる立派なヒーローやねんで」
返ってきた裏表のない言葉に、何だかとても恥ずかしいことを言ったし言われた気がして、熱が集まってくる頬を隠すようにフードを目深に被り直した。ありがとう、と小さく呟くと、ファットの大きなてのひらがぽん、と背中に添えられた。人好きのするからりとした笑顔の後ろで、夕暮れがグラデーションをつくっている。
敵わないな、と思う。ファットの朗らかな大らかさに、環はいつもたやすく丸め込まれてしまうのだ。
どれだけ背伸びをしたところで、十二年の経験値の差はそう簡単に埋まるものではない。さっきだって、先に素直になったのは環の方だったのに、ファットが寄越した真っ直ぐな賛辞に、こんなにも胸が躍っている。
彼の隣に立つときは、自然と視線が上向きになる。身長差のために当然環が見上げる形になるのだけれど、そういう物理的なものだけではなくて、精神的な在り様についてもそうだと感じている。彼は、環の心に新しい角度をくれた。
誰かが自分を慈しんでくれることが、こんなにも気持ちをあたたかくしてくれることを、ファットに出会うまでの環は知らなかった。それから、そのふくよかな愛が自分だけに向けられるものではないと知った日の、あの軋むような鈍い痛みも。出会ったときには性質の差からむしろ苦手とすら感じていたのに、環からファットへの思いは日に日に角が落ちていき、気付けば光を反射してきらめく憧憬へと形を変えていた。
「ほな、そろそろ戻ろか。帰りにたこ焼き買ぉていかなな!」
好物を思い浮かべているであろう楽しそうな横顔に、思わず口元が緩む。十二も上の男性をそんな風に思うのは失礼かと思わないでもないけれど、彼が時折見せる子供のような一面はとてもかわいらしくて、環の本能をくすぐってやまない。
「待って、ファット。いい歳して走らないでくださ……、?」
贔屓のたこ焼き屋の方角へと意気揚々と駆け出したファットを追おうとしたところで、重心が後ろに引っ張られ、踏み出した右足が空を蹴った。咄嗟に振り返ると、マントの裾をぎゅっ、と掴む小さな手が目に入る。三つか四つくらいの小さな女の子が、心細そうに環のマントにしがみついていた。
「おかあさん、どこ……?」
夕方の商店街を行き交う人の波に呑まれたのか、どうやら母親を見失ってしまったらしい。少女の大きな目には、今にも溢れそうな涙の海が満ちている。
環はもう一度ファットを呼び止めて、少女の目線に合わせて身を屈めた。不安に揺れる瞳に、できるだけ優しく語りかける。
「……迷子、かな。お母さんとはぐれてしまったんだね」
環の問いに、少女が控えめに頷く。
母親の方はこのあとファットと二人で探すとして、まずは目の前の少女の不安を和らげてあげたい。どうにか気を紛らわせられないか、と思案したところで、ひとつのアイデアが浮かんだ。思い出したのは、今朝の朝食だ。
「ファット、この子のお母さん、一緒に探そう。まだそんなに遠くには行ってないだろうし、きっと向こうも必死に探しているだろうから」
「おお。ほな、ファットさんが肩車したろな。ほんなら嫌でも目につくやろ」
「ありがとう。でも、その前に、少しだけ。……ええと。お兄さんのここ、見ててくれる?」
環は少女の前に両手を差し出すと、てのひらいっぱいに赤いばらの花を咲かせた。少女は潤んでいた両目を見開いて、わぁっ、と感嘆の声を漏らし、次々と開いていく花びらを興味深そうに見つめている。少女の笑顔に、環はほっ、と胸を撫で下ろした。
「お花、喜んでもらえてよかった。そうしたら、一緒にお母さん、探しに行こうか」
「うん! おにいちゃん、ありがとう!」
「よぉし、ほな、こっからはファットさんの出番やな! すぐにおかんに会わせたるから安心したってな」
少女を肩に担いだファットは、本人の言った通り恐ろしく目立った。はじめての高さに興奮していた少女は数分も経たないうちに母親の目に留まり、今度はしっかりと母親に手を引かれながら、住宅街の方面へと消えていった。
何とお礼を言ったら良いか、と何度も頭を下げる母親に、ファットがにっかり笑って「今後ともうちのサンイーターをご贔屓に!」なんて言うものだから、環は背中におかしな汗をかく羽目になった。
遠ざかっていく二人の影を見送り、元の帰路につこうと踵を返したところで、ファットがにやりと意地の悪い笑みを浮かべる。
「それにしても、あの奥手な環が女の子に花を贈るようになるなんてなあ。ファットさん、びっくりして十キロは減ったで」
「ちょっと、語弊しかない言い方はやめてください。というか、どういう理屈なんだ……」
にまにまと口元を抑えているファットは、環をからかうことをやめない。むずがゆくてたまらないのに、昨年までよりもさらに遠慮がなくなったこの距離感を好ましいと感じている自分もいる。
「せやかて、やけに情熱的な真っ赤な薔薇やったやん。あんなんいつどこで食うたん?」
「今朝。頂き物のばらのジャムを、トーストに塗りました」
「は~~~~、小洒落たもんもろてから。プレゼントちゅうことは、絶対女の子からやろ。こぉんな大人しそうなツラしてるくせに、環も隅に置けへんな」
「ファット、セクハラ……いや、パワハラか……? まあどっちでも良いけど、貰ったのはこの間ファットと助けたお婆さんです」
花を贈りたいのも、プレゼントを貰いたいのも、それ以外だってぜんぶ、ファットだけなのに。
環がいつか異性の恋人と添い遂げることを当たり前に信じているであろう彼に、そんな風に告げたら、いったいどんな顔をするのだろう。
正式に事務所のサイドキックとなった頃合いからだろうか、ファットはたまに環のプライベートの様子を気に掛ける素振りを見せるようになった。曰く、守りたいと思う誰かがおるちゅうんはええことやで、らしい。
そうした話題を振られるたび、環の心は少しばかり重たくなる。いつか同じ気持ちが返ってくるかも、なんて淡い期待は抱いていなかったけれど、彼にとって自分はただの部下でしかないのだと自覚する瞬間には、舌の奥の方が苦味走った。
どうか守らせてほしいと願う存在なら、環はとうに見つけている。これまで庇護されてばかりだった分、今度は自分が支えたい、と強く思うのは、他でもないファットに対してだけなのだ。
沈みゆく夕日が、辺り一面を橙に染めている。何度も一緒に歩いた道に、ファットのやわらかな声が寄り添うように降りてくる。
「でも、驚いたんはほんまやで。個性でちっさい子にあんな風に優しくできるなんて、やるやん、環」
そう言って、ファットはわしわしと環の髪をかき混ぜた。頭に感じるグローブの感触は、何度経験しても、やっぱりどうにもこそばゆい。
ファットはいつだって、環が欲しいと思うものを飾らずに与えてくれる。少しの進歩も逃すまい、と気にかけてくれる。それがどれだけ環の心を掬い上げてくれているのか、きっとファットは知らないのだ。
だから、あなたがこんなにも眩しい。
環は切れ長の瞳をさらに細め、胸を満たしている思いをありのままに夕映えに落としていく。
「……俺に力の使い方を教えてくれたのは、ファットです」
「ん? まあ、扱い方とか伸ばし方って言うたらそうやろうな」
「うん、でも、それだけじゃなくて。……俺は、自分の個性であんな風に誰かが笑ってくれるなんて、こっちに来るまでは想像もしなかったんだ」
ファットは環に会話のペースを委ね、一呼吸ごとに短く相槌を打っている。ばらばらの形の影をつくっている二人の身体を、同じ春の風が靡いていった。
「だから、俺が優しく在れているのなら、それはファットが俺にそうしてくれたからで……」
ふ、と息を吐いて、呼吸のペースを整える。身体中の血液が集まってくるみたいに、首から上が熱くなるのを感じていた。環はまだ駆け引きというものを知らない。頬が真っ赤に染まっていくのは自分でも分かっていたけれど、それを誤魔化す術は持ち合わせていなかった。
環はつま先に落としていた視線を上げて、ファットの視線を捉まえる。
「これからは、俺がファットの力になります」
胸のなかで育まれ続けてきた思いが、輪郭を持った音として大気を震わせる。それは『サンイーター』としての決意であり、誓いであり、そして、どうしようもなく『天喰環』の祈りだった。
弾けるように破顔して、ファットが環の背をばしん、と叩く。
「ほんまに頼もしゅうなったなあ。こりゃファットガム事務所の未来は安泰やで!」
「うん、そうなるように頑張ります」
ファットはきっと、この切なさに気付いている。
普段から周りをよく見ている人だから、環の耳の先の尖りが赤く色づいているのが夕日のせいではないことなんて、たぶんとっくに見抜かれてしまっている。
自分はまだどうしようもなく子どもで、日に日に大きくなっていく気持ちの正しい吐き出し方なんて分からない。だから、今はせめて部下として、彼の隣に相応しい人間になりたい。
そんな風に思っていると、ふと環の視界を影が覆った。フードを外された、と気付いたときには、既につむじにファットのてのひらの温度を感じていた。
「……ありがとうな、環」
西日が眩しいのだろうか、ファットは丸い瞳を少し細くして、そう静かに笑った。嬉しいくせに何かを諦めているみたいなその笑顔を、環ははじめて見る顔だ、と思った。
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ふわふわと宙に浮きそうな思考を何とか繋ぎ止めている。
「環、大丈夫か? ほい、これ飲みや」
「ありがとう、ございます……」
ファットが差し出してくれたグラスに口をつける。冷水が喉を通っていく感覚が心地よい。こんなはずではなかった、という青い後悔とともに、環はアルコール混じりの生ぬるい息を吐いた。
大阪に越してきて二度目の春、環はニ十歳の誕生日を迎えた。
成人のお祝いは、当日にファット馴染みの飲み屋を貸切って事務所総出で盛大に行ってもらった。はじめてのビールは噂に違わず苦かったし、かわるがわる勧められた焼酎の良さもまだ全然分からなかったけれど、何よりファットや同僚たちの気持ちが嬉しかった。
それだけでも十分ありがたいと思っていたところに、今朝になってファットから「改めてゆっくり祝いたいから」と食事に誘われて、環は柄にもなく舞い上がった。大切な人が自分の人生の節目をめでたく思ってくれている。そう思うと、胸の内にあたたかいものが広がった。
退勤後に連れてこられたのは落ち着いた雰囲気の小料理屋で、個室にはファットとふたりきり。心の奥の方から滲み出るどうしようもない嬉しさと、久しぶりにふたりで夜を過ごす緊張で、環は知らず知らずのうちに慣れないアルコールに呑まれてしまった。
「すみません、ファット。せっかく誘ってくれたのに……」
「謝らんとええよ。俺の方こそ、ええ飲みっぷりやったからつい飲ませすぎてしもて、ごめんな」
冷えたグラスを頬に当てると、耳元で氷がガラスに触れる軽い音が鳴った。アルコールが入っているせいか、ファットの笑顔がいつもよりやわらかいような気がして、好きだな、と反射的に思う。
ファットの元でサイドキックとして働き始めてから、もうすぐ二年。師への尊敬の延長線上にあった環の思いは、この一年で少し欲深くなったように思う。共に過ごす時間が増えていくほど、胸の内に巣食っている感情は綺麗なだけではいられなくなって、まだ見ぬ出口を求めてもがいている。
環、と自分だけ下の名前を呼んで貰えることが嬉しかった。去年まではそんな些細な喜びを大事に抱きしめていられたのに、今ではもっとファットからの「特別」を望んでしまっている。
「酒はなぁ、体質との相性もあるし、ゆっくり自分のペースを掴めばええよ。せやから、今日みたいにガンガン飲むんはもぉやめとき」
サイドキックとしての働きぶりがいくら板についてきても、ファットは未だに環に対して庇護者の顔をよく見せる。歳の差があるので仕方ないとは思いつつも、環にはそれがどうにももどかしく感じられた。
「……ファットはいつもそうだ。こっちに来てもう二年になるのに、未だに子ども扱いが抜けない」
不意に、唇の端から本音がすべり落ちていく。
酒の力を借りる、という言い回し自体は耳にしたことがあったけれど、実際に体験してみると腑に落ちたような気がする。気が大きくなる、とはこういう状態のことを言うのだろうか。理性のリミッターが緩み、普段は隠しているはずの気持ちを次々に曝け出してしまう。
「えー、そんなことないで。サイドキックとしてこれ以上ないってくらい頼りにしてんで、ほんまに」
「仕事については、信頼して貰ってるのは分かってるつもりです。でも……」
「でも、なんやねん」
「……ファットの中の『天喰環』は、いつまでも子どものままだ」
赤い顔で上目遣いにファットを見やる。ファットは僅かに目を瞠って、手にしていた猪口を机に置いた。環の視界に、ファットの手の中できらきらと光を反射していた薩摩切子が映り込む。
この一年、隣に立っていて分かってきたことがある。恐らく、ファットは環が向ける温度に気付いたうえで、その意味から目を逸らしている。そして、本当に少しずつだったけれど、ファットの寄越す視線には、環と同じ熱が灯るようになっていた。
ファットがこの気持ちに応えようとしないのはたぶん思いやり故のことだろう、と環は自身を納得させてきた。優しい彼のことだから、ひと回りも歳が違うだとか、一時の気の迷いだとか、そんな風なことを考えているのかもしれない。
環は肌に当てていたグラスを離し、膝の上でぎゅっ、とてのひらを結ぶ。
「……ファット。俺、もう大人になったよ」
ファットの瞳をじっと見つめたまま、熱い頬に残った結露の雫を指先で拭う。淡い期待と緊張で視界は少しだけ潤んでいたけれど、ファットが小さく息をのんだように見えたのは、たぶん環の自惚れではない。
「……せやけどな、環。そない言うてるうちはまだまだおこちゃまやで。そりゃ確かにお前の実力は今すぐにでも独立できるレベルやけど、メンタルは相変わらずなとこもあるやろ」
「仕事の話じゃないって、さっきも言っただろ」
「仕事にしろプライベートにしろ、ファットさんやって、ハタチのころはまだまだどうしょうもないガキやったで」
「はぐらかさないで、ファット」
傲慢すぎるだろうか、という自問自答を、もう何度も繰り返している。けれど、ただひとりを見つめ続ける日々のなかで、ファットが自分にだけ見せてくれる表情があることを、環はもう知ってしまった。
「ファット。俺を拒まないで。俺をファットの隣にいさせてください」
微かに震える唇はこの期に及んで真っ直ぐな愛の言葉を喋らなかったけれど、これでいい、と思った。今の環にはこれが精一杯だったし、上辺だけ取り繕ったような睦言では、きっとファットには届かない。
ふたりの間に横たわる沈黙を、左胸の早鐘が急かすように叩いている。見つめ合うこと数秒、先に視線を外したのはファットの方だった。ふっ、と表情を緩めたファットは、困ったような笑顔をつくって見せて、それから環の髪を撫でた。
「拒むも何も、環が好きなだけおったらええよ。……こないに慕ぉてもろて、俺は幸せ者やな」
幸せ、という言葉の響きとは裏腹に、ファットは今にも泣き出しそうに見えた。頭から離れていく右手の体温を引き止めたいと思うのに、環の身体は思ったように動いてはくれない。
本当は気付いているくせに、とか、いい大人が逃げるな、とか、言いたいことはたくさんあった。けれど、その笑顔があまりに寂しそうだったから、環はそれ以上何も言えなくなってしまった。
思考はとうに冷えている。小皿に少しずつ残っていた一品料理を手早く片付けている間に、ファットが会計を済ませてくれていた。ご馳走様でした、と両手を合わせて頭を下げると、ファットはいつもの調子で朗らかに笑った。
この夜のことを無かったことにできるほど環は大人ではなかったけれど、同時に、この夜を引き摺って心を乱すほど子どもでもなかった。ファットと別れて乗り込んだ帰りのタクシーの後部座席で、環はひとり静かに泣いた。
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卒業シーズンを迎え、繁華街のざわめきがその勢いを増している。ヴィラン犯罪に加え一般市民間のトラブルも何かと増加傾向にあるこの時期、界隈のヒーロー事務所はパトロールやら事件の事後処理やらでどこも立て込んでいた。ファットガム事務所もその例外ではなく、所長であるファットはここ三日ほど事務所に泊まり込んでいる。
時刻は二十二時を少し過ぎたところ。今日を乗り越えれば溜まっている書類仕事がひと段落すると言うので、環はファットの制止も聞かず事務所に残り、黙々と雑務を片付けていた。
入所して三年。インターン生として事務所に籍を置いていたころと比べると、随分と視野を広く持てるようになったと思う。雇い主であるファットの得手不得手を把握し、そのうえでフォローが必要な場面を見極める。サイドキックとして忙しなく日々を送るなかで、自然とそんな立ち回りが身に着いていた。
フロアのあちこちに散らばっている書類をかき集めながら、環はしょぼしょぼと目を擦っているファットへ声を掛ける。
「ファット。あとどれくらいですか」
「一時間もあれば終わると思うんやけど……あかん、限界や。ちぃとばかし仮眠さしてくれ……」
夕方に発生したヴィラン同士の小競り合いの仲裁のせいで、ファットは脂肪を使い切っている。先ほどまでデスクの上に所狭しと広げられていたデリバリーのファストフードは、すべてファットの胃袋に収まってしまったようだった。いま食べたら絶対に眠くなりますよ、という三十分前の環の忠告は、三十路を迎えてなお衰えない食欲とヒーローとしての義務感にすんなり負けてしまったらしい。
「はあ、言わんこっちゃない。だから終わるまで我慢しろとあれほど……。十分後くらいに起こせば良いですか?」
「うう、環ぃ~~! ほんまにありがとうなあ。ほな、悪いけどよろしゅう頼むで……」
言うが早いか、ファットは電池が切れたおもちゃのようにばたり、とデスクに突っ伏した。程なくして、規則正しい呼吸のリズムが環の鼓膜を揺らし始める。静かになった空間を満たすのは、壁に掛かったアナログ時計の秒針の音と、ファットの穏やかな寝息の響きだけだった。
書類の整理を終え、給湯室へ。コーヒーメーカーの電源を入れ、抽出を待つ間、環は先ほどのファットの姿を思い出していた。
どんな見た目でもファットがファットであることに変わりはないし、もちろん彼の容姿に惹かれたわけではない。単に慣れの問題というのもあるだろう。けれど、数か月ぶりに目にするコミット後の佇まいに、環は確かな緊張を覚えていた。
ファットが常日頃から何の気なしに環に寄越す、師から弟子への、上司から部下への距離感。それだけでも手一杯なのに、もし、今のファットに触れられたら……そこまで考えて、環は小さくかぶりを振った。
触れたい。触れられたい。他者との性的な接触の経験がない環にとって、その感情は全くもって未知のものだった。そして、いつしかそうした感情をファットに向けるようになってしまった自分自身に対しても、ひどく狼狽え戸惑っている。
サイドキックとして、彼に相応しい人間になりたい。ひとりの人間として、ずっと隣にいさせてほしい。他の誰でもない、自分ひとりだけに触れてほしい。三年の月日とともに育ち続けている願いは、どんどん身勝手なものへと形を変えているようにすら思えた。
彼が纏っているすべてをひとつひとつ取り去って、その剥き出しの本音に触れてみたい。スーツの下に隠されている素肌の手触りを想像するのは、もう何度目か分からなかった。
カップから立ち上る香ばしい湯気が、環の罪悪感を刺激する。機械音が止まって訪れた静寂に、環の乾いた溜息が染み込んでいった。
耳の先に微かな体温が流れ込み、意識が浮上を始める。
「おはようさん。お陰様でさっき終わったから、ちゃちゃっと鍵閉めて帰ろか」
ゆっくりと目蓋を持ち上げると、帰り支度をしているファットと目が合った。ファットのデスクに積まれていた書類の山はすべて片付いており、環の肩には薄手のブランケットが掛けられている。
どうやらファットを仮眠から起こしてコーヒーを差し入れたあと、少しの間眠ってしまっていたらしい。彼の作業が終わるのを待っていようとソファに腰掛けてからの記憶がぼんやりとしている。靄の掛かったような回想を整理し終えたところで、環は緩慢な動作でまばたきを繰り返した。
「……すみません。ファットに小言を言っておきながら、結局俺も眠気に抗えなかった」
「そないなこと気にせんでええで。環も頑張ってくれたんやし」
からりと笑ったファットが、環の髪を軽く掻き混ぜる。頭上からもたらされたそのあたたかさに、まだ少し白んでいた環の思考が急激に現実に引き戻された。
目覚める直前、肌に伝わったぬくもり。目を閉じていても分かる彼の気配。尖りの直線をなぞるように往復してから、名残惜し気に離れていった指先に感じた切なさ。その仕草は、いつものからかうような戯れではなかった。
微睡みの中を彷徨う環に、ファットは確かに触れたのだ。
その事実に心が追いついた瞬間、環の中で何かが爆ぜる音がした。それはファットへの憧憬であり、叶わぬ思いへの諦念であり、それから、どうしようもなく恋だった。
衝動的に立ち上がり、ファットの手首を掴む。そのままぐい、と力任せに引っ張れば、大きな体躯が前につんのめった。
「え、ちょ、急にどないしたん!?」
背に投げられる焦りの滲んだ疑問符に振り向くことなく、早足で歩を進める。その強引さに慌てた声を上げるファットを給湯室へと押し込んで、環は後ろ手に扉を閉めた。
場所を移したのは、フロアの天井に設置されている監視カメラを避けるためだ。脳が沸騰しているような心地さえあるのに、一方でどこか冷めている、不思議な感覚だった。
状況を掴めずに目を白黒とさせているファットが口を開く前に、環は自身の右耳を指差した。
「……ファット。さっき、俺のここ、触ったでしょう」
先ほど触れられたのと同じように耳殻の輪郭線を人差し指で撫で上げると、ファットの喉が僅かに上下したのが分かった。それを肯定と取り、環は続ける。
「ファットはずるい。……あんな優しい手つき、勘違いするなっていう方が無理だ」
「たまき、」
「俺の気持ちに向き合わないくせに、自分ばっかり無遠慮に触れて、振り回して。俺がどれだけファットに触れたいと思ってるか、あなたが知らないはずがないのに」
ずるいよ、と続けた声は掠れている。耳に届いた抗議はひどく子どもじみていて、それを惨めに感じるけれど、それでも伝えなくてはいけないと思った。
一度目の春。赤く染まった耳の先には気付かない振りで、彼は笑った。
二度目の春。泣き出しそうな笑顔とともに、大きなてのひらが髪を撫でた。
そうしてまた季節が巡り、三度目の春を、環はいま始めようとしている。
「ファット、聞いて。俺はファットのことが他の誰よりいちばん大事なんだ。もっとあなたに触れたいし、触れてほしいって、そう思ってる。だから、」
無かったことになんてしないで。涙混じりの懇願がこぼれ落ちてしまう直前、環の唇にファットのとろけるような体温が降った。堰を切って溢れ出るはずだった環の感情は、そのすべてが、リノリウムを蹴って距離を詰めたファットの口内に受け止められていく。
はじめて感じる唇の熱さに、世界中がふっ、とその動きを止める。そっと重なるだけの、心を解くようなキス。自身の唇にファットの唇が触れたのだと理解するのと、彼のそれが微かに震えていることに気付いたのは、ほとんど同時だった。
「……堪忍な、環。何を今更、と思われてもしゃあないけど、せめてそれは俺から言わせて」
眉を寄せるファットの表情は切なげに揺れている。ファットもこんな顔するんだ、などと未だ処理が追いついていない脳みそが間の抜けた感想を弾き出している間に、環の身体はファットの両腕に抱き竦められていた。
背中から伝わる体温と、抱き締める腕の力強さ。耳元で息づく熱い呼吸。はじめての感覚が一気に押し寄せてきたせいでろくに思考が回らず、環はファットの言葉を聞き漏らすまいと意識を保つので精一杯だった。
「俺もおんなじ……環が一番や。悪いけど、もう離してやれそうにないねん。どこにも行かんといてや」
いつか似たような気持ちが返ってくればいい、なんて淡い希望はとっくに仕舞い込んでいたはずだった。自分に対する視線が少しずつ熟れていくのに気付いたときだって、彼はそれを押し殺しているように見えたから、これ以上を期待するなと必死に言い聞かせてきた。それなのに、心の底で捨て切れていなかった欲望が、ファットの言葉で、鼓動で、無防備に差し出されている。
「環の気持ちも、自分の気持ちも、見ないフリばっかで……ようさん傷つけたよな。環は勇気出してぶつかってきてくれとったのに、ええ歳してほんまに情けないわ」
ごめんなあ、と呟いたファットのてのひらが、環の背をゆっくりとさすり始める。往復するその優しいリズムに、環の瞳に溜まっていた涙のひと粒がついに溢れた。
行く当てもなくぶら下がったままだった両手を、そろそろとファットの背中へ回す。伺うように少しずつ腕に込める力を強めてみると、ファットが微笑んだ気配がした。
心地の良い熱に包まれながら、大切な人と同じ思いを渡し合えることの尊さを思う。これまでひとりで大事に守ってきた感情は、これからのふたりを繋ぐものへとその姿を変えていくのだろう。
「……俺、ファットのこともっと知りたい。さっきから知らないことばかりで、頭がパンクしそうなんだ」
「そうやな。今日までやきもきさせてしもた分、ファットさんがどれだけ環を大事に思てるか、ちゃあんと伝えなあかんな」
「うん。その、俺はファットがはじめてだから、ぜんぶ教えて」
環の返事に身を固くしたファットが、ふと耳元へと唇を寄せる。突然近付いた吐息の感覚に身じろぎをした瞬間、逃がすまいとでも言うように、環の鼓膜に欲を滲ませた低い囁きが注ぎ込まれた。
「……そないにかわいいこと言われたら、我慢できんくなってまうで」
我慢ができなくなる。その言葉の意味するところに理解が追いつくと同時に、全身の血が沸騰するように熱くなり、環は唇をはくはくと震わせた。咄嗟に勢いよく身体を離して見上げると、うっすらと赤みの差した頬でにんまりと笑うファットと目が合う。
良いようにからかわれたことは明白だったけれど、それよりも、環の意識ははじめて聞いたファットの声色に揺れていた。心の淵を甘くなぞって溶かしてしまうような、そんな誘惑を孕んだ声だった。
確かに教えてほしいとは口にしたけれど、これは想定をとっくに超えてしまっている。こんなことが続いたら、免疫のない心臓は呆気なく弾け散ってしまうに違いない。
環は思わず視線を落とし、ぎゅっ、と自身のTシャツの裾を握り込んだ。
「……ファット、あの」
ゆっくりでお願いします、と絞り出した環の蚊の鳴くような声に、ファットが楽しそうに破顔した。
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生まれたての朝日がカーテンのレースを透かしていた。休みの朝なのについ習慣でつけてしまった情報バラエティ番組では、ニュースキャスターが軽やかに春を告げる。
朝食後のカフェオレは、ファットの希望通り、ミルク多めに砂糖を少し。ダイニングテーブルの向かい側、マグカップを受け取った彼の表情が、湯気の向こうで綻んでいる。
何気ない日々をふたりで積み重ねていくうちに、気付けばファットが隣にいるのが当たり前になっている。ファットと生活を共にするようになってもう数年になるけれど、彼にコーヒーを手渡すとき、環の胸には決まってあの夜の記憶が蘇る。
彼が心を差し出してくれたこと、きつく抱き締めてくれたこと。あの瞬間から、ふたりの人生はゆっくりと溶け合い始め、今では互いが互いの帰る場所として生きている。
ふたり揃ってのオフは二ヶ月ぶりで、加えてファットは脂肪を使い切っていた。昨夜は業務の疲れからすぐに眠ってしまったから、環の肌は知らず知らずにファットの体温を呼んでしまう。
「やっぱり環の淹れてくれるカフェオレがいっちゃん美味いわあ」
満足そうに微笑むファットの目尻には、出会った頃よりもやや深くなった皺が刻まれている。それなのに、窓から射し込む朝日に光る少年のような瞳はあの日のままで、そのコントラストが環の欲をどうしようもなくくすぐった。睫毛、唇、首筋、鎖骨。無意識に、彼を構成するパーツを上から順に視線でなぞっていく。
縋るような環のまなざしにファットはすぐに気付いたようで、悪戯っぽく笑いながらカップを置き、椅子を引いた。立ち上がったファットが自身の元へと辿り着くまでの、そのたった数秒が、環にはひどく待ち遠しく思えた。見下ろすようにして立つファットの手が、環の顎を掬い上げる。
「……朝からなんて目ェしてんの」
返す間もなく、環の視界はファットのつくる影で覆われていく。捧げるように降ってくる唇の温度は、何度経験しても環をたまらない気持ちにさせる。啄むような触れ合いに先に音を上げたのは環の方だった。
金色の髪の向こうにちらつくテレビ画面には、桜前線が映し出されていた。空を彷徨っていたファットの手がテーブルの上のリモコンへと辿り着いて、耳の内側に響く水音がその存在感を増していく。電源が切れた液晶に、重なるふたりのシルエットが反射して見えた。
離れていく唇を名残惜しい気持ちで見つめていると、ファットが火照った顔で言う。
「やーらしい顔。環がこーんな表情するなんて、はじめは想像もできんかったわ。ほんま、スケベに育ってしもたなあ」
「誰のせいだと思ってるんだ……。というか、ファットはそう言うけど、俺は割と早いうちからファットをそういう目で見てたし」
シャツの裾にてのひらを滑り込ませると、頭上でファットが喉を鳴らす気配がした。腹筋の窪みのひとつひとつを親指の腹で撫で上げれば、じんわりと腹の底に広がっていく熱を止めることはできなくなる。まだ幼さが残る時分に切なく夢想していた素肌を、この数年ですっかり欲張りになってしまった環の右手が暴いていく。
身じろぎとともに浅い息を吐いたファットが、再び環の方へと距離を詰めてくる。その唇を左手で制して、環は席を立った。
「ファット、ストップ。悪いけど、準備してくるから先に寝室に行っててくれる?」
「……たまきぃ。ジブン、分かっててやっとるやろ。そっちから誘ってきたクセに、こないな生殺し……」
お預けを食らったファットは唇を引き結んで頬を薄く染めている。幼子のように口を尖らせる仕草が可愛くて、環の口の端から思わず笑みがこぼれた。このままここで無邪気な表情が切羽詰まった色に染まっていくのを堪能するのも悪くないけれど、どうせなら、ベッドの上での醍醐味に取っておきたい。
「……昨日先に寝ちゃった分、たくさん頑張るから。いい子で待ってて」
つま先立ちになり耳元でそっと囁くと、ファットが身体を固くして息を呑んだのが分かった。ぎゅっと目を閉じて「待ちますけどもぉ……!」と絞り出したファットの言葉を、環の弾むような笑い声が追いかける。
ふた口ほどしか飲んでいないままのカフェオレは、もう大分冷めてしまったかもしれない。環はファットの頬に唇を寄せ、ぬるい幸せを享受した。
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