Beyond the moon

 洗いざらしのシーツの白に、懐かしい赤が滑り落ちる。
 ネクタイの結び目を解いたのは、よく知っている優しくて大きなてのひら。けれど、その躊躇いの無い手つきは、自身の置かれている状況が現実のものではないことを環に自覚させた。
「雄英からの大事な預かりもんに我慢できんと手ェ出すなんて、俺はダメな大人やな」
 切なく掠れた低音を耳元に注ぎ込まれて、下腹に甘い疼きが走る。同時に、こんなことが起こるはずがない、と冷静に現状を俯瞰している自我も確かに存在していた。
 心と身体は離れ離れになってしまっていて、腕も、足先も、何ひとつ思い通りにはならない。例えるのであれば、自身の主演映画をもうひとりの自分が肉体の内側から撮影しているような感覚だった。
「大丈夫だから、ファットの好きなようにして……」
 制御の利かない舌が、意識の外から言葉を紡ぐ。出会ったころと同じ姿をした恋人の、その黄金色の瞳が、ゆらりと欲に揺れた。
 あっ、と思ったときにはもう、嚙み付くように唇を塞がれていた。後頭部に右手を回されて引き寄せられてしまえば、逃げることは叶わない。角度を変える度に深くなっていく口づけに、次第に息苦しさが募っていく。
 鼻で呼吸しろ、といくら命令してみても、経験のない身体は溺れるばかりで、酸素を求めて前歯を戦慄かせることしかできない。息継ぎのために一瞬ずらした重なりの、その隙間から漏れた浅い呼吸ごと絡め取られて、より一層激しく咥内を蹂躙された。
 子ども相手にずいぶん大人げない、と年若い恋人を責めることはできない。これは他でもない自分自身がかつて望んだ光景であり、絶対に叶うことのない願いの面影だということを、環の思考はすでに理解していた。
 恐らく、文字通りに『夢』を見ている。二十も半ばに差し掛かった環の意識が十代のころの肉体に無理やり捩じ込まれ、学生時代に抱いていた慎みのない妄想が、どういう訳かこうして具現化されている。
 はじめてファットと身体を繋げたのは、環が成人して少し経ったころ。それに加え、雄英を卒業するまでの自分が彼にとって単なる庇護の対象でしかなかったことは、他でもない環が一番よく知っている。
「環のかわええとこも、恥ずかしいとこも、全部見して」
 脳内に打ち寄せる水音のさざ波の合間を縫って、甘やかな懇願が運ばれてくる。肩から落ち掛けていたブレザーがファットの手によって性急に取り払われ、ベッドの下へと放り投げられた。
 袖を通さなくなって久しい学生服。それがどれだけ己の未成熟な心と身体を守ってくれていたかを知ったのは、サイドキックとしてインターン生を迎える立場になってからだった。その制服が、いま、憧れの人の手で脱がされている。
 十七歳の自分がワイシャツの下に隠していた浅ましい秘密が、月明りの下、ひとつひとつ暴かれていく。露わになった肌の輪郭にはまだ僅かに丸みが残っていて、我が事ながらいたたまれない。
「……ファット。本当に、俺でいいの……?」
 喉の奥から絞り出した不安には、寄り添うような優しいキスが落とされる。短く触れた唇の余韻にふわふわと浮かんでいると、頬を包んでいたてのひらが、愛おしむようにゆっくりと背骨を撫でた。他者に許したことのない新雪のような素肌に、愛しい人の足跡が刻まれていく。
「ファットにはもっと、太陽みたいな人が似合うのに」
「まぁたそないなこと言う。ファットさんはな、他の誰でもない環が好きやねん。なぁんも心配せんでええ、大丈夫」
 向日葵のように眩しい彼に、そのままでいいと肯定されたい。この身も心も、丸ごとすべて彼に明け渡してしまいたい。彼のもつ熱と、深く深く、繋がりたい。
 ブルーとグレーの狭間、幼い欲望が思うままに描いたシナリオの上映は続いていく。自身の青さを煮詰めて固めたようなそれは、とっくに成人を迎えた今の環にとって、到底見ていられるような代物ではなかった。
 どうにかしてこの状況から逃れたいと願っても、高まるばかりの若い肉体は依然として思うようには動いてくれない。物理的な目覚め以外にこのメロドラマを終わらせる術はないらしい、という推測の非情な結果に、暗澹たる気持ちが訪れる。
 幼稚な強請に応え、未熟な欲を満たしてくれる、甘く優しい偶像の恋人。その甲斐甲斐しさに、環の胸中はほろ苦い羞恥で埋め尽くされていった。
 あやすように降り注ぐ口づけには終わりがない。粘膜が触れ合って鳴るリズムの小休止を、切羽詰まった互いの喘ぎが埋めている。僅かに残っていた自制心を聴覚からも溶かされて、余裕のない心身はすぐに未曽有の快楽を受け止めきれなくなった。
「……ふ、環。顔トロットロやで。気持ちよぉてしゃあないみたいな面して……あ、こぉら。隠さんとってや」
 悪戯な笑みを浮かべ、ファットが舌先でその唇を湿らせる。反射的に顔を覆った両手はファットの大きな右手に呆気なく掴まえられて、そのまま手首ごとシーツに縫い付けられた。
 強引さを隠さないその仕草に雄の本能のようなものを感じ、未成熟な身体がはしたない期待にふるふると震えた。
「……あかん、もう我慢できそうにあれへん。環、ええか……?」
「……ん。来て、ファット……」
 くどいほどに絡み合うまなざしと、聞くに絶えない甘ったるい台詞の応酬が、傍観者たる環の理性を耐え難い恥辱で焼いていく。もうたくさんだ、やめてくれ、といくら請うたところで、その願いが叶えられる気配はなかった。
 帰りたい、帰りたい……。火照りを持て余す身体の奥でいつぞやの口癖を繰り返すことしかできないまま、環はじっと厄介な夢の終わりを待った。


「……そんなに……」
「……ん?」
「そんなにすんなり挿入ってたまるか……!!」
 苦々しく潰れた自身の声で目が覚めた。弾かれたように勢いよく上体を起こしたせいで、ベッドのスプリングがギッ、と鈍い音を立てて軋んでいる。
「ファッ、なに!? はいっ……なんて?」
 急激に明るさを取り戻した視界に、見慣れた自宅の寝室と、心配そうにこちらを覗き込むファットの姿が飛び込んでくる。つい先ほどまで見せられていた光景を頭の隅へと追いやって、キリキリと音を上げている胃袋を摩りながら、環は盛大に溜息を吐いた。
「おはようさん。何やったんや、今のファットさんばりの鋭いツッコミは」
「いや、何でも……驚かせてごめん、ファット」
 ファットの説明してくれたところによると、パトロール中に不慮の個性事故に巻き込まれその場で卒倒……というのが今回の事の顛末らしい。重ねて謝罪を口にすると、ファットは汗で額に張り付いた環の前髪を左右に梳いて、そのまま耳の後ろを優しく撫でてくれた。
「とりあえず、大事なさそうで安心したわ。身体、何ともないか?」
 気遣いに頷いて、手渡されたミネラルウォーターのボトルに口をつける。嚥下する度、夢の中で己を支配していた閉塞感と気恥ずかしさが洗い流されていくように感じられた。
「ジブンが受けた個性やけどな、『夢想』言うて、叶うはずもない空想を夢の中で見してくれるっちゅう代物やねんて。二時間くらいで目ぇ覚めてホッとしたわ」
「起きるまで傍についててくれたんだろ? ありがとう。いろいろ面倒と……あと、心配かけてごめん。半休も取らせちゃったみたいだし」
「事故やったんやし気にせんでええよ。たまにはこないな風にふたりでゆっくりしても罰は当たらんやろ」
 胸の中に巣食う申し訳なさは、ファットの穏やかな声に包まれて、そのままだんだんと小さくなっていった。敵わないな、と口の端からこぼれ落ちた声に、ファットが目を細める。
「それにしても、『夢想』か……それであんな……」
 十七歳。制服を纏ったまま、ファットに抱かれたい。
 若かりし日のどうしようもない煩悩が、まさかこんな形で未来の自分に跳ね返ってこようとは。数拍の後、ファットが放った言葉の意味を咀嚼すると、改めて行き場のない羞恥心が腹の底からせり上がってきた。
 ボトルを握る指先の力みに気付いたのか、ファットが尋ねる。
「ちょいちょいうなされてて可哀想やってんけど、万一のこと考えると無理に起こすっちゅうワケにもいかんくてなぁ……。てっきり楽しい夢を見してもらえる個性なんかと思てたけど、そないに悪い夢やったん?」
 思いやるようなファットの声に一抹の罪悪感を覚えながら、さてどこまで話したものか、と環は唸る。学生の俺が若いころのあなたにひん剥かれる夢ですよ、と馬鹿正直に伝えて反応を見てみたい気持ちもないではなかったが、湿度を伴った情欲塗れのあの映像について自分から解説することには様々な意味で抵抗がある。
「んん……悪いというか、何というか、その……」
 とはいえ、手間を掛けさせてしまった手前、ざっくりとした概要くらいは共有するべきだろうか。いや、そんなことをしたら、ファットは突拍子もない慈愛を持ち出して「ほな制服プレイしよか」とか何とか恥ずかしいことを言い出しかねない……。
 環の脳内でぐらぐらと傾いていた天秤は、最終的に自身の心の安寧を守る方へと傾いた。
「学生時代の夢で……まあ、考えようによっては『良かったね』って感じではあったよ」
「そか。痛いとか怖いとか、そういうんやなくてよかったわ」
 曖昧な返事をそれ以上追い掛けることもせず、ファットは慈しむように環の頬を撫でた。添えられた手に身体を預け、環はゆっくりと瞳を閉じる。
 叶うはずのなかった夢が、数年の時を経て、思いもしない形で身を結んだ。現象としてはとんだ辱めではあったものの、捉えようによっては、遠く青い日の自分が報われたと言えないこともない。
 何より、幼い自分が喉から手が出るほどに欲していたぬくもりは、いまこうして環の肌をあたためている。絶えず願いを叶えてくれている恋人の大きなてのひらに、環はひとつ、キスを捧げた。
 
 環はまだ知らない。
 眠っている間、自分がどれだけ悩ましい顔でファットの名前を呼んでいたのか。「ブレザー、皺になる……」とこぼした寝言に、ファットがどれだけやましい想像を搔き立てられていたのか。
 その夜、「久しぶりに環の制服姿が見たいなあ」とカマを掛けられ、動揺のあまり派手にグラスを倒しアイスコーヒーを被った環は、クローゼットの奥に仕舞い込まれた思い出をやむなく引っ張り出す羽目になった。
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