先輩の指、キラキラ光って、桜の花びらみたいでキレイだった。
 一時間ほど前、酒の席でサイドキックが漏らした一言が、太志郎の思考を埋めている。それは数年前、彼らがまだ学生だったころの思い出話のひとつで、太志郎の知らない恋人の名残だった。


「そういや俺、鯛を見ると思い出すことがあるんスけど」
 豪勢な舟盛から真鯛の刺身を摘まみ上げながら、鋭児郎がふと切り出した。複数事務所合同での食事会の賑やかな空気に、過ぎた時を懐かしむ穏やかな声が溶けていく。
「俺がはじめてインターンでここに来たとき、帰りの新幹線で天喰先輩が個性の特訓みてえなことをしてて」
 予想外の方向から飛び出してきた恋人の名前に、太志郎は座敷の対角線上へと視線を滑らせた。こちらの声は届いていないのだろう、環は清水焼のぐい吞みを片手に、同世代のヒーロー達の輪の中で控えめに微笑んでいる。
「そんときに先輩が再現してたのが、鯛の鱗だったんスよ」
 なるほど、それで鯛か。鋭児郎の言葉に、太志郎は頭の中の記憶の引き出しへと手を掛けた。
 確か、あの日は鋭児郎の歓迎会で早い時間から焼肉を食べに行って、二次会は海鮮系の居酒屋に連れて行ったんだったか……。たった数年、されど数年。インターン生として迎えた彼らも、今では一人前のサイドキックとして太志郎の活動を支えてくれている。
「移動時間まで個性伸ばして、そないな話はじめて聞いたわ。あいつ、学生んときから人一倍真面目ちゃんやったもんなあ」
 守り育てるべき対象でしかなかった環との関係は、この二年ほどの間にその形を大きく変えていた。弟子から相棒へ、庇護者から恋人へ。若く可能性に満ちた環の将来を思えばこそ易々と応える訳にはいかなかったけれど、惚れた弱みと言うべきか、結局は彼のひたむきさに胸を打たれてしまった。
 引き締まった白身を堪能している様子の鋭児郎が続ける。
「どんな状況でも自分の個性に向き合ってるなんて流石だなーって思ったのもあるんスけど、それだけじゃなくて。まだ緊張が抜けてなかった俺に先輩が言ってくれた言葉があって、それがすげー印象に残ってるっていうか」
「へぇ、あの超のつくヘボメンタルやった環がアドバイスかいな」
 太志郎の相槌に、「それ、久々に聞いたっスね」と鋭児郎がからからと笑った。脳裏に浮かぶのは、フードを目深に被り壁にめり込んでいるようなネガティブ極まりない決めポーズ。最近ではすっかりと鳴りを潜めているその懐かしいシルエットと、今朝聞いたばかりの遠慮のない小言とのギャップに、太志郎の口元にも笑みが浮かんだ。
「そんで、環はなんて?」
 あんぐりと開けた口の中に串焼きを二本同時に放り込みながら尋ねると、目の前でぱっ、と人好きのする笑顔が弾けた。環ならたぶん太陽に例えるだろう、と数メートル先の恋人の口癖がちらついたのも束の間。鋭児郎が放った声は、太志郎の心にあたたかな波紋を呼んだ。
「『ファットガム事務所はいいところだよ』って。たった一言だったけど、そんときの先輩がすっげーイイ顔してたから、気合入れ直して貰った気分だったっス」
 当時の環といえば、視線は下を向いていることがほとんどで、太志郎に対しても事あるごとにやれパワハラだセクハラだと嘆いてばかり。心の底から嫌がっている訳ではないだろうと見当をつけてはいたものの、本当に辛いのであれば他所へ行ってもいいのだと進言したことすらあった。
 それなのに、彼はそう言い笑ったのだという。数年越しに届けられたいじらしさには果てがない。口角がだらしなく上を向くのを咀嚼の動作で誤魔化しながら、太志郎は右手で口元を覆った。
 真横に引き結ばれた唇が弧を描く瞬間の、雪解けのような静かな美しさを、太志郎はよく知っている。慣れない土地への不安を僅かに残したままの後輩の瞳に、彼はそっとその横顔を綻ばせたのだろう。
 目蓋の裏に結んだ青い日の弟子の像は、海面を漂う海月のように、やがてゆらゆらと爆ぜていった。
「あかん、何年か越しに特大のご褒美もろてしもたわ。おおきになぁ……」
 もともと緩みがちだった涙腺は、年を経るごとに輪をかけて調節が利かなくなってきている。太志郎の大きな瞳に潮が満ちるのを見た鋭児郎が、よく通る声で環を呼んだ。
「あ! すんません、天喰先輩! ファット泣かしちまった!」
 揺れる視界の真ん中で、突然に響いた己の名前に振り向いた環が、ふっ、と目元を緩ませる。
「ファット、切島くんを困らせたら駄目だよ」
「誰のせいやと思てんねん~~……」
 塩辛い喉の奥から絞り出された弱々しい反撃に、太志郎の周囲を笑い声が包んだ。


 帰り道、肩を並べて歩く恋人は、その指先にひと足早い桜の花を咲かせている。
「この時期の鯛は『桜鯛』、秋の旬のときは『紅葉鯛』って呼ぶんだってね。切島くんはこれを桜みたいだって言ってくれたけど、そういう意味では今日の方がそれっぽいってことになるのかも」
 薄く色づいた鯛の鱗を纏わせた人差し指を街灯にかざして、環が言う。彼がてのひらを返す度、櫛鱗が蛍光灯を透過して、そこから生まれた淡い光がきらきらとふたりに降り注いだ。
「は~~、しっかしほんまにキレーやなあ。こりゃ鋭児郎にようさん感謝せな」
 太志郎が先ほど鋭児郎と交わしたやり取りについて話すと、環はすぐに当時の光景を再現して見せてくれた。どうせ強請られると思って、と加えられたのは照れ隠し。淡く染まった頬が、例年より早い開花により一層の彩を添えていた。
「そういや初耳やったわ。環が頑張り屋さんなのはよう知っとるけど、新幹線の中でまで特訓て」
 フードに隠れていない髪に指を通すと、夜の大気に溶け出すような紺色に縁どられた表情が僅かに揺れる。
「……それだけどさ。特訓とか、そんな大層なものじゃないんだ。ただ、ファットと一緒に食べたものを再現するのが癖になってたってだけで」 
「……ふぁ? 俺?」
 太志郎の口から漏れた間抜けな声に首を縦に振り、環は淡々と話し始める。
「もちろん、個性のためっていうのもあったよ。でも、あのころの俺にとって、ファットとの食事は何より楽しくて……特別な時間だったから」
 きらめく鱗を撫でながら話すまなざしは、今よりも未熟だったころの環自身に向けられているようだった。だから、ぽつりぽつりと落とされる言葉を太志郎がいまどんな顔で聞いているのか、彼はきっとまだ気づいていない。
「たぶん、ふたりで食べたものを再現することで、一緒に過ごした時間を少しでも延命させようとしてたんだと思う。寝る前とかに、よくそうやって余韻に浸ってたんだ」
 ちょっと重いよな、と自嘲とともに見上げた環の双眸が、驚きに見開かれる。困惑の色が広がる彼の瞳には、年甲斐もなく真っ赤な顔で唇を嚙む情けない男が映っているに違いない。
「……たまきぃ。自分がいまどんだけ熱烈なこと言うとるか、分かっとる……?」
「え?」 
「さっきのくだりやけどな、俺には『昔からずっとファットさんが好きで好きでたまりません』としか聞こえへんかったわ。照れるポイントがズレとってええ加減心配になるで、ほんまに」
 捲し立てるような早口から環に伝染した熱は、手の甲にそっと触れた温度として返ってきた。左手に絡められた指先に応えると、環が歌うように言う。
「でも、そうやって積み重ねてきた気持ちを、ファットは受け取ってくれただろ。たくさんの『好き』を与えてもらって、それをまた手渡して、今の俺が在るから……だから、恥ずかしさより、嬉しさとか誇らしさとか、そういうのが勝つんだと思う」
 ああ、彼は一体どこまで飛んでいく気なのだろう。
 迷いのない微笑みの美しさが、決壊を待つばかりの太志郎の涙腺を優しくノックした。
「……ファット、また泣いてるの」
 少しの呆れを湧き上がる愛おしさで包んだような、困った顔がよく似合う恋人。掬い上げるように響く声の、頬擦りしたくなるほどやわらかな手触り。ふたりを包むすべてに心の波間が泡立って、太志郎は何も言えないまま、環の手を強く強く握り返した。
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