恋の名前

「……二十八回」 
 雑誌の紙面に視線を落としたまま、ファットがぽつりと言う。彼が手にしているのは献本として事務所に届いた発売前の女性誌で、その表紙には『大阪の街を翔ける名物SK・サンイーターの素顔』なんて大層な煽り文句が躍っていた。ファットの声に振り向いたつもりが、彼のてのひらの中で澄ました顔をしている自分自身のグラビア写真と目が合ってしまい、環の奥歯に少し力が入る。
「何ですか? その数字」
 黒の細身のセットアップに身を包み、上等な革張りのソファに腰掛けている男。その流し目から視線を逸らし、環はファットに尋ねる。
 表紙を飾っているのは間違いなく己の姿ではあるものの、慣れないメイクや衣装のせいでどうにもまだ実感が湧かない。まるで自分じゃないみたいだ、と感じるのは、来週からこの表紙が書店に並ぶのだという事実に対するある種の防衛本能かもしれない。
 環の問いに、ファットは所長の顔で答えながら、環の特集が組まれているページを開いて見せた。
「六ページのインタビューの中で、ジブンがファットさんの名前を出した回数や」 
 受け取った雑誌をぺらぺらと捲ると、環の発言の中の『ファットガム』『ファット』というワードに残さず蛍光マーカーが引いてあるのが分かった。その律儀さに頬が緩みそうになるのを抑え、環は眉を下げてしおらしい表情を作って見せる。
「そんなにおかしかったかな。最終稿はちゃんとファットにも見て貰ったと思うんだけど」
「いや、まあ……うん。話しとる内容自体は事前にチェックさせてもろてたし、そこはなんも問題ないんやけどな。ただ、一ページあたり平均四回超はさすがに多ないかっちゅう話で」
「こういう女性向けのメディアの取材ってまだ慣れてなくてさ、かなり緊張してたんだよ」
 ファットガム事務所での経験と年齢を重ねるにつれ、いちサイドキックとしてではなく、ヒーロー・サインイーターとしての単独での取材を受ける機会が多くなってきている。少し前に髪を短く切ってからはビジュアル面にも注目が集まってしまっているようで、近ごろは今回のような女性がターゲットの雑誌などから声が掛かることも増えていた。
 こうした取材では趣味や休日の過ごし方といったプライベートの事情について深掘りされる傾向があることに加え、ハイブランドの高価な衣装に袖を通す際には毎回「粗相をしてしまわないか」と心臓が縮むような心地を感じている。今回の取材についても、何とか少しでも様になるようにと内心いっぱいいっぱいだったし、ヒーロー活動をメインに扱うメディアとは質問の切り口も大きく異なるため、「緊張した」という先ほどの返事に嘘はない。
 ただ、ファットの言わんとするところは理解しつつもあえて少し回答をずらしたのは、環自身に思い当たる節があるからに他ならなかった。
 環の躱すような態度に、ファットは「んんん」と歯切れの悪い声を漏らす。
「いや、環がこうしてファットさんのことを話してくれるのは純粋に嬉しいねんで? 事務所の宣伝にもなるしな。ただ、こないな雑誌なら、もっとこう……環自身のことを話した方が、サンイーターのファンの皆さんは喜ぶんとちゃうかと思てな」
「自分のことを話すのって、案外難しいんだ。仕事にしろプライベートにしろ、俺の人生はもうファット無しでは成り立たないし……でも、うん。次は気を付けます」
 環がそう言うと、ふたりきりの事務所のフロアに僅かな沈黙が訪れる。ファットは再びうんうん唸り、観念したように小さく溜息を吐いた。けれど、上司としての態度の向こう側、ファットの耳たぶにほんの少しだけ赤みが差していたのを、環は見逃さなかった。
「……ま、過ぎたことを今更やあやあ言うてもしゃあないな。慣れへん現場で気ぃ張ってたのも分かっとるし、改めておつかれさん」
 労いの言葉に礼を返して、雑誌をファットへと手渡す。ファットは再び特集ページのグラビアをしげしげと眺めていて、「ほんま男前になったなあ……」なんて感慨深そうに漏らしていた。
 生活を共にするようになって数年も経つと、たぶん今夜は帰り次第この話題で持ち切りだろうな、と容易に推測ができてしまう。別人のように着飾った恋人の姿をひとつひとつ指さしながら、ファットはきっと優しい顔で笑うのだろう。そんな時間への期待が募り、環のつま先から全身へと、甘いこそばゆさが広がっていく。
 ファットはいつも、環が広い世界へと羽ばたいていくのを自分のことのように喜んでくれる。今回のような案件に関しても、サンイーターというヒーローがもっと多くの人の目に留まるきっかけになればいいと、手放しで祝福してくれているのだろう。
 だからこそ、幼さを持て余してしまった自身の振る舞いに、環は今頃になって反省を覚えていた。嫉妬心というのは厄介なもので、そうと気付いたときにはもう遅いのだと、今回の一件でひどく思い知らされた。
「そういえば、インタビューしてくれた編集部の女性がファットのこと褒めてたよ。パトロール中にヴィランを沈めてる現場に遭遇して、ビビッと来たんだって言ってた。今度ぜひファットの特集を組みたいって」 
 嘘は言っていない。けれど、意図的にいくつかのワードを省いて話した。
 環の言葉に、ファットが視線を上げて声を弾ませる。
「お、そら嬉しいなあ! ファットさんてばほんまに罪な男やなあ」
 ファットの冗談に控えめな笑い声を上げつつも、環の心を埋めていたのは件の編集者とのやり取りだった。うきうきとたこ焼きを焼き始めたファットの姿を尻目に、環の脳内にはインタビュー前に聞いた彼女の言葉がリフレインする。
『この間、はじめて生で痩せたファットガムを拝見したんです。若い頃より渋くなったというか、色気が増したというか……すごく素敵だったので、ちょっと攻めたグラビアの特集とかお願いできたら嬉しいんですけど』
 最後まで再生し終わったところで、環の肺から重たい息の束が抜けていった。思い返せば、ひどく大人げないことをしてしまったと思う。コミット後のファットの姿を褒められて独占欲を拗らせたなんて、彼女にもファットにも申し訳が立たない。
 不自然なくらい名前を呼んだのは、「彼は自分のものだ」と主張するための幼稚極まりないマーキング。彼女の言った『攻めたグラビア』という言葉がどの程度の撮影を指すのかは分からなかったけれど、痩せた状態のファットがカメラの前に肌を晒す情景を反射的に想像してしまって、そこからはもう駄目だった。
 それに、本来であればファットはもっとマーカーのインクを消費する羽目になっていた。編集作業の際に削られたであろう彼の名前の数を思うと、いたたまれない気持ちでいっぱいになる。
 さてどう白状したものか、と思案していると、目の前に香ばしく焼き上がったたこ焼きがひとつ差し出された。ほかほかとした湯気の向こうで、ファットが屈託のない笑顔で環を見つめている。
「環も食うやろ?」
 罪な男。先ほどファット自身が放ったフレーズを反芻しながら、環は少し頷いた。
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