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夜明け前

 この恋が終わる瞬間が来るのだとすれば、それはこの命が尽きる時だと思っている。

 夜明けの兆しもまだ見られぬ暗闇の中、一人眠りにつくこと、たったそれだけのことがこんなにも空虚に思える日が来ようとは、今までの自分の人生からは到底考えられなかった。

 陽が昇れば、僕の両足は生まれ育ったこの地を離れ、遠い異国の土を踏む。不安は微塵もない。自らに課された役割を寸分狂わず演じてみせる、ただそれだけの話なのだから。

 真夜、彼の寝室に音もなく滑り込んだ。一人分の規則正しい健やかな寝息と、己自身を持て余している僕が息をする音だけが響いている。

 この空間をそっくりそのまま切り取って、上等な額縁の中に飾ってしまいたい。もしそんなことが出来たなら、僕はきっとその幸福の象徴を飽きることなくずっと眺めていることだろう。

 シーツの上に放り出された彼の左手を握る。あたたかい。確かに、生きている。僕のいっとう好きな、少し高めの体温に頬を寄せた。彼のてのひらから伝わる熱で、自分の頬にも朱みが差していくのが分かる。

 彼の身体中を巡る赤い血潮は、彼がその生を終えるまで、彼の一番近くでその命を衝き動かす。どくり、どくりと一定のリズムで波打つ命が僕を拍つ。ガラス窓から部屋を淡く照らす月灯りだけが、僕ら二人の熱を浮き彫りにしていた。

 薄く開かれた無防備な唇は無垢だ。触れるだけのキスは、慈愛以外を伝えない。僕の心は吐息となって、彼の中へと根を下ろす。

「いってきます、さくまさん」

 「さようなら」では湿っぽい。「また会いましょう」じゃ些か重たい。殆ど息だけの言葉を残して、僕は彼の髪を撫でた。

 彼という人間そのものを体現したかのように真っ直ぐで癖のない黒髪がこの指に馴染んだのは、一体いつのことだっただろうか。伸びかけの前髪を落ち着かなさそうに弄っていた姿がいじらしかったのを、今でもよく覚えている。

 純黒の絵具をぶち撒けたキャンバスに僅かに残る白地のような夜だ。深い夜は未だ明けない。それでも、ここに留まっていることは出来ない。

 立ち上がり、彼に背を向けた瞬間、体の左側に重みを感じ次の一歩を踏み出せなかった。程よく鍛えられた彼の腕が、僕の左手に向かって伸ばされている。『後ろ髪を引かれる』とはよく言ったものだと、場違いにも呑気に感心をしてしまった。

 振り向きはしない。彼の瞳は僕を捕らえるためではなく、未来を見つめるためのものだから。

「三好。俺は何度でもお前におかえりと言ってやりたい」

 強い意志の込もった、飾り気のない餞別の言葉。それに微か瞠目して、僕はゆっくりと一度頷いた。彼の指が僕の薬指の付け根をなぞって、それから離れた。

 背後の影が動く気配がして、僕は扉へと向かう。触れられていた箇所から彼の微熱が移って、僕の身体を巡り巡っていく。その疼きを全身で受け止めながら、僕は静かに彼の部屋を後にした。

 この恋が終わる瞬間が来るのだとすれば、それはこの命が尽きる時だと思っている。それでもきっと、彼が寄越したこの熱が、僕の命を衝き動かす。
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