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月に吠える

 月明かりに照らされる冷たく白い頬に触れている。伸ばしていた手を引き寄せ、しかし視線は外さずに、福本はじっと眼前の男を見た。
 ともに夜明けを見送った朝は数えきれない。路地裏の安宿で垣間見た、すべてを諦めたような、けれど頑なに何かを守るような、あの横顔を覚えている。
 明朝、小田切はこの街を出る。視界を奪われていても指で簡単になぞってしまえるような他愛のないやりとりは、今夜の二人には遅すぎる。窓際で、小田切に言葉はなく、福本も唇を開かずに、じわりじわりとインクが滲むように夜が更けていく。
 この身に残るのは、怒りだろうか。それとも、憎しみだろうか。
 どちらも違う、と福本は僅かに首を振る。この夜のことも、遠からず、きっと自分は忘れるだろう。暗闇の中に足を浸して生きていくのならば、この男の存在ごと、まるきり意識の中から遠ざけてしまわなければならない。
 けれど、自分に向けられた男の視線が、声が、この骨身に染みついている。声を掛けると一瞬だけわずかに緩む目じりも、夜の淵を撫でるようなささやきも、すでにこのからだの血肉となってしまった。

「結局、俺達は最後まで、互いの名前すら知らないままだったな」

 悲しみとも、自嘲ともとれる口ぶりで、小田切が静かに呟く。夜のとばりに落ちたその声は、心地よい重みをもって、福本の奥へとすっとすべり込むようだった。
 福本は口をつぐんだまま、小田切の方へともう一度手を伸ばした。やや節くれ立った細い指先が、つやつやと月光を反射する黒い髪をゆったりと梳く。「名を知らぬから何だ」とでも言いたげなその舐めるような手つきに、小田切がふ、と破顔した。

「俺がどこにいても、貴様には簡単に見つかってしまいそうな気がする」

 ここでもよく俺のことを見ていただろう、と口角を上げ、小田切はそっと目を閉じた。福本のてのひらにからだを預けるようにするその仕草を、福本はすでにどこか懐かしく思った。
 地上から見上げる月は、どんなにまなざしを注いでも、ついぞこの手の中に落ちてくることはない。そして、暗闇のなか地を這うけものは、月明かりの中にその姿を晒されてしまう。

「そちらも、俺を暴いただろう」

 福本の口の端からすべり落ちたその言葉に、小田切は「どうだかな」と悪戯っぽい幼子のような笑みを浮かべるばかりで、そのあとはもう何も言わなかった。
 ああ、これは最後まで、月影のような男だった。
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