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「ライブ?」
 茨くんは手を止めてこちらを一瞥したかと思うと、再び視線を画面に戻した。カタカタとキーボードを叩く音だけが静寂に木霊する。
「そんなの一人で行けば良いでしょう」
 あなた、『Eden』のライブは一人で来ているじゃないですか。彼はあくまでもこちらには見向きもせずコーヒーカップに口をつけた。すりすりと両手を合わせて懇願するわたしのことなど、まるで初めから見えていないかのような振る舞いだった。
「それはそれ、これはこれ」
「訳がわかりません」
「だってチケットが二枚当たったんだもん」
「友人でも何でも誘えばいいでしょうが」
「じゃあジュンくん誘って行ってくる」
 あ、やっとこっちを向いた。つい緩みそうになる口元を必死に我慢する。彼は眉間に皺を寄せて、メガネを指で押し上げた。金属がカチャリと音を立てる。
「………………それ。いつですか」
 こうなればわたしの勝ちだ。
 
「L!O!V!E!じ!め!にゃ!ん!」
 どうして自分がこんな……とぐちぐち文句を垂れている茨くんを差し置いて、わたしは水色のペンライトを全力で振り回していた。
「おれの! はじめが! せかいいち〜!」
「…………」
 ちょっと! いばにゃんもペンラ振ってよ! 周りにぎりぎり聞こえないくらいの声で言うと「いばにゃんって呼ぶな」と怒られた。
 彼は自他共に認める利己主義人間だ。“自分”あるいは“自分たち”の利益になるかならないかをあらゆる選択の基準としている。それは恋人であるわたしに対しても基本的にはそうなのだが、最近になって気付いたことがあった。彼は意外と押しに弱い。というのも、ある程度のわがままであれば、憎まれ口を叩きながらも従ってくれるからだ。あれほど普段から突撃だの侵略だの制覇だの大声で叫んでいるのに、ただ一人の彼女に対しては意外と献身的な一面を見せてくれるのだ。
 ちらりと横目で彼の方を見ると、先ほどまで文句を垂れていたはずなのに控えめに水色のペンライトを振ってくれていた。例えばこういうところ。さらに今日のファッションが彼の全てを物語っている。彼は『Ra*bits』のキャップとライブTシャツを着用し、腕には公式グッズのラバーバンドを付けて、指にはピカピカ光るリングライトを嵌めていた。見た目だけは完全に『Ra*bits』の熱烈なファン。わたしの用意したアイテムを嫌々言いながらも全て身に付けてくれていたのだ。改めて彼の姿を目に焼き付ける。嬉しくて自然と口角が上がった。
 
「はぁ〜ライブ楽しかったぁ〜! やっぱりじめにゃんが最強」
 会場を出て駐車場までの道のりを彼と並んで歩く。彼とは歩くペースが同じだ。足の長さは全然違うはずなのに。
 ライブの熱に浮かされていたわたしはペンライト片手に鼻息を荒くしながら公演の感想を饒舌に語り続ける。彼はずっと心底面倒くさそうな顔をしながらも「はいはい」とわたしの話に相槌を打ってくれていた。
「――ね、いばにゃんもそう思わない?」
「だからいばにゃんって呼ぶな」
 会場から少しずつ離れると人も疎らになってきた。彼は身バレ防止のために付けていたマスクを顎までずらし、呆れたような表情でこちらを見た。今日の彼は服装こそアレだが、チャームポイントのメガネを封印して髪を結んでいてとても新鮮だった。メガネ姿もかっこいいけど、かけていないのもすごく好き。
「まさか自分が『Ra*bits』のライブに参加させられるとは思いませんでした。しかも関係者席ではなく、一般席で。あなたが、じめ……紫乃氏の熱狂的なファンということは存じ上げておりましたが」
 彼はやれやれと両手を上げた。「茨くんは楽しくなかった?」溢すようにそう呟くと彼はほんの少しだけ眉を上げた後、難しそうな顔をした。
「わたしは、好きな人と好きなことを共有できて楽しかったよ。いつも何かと付き合わせちゃってごめんね」
 彼の気持ちを尊重せず、自分のわがままに付き合わせてしまった。今までそこに居なかったはずの、自分に対する嫌悪感が急に姿を現す。先ほどまで朗らかにお喋りをしていたはずのわたしの浮かない顔を見兼ねてか、彼は大袈裟なくらい特大のため息を吐くと、わたしの頭へぽん、と手を乗せた。
「……そういうことを言ってるわけではないのですよ。彼らのライブを観て、我々『Eden』も益々精進しなくては、と身が締まる思いでしたし、ライブの演出等、勉強になることもありました。有意義な時間でしたよ」
 その後、ぼそぼそと小さな声で「まぁ。またチケットが余るようなことがあれば一緒に行ってやらなくもないです」と言った声をわたしは聞き逃さなかった。彼なりにフォローしてくれているのだ。照れ隠しか、急に頭を乱雑に撫で回された。彼のこういうところが好きだ。くしゃくしゃになってしまった髪を手櫛で梳かす。心のもやが少しずつ晴れていくようだった。そんなわたしに釘を刺すように彼は張りのある声で続けた。
「ただし、関係者席が空いていなかったら、の話です。じめにゃんと自分は交流がありますから席を用意していただくことなど造作もないこと。というか、あなたも彼と知り合いでしょうが……」
「わたしは公私混同しないので!」
 すると彼の顔に明らかな困惑が浮かんだ。まるで「こいつは何を言ってるんだ?」と訴えるような表情だ。
「…………自分と付き合ってること忘れてません?」
「忘れる訳ないよ〜茨くんのこと大好きだもん」
 にっこり笑って「はい」と彼の方へ手を差し出す。彼は薄ら笑って「そんな安売りされた愛など要らないのですよ」と文句を垂れながらも、骨張っている綺麗なその手でわたしの手を力強く握ってくれた。
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