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 光沢のあるパールのようなパッケージの封を勢いよく切ると、中から液体が飛び散って少しだけ口に入った。
「にっが……」
 あぁ、もったいない。もっと慎重に開けるべきだったと後悔した。渋い顔をしながら、中で綺麗に折りたたまれているそれを取り出して丁寧に開いていく。それはびたびたに水分を含んでいて、今にも雫が垂れそうだった。すかさず手を引っ込めて垂れる雫をもこもこのショートパンツから覗く素足で受け止める。手元のそれが綺麗に開けたのでゆっくりと顔に近付けた。くり抜かれている目元と唇を順番に合わせた後、空気を抜くように鼻と頬、おでこ、顎を静かに押さえる。肌に吸い付くように密着したフェイスパックはお風呂上がりの火照った身体を冷やすのにちょうど良かった。
「はぁ〜〜〜〜」
 パックのせいでほとんど開くことのできない唇の隙間から、仕事終わりの一杯を飲んだ時のような声が漏れた。一日の疲れが一気に引いていく感覚。至福の時間だ。
 先ほど腿にぼたぼたとこぼしてしまった美容液を膝の方まで塗り込んでいく。天祥院先輩から貰ったちょっと高いフェイスパック。このたった数滴でさえももったいないと思ったのだ。
 適当に流していたテレビの電源を切ると、しん、と部屋が静寂に包まれた。面白い番組もやっていないし、大して見ていないのだから電気代が勿体ない。
 それから静かな部屋で何も考えずにスマホを弄っていると時折、お風呂場から上機嫌な歌声が聞こえてきた。ちゃぷちゃぷと水音もする。
 奏汰くんの入浴時間はそこらの女の子より長い。そのため、彼がうちに泊まれば泊まるほど水道代とガス代が右肩上がりなのは言うまでもない。それでもわたしは文句を言わなかった。なぜなら、以前わたしが公共料金について苦言を呈してから、彼なりに抑える努力が見られたからである。わたしはフェイスパックから垂れた美容液の一滴すらもったいないと思う人間なのに、自分の彼氏に対しては相当甘かった。
 時間を置いてからフェイスパックを外してスキンケアを終わらせても、彼はまだお風呂から上がってこなかった。洗面所のドアをノックしてから中に入る。カゴの中に入っている可愛らしいお魚さんのパジャマと一緒に置いてある彼のスマホにはタイマーが表示されていた。残り二十分らしい。そう、彼はいつしかタイマーをセットしてから入浴するということを覚えてくれたのだ。わたしが初めてこれを知った時は人知れず涙を流したのを覚えている。
 「奏汰くん」と名前を呼ぶと浴槽の扉の向こうから「はぁい」と気の抜けた声が聞こえてきた。
「ドライヤーしますね」
「わかりました〜」
 髪が七割程度乾いてきたところで、引き出しからヘアオイルを取り出して数プッシュ手に取り、毛先から丁寧につけた。蜂蜜のいい香りが広がって気分が良い。その後、最後まで髪を乾かした。
 彼のスマホに目を遣る。――よし。まだあと五分ある。最後にブラッシングをしたらおしまいだ、というところで突然ガラガラっと背後の扉が開いた。
「ぎゃああ⁉︎」
 咄嗟に両手で目を覆った。彼が一糸纏わぬ姿で背後に現れたからだ。当たり前だが、こうやって顔を隠しでもしないと、正面の鏡越しに彼の姿が見えるのだ。まだ出てくる時間じゃないのに!
「ちょっと! まだタイマーなってないですよ⁉︎」
「うふふ、ごめんなさいね。あなたが『そこ』にいるのがわかったら、なんだか『はやく』あいたくなってしまって」
 タオルを取り出して身体を拭いているような音が聞こえる。音の感覚的に彼は明らかにわたしの背後、バスマットの上にいた。目が開けられないから早く浴室戻ってよ! と思っている間にも彼は着替えまで済ませてしまったようだった。
「お待たせしました〜♪……はいっ。もう『だいじょうぶ』ですよ」
 彼はそう言いながらお風呂から上がったばかりの熱を帯びた手で、わたしの顔を覆う手を退けると、にっこりと微笑んだ。あまりにも浴室を出てから着替え終わるまでが早いなと感じていたのだが、その理由は目の前の彼を見てすぐに理解した。
 わたしははぁ、と一息ついてから、彼が先程まで使っていたであろうタオルを手に取って、自身よりもだいぶ上にある頭へと乗せる。すると、彼は少しだけ膝を曲げてこちらに頭を傾けてきた。拭いてくれということらしい。わしゃわしゃと彼の頭を拭いていく。
「頭、ちゃんと拭かないと風邪引いちゃいますよ? お部屋もびちょびちょになるし……」
「むかし『おひさま』さんにもいわれました〜」
「もう! それなら尚更ちゃんとしてください!」
 わたしがぶーぶー文句を言うと彼は「ごめんなさ〜い」と気の抜けるような謝罪をするので、こちらもなんだか怒る気が失せてしまい「分かったならいいです」と彼を許してしまうのだった。
 
 そのまま流れで彼の髪をドライヤーで乾かしてあげて、隣に並んで一緒に歯を磨いて、同じベッドに入った。電気も消して、暗闇の中。
「……ぎゅうってしますか?」
 彼がとろけるような声で囁くので、無言ですり寄ると、背中に腕が回された。そのまま優しく包み込むように抱きしめられる。わたしと同じ、蜂蜜のヘアオイルの香りがした。彼の腕の中は驚くほどに安心する。とん、とん、と呼吸に合わせて背中を叩かれると段々瞼が重くなってきた。
「いつも、ありがとうございます。ゆっくりやすんでくださいね」
 落ちていく意識の中、聞こえてきた小さな声は微睡みに溶けて消えていった。
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