このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

knt

 刺激臭が鼻の中に鎮座する。不快だった。それでもわたしは手を止めなかった。普段から特別手入れをしている訳ではないのに、何故かハンドモデルのように綺麗な彼の爪に光沢を出していく。少しはみ出してしまった箇所を竹串で丁寧に取り除いて、ライトを照射すると、彼が綺麗な顔を歪めた。少し厚く塗りすぎてしまっただろうか。『あつい』ものが苦手な彼には申し訳ないことをしてしまった。ごめんなさい、と謝罪を述べた後に「辛かったら出し入れして良いですからね」と伝えると、彼はけろっとした顔で「もうあつくなくなりました。『ふしぎ』ですね〜」と言って、柔らかく笑った。
 しばらくして、艶のあるサーモンピンクが順番に姿を消し、とうとう最後の一本。根元から先端に向かって筆圧を変えずに真っ直ぐ動かして染め上げていくと、砂浜に打ち寄せる波のように綺麗に青が広がった。表面が均等になっているか確認するため、白くてひんやりした腕を目線の高さまで持ち上げる。確認したい箇所に目のピントがなかなか合わずじいっと見ていると「『みけん』にしわがよってますね? くすくす……♪」と揶揄われた。「静かにしてください」と彼を叱ると全く反省していない様子で「は〜い」と間延びした返事をしながらいたずらをした子供みたいに笑っていた。その後も「ぼくのためにがんばっているすがたが、かわいくてつい『いじわる』してしまいますね……♪」とか何とかず〜〜っとふわふわぽやぽやしたテンションでわたしの集中を削ぐようなことを言うので「わたしがいいと言うまでお喋り禁止です」と言うと、彼は残念そうに眉毛を下げて口を噤んだ。
 トップコートを塗って、最後にオイルを塗布して軽く揉み込む。柑橘系の香りがするそれはわたしのお気に入りだ。ついでに、と自分の爪にも塗っておいた。「はい! お疲れ様でした」と言って手を離すと、彼は手の指を広げて天にかざした。ターコイズブルーが彼のイメージとぴったり合っていてとても似合っている。彼も満足そうな笑みを浮かべていた。セルフネイルはすれど、人に施すのは初めてだったので、上手くできてほっとした。
「明日のライブ楽しみですね。わたしとお揃いの色で嬉しいです」
 ネイルを見せるように片手を差し出すと、彼はにっこりと笑ってわたしの指の間に自身の指を絡めて、恋人繋ぎをした。顔を上げると大切なものを愛でる時のような視線がこちらに向かっていた。そして、暫しの沈黙。
 しばらく彼が何の言葉も発さないので、「あの……」と声をかけようとすると、繋いでいない方の手がわたしの耳から首元のあたりに回ってきた。そのまま少し引き寄せられて、瞬間、唇に温かい感触がやってくる。ちゅ、と小さく音を立ててすぐに離れた。
「あわわ、ちょっと……」
 びっくりしたじゃないですか、と言おうとした口をもう一度塞がれる。
 それは何度も離れて、また触れて、を繰り返した。静かな部屋に小さく響くリップ音に羞恥心をかられる。
 火照る身体とは別に、わたしの頭は冷静に物事を考えていた。彼はずっとにこにこと今にも歌い出しそうなくらいご機嫌なのに、何故か一言も喋らないのだ。そしてわたしが口を開こうとするとすぐに塞がれる。彼の行動の意味がわからなくて、何かあったかなと記憶を巻き戻すと、ひとつだけ思い出したことがあった。少し前に自分が言い放った言葉。もしかして。
「……っ、も、もう、お話しして、大丈夫ですぅぅ!」
 さっきわたしが言い放った「わたしがいいと言うまでお喋り禁止です」という言葉を彼は律儀に守っているのではないか。というか、それを逆手に取って、ちょっと『いじわる』したくなってしまったのではないか。
 繋がれていない方の手をわたしたちの顔の間に差し込む。こちらへ向かっていた唇がふにっと手のひらにぶつかった。
 すると、彼はおどけたような笑みを見せながらわたしを解放した。頬を膨らませて睨みつけると、彼は少しだけ申し訳なさそうな顔で「ごめんなさい」と謝った。
「いいところだったので、もうすこしきがつかなくてもよかったですけど。あなたとおはなしできないのも『さびしい』ですね……?」
 途端にいつもの調子に戻った彼は綺麗に染まった自分の爪を眺めて「うみみたいで『きれい』ですね〜。ありがとうございます〜。『らいぶ』もがんばれそうです」とはしゃいでいた。そんな彼を横目に内心はぁ、とため息を吐いて、すっかり真っ赤になってしまった顔を両手でパタパタと煽ぐ。柑橘系の優しい香りが辺りに漂って心地良かった。
3/4ページ