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 何の前触れもなくびゅう、と吹いた冷たい風が背中を押してくれた気がした。胸の前でぎゅっと握り拳を作って深呼吸をする。そしてゆっくりと視線を合わせた。
「先輩の“特別”になりたいです」
 目の前の彼――深海先輩は何も言わずに数秒間じいっとわたしを見つめた。そして何かを考える素振りをした後、困ったような顔を見せた。
 ――あ、これは。先輩が口を開くよりも先に表情で返事を察した。
「ぼくは、あなたを『たいせつ』なそんざいだとおもってますけど……」
 結果が目に見えた瞬間から深海先輩の言葉が途中から耳に入ってこなくなってしまった。漂う潮の香りも、波が打ち寄せる音も、目の前に立っている彼のことも、突然認識できなくなって、この世界に自分一人ぽつんと取り残されてしまったみたいだった。
 深海先輩は優しいから、わたしを傷つけないような言葉を選んで、曖昧にぼかして、決して嘘ではない事実を伝えて、直接的な表現はしなかったけれど、わたしの告白を却下したのだ。諦めるから、だめならだめだとハッキリ言ってほしかった。こういう状況下での中途半端な優しさはかえって毒だ。
 深海先輩はわざわざ、“特別”ではなく“大切”という言葉を使った。その『たいせつ』なものにはわたしだけじゃなくて、家族、同じユニットのメンバー、友人、ファンの人たちも含まれているのだろう。
 今まで散々わたしのことを女の子扱いしておいて。自分のだからと周りを牽制したり、辛い時に側に寄り添ってくれたり、他にも期待させるような言動をしておいて。
 いくら考えても深海先輩が今までどんな気持ちで自分と接していたのか分からなかった。天然タラシってやつだったのだろうか。わたしが勝手に好きになっただけの話だったのだろうか。
 悲しみにも怒りにも似た、なんとも形容し難い感情が心の中で渦巻いていく。夜の海のように深くて真っ暗な色で染まったこの気持ちの処理の仕方をわたしは知らなかった。許されるのであれば、何もかもを放り出してすぐそこに広がる真っ青な海に飛び込んで、感情ごと消えて無くなってしまいたい。
「ちょっと。ぼくのはなしきいてますか」
 深海先輩の、機嫌を悪くしたような声で現実へと引き戻された。彼は情緒がおかしくなってきているわたしの顔を覗き込むとむぅ、と口を尖らせた。
「あなたのわるいところですよ」
 フラれた上にお説教までされて、なんとも惨めな気持ちになった。魂が抜けてしまったようにただ呆然とその場に立ち尽くすことしかできない。

 やがて、深海先輩は『みずあび』をすると言って靴を脱ぎ始めた。脱ぎ捨てられた彼の靴下を拾って畳み、彼のローファーの上に並べる。
 わたしは守沢先輩や流星隊の子たちからのお願いでプロデューサー兼、深海先輩のお守りとか監視のような役割を与えられていた。だから、日頃から深海先輩と関わる機会が多くて、こうやって無意識で身の回りのお世話をしていたし、いつの間にか恋愛感情を抱いてしまっていた。
 はぁ〜、と肺の中の空気を全部吐き出してしまいそうなくらい大きなため息が漏れた。どうしてわたしがこんな可哀想な目に合わなくちゃいけないんだ。どうしてわたしは卒業式の日に素足で海へ入っていくような人を好きになってしまったんだ。
 砂浜へしゃがみこんで卑屈になっていると、『みずあび』をしていたはずの深海先輩はいつの間にかすぐそばまで戻ってきていた。そして、何故かわたしにも裸足になって一緒に来てほしいと言った。今まで『みずあび』に付き合わされたことはほとんどなかった。思惑の読めない先輩に首を傾げながらも、丁重にお断りしようとしたところ、彼はわたしの隣に同じようにしゃがんで瞳を潤ませ、上目遣いで「がくせいせいかつさいごの『おもいで』づくりがしたいんですけど……だめですか……?」と呟いた。
 こうすればわたしが言うことを聞いてくれるのを彼は知っていた。

 はぁ、と本日二回目のため息が生まれる。わたしは波打ち際を裸足で歩いていた。三月の海はただひたすら寒くて凍ってしまいそうだった。この季節に海に入るなんてどうかしていると思うが、卒業式の日に自分をフった先輩に可愛くおねだりされて断れず裸足で海辺を散歩している自分が一番どうかしているのだ。
 そんなわたしの気持ちなどつゆ知らず、先輩は『みずあび』ができて嬉しいのか満面の笑みを浮かべながら鼻歌を歌っていた。
 数分後、先輩は膝が濡れないくらいの場所で立ち止まって、こちらへ声をかけてきた。
「こっちにきてくださ〜い」
 はぁ。本日三回目のため息が漏れた。人の気も知らないで。いや、さっき伝えたばかりだから知っているはずなのに。
 仕方なく先輩の近くへ歩み寄ると、彼は先ほどまでの楽しそうな顔をしまって、いつになく真剣な面持ちを見せた。急に彼の纏う空気が変わって、思わず背筋がぴんと伸びてしまう。エメラルドグリーンの瞳は水面の輝きを反射して宝石のように輝いていた。
「あなたがさいごまで『おはなし』をきいてくれなかったので、これからもういちどいいますね。がらにもなく『きんちょう』していたので、こころを『しずめる』ためにここまでついてきてもらっちゃいました」
 さむいのにごめんなさいね、と深海先輩はぺこりと頭を下げて謝った。
「ぼくは、あなたを『たいせつ』におもってますけど…………それいじょうに『とくべつ』なそんざいだともおもっていますよ。ずっとまえから」
 深海先輩の言葉にはっとした。わたしが早々に耳を塞いで拒絶してしまった言葉には続きがあったのだ。その後に軽く説教されたことを思い出した。たまに出てしまうわたしの悪いところだ。物事を早とちりしてしまうところ。思い込みが激しいところ。(よくいえば想像力が豊か)
 深海先輩は一歩こちらへ近づいてきて、さらに続けた。
「いつもあなたに『おせわ』になりっぱなしですけど、ぼくは『せんぱい』ですから。ぼくからいわせてください。――ぼくの『かのじょ』になってくれませんか?」
 深海先輩は眉を下げて「さっき、あなたからさきにいわれたので、こまっちゃいました」と笑っていた。
 想像もしていなかった急展開に脳の処理が追いつかなくて石のように固まってしまった。何が起こっているのか分からなくて、目をぱちぱちさせることしか出来ない。
 わたしをこんな風にしてしまった張本人は呑気に「お〜い」と、固まっているわたしの目の前で手を振っていた。
 わたしが告白した時、深海先輩は自分から先に言うつもりだったので困った顔をした。その様子を見て、わたしは返事を最後まで聞かずに勝手にフラれた気になっていた。
しかし実際は、わたしが悲しむようなことは何一つなくて、ちゃんと最後まで彼の話を聞いていればあんなに情緒を乱すこともなかったのだ。
 漸く全てを理解すると、ほっとして身体の力が抜けて倒れそうになった。氷のように冷たくなって感覚のない両足に精一杯力を込めて堪える。なんとか耐えられたところに追い打ちをかけるように波が押し寄せて足元がふらついた。
 あ、まずい。と思ったのも束の間。足がかじかんで思ったように力が入らずよろめいてしまったわたしの手を深海先輩が掴んで引き寄せる。そして、そのまま流れるように抱き留められた。
「おっと」
 深海先輩はいつものテンションで「あやうく『どざえもん』でしたね……♪」と微笑みかけてきたが、わたしはそれどころではなかった。普段の彼からは想像できないがっしりした腕、逞しい胸板。そしてなんといっても距離が近すぎる。急激に縮まった距離はただただ心拍数を増大させるだけだった。
 彼の深い愛情のこめられた眼差しが降り注ぐ。まるで時間が止まってしまったみたいに視線が逸らせなかった。
 やっぱり、この人のことが好きだ。
 彼の与えてくれる無償の愛が自分だけに向いて欲しいと何度も思った。頭の中では分かっていた、アイドルという職業、仲間の存在、ご実家のことも。だから今まで彼の何気ない行動に嫉妬してしまったことがないと言えば嘘になるが、今、この時間、この瞬間だけは全世界でわたしだけが彼の愛を享受する権利がある。
 あまりにも幸せな空間だ。一生このままがいい。
 アクアブルーの透き通るような髪から滴る水がわたしの左頬に垂れて流れた。
 それを合図に再び時間が動き出す。
 深海先輩の真っ白で艶やかな手がわたしの左頬へ伸びてきた。それはゆっくりと滑って、涙のように流れる海水を拭った。先輩の手はひんやりと冷たくて、火が出そうなほど熱くなっているわたしの顔の熱を冷ましてくれるようでとても心地良かった。
「さっきの『おへんじ』をきいてもいいですか?」
 マイナスイオンが放たれていそうなほどの柔らかな表情に似合わず、細められた瞳の奥には勝利を確信しているような強い光が宿っているような気がした。
 そんなの。断る理由もなければ、そもそも答えを知っているくせに。先輩はわたしがどうするか分かった上で聞いてきているのだ。たまにこういう意地悪をしてくる。そういうところも好きなんだと思う。
 わたしの負けだ。観念して白旗を上げた。
 小さい声で「よろしくお願いします」と呟くと、深海先輩は「よくできました……♪」とにっこり笑ってわたしの火照った額に小さく口づけを落とした。
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