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knt

「深海殿ぉ〜! レッスンが始まっちゃうでござるよぉ……!」
「もうすこし『ぷかぷか』したらいきます〜♪」
「拙者、隊長殿から深海殿の奪還任務を命じられた身であるからしてぇ〜!」
 噴水の前であたふたしていたのは一年生の仙石くんだった。その小柄な身体で水中からにょき、と飛び出している腕を掴んで巨大なカブを引っこ抜く時みたいに踏ん張っている。腕を引っ張られている彼――深海先輩はそんな仙石くんの様子とは対照的に涼しい顔でその場に留まり続けていた。
 普段の深海先輩は男らしさというより、どちらかというと女性的なイメージを持ちやすいが、いざ蓋を開けてみると意外と身長が高いし、力も強い。さすがに二人には体格差もあるし、仙石くんが深海先輩を引き摺り下ろすのは無理があった。
 助け舟を出そうと「お疲れ様です」と声を掛けると、仙石くんは「ぷ、プロデューサー殿……!」と泣きついてきた。一方、仙石くんを泣かせた張本人はわたしを視界に入れるとぱああと目を輝かせて、呑気にひらひらと手を振っている。声をかけずにその場を去ることもできたのだが、どうせ行き先は同じなわけだし、何よりわたしには半泣きの仙石くんを見捨てることなどできなかった。
 そばにいる仙石くんに「わたしが先輩を連れて行くから、レッスン行っちゃっていいよ」と小声で伝えると、彼はお祈りするみたいに両手を組んで「か、神様……! この御恩、一生忘れないでござるよ……!」と顔を輝かせ、しゅたたた……☆と中庭を去っていった。
 わたしは深海先輩の方に向き直る。
「仙石くんが可哀想です。後輩を困らせるのも大概にしてください」
 もう、と腕を組み、頬を膨らませる。怒ってますよのアピールだ。それなのに深海先輩はにこにこ笑って「あとでしのぶにはあやまっておきます〜」と反省しているんだかしていないんだか分からないような態度を見せた。
 わたしは小さく息を吐いてから噴水に近付いて片手を差し出す。「早く行きますよ」と声を掛けると、先ほどまで仙石くんがあんなに必死に引っ張っても動かせなくて、お尻に根っこが生えたみたいに水中に居座っていたはずの彼は素直に差し出された手をぎゅっと握って立ち上がった。触れた手は彼の大好きなお魚さんみたいにひんやりしていて、シルクのように滑らかで、今日みたいな暖かい日に握るにはあまりにも気持ちが良かった。手を繋いだままの状態で彼はこちらをじっと見つめた。
「ぼくがいつもこうしている『りゆう』わかりますか?」
 こうしている、というのはレッスンに行かず噴水で『みずあび』をして、呼びにきた後輩を困らせていることだと思うが、まあその理由は一つしかないだろう。
「『みずあび』したいからじゃないんですか?」
 首を傾げると「いいえ」と彼は軽く目を伏せて首をゆっくりと左右に振った。濡れているアクアブルーの髪から水滴が飛び散ってわたしの制服へ水玉模様みたいにシミを作った。
「まちがってはいませんが『ふせいかい』です」
「うーん……?」
 空いている方の手を顎に当てて唸る。いくら考えても分からなくて、答えを求めるように顔を上げた。
「こどもたちにはわるいですけど。こうしているとかならず。あなたが『おむかえ』にきてくれるからですよ」
 彼は目を細めて慈愛に満ちた笑みを浮かべた。その瞼の隙間から覗くエメラルドグリーンの瞳が美しくて、きゅっと心が掴まれたような気がする。
 何の言葉も返せずに数秒黙っていると、彼は「ふふふ。はやく『れっすん』にいきましょう……♪」と言っていつの間にかわたしの手を引いて歩いていた。
 鼻歌交じりに目の前を歩く先輩の考えていることはよく分からない。先ほどの言葉の真意も。そしてわたしの、この僅かに速度を上げた鼓動の正体も。
 何も分からなかったけれど、ただただ繋がれている手の感触が心地良かったから、難しいことを考えるのはやめて大人しく彼に着いていくことにした。
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