このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

nk

 時間と労力と愛情がたっぷり詰まった手料理を口いっぱいに頬張る彼は人間の持つあらゆる欲求のうち“食欲”の数値が異常に高い。最早それはカンストしていて、余ったステータスは神様がサイコロを振って出た分だけ残りの項目に割り振ったような、そんな男だ。「ま〜じで君のご飯が世界で一番美味しいっす!」と、心底幸せそうな表情でこれ以上ない褒め言葉をくれる彼。どこからどう見ても、誰が見ても、幸福が満ち溢れているように見える構図。
 食事を終え、ソファに腰掛けた彼は「お腹いっぱいで幸せっす〜」と言いながらお腹をぽんぽんと叩いた。これでもかと多めに用意した料理は余すことなく彼の胃袋に放り込まれたはずだが、彼はそれを微塵も感じさせない体型をしていた。それは職業柄、身体を頻繁に動かすからなのだろうが、わたしが同じ量を食べたら太るだけなのに、となんだか向っ腹が立った。ほとんど八つ当たりに近い。
 そんなわたしの気持ちなどお構いなしに彼はにこにこ笑いながらこちらへ手招きをして、食器の片付けを終えてエプロンを外したわたしを自身の足の間に座らせた。
 腰を下ろした瞬間、後ろからぎゅーっと強く抱きしめられる。何かに縋るみたいな、苦しい抱擁だった。痛くてきつくて仕方がなかった。それでも我慢して受け入れた。
 次第に拘束が緩んだかと思うと今度はトップスの裾から手が布の内側へじわじわと侵攻してきた。温かくて、大きくて、少しカサついた料理人の手が素肌に触れた。脇腹の辺りを優しくさわさわと撫でられる。
 不意に耳元へふう、と湿り気のある息が吹きかけられた。口から情けない声が漏れて身の毛が逆立つ。この時点で、後の展開は大方予想がついていた。抵抗する気は微塵もない。彼は匂いを嗅ぐようにわたしの首筋に顔を寄せた後、肩に頭を乗せてはぁ〜と溜息を吐いた。鈍色の髪が肌に当たって、くすぐったくて身を捩る。
「僕のになればいいのに……」
 ぼそ、と耳元で呟かれた言葉が、高揚しかけていた気持ちを一気に冷却させた。それは、バケツにたった一滴、垂らされた雫なのに、溜め込んでいたありとあらゆる感情を溢れさせた。とっくの昔から満タンで、今にも溢れそうで、表面張力がギリギリ働いていただけだったのだ。その均衡を破ってしまったのは彼だった。
 お腹に回っている手を掴んで引き離した。背後にある温もりを無理矢理剥がして立ち上がる。くるりと百八十度回転して彼に倒れ込むように跨った。ギリギリ触れない距離、湿度の高い二人の吐息が空気中で混じり合う。
「じゃあ、彼女にしてよ」
 思っていたよりも低い声が出た。ずっと前から遠回しに言い続けていることだった。ちゃんと言葉にして告白したことも過去に一度だけあった。好きだけど彼女には出来ない。そう言われて、わたしは全然納得できなくて、そのままずるずると今の今まで引き摺っていたのだ。自分でも馬鹿だと思う。それでも、彼の撫で回したくなるような愛くるしい笑顔とか、時々作ってくれる愛情たっぷりの手料理とか、ステージ上できらきら輝いている姿とか、二人きりの時に見せるちょっとかっこいいところとか。全部全部、大好きだから離れられなくなっていた。
「それは無理っす」
 今までと同じ返事が返ってきた。その台詞はいい加減聞き飽きた。いつものようにヘラヘラ笑って、一時の気の迷いでも良いから「僕たち付き合っちゃう?」って笑ってくれないかなってずっと思っていた。実際、彼なら言いそうだし。でも、決してそんなことはなくて彼はいつもと同じ台詞で、同じ言い訳をごたごたと並べてわたしを拒み続けた。
「僕って馬鹿だし、こんな体質だし、みんなみたいに“普通”じゃないから、君をどれだけ幸せにしたいと思っても、多分人並みに出来ないと思うっす」
「だから、付き合ってもなぁ〜んも良いことないっすよ。この距離感でいるのが一番幸せな…………んぃ」
 彼の頬を片手でつまんだら変な鳴き声が出た。その憎たらしい程に澄んでいる、晴れた日の空みたいに真っ青な瞳を目一杯睨みつける。
「“普通”じゃないから人並みに幸せにできない? 幸せの基準って誰が決めるの? ニキくんにわたしの何がわかるの?わたしの幸せを決めるのはニキくんじゃない。わたし自身だよ。でもわたしを幸せにできるのはニキくんしかいないんだよ」
「でも、僕なんか…………んぅ」
 もう一度つまんだらまた変な鳴き声が出た。目の前の男が大好きで欲しくて堪らないと言っているのに、当の本人はどうしてこうも卑屈で、自分を蔑むような発言ばかりなのか理解が出来なくて、怒りが頂点まで達してしまって、すると今度は段々と鼻の奥がツンと痛くなってきて、声が掠れてきて、目の前の彼の姿がぼやけてきた。
「ニキくんいっつも僕なんか、って言うけど、そんな卑下するような人間じゃないよ。なんだかんだ言って今日まで器用に生きてきたじゃん。心配なことがあるなら、わたしがずっと隣で大丈夫だよって言い続ける。聞こえなかったら大声で何度でも言うよ。だからさぁ…………」

 ニキくんの彼女にしてよ。

 いつの間にか耐えきれずぽろぽろと溢れた雫は彼の服に大きなシミを作っていた。首元に手を回して、もたれかかるように抱きつく。彼はしっかりと受け止めてくれた。背中にゆっくりと、優しく包み込まれるように腕が回される。ぶっきらぼうに頭をよしよしと撫でられた。
「あぁもう……どうして泣くんすかぁ〜〜こんな熱烈な告白をされちゃったら、断るにも断れないっすよ…………」
 少しの間を置いて、彼はいつまでもぐずぐずしているわたしの肩を掴んで離した。いつにもなく真剣な眼差しが向けられる。急に彼の纏う空気が変化して、背筋がぴんと伸びる思いだった。
 お互いの視線がぶつかりあった瞬間、彼は見たことのないくらい柔らかく微笑んだ。観念したと言わんばかりのちょっと困ったような表情。それでも、わたしのことが大好きで愛おしいのだと伝わってくるような表情。
 
「僕の負けっす。君の彼氏にしてください」
1/1ページ