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 忙しなく動かしていた手を止めて、ふうと息を吐く。クッション素材の背もたれに体重をかけ、組んだ手を天へと伸ばすと無意識のうちに声が漏れてしまって、慌てて咳払いで誤魔化した。かけていたPC用の眼鏡を外してデスクの引き出しから目薬を取り出して手際良く点眼する。両目をぎゅうう……と閉じてからパッと開くと少しだけ視界が鮮明になって、頭もスッキリした。
 デスクに置いてある時計はすでに二十一時を示していた。もう三時間も残業している。さすがに集中力も切れたし、お腹も空いたし、あと三十分ほどでケリをつけたい。広々としたこのオフィスの中で、こんな時間まで居残りしているのはわたしと副所長――七種茨だけだった。ほぼ毎日こんな感じだ。たまにわたしの方が早く帰る時もあるが、彼が先に上がるところは見たことがない。
 キャビネットに必要な書類を取りに行くため重い腰を上げる。チラリと彼の席を見遣ると眼鏡の下から指を差し込んで、目頭のあたりをマッサージしていた。連日の残業で相当お疲れのようだ。
 背の高いキャビネットには多くの書類がファイリングされている。ここの事務所は何でも几帳面にラベリングされているお陰で目当ての物はすぐに見つかったのだが、よりによって欲しいファイルは一番上の段にあった。誰がこんな高いところにしまったんだ。うんしょ、と目一杯背伸びをして手を伸ばす。……届かない。正確にはそのツルッとした表面に触れることはできるのに少しだけ高さが足りなくて掴むことができない。上手いこと爪に引っかからないかな、と思ってファイルを引っ掻いてみたがそう上手くはいかなかった。
 しばらく苦戦していると、キャビネットに映る自分の影が伸びて、背後に人の気配を感じた。すると真横からスッと腕が伸びてきて、それはわたしの取ろうとしていたファイルをいとも容易く取り出す。ファイルはわたしの手元へまっすぐと降りてきた。
 ありがとうございます、と後ろを振り向こうとしたが、目の前にあった手がぐるっと腰のあたりに回ってきて、それは叶わなかった。背中に彼の温もりを密に感じる。カチャ、と眼鏡を外すような音が聞こえてから、もう片方の腕もぎゅっとわたしの身体に絡みついてきた。そして、彼の頭がこてんと左肩に乗せられる。振り向くことも出来ず、動きも拘束されてしまったため、大人しく棚の中にあるラベルを見つめたまま彼の抱擁を受け入れた。
「わぁ、珍しい」
「………………何か問題でも?」
 彼がこんなにも素直に甘えてくるのはかなり貴重だった。口元が緩んでいくのが分かる。こんなだらしなくにやけた顔を見られたらまた文句を言われそうだ。背中を向けたままで良かった。とはいえ。「ここ一応会社なんだけど」と言い放つと彼は「どうせ自分たちだけなんですからいいでしょう」と呟いた。彼は結構リスクマネジメントがしっかりしているタイプの人間だ。もちろん隠蔽込みで、だが。自宅以外では、あからさまに恋人同士だと分かるような言動を慎むような彼が職場でこんな甘っちょろいことを言うなんて、明日は槍でも降るんじゃないか? あとで天気予報を確認しておこう。
「いつも遅くまでお疲れ様」
「……その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
 ぼそぼそと呟かれた言葉は普段の彼からは想像できないほど弱々しい。肩の上にある頭へ手を伸ばして、優しく労わるように、その綺麗なワインレッドの艶やかな髪をさらさらと撫でる。さすがに後ろ手では満足に撫でられなかったけど。調子が良い時は「口から生まれたんですか?」と聞きたくなるくらいペラペラペラペラとお喋りするのに、彼女の前ではこんなにもお利口さんにしていて、なんだか可愛い人だな、と思って無意識のうちに「よしよし」と口に出してしまってから、ハッと口を噤んだ。こんな子供みたいな扱い方をすると機嫌を損ねて、嫌味のような言葉を回りくどく、それこそマシンガンのように飛ばしてくると思ったからだ。
 しかし、今日は終始静かにその手を受け入れていた。こりゃ重症だ。
「わたしはあと三十分くらいで帰るけど……」
「………………」
「…………今日は寮じゃなくて、うち来なよ」
 彼は少ししてから「ん」とだけ呟くと、頭を上げてわたしを解放した。肩が急に軽くなったので、くるっと体を回転させると彼の透き通るようなブルーの瞳と目が合う。
「なんかさ、美味しい物でも買って帰ろ」
 ね? と自分よりも上にある目線へと微笑みかける。彼はまるで宝物を愛でるような表情でわたしを見つめていた。そして一瞬、その宝石みたいな目が光を宿して煌めいたかと思うと、彼の手が流れるようにわたしの頬に添えられ、瞬く間に唇を奪われた。
「………………!」
 すぐに離れた綺麗な顔はほんの少しだけ名残惜しそうにこちらを見つめていた。驚きのあまり呆然と立ち尽くして目の前の男を見つめる。先ほども言った通り職場でこんなこと、絶対にしない人なのだ。
 彼はびっくりして固まっているわたしを見て、ふっ、とほくそ笑んだ。いつの間にか通常運転に戻っていた彼は手に持っていた眼鏡をかけ直して、角張った声で「業務に戻りますよ」と言い放った。
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