言葉の響きは明るい
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司馬懿は、自分が日に日に衰弱しているような気がした。
目が霞み、意識が朦朧とする事も少なくない。
何とか食事は摂ってはいるが、殆ど流し込んでいる状態だ。
まあ、この程度で倒れる私ではないがな、と鼻を鳴らし、机の上の紙を広げる。
「ふむ・・・」
相変わらず、大した事は書いていない。
天気がどうだとか、花がどうだとか、そんな事ばかりだ。
だが、これが今の司馬懿には唯一の癒しだった。
初はどんな顔で書いているのか、さぞかし緩んだ表情をしているのだろう。
そうして瞼に思い浮かぶのは、微笑む彼女だ。
その小さな体を抱き締めたのはいつだったか。
司馬懿は筆を取ろうとして、その動きをぴたりと止めた。
駄目だ、このままでは湧き上がって来た言葉をそのままに記してしまいそうになる。
未だ、腑抜けている場合ではないのだと、司馬懿は取った筆を机に置いた。
その日、初めて司馬懿は返事を書かなかった。
もしもこの時、それを文字にしてしまえば、もう誤魔化せなくなる事を、彼は察していた。
城内が何処となく、慌ただしい。
一体、何がどう運んでいるのか、女官の身には分からない。
初の仕事は変わらず、毎日司馬懿の机に手紙を置く余裕はあったが、城内の様子に合わせて彼からの返事が遅くなり始めていた。
お忙しいのね、と思いながらも彼女は手紙を書く事を止めなかった。
元より、返事が欲しくて始めた訳ではない。
「司馬懿様ったら・・・これ、いつの話かしら」
それでもニ、三日置きに返事は来る、それだけで十分だった。
いつものように初は紙を丁寧に畳み、文箱に入れる。
それがぴたりと止まったのは、間もなくの事であった。
最初は特に何も思わなかった。
起きた時に一番に文机へ向かう事が習慣付いていれば、その時にそこに何もない事に寂しさは覚える。
そんな時は司馬懿からの返事を読み返して、寂しさを紛らわせていた。
司馬懿の机に置いた手紙がなくなっているのも、慰めにはなった。
返事はなくとも、読んではいるのだ。
疲れているのではないかと、小さな菓子を手紙に添えて置けば、翌日にはなくなっていた。
確かに、司馬懿はそこに居る。
初は整った彼の机をそっと撫でた。
会いたい。
一目で良い。
司馬懿様に・・・会いたい。
初は疲れた動きで部屋の扉を開けた。
最近、慌ただしさが増すに連れて、仕事が増えて来たように思う。
いや、それだけではないだろう。
司馬懿からの返事がない、それが何より初には堪えていた。
会いたい気持ちが募る一方で、そうとは書けないのが辛い。
せめて、せめて返事があれば良いのに。
そう思う初の耳に、知った声が届いた。
「随分と遅いな」
初ははっと視線を巡らせる。
文机の前に、見間違える筈もない彼の姿を認め、
「司馬懿、様・・・?」
「他に誰がお前を訪ねるのだ」
声を震わせる初に、司馬懿が鼻を鳴らして言った。
司馬懿はすたすたと彼女の傍に遣って来ると、その頬に触れ、事もあろうに指先で引っ張った。
「・・・いひゃい、れす」
「全く、呆けたような顔をしおって」
そう言って直ぐに手を離す、その司馬懿の表情は呆れたように微笑んでいた。
初は司馬懿が触れた頬に手を当てて上目遣いで彼を睨む。
やっとお会いできたと思ったのに、こんな事をなさるなんて。
「司馬懿様ったら・・・酷い」
「酷いのはお前の方だ。毎日毎日、手紙を寄越しおって」
溜め息を吐き、司馬懿は続けて言った。
「庭の鯉が寄り添って泳いでいただと?何処の池か書いておらねば分かる筈がないだろうが、馬鹿めが!お陰で城内の庭を走り回ったわ!」
「あっ・・・!」
初は思い出したように声を上げ、それからくすくすと笑った。
何でもない事を、司馬懿は大切な事のように受け取ってくれていたのだ。
それが嬉しい。
「ごめんなさい。西の端の庭の事です、あの橋の掛かった所で・・・」
「見たわ!」
城内には幾つもの庭と池がある、当然、鯉も何匹もいる訳で、その全てを巡った上で司馬懿はそう言ったのだろう。
何も全てを巡る必要などない。
何処か一箇所で見かけたなら、それで見たと言っても良い筈なのに、律儀に全ての庭を巡ったのだ。
「そんな・・・ただの世間話ですのに。真面目なんですから」
「お前が言ったのだ」
司馬懿に言葉を遮るように言われ、初は胸を詰める。
そうだわ、司馬懿様はこう言う人だった。
短くても、私の手紙に応えてくれる人だった。
初は微笑んで言った。
「・・・次からは、もう少し丁寧に書きます」
「必要ない。もう終わった」
「え・・・?」
ぴしゃりと言い切った司馬懿に、初が首を傾げる。
必要ないって、終わったって・・・どう言う事かしら。
まさか、と良からぬ想像が脳裏を過った。
しかし、それすらも司馬懿にはお見通しだったようで、彼は深く息を吐く。
「馬鹿め、仕事が終わったと言う意味だ」
その「言葉の響きは明るい」、初は自分が早まった事に気付き、頬を染めた。
「それならそうと仰って下さい。・・・勘違いしてしまいました」
それを聞いて、司馬懿は目を細める。
「ほう?何をどう勘違いしたのかは知らぬが・・・」
そう言いながら、司馬懿は初の細い手首を取り、優しく引き寄せた。
一方の手を彼女の腰に回して静かに抱き締める。
「えっ、あの・・・司馬懿様?」
腕の中で、困惑したような声を上げる彼女に、司馬懿は言った。
「二度と余計な想像をするな、馬鹿めが」
耳元で聞こえた彼の低い声に、初はゆっくりと目を閉じる。
これ以上、言葉は必要ないように思えた。
→あとがき
目が霞み、意識が朦朧とする事も少なくない。
何とか食事は摂ってはいるが、殆ど流し込んでいる状態だ。
まあ、この程度で倒れる私ではないがな、と鼻を鳴らし、机の上の紙を広げる。
「ふむ・・・」
相変わらず、大した事は書いていない。
天気がどうだとか、花がどうだとか、そんな事ばかりだ。
だが、これが今の司馬懿には唯一の癒しだった。
初はどんな顔で書いているのか、さぞかし緩んだ表情をしているのだろう。
そうして瞼に思い浮かぶのは、微笑む彼女だ。
その小さな体を抱き締めたのはいつだったか。
司馬懿は筆を取ろうとして、その動きをぴたりと止めた。
駄目だ、このままでは湧き上がって来た言葉をそのままに記してしまいそうになる。
未だ、腑抜けている場合ではないのだと、司馬懿は取った筆を机に置いた。
その日、初めて司馬懿は返事を書かなかった。
もしもこの時、それを文字にしてしまえば、もう誤魔化せなくなる事を、彼は察していた。
城内が何処となく、慌ただしい。
一体、何がどう運んでいるのか、女官の身には分からない。
初の仕事は変わらず、毎日司馬懿の机に手紙を置く余裕はあったが、城内の様子に合わせて彼からの返事が遅くなり始めていた。
お忙しいのね、と思いながらも彼女は手紙を書く事を止めなかった。
元より、返事が欲しくて始めた訳ではない。
「司馬懿様ったら・・・これ、いつの話かしら」
それでもニ、三日置きに返事は来る、それだけで十分だった。
いつものように初は紙を丁寧に畳み、文箱に入れる。
それがぴたりと止まったのは、間もなくの事であった。
最初は特に何も思わなかった。
起きた時に一番に文机へ向かう事が習慣付いていれば、その時にそこに何もない事に寂しさは覚える。
そんな時は司馬懿からの返事を読み返して、寂しさを紛らわせていた。
司馬懿の机に置いた手紙がなくなっているのも、慰めにはなった。
返事はなくとも、読んではいるのだ。
疲れているのではないかと、小さな菓子を手紙に添えて置けば、翌日にはなくなっていた。
確かに、司馬懿はそこに居る。
初は整った彼の机をそっと撫でた。
会いたい。
一目で良い。
司馬懿様に・・・会いたい。
初は疲れた動きで部屋の扉を開けた。
最近、慌ただしさが増すに連れて、仕事が増えて来たように思う。
いや、それだけではないだろう。
司馬懿からの返事がない、それが何より初には堪えていた。
会いたい気持ちが募る一方で、そうとは書けないのが辛い。
せめて、せめて返事があれば良いのに。
そう思う初の耳に、知った声が届いた。
「随分と遅いな」
初ははっと視線を巡らせる。
文机の前に、見間違える筈もない彼の姿を認め、
「司馬懿、様・・・?」
「他に誰がお前を訪ねるのだ」
声を震わせる初に、司馬懿が鼻を鳴らして言った。
司馬懿はすたすたと彼女の傍に遣って来ると、その頬に触れ、事もあろうに指先で引っ張った。
「・・・いひゃい、れす」
「全く、呆けたような顔をしおって」
そう言って直ぐに手を離す、その司馬懿の表情は呆れたように微笑んでいた。
初は司馬懿が触れた頬に手を当てて上目遣いで彼を睨む。
やっとお会いできたと思ったのに、こんな事をなさるなんて。
「司馬懿様ったら・・・酷い」
「酷いのはお前の方だ。毎日毎日、手紙を寄越しおって」
溜め息を吐き、司馬懿は続けて言った。
「庭の鯉が寄り添って泳いでいただと?何処の池か書いておらねば分かる筈がないだろうが、馬鹿めが!お陰で城内の庭を走り回ったわ!」
「あっ・・・!」
初は思い出したように声を上げ、それからくすくすと笑った。
何でもない事を、司馬懿は大切な事のように受け取ってくれていたのだ。
それが嬉しい。
「ごめんなさい。西の端の庭の事です、あの橋の掛かった所で・・・」
「見たわ!」
城内には幾つもの庭と池がある、当然、鯉も何匹もいる訳で、その全てを巡った上で司馬懿はそう言ったのだろう。
何も全てを巡る必要などない。
何処か一箇所で見かけたなら、それで見たと言っても良い筈なのに、律儀に全ての庭を巡ったのだ。
「そんな・・・ただの世間話ですのに。真面目なんですから」
「お前が言ったのだ」
司馬懿に言葉を遮るように言われ、初は胸を詰める。
そうだわ、司馬懿様はこう言う人だった。
短くても、私の手紙に応えてくれる人だった。
初は微笑んで言った。
「・・・次からは、もう少し丁寧に書きます」
「必要ない。もう終わった」
「え・・・?」
ぴしゃりと言い切った司馬懿に、初が首を傾げる。
必要ないって、終わったって・・・どう言う事かしら。
まさか、と良からぬ想像が脳裏を過った。
しかし、それすらも司馬懿にはお見通しだったようで、彼は深く息を吐く。
「馬鹿め、仕事が終わったと言う意味だ」
その「言葉の響きは明るい」、初は自分が早まった事に気付き、頬を染めた。
「それならそうと仰って下さい。・・・勘違いしてしまいました」
それを聞いて、司馬懿は目を細める。
「ほう?何をどう勘違いしたのかは知らぬが・・・」
そう言いながら、司馬懿は初の細い手首を取り、優しく引き寄せた。
一方の手を彼女の腰に回して静かに抱き締める。
「えっ、あの・・・司馬懿様?」
腕の中で、困惑したような声を上げる彼女に、司馬懿は言った。
「二度と余計な想像をするな、馬鹿めが」
耳元で聞こえた彼の低い声に、初はゆっくりと目を閉じる。
これ以上、言葉は必要ないように思えた。
→あとがき
