言葉の響きは明るい
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言葉の往復。
最近の司馬懿は、妙に遠いように初には思えた。
同じ宮中にいる筈なのに、擦れ違う事すら稀で、酷い時には顔を見掛けない事もあった。
彼の行動を把握している訳ではないが、恐らく、朝早くに出仕し、戻るのは夜半を過ぎてからなのだろう。
その頃には、女官たちの灯はとっくに落ちている。
恋人と言う言葉は、日々の忙しさの前では脆いものだった。
最後に彼と言葉を交わしたのはいつだったか。
「お疲れではありませんか?」
「問題ない」
漸く、顔を見れたと思ったら、それ以上を交わす余地すらない声で、彼は背中を向けて去って行った。
司馬懿の胸の疑うつもりはないが、時には愛している事を言葉や行動で伝えてくれないと、寂しさが募る。
そんな日々が続いたある日の事、初は司馬懿の執務室を訪れていた。
理由は特にない。
いや、正確には理由はひとつだけあった。
室内を進み、机に近付く。
その上に置かれた書簡や筆や硯は、どれも位置が狂っていない。
彼の性格そのままのような、過剰なまでの秩序。
そこに、初はそっと一枚の紙を置いた。
長い文ではない、ただ、思いついたままの一文。
東の庭に白い花が咲いていました。
返事も期待していなかった。
寧ろ、返って来ない方が当然だ。
無駄を徹底的に省く男、だからこそ、それを置いた翌日に自室の文机に置かれたものに初は目を開いた。
くるりと巻かれた紙に見て取れた、彼の筆跡で綴られた短い一言に彼女の口元が綻ぶ。
「見た、って・・・」
返事にしては短過ぎるような気がするが、紛れもなく初への返事だった。
司馬懿様らしい、初は紙を丁寧に畳み、文箱に入れた。
真夜中に自室へと戻った司馬懿は、溜め息を吐きながら長椅子に腰を下ろした。
持っていた紙の束を無造作に卓に置く。
どれもこれも愚策だ。
一応と思って全てに目を通した数刻前の自分が馬鹿らしい。
凡愚めが、と言いたいが言葉を発する事すら煩わしかった。
吐いて出るのは溜め息ばかり、明日も朝から予定が詰まっていれば、早々に休むに限る。
疲れた体を叱咤し、のろのろと室内を進む彼の足取りは酷く重い。
その途中で、司馬懿は机に寄った。
昨日と同じように一枚の紙が置いてあり、無意識に口元を緩める。
広げて見れば、恋人の筆跡で一言が綴られていた。
今日は空が綺麗でした。
「・・・暇なのか」
こちらは一日中、室内に居たと言うのに、随分と暢気なものだ。
そう呟いた司馬懿の表情は、僅かに安らいでいた。
その紙を丁寧に畳み、漆塗りの文箱に入れる。
彼は机の上の筆を取り、新しい紙に走らせてから寝室へと入って行った。
翌朝、初は文机に同じように紙が置いてあるのを見付けた。
司馬懿様、またお返事をくれたんだわ。
でも、いつの間に置いて行ったのかしら。
もし、出仕の途中に寄られたのなら、声を掛けて下されば良いのに・・・。
そうは思いつつも、深くは考えずに巻かれた紙を開く。
「まあ・・・!」
初はそこに書かれた一文に声を上げ、くすくすと笑った。
暇なのか、なんて失礼な。
「女官だって忙しいんですよ」
そこに居る訳でもないのに、彼女はそう言って紙を文箱に入れる。
今日は何を書こうかしら。
司馬懿は夜中にも関わらず、筆を走らせていた。
昼間は昼間で常に誰かに手配を指図しているか、会議に顔を出している。
今、取り掛かっているのは今日とはまた別の、明日の仕事だ。
常に前倒しを心掛けているつもりだが、予定外の事に手を取られてばかりだ。
「・・・凡愚共めが」
悪態を吐いていても、彼の筆の運びに淀みはない。
最後の一文を記した所で、司馬懿は疲れたように背もたれに体を預けた。
そこで漸く、部屋に入った時に見付けていた紙に手を伸ばす。
司馬懿は文字に視線を走らせ、くつりと笑った。
今日は忙しかったので、お昼ご飯を食べ損ねました。
「・・・馬鹿めが」
暇なのかに対する意趣返しのつもりか。
初は身支度を整えるよりも先に、文机に向かうようになっていた。
今日は何て書いてあるのかしらと、朝を楽しみにしている。
だが、その楽しみを裏切られた事もあった。
確か、お昼を食べ損ねたと書いた日の翌朝の事だ。
見当たらない紙に、肩を落とし掛けた彼女は、その代わりに小さな包紙を見付けた。
「何かしら・・・」
と、広げてみれば、小さな干菓子が入っていて、それが返事なのだと覚る。
初は一つ摘み、口の中にじわりと広がる甘さに呟いた。
「・・・美味しい」
その御礼にと思って、その日は初も手紙の代わりに庭に咲いていた花を、綺麗でしょうと言葉を添えて置いた。
その時の返事は、
「馬鹿め!水に着けておかねば直ぐに枯れるだろう!」
と、やや怒ったような口調で書かれていて、慌てて司馬懿の部屋を覗きに行った初は、机の上に如何にもその場しのぎ、茶杯に差された花を見て嬉しさに胸を熱くした。
そうして過ぎる日々、離れてはいたが、繋がっている感覚に満たされてはいるつもりだった。
しかし、矢張り何処かもの寂しいのだろう。
意識していなければ、
「会いたいです」
と書きそうな自分を、初は無理矢理、奥に押し込めていた。
初は今日も筆を取る。
今はこれが唯一の繋がりなのだから。
最近の司馬懿は、妙に遠いように初には思えた。
同じ宮中にいる筈なのに、擦れ違う事すら稀で、酷い時には顔を見掛けない事もあった。
彼の行動を把握している訳ではないが、恐らく、朝早くに出仕し、戻るのは夜半を過ぎてからなのだろう。
その頃には、女官たちの灯はとっくに落ちている。
恋人と言う言葉は、日々の忙しさの前では脆いものだった。
最後に彼と言葉を交わしたのはいつだったか。
「お疲れではありませんか?」
「問題ない」
漸く、顔を見れたと思ったら、それ以上を交わす余地すらない声で、彼は背中を向けて去って行った。
司馬懿の胸の疑うつもりはないが、時には愛している事を言葉や行動で伝えてくれないと、寂しさが募る。
そんな日々が続いたある日の事、初は司馬懿の執務室を訪れていた。
理由は特にない。
いや、正確には理由はひとつだけあった。
室内を進み、机に近付く。
その上に置かれた書簡や筆や硯は、どれも位置が狂っていない。
彼の性格そのままのような、過剰なまでの秩序。
そこに、初はそっと一枚の紙を置いた。
長い文ではない、ただ、思いついたままの一文。
東の庭に白い花が咲いていました。
返事も期待していなかった。
寧ろ、返って来ない方が当然だ。
無駄を徹底的に省く男、だからこそ、それを置いた翌日に自室の文机に置かれたものに初は目を開いた。
くるりと巻かれた紙に見て取れた、彼の筆跡で綴られた短い一言に彼女の口元が綻ぶ。
「見た、って・・・」
返事にしては短過ぎるような気がするが、紛れもなく初への返事だった。
司馬懿様らしい、初は紙を丁寧に畳み、文箱に入れた。
真夜中に自室へと戻った司馬懿は、溜め息を吐きながら長椅子に腰を下ろした。
持っていた紙の束を無造作に卓に置く。
どれもこれも愚策だ。
一応と思って全てに目を通した数刻前の自分が馬鹿らしい。
凡愚めが、と言いたいが言葉を発する事すら煩わしかった。
吐いて出るのは溜め息ばかり、明日も朝から予定が詰まっていれば、早々に休むに限る。
疲れた体を叱咤し、のろのろと室内を進む彼の足取りは酷く重い。
その途中で、司馬懿は机に寄った。
昨日と同じように一枚の紙が置いてあり、無意識に口元を緩める。
広げて見れば、恋人の筆跡で一言が綴られていた。
今日は空が綺麗でした。
「・・・暇なのか」
こちらは一日中、室内に居たと言うのに、随分と暢気なものだ。
そう呟いた司馬懿の表情は、僅かに安らいでいた。
その紙を丁寧に畳み、漆塗りの文箱に入れる。
彼は机の上の筆を取り、新しい紙に走らせてから寝室へと入って行った。
翌朝、初は文机に同じように紙が置いてあるのを見付けた。
司馬懿様、またお返事をくれたんだわ。
でも、いつの間に置いて行ったのかしら。
もし、出仕の途中に寄られたのなら、声を掛けて下されば良いのに・・・。
そうは思いつつも、深くは考えずに巻かれた紙を開く。
「まあ・・・!」
初はそこに書かれた一文に声を上げ、くすくすと笑った。
暇なのか、なんて失礼な。
「女官だって忙しいんですよ」
そこに居る訳でもないのに、彼女はそう言って紙を文箱に入れる。
今日は何を書こうかしら。
司馬懿は夜中にも関わらず、筆を走らせていた。
昼間は昼間で常に誰かに手配を指図しているか、会議に顔を出している。
今、取り掛かっているのは今日とはまた別の、明日の仕事だ。
常に前倒しを心掛けているつもりだが、予定外の事に手を取られてばかりだ。
「・・・凡愚共めが」
悪態を吐いていても、彼の筆の運びに淀みはない。
最後の一文を記した所で、司馬懿は疲れたように背もたれに体を預けた。
そこで漸く、部屋に入った時に見付けていた紙に手を伸ばす。
司馬懿は文字に視線を走らせ、くつりと笑った。
今日は忙しかったので、お昼ご飯を食べ損ねました。
「・・・馬鹿めが」
暇なのかに対する意趣返しのつもりか。
初は身支度を整えるよりも先に、文机に向かうようになっていた。
今日は何て書いてあるのかしらと、朝を楽しみにしている。
だが、その楽しみを裏切られた事もあった。
確か、お昼を食べ損ねたと書いた日の翌朝の事だ。
見当たらない紙に、肩を落とし掛けた彼女は、その代わりに小さな包紙を見付けた。
「何かしら・・・」
と、広げてみれば、小さな干菓子が入っていて、それが返事なのだと覚る。
初は一つ摘み、口の中にじわりと広がる甘さに呟いた。
「・・・美味しい」
その御礼にと思って、その日は初も手紙の代わりに庭に咲いていた花を、綺麗でしょうと言葉を添えて置いた。
その時の返事は、
「馬鹿め!水に着けておかねば直ぐに枯れるだろう!」
と、やや怒ったような口調で書かれていて、慌てて司馬懿の部屋を覗きに行った初は、机の上に如何にもその場しのぎ、茶杯に差された花を見て嬉しさに胸を熱くした。
そうして過ぎる日々、離れてはいたが、繋がっている感覚に満たされてはいるつもりだった。
しかし、矢張り何処かもの寂しいのだろう。
意識していなければ、
「会いたいです」
と書きそうな自分を、初は無理矢理、奥に押し込めていた。
初は今日も筆を取る。
今はこれが唯一の繋がりなのだから。
