あなたの手で
貴女のお名前
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城を出ると、二人は人の行き交う城下の市へ向かった。
荀攸の足取りに迷いはなく、目的の店はそう遠くないらしい。
市の中心から少し離れ、次第に人通りが少なくなっていく。
軒を連ねる店も、食べ物や布を扱う店から、日々使う道具を扱う小さな店へと変わっていった。
やがて荀攸が足を止めたのは、表通りから少し外れた場所にある、こぢんまりとした店だった。
「ここです」
荀攸がそう言って、店の暖簾を先に潜る。
続いて足を踏み入れた名無しさんの鼻先を墨の匂いが擽る。
中へ入ると、外から見たよりも奥行きのある店だった。
壁際には筆が種類ごとに束ねられ、棚には墨や硯が整然と並んでいる。
飾り気のない店構えだが、品物にはどこか丁寧な手入れが行き届いているように見えた。
店の中央には低い台があり、その上には硯と水差し、試し書き用の紙が用意されている。
奥の作業台では、今しも、筆を仕立てている様子だった。
荀攸は遠慮なく奥まで進み、作業台で穂先を扱いている最中の男性に声をかける。
「ご無沙汰してます」
返事の代わりに、じろりと向けられた視線にも慣れているのか、荀攸は続けて言った。
「少し、見せて頂きます」
男性は何も言わずに、好きにしろとばかりに顎をしゃくった。
その遣り取りを見ていた名無しさんはおずおずと男性にぺこりと頭を下げてから、店内に戻る荀攸の後を追う。
荀攸様より、愛想がなさそうな人だったわ。
そんなことを思いながらも、名無しさんは荀攸の傍らに並んだ。
荀攸は棚に並べられた筆を眺めると、幾本かを手に取っては、軸を指先で確かめたり、穂先を目の高さまで持ち上げたりしている。
普段使っている筆を選ぶ時も、こうしているのだろうか。
「名無しさん、こちらへ」
「はい」
呼ばれて近くへ寄ると、荀攸は手にしていた筆を差し出した。
「これを持ってみて下さい」
「はい」
名無しさんは筆を受け取り、いつものように軸を指の間に挟む。
「どうですか?」
「・・・少し細いような気がします」
「そうですか」
荀攸は直ぐに別の筆へ手を伸ばした。
「では、こちらは?」
今度の筆は先程のものより僅かに軸が太い。
名無しさんが握ってみると、先程よりもしっくりと指に馴染む。
「あ、こちらの方が持ち易いです」
「なるほど」
荀攸は短く頷き、名無しさんの手元へ視線を落とした。
「軸の太さはこれ位が良いようですね」
次に、荀攸は似たような太さの筆が並ぶ棚へと視線を移す。
「今度は穂を比べてみましょう」
「え?これじゃ駄目なんですか?」
「駄目です。穂先の硬さでも書き心地は変わります」
「はあ・・・」
きっぱりと言われて、名無しさんは曖昧に頷いた。
たかが筆にそんなに拘るものなのか。
それとも、荀攸の性分なのか。
荀攸様って、意外と凝り性なのかしら。
彼と一緒に仕事をするようになって随分経つが、初めて見る荀攸の横顔に、名無しさんは口元を緩める。
やがて、荀攸が決めたように一本を示した。
「こちらを試してみて下さい」
名無しさんは筆を受け取ると、穂先に墨を含ませ、試し書き用の紙の上に走らせる。
滑らかな走り心地に、ぱっと彼女の表情が変わった。
「あ・・・凄い。こんなにも違うんですね」
「はい。ですが、こちらは柔らか過ぎる。穂先が紙に馴染み易い分、力を入れずとも滑らかに書けるのですが・・・貴女の筆運びとは合わないかもしれません」
「筆運び・・・ですか」
自分が無意識でやっている事を見られていたのだろうか。
そう思うと、名無しさんは急に自分の手元を意識してしまった。
「あの・・・文字でそんな事まで分かるんですか?」
「はい、分かります」
何でもない事のように言って、荀攸は考えるように黙り込む。
彼女は筆をあまり寝かせない、もう少し、硬めの方が良いかもしれない。
荀攸は棚へ戻ると、幾本かの筆を見比べるように眺めた。
「今度はこちらを試してみて下さい」
差し出された筆を受け取り、名無しさんは先程と同じように穂先へ墨を含ませる。
紙の上へ筆を置き、ゆっくりと線を引いた。
穂先が紙に触れた時の感覚がしっかりとしていて、筆を動かすと、その動きに遅れる事なく穂先が付いて来る。
「・・・あ」
先程の筆とは、明らかに違う感触に、名無しさんが声を上げた。
何度か文字を書いてみると、先程まで感じていた僅かな頼りなさがない。
筆先が思うように動き、線の始まりも終わりも自分の意図した通りに収まっていく。
「こちらの方が、書き易いです」
「そうでしょう。筆を寝かせないのであれば、これくらい腰のある穂の方が文字が安定します」
「なるほど・・・」
名無しさんはもう一度、紙に筆を走らせた。
同じように書いているつもりなのに、筆が変わるだけでこんなにも違うなんて。
先程まで使っていた筆では気にも留めなかったほんの少しの違いが、今ははっきりと分かった。
「本当に、全然違いますね」
「筆は毎日使うものです。・・・これなら、今までより手への負担も少ないでしょう」
「ありがとうございます。私、筆でこんなに変わるなんて思ってもみませんでした。荀攸様のお陰です」
にっこりと微笑む名無しさんに、荀攸は否定するように首を振り、僅かに口元を緩めて言う。
「いえ、これ位は当然です。俺は「貴女の手で」書かれた字を好ましく思っていますから」
余りにも迷いなく返されて、名無しさんは頬を染めた。
荀攸はそんな彼女の様子には気付かないまま、書き終えた文字を眺めている。
「では、こちらにしましょう」
そう言って、荀攸は彼女の手から筆を受け取り、さっさと会計に向かってしまう。
それを見送り、名無しさんは指先をきゅっと握った。
好ましく思っている。
その言葉が、妙に名無しさんの耳に残っていた。
仕事の上で、書き手として認めてもらえている、それは分かっている筈なのに、何故だか胸の奥が擽ったかった。
→あとがき
荀攸の足取りに迷いはなく、目的の店はそう遠くないらしい。
市の中心から少し離れ、次第に人通りが少なくなっていく。
軒を連ねる店も、食べ物や布を扱う店から、日々使う道具を扱う小さな店へと変わっていった。
やがて荀攸が足を止めたのは、表通りから少し外れた場所にある、こぢんまりとした店だった。
「ここです」
荀攸がそう言って、店の暖簾を先に潜る。
続いて足を踏み入れた名無しさんの鼻先を墨の匂いが擽る。
中へ入ると、外から見たよりも奥行きのある店だった。
壁際には筆が種類ごとに束ねられ、棚には墨や硯が整然と並んでいる。
飾り気のない店構えだが、品物にはどこか丁寧な手入れが行き届いているように見えた。
店の中央には低い台があり、その上には硯と水差し、試し書き用の紙が用意されている。
奥の作業台では、今しも、筆を仕立てている様子だった。
荀攸は遠慮なく奥まで進み、作業台で穂先を扱いている最中の男性に声をかける。
「ご無沙汰してます」
返事の代わりに、じろりと向けられた視線にも慣れているのか、荀攸は続けて言った。
「少し、見せて頂きます」
男性は何も言わずに、好きにしろとばかりに顎をしゃくった。
その遣り取りを見ていた名無しさんはおずおずと男性にぺこりと頭を下げてから、店内に戻る荀攸の後を追う。
荀攸様より、愛想がなさそうな人だったわ。
そんなことを思いながらも、名無しさんは荀攸の傍らに並んだ。
荀攸は棚に並べられた筆を眺めると、幾本かを手に取っては、軸を指先で確かめたり、穂先を目の高さまで持ち上げたりしている。
普段使っている筆を選ぶ時も、こうしているのだろうか。
「名無しさん、こちらへ」
「はい」
呼ばれて近くへ寄ると、荀攸は手にしていた筆を差し出した。
「これを持ってみて下さい」
「はい」
名無しさんは筆を受け取り、いつものように軸を指の間に挟む。
「どうですか?」
「・・・少し細いような気がします」
「そうですか」
荀攸は直ぐに別の筆へ手を伸ばした。
「では、こちらは?」
今度の筆は先程のものより僅かに軸が太い。
名無しさんが握ってみると、先程よりもしっくりと指に馴染む。
「あ、こちらの方が持ち易いです」
「なるほど」
荀攸は短く頷き、名無しさんの手元へ視線を落とした。
「軸の太さはこれ位が良いようですね」
次に、荀攸は似たような太さの筆が並ぶ棚へと視線を移す。
「今度は穂を比べてみましょう」
「え?これじゃ駄目なんですか?」
「駄目です。穂先の硬さでも書き心地は変わります」
「はあ・・・」
きっぱりと言われて、名無しさんは曖昧に頷いた。
たかが筆にそんなに拘るものなのか。
それとも、荀攸の性分なのか。
荀攸様って、意外と凝り性なのかしら。
彼と一緒に仕事をするようになって随分経つが、初めて見る荀攸の横顔に、名無しさんは口元を緩める。
やがて、荀攸が決めたように一本を示した。
「こちらを試してみて下さい」
名無しさんは筆を受け取ると、穂先に墨を含ませ、試し書き用の紙の上に走らせる。
滑らかな走り心地に、ぱっと彼女の表情が変わった。
「あ・・・凄い。こんなにも違うんですね」
「はい。ですが、こちらは柔らか過ぎる。穂先が紙に馴染み易い分、力を入れずとも滑らかに書けるのですが・・・貴女の筆運びとは合わないかもしれません」
「筆運び・・・ですか」
自分が無意識でやっている事を見られていたのだろうか。
そう思うと、名無しさんは急に自分の手元を意識してしまった。
「あの・・・文字でそんな事まで分かるんですか?」
「はい、分かります」
何でもない事のように言って、荀攸は考えるように黙り込む。
彼女は筆をあまり寝かせない、もう少し、硬めの方が良いかもしれない。
荀攸は棚へ戻ると、幾本かの筆を見比べるように眺めた。
「今度はこちらを試してみて下さい」
差し出された筆を受け取り、名無しさんは先程と同じように穂先へ墨を含ませる。
紙の上へ筆を置き、ゆっくりと線を引いた。
穂先が紙に触れた時の感覚がしっかりとしていて、筆を動かすと、その動きに遅れる事なく穂先が付いて来る。
「・・・あ」
先程の筆とは、明らかに違う感触に、名無しさんが声を上げた。
何度か文字を書いてみると、先程まで感じていた僅かな頼りなさがない。
筆先が思うように動き、線の始まりも終わりも自分の意図した通りに収まっていく。
「こちらの方が、書き易いです」
「そうでしょう。筆を寝かせないのであれば、これくらい腰のある穂の方が文字が安定します」
「なるほど・・・」
名無しさんはもう一度、紙に筆を走らせた。
同じように書いているつもりなのに、筆が変わるだけでこんなにも違うなんて。
先程まで使っていた筆では気にも留めなかったほんの少しの違いが、今ははっきりと分かった。
「本当に、全然違いますね」
「筆は毎日使うものです。・・・これなら、今までより手への負担も少ないでしょう」
「ありがとうございます。私、筆でこんなに変わるなんて思ってもみませんでした。荀攸様のお陰です」
にっこりと微笑む名無しさんに、荀攸は否定するように首を振り、僅かに口元を緩めて言う。
「いえ、これ位は当然です。俺は「貴女の手で」書かれた字を好ましく思っていますから」
余りにも迷いなく返されて、名無しさんは頬を染めた。
荀攸はそんな彼女の様子には気付かないまま、書き終えた文字を眺めている。
「では、こちらにしましょう」
そう言って、荀攸は彼女の手から筆を受け取り、さっさと会計に向かってしまう。
それを見送り、名無しさんは指先をきゅっと握った。
好ましく思っている。
その言葉が、妙に名無しさんの耳に残っていた。
仕事の上で、書き手として認めてもらえている、それは分かっている筈なのに、何故だか胸の奥が擽ったかった。
→あとがき