苦しい喜びと嬉しい苦しみ
貴女のお名前
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軽い足取りで自宅の門を潜った李典を、名無しさんが笑顔で出迎える。
「お帰りなさい、李典様」
「ただいま、名無しさん」
帰ったら大好きな彼女に笑顔で迎えられるとか最高だろ。
疲れも吹っ飛ぶぜ、とにこにことしている李典の、そのご機嫌具合がいつもより良いような気がして、名無しさんはぱちりと瞳を瞬かせた。
「李典様、何か良い事でもありましたか?」
「ん?いや、別に?」
と、李典ははぐらかす。
殿の註釈入りの孫子を読めるって聞いたら、きっと凄く喜ぶだろうけど、今は未だ内緒だ。
曹操は近く、持って来ようとは言ったが、本来、忙しい身の上だ、必ずしも明日とは限らない。
受け取ってから知らせても遅くはないだろう。
そう考えた李典は、それ以上は何も言わず、上機嫌なまま夕餉の席へと着いた。
李典が温かい料理に舌鼓を打っていると、名無しさんが不意に思い出したように口を開く。
「そう言えば私、今日、お祖父様に相談したんですけれど・・・」
「相談?何を?ってか、何か悩んでるのか?」
そんな素振り、なかった気がするけど。
それとも俺が気付かなかったのか?
あんなに見てるのに、これじゃ夫失格だな、俺。
「で、先生に何を相談したんだ?」
「李典様を男性として好きになるにはどうしたら良いかを」
「ごほっ・・・!な、何でそんな事・・・」
噎せる李典に、名無しさんは至極真面目な顔で言った。
「そんな事ではありません。李典様、以前、仰っていたではありませんか。好きになった人と夫婦になるのが夢だって。手を繋いだり、口付けたりもしたいって」
「い、言ったけど・・・それが何だって言うんだよ」
そんな事ではないと言ってはくれるが、先生に相談はして欲しくなかったなあ・・・。
次、先生に会う時、どんな顔して行けば良いんだ、俺。
恥ずかしいったらない、と頭を抱える李典に構わず、名無しさんは言葉を続ける。
「李典様は、私が未だ李典様を男性として好きになっていないのに、私を妻として迎えて下さいました。あの時、お話して下さった李典様の夢を一緒に叶える為にも、私は一日でも早く李典様を男性として好きにならなければならないのに、それがどうしても分からなくて・・・つまる所、李典様のお着替えを手伝わせて頂けないのは私が李典様を男性として好きではないから夫婦になりきれていないのではないかと」
「名無しさん、・・・頼むから、そう何回も俺を男性として好きじゃないって言わないでくれ・・・。流石に心が折れそう・・・」
「あ、失礼しました。本当の事なので、つい・・・」
慌ててたように名無しさんが口元を手で覆うが遅い、李典はその追い打ちに男としての自信を失くしそうだった。
その様子に、名無しさんは慰めるように声をかける。
「あの・・・お約束しましたし、ちゃんと好きになりますから。多分・・・」
「多分、ね・・・」
何の慰めにもなっちゃいないが、まあ、頑張ってはくれてるんだ。
李典は気を取り直して言った。
「それで、先生は何て?」
「ええ、あの、李典様の好きな所を沢山、口に出して伝えなさいと。ですから、私、帰って来てからずっと李典様の事を考えてたんです」
「ず、ずっと!?」
「はい、ずっと」
名無しさんがこくりと頷くのを見て、李典はみるみる頬を緩ませる。
ずっと俺の事を考えてるとか、可愛過ぎだろ。
それだけで充分だ、と思っても、李典は彼女に恋する立場、それだけで済む筈がなく、
「そ、それで・・・?」
内心、どきどきしながら名無しさんの言葉を待つ。
名無しさんはぱちりと箸を置くと、
「いえ、未だ何も。考えてる途中です」
「あ、そう・・・」
それ以上、何かを語ることはなく、二人は夕餉を終えた。
どうしたって彼女は学問に向き合う時のように考えるのだ。
細々とした事柄を終わらせて身を清めた後、二人はいつものように書斎へ向かった。
李典が長椅子に腰を下ろすと、名無しさんは当然の顔で彼の膝の間にすっぽりと収まるように座って来る。
「昨日の続きを読みましょうか」
「・・・ああ」
初めの頃は隣に並んで座って一つの書を覗き込んでいたのだが、ある日、名無しさんが、
「この方が読み易いですね」
と、言ってから毎夜、この状況であった。
確かに、並んで読むより、効率的だとは思う。
しかし、彼女が自分の腕の中に居る事に、李典は未だに慣れないでいた。
そうでありながら、李典の両手は確りと彼女の細い腰を抱き締めてはいたのだが。
そんな李典の胸中など露知らず、名無しさんは手にした書を開く。
「ええっと、昨日は・・・あ、ここまででしたね」
「うん?どれどれ・・・」
李典は首を伸ばして名無しさんの肩越しに書を覗いた。
ふわりと香る彼女の香に、無意識に彼の鼻が動く。
それに気付いてか、名無しさんが小さく笑って首を巡らせ、李典をからかうように言った。
「李典様、私の匂い、好きですよね」
「えっ・・・俺、また嗅いでた?」
「はい」
名無しさんはくすくすと笑うと、
「良いですよ、嗅ぎ放題ですから」
特に気にした様子もなく、書に目を走らせる。
もう少し、意識してくれたって・・・いや、意識してたら膝の間に座る訳ないか。
李典はこっそりと溜め息を吐いて、いつものように彼女の肩に顎を預けた。
その瞬間、
「あっ!」
と、名無しさんが声を上げ、李典はびくりと肩を揺らす。
「えっ、どうした!?何かしたか、俺!?」
慌てて体を引いた李典に、名無しさんは笑顔を向けて言った。
「私、李典様とこうしているのが好きです」
「え?」
「あの、ですから、李典様の膝の間に座って、李典様が腰をぎゅってしてくれながら、私に凭れて下さるのが。安定感があって、温かくて凄く好きです」
「はあ・・・え?あ、それって、さっきの?ってか、今?」
いきなり何かと思えば、先程の話の続きを始めた彼女に、李典は苦笑いを浮かべる。
「はい。今、実際にこうしていて気付きました。李典様が私の匂いが好きなら、私は李典様の体温が好きです」
「体温って・・・」
それって好きとか嫌いとかあるもんなのか?
けど、悪い気はしないな。
李典は嬉しそうに頬を緩めて名無しさんの腰に回した手に力を込めた。
「そっか、名無しさんは俺にぎゅってされるのが好きか」
「はい。子どもの頃、お祖父様によくこうして座らせて貰ってて・・・何だか、懐かしいです」
「って、先生と同じかよ!?」
はっとしたように、名無しさんが手を叩く。
「あっ!これが男性として好きになるって事でしょうか!?」
「違う!絶対、違うから!」
「でも、お祖父様は男性ですよ?」
「分かってるよ!」
「ならば、これで良いではありませんか」
「駄目だ!絶対に、駄目!そこは譲れないからな、俺!」
「もう・・・李典様は我儘ですね」
折角、分かりかけたような気がしたのに、と名無しさんは頬を膨らませた。
「勘弁してくれよ・・・」
そんな彼女を見つめながら、李典は小さく溢す。
彼女の言葉一つ一つが嬉しくて、それと同じ位、未だ自分だけが恋をしている現実が苦しかった。
嬉しいのに苦しい。
苦しいのに、それでも嬉しい。
そんな、「苦しい喜びと嬉しい苦しみ」を抱えながら、李典は彼女を見詰めて言った。
「それでも、俺はそんな名無しさんが大好きなんだよなあ・・・」
→あとがき
「お帰りなさい、李典様」
「ただいま、名無しさん」
帰ったら大好きな彼女に笑顔で迎えられるとか最高だろ。
疲れも吹っ飛ぶぜ、とにこにことしている李典の、そのご機嫌具合がいつもより良いような気がして、名無しさんはぱちりと瞳を瞬かせた。
「李典様、何か良い事でもありましたか?」
「ん?いや、別に?」
と、李典ははぐらかす。
殿の註釈入りの孫子を読めるって聞いたら、きっと凄く喜ぶだろうけど、今は未だ内緒だ。
曹操は近く、持って来ようとは言ったが、本来、忙しい身の上だ、必ずしも明日とは限らない。
受け取ってから知らせても遅くはないだろう。
そう考えた李典は、それ以上は何も言わず、上機嫌なまま夕餉の席へと着いた。
李典が温かい料理に舌鼓を打っていると、名無しさんが不意に思い出したように口を開く。
「そう言えば私、今日、お祖父様に相談したんですけれど・・・」
「相談?何を?ってか、何か悩んでるのか?」
そんな素振り、なかった気がするけど。
それとも俺が気付かなかったのか?
あんなに見てるのに、これじゃ夫失格だな、俺。
「で、先生に何を相談したんだ?」
「李典様を男性として好きになるにはどうしたら良いかを」
「ごほっ・・・!な、何でそんな事・・・」
噎せる李典に、名無しさんは至極真面目な顔で言った。
「そんな事ではありません。李典様、以前、仰っていたではありませんか。好きになった人と夫婦になるのが夢だって。手を繋いだり、口付けたりもしたいって」
「い、言ったけど・・・それが何だって言うんだよ」
そんな事ではないと言ってはくれるが、先生に相談はして欲しくなかったなあ・・・。
次、先生に会う時、どんな顔して行けば良いんだ、俺。
恥ずかしいったらない、と頭を抱える李典に構わず、名無しさんは言葉を続ける。
「李典様は、私が未だ李典様を男性として好きになっていないのに、私を妻として迎えて下さいました。あの時、お話して下さった李典様の夢を一緒に叶える為にも、私は一日でも早く李典様を男性として好きにならなければならないのに、それがどうしても分からなくて・・・つまる所、李典様のお着替えを手伝わせて頂けないのは私が李典様を男性として好きではないから夫婦になりきれていないのではないかと」
「名無しさん、・・・頼むから、そう何回も俺を男性として好きじゃないって言わないでくれ・・・。流石に心が折れそう・・・」
「あ、失礼しました。本当の事なので、つい・・・」
慌ててたように名無しさんが口元を手で覆うが遅い、李典はその追い打ちに男としての自信を失くしそうだった。
その様子に、名無しさんは慰めるように声をかける。
「あの・・・お約束しましたし、ちゃんと好きになりますから。多分・・・」
「多分、ね・・・」
何の慰めにもなっちゃいないが、まあ、頑張ってはくれてるんだ。
李典は気を取り直して言った。
「それで、先生は何て?」
「ええ、あの、李典様の好きな所を沢山、口に出して伝えなさいと。ですから、私、帰って来てからずっと李典様の事を考えてたんです」
「ず、ずっと!?」
「はい、ずっと」
名無しさんがこくりと頷くのを見て、李典はみるみる頬を緩ませる。
ずっと俺の事を考えてるとか、可愛過ぎだろ。
それだけで充分だ、と思っても、李典は彼女に恋する立場、それだけで済む筈がなく、
「そ、それで・・・?」
内心、どきどきしながら名無しさんの言葉を待つ。
名無しさんはぱちりと箸を置くと、
「いえ、未だ何も。考えてる途中です」
「あ、そう・・・」
それ以上、何かを語ることはなく、二人は夕餉を終えた。
どうしたって彼女は学問に向き合う時のように考えるのだ。
細々とした事柄を終わらせて身を清めた後、二人はいつものように書斎へ向かった。
李典が長椅子に腰を下ろすと、名無しさんは当然の顔で彼の膝の間にすっぽりと収まるように座って来る。
「昨日の続きを読みましょうか」
「・・・ああ」
初めの頃は隣に並んで座って一つの書を覗き込んでいたのだが、ある日、名無しさんが、
「この方が読み易いですね」
と、言ってから毎夜、この状況であった。
確かに、並んで読むより、効率的だとは思う。
しかし、彼女が自分の腕の中に居る事に、李典は未だに慣れないでいた。
そうでありながら、李典の両手は確りと彼女の細い腰を抱き締めてはいたのだが。
そんな李典の胸中など露知らず、名無しさんは手にした書を開く。
「ええっと、昨日は・・・あ、ここまででしたね」
「うん?どれどれ・・・」
李典は首を伸ばして名無しさんの肩越しに書を覗いた。
ふわりと香る彼女の香に、無意識に彼の鼻が動く。
それに気付いてか、名無しさんが小さく笑って首を巡らせ、李典をからかうように言った。
「李典様、私の匂い、好きですよね」
「えっ・・・俺、また嗅いでた?」
「はい」
名無しさんはくすくすと笑うと、
「良いですよ、嗅ぎ放題ですから」
特に気にした様子もなく、書に目を走らせる。
もう少し、意識してくれたって・・・いや、意識してたら膝の間に座る訳ないか。
李典はこっそりと溜め息を吐いて、いつものように彼女の肩に顎を預けた。
その瞬間、
「あっ!」
と、名無しさんが声を上げ、李典はびくりと肩を揺らす。
「えっ、どうした!?何かしたか、俺!?」
慌てて体を引いた李典に、名無しさんは笑顔を向けて言った。
「私、李典様とこうしているのが好きです」
「え?」
「あの、ですから、李典様の膝の間に座って、李典様が腰をぎゅってしてくれながら、私に凭れて下さるのが。安定感があって、温かくて凄く好きです」
「はあ・・・え?あ、それって、さっきの?ってか、今?」
いきなり何かと思えば、先程の話の続きを始めた彼女に、李典は苦笑いを浮かべる。
「はい。今、実際にこうしていて気付きました。李典様が私の匂いが好きなら、私は李典様の体温が好きです」
「体温って・・・」
それって好きとか嫌いとかあるもんなのか?
けど、悪い気はしないな。
李典は嬉しそうに頬を緩めて名無しさんの腰に回した手に力を込めた。
「そっか、名無しさんは俺にぎゅってされるのが好きか」
「はい。子どもの頃、お祖父様によくこうして座らせて貰ってて・・・何だか、懐かしいです」
「って、先生と同じかよ!?」
はっとしたように、名無しさんが手を叩く。
「あっ!これが男性として好きになるって事でしょうか!?」
「違う!絶対、違うから!」
「でも、お祖父様は男性ですよ?」
「分かってるよ!」
「ならば、これで良いではありませんか」
「駄目だ!絶対に、駄目!そこは譲れないからな、俺!」
「もう・・・李典様は我儘ですね」
折角、分かりかけたような気がしたのに、と名無しさんは頬を膨らませた。
「勘弁してくれよ・・・」
そんな彼女を見つめながら、李典は小さく溢す。
彼女の言葉一つ一つが嬉しくて、それと同じ位、未だ自分だけが恋をしている現実が苦しかった。
嬉しいのに苦しい。
苦しいのに、それでも嬉しい。
そんな、「苦しい喜びと嬉しい苦しみ」を抱えながら、李典は彼女を見詰めて言った。
「それでも、俺はそんな名無しさんが大好きなんだよなあ・・・」
→あとがき