苦しい喜びと嬉しい苦しみ
貴女のお名前
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取り敢えず、結婚しました。
名無しさんは沸かしたばかりの湯を盥に移し、早朝の廊下を進む。
少しずつ、しかし確かに進む季節、吐く息は白くなりつつあった。
そろそろ綿入れを用意した方が良いかしら。
そんな事を考えながら、部屋の扉をそっと開く。
未だ夜明け前、薄暗く、静かな室内は穏やかな寝息で満ちていた。
そろそろと寝台に近付き、名無しさんは眠っている夫の顔を覗き込む。
「ふふ・・・可愛い」
立派な男性に、それも武将である立場の彼に可愛いとは、本人が聞いたら嫌な顔をするだろうが、無防備に眠る表情は存外あどけない。
名無しさんは彼の体に手を伸ばすと、布団の上から優しく揺らした。
「李典様、おはようございます。朝ですよ」
「ん・・・もう少し・・・」
不明瞭な声で返って来る言葉に、名無しさんは続けて言う。
「駄目です。お湯も朝餉も冷めちゃいますよ。今朝は李典様の好きな生姜の羹を用意してもらってますよ」
「ああ、そう・・・」
先程よりも少し確りした声で答え、李典はもぞもぞと体を起こした。
目を擦り、欠伸をして、妻である彼女にふにゃりと微笑む。
「・・・おはよ」
「おはようございます、李典様」
にっこりと返して来る名無しさんに、李典は胸に甘い痛みを覚えた。
寝起きにこの笑顔、一瞬で眠気が吹き飛ぶ可愛さだ。
「お湯、冷める前に使って下さいね」
加えて、この気遣い、感動しない方がおかしい。
彼女が自分の学問三昧の生活の為に、
「取り敢えず、私を妻に迎えて頂いて・・・」
と李典に提案したのは遡る事数ヶ月前。
前向きに検討すると言ったものの、その余地もなく、あれよあれよと流されて、気が付けば李典は城下にこぢんまりとした住処を用意し、名無しさんと夫婦になっていた。
初めの内は彼女が同じ空間に居る現実にいちいち過剰に反応していた李典だったが、最近は少しずつ慣れて来たようで、礼を言って、寝台の傍の小さな台に置かれた盥の中に手を潜らせる。
頬に触れる丁度良い温度に頭が目覚め、横から差し出された手拭いに、また礼を言って濡れた顔を拭いた。
名無しさんは衣装箱の蓋を開け、ちょっと考えてから、やや厚めの服を取り出す。
「李典様、お召し替えを」
「お、ありがとな」
李典は夜着の腰紐に手をかけ、ちらりと名無しさんを見て言った。
「あー・・・名無しさん。毎度の事ながら悪いけど、あっち向いててくれねえ?」
「毎度の事ですけれど、お手伝いしますよ?」
名無しさんに言わせれば、妻が夫の身支度を整えるのは当然の事で、彼女は幼い頃からそうする両親の姿を見て来たらしい。
しかし、李典にしてみれば、妻とは言え、彼女に裸を見られる事には未だ抵抗を覚える距離感、夫婦であっても矢張り何処か他人なのだ。
これが例えば、家同士が決めた婚姻のように、さっさと夫婦としての営みを半ば義務感で終わらせているようなら、身支度を手伝うと言う申し出に抵抗を覚える事もなかっただろう。
だからと言って、二人にその機会がなかった訳ではない。
寧ろ、名無しさんは妻としてそのつもりだったのだが、李典が頑なにそれを拒んだ。
「そう言うのは好き合ってる二人がするもんだろ。だから、名無しさんが俺を好きになるまで、俺は絶対にしないからな!」
「私、李典様の事好きですよ?」
「ああ、ありがとな!俺も名無しさんが大好きだよ!・・・って、そうじゃないって何度言えば良いんだよ、俺」
初めて二人で過ごす夜、寝台の上で、向かい合って座る彼女は薄い夜着に身を包んでいて、それだけで理性がぐらりと揺れた事を、李典は昨日のように覚えている。
それでも、あの時と同じように、李典は彼女に触れなかった。
正しく、据え膳の状況、頂いた所で何の問題もないが、持ち前の鋭い勘がこのまま続けたら後悔すると告げていた。
同時に、その時を一日でも早く迎える為に、李典は一歩だけ名無しさんに譲る。
「・・・けど、一緒に寝るのはありだ。取り敢えず、それで勘弁して下さい・・・」
一体、何を許すと言うのか、名無しさんには心底不思議だったが、李典がそう言うのならば従うまで。
嫁ぐ前に目を通した女誡にもそう書いていた事を思い出して素直に頷いた。
以来、一緒に眠ってはいるものの、彼女の心境に未だ変化は見られない。
「何度も言いますが、男の方の裸なら見慣れていますよ。時々、子どもたちが泥だらけになる事もありますし」
「何度も言うけど、子どもと一緒にするなって!俺はあんたが好きなんだよ!」
「ですから、私も李典様が好きです!」
「ああ、もう!朝っぱらから可愛いな、畜生!」
この遣り取りも何度目か、李典は強引に名無しさんに後ろを向かせた。
「頼むから、俺が良いって言うまでそのままでいてくれよ」
「・・・分かりました」
名無しさんは不服そうに唇を尖らせる。
女誡を読んだ通りに、両親と同じようにしているだけなのに、これでは私が妻として駄目みたいだわ。
今日もお祖父様の所に行くし、どうしたら良いか相談してみようかしら。
微かな衣擦れの音を背中で聞きながら、名無しさんはそんな事を考えていた。
軍議の後、李典はその場を去る前に、奥に座る曹操に声を掛けた。
「殿、少しお時間良いですか?」
「ふむ、どうした」
既に諸将は退室している、場に居るのは李典と曹操、それから夏侯惇だけだった。
李典は僅かに躊躇いながら口を開く。
「あー、その・・・以前、殿は孫子に註釈を入れてるって仰ってましたよね」
「ああ、遅々として余り進まぬがな。それがどうした」
李典が書を好む事を知っている曹操は、何となく、言いたい事を察していながらも言葉の先を促した。
「それ・・・ちょっと拝見したいな、と思いまして」
「ほう」
曹操は興味を持ったように僅かに目を開く。
未完成と知って、読みたいと言い出すような男とは思わなかったが。
「清書もしておらぬぞ」
「あ、寧ろ、その方が喜ぶと思います」
その言い方に、夏侯惇の眉がぴくりと動いた。
「何だ、お前が読むのではないのか」
「え?あ、はい。あ、いや、読ませて貰えるなら俺も読みますけど。あれ?・・・夏侯惇殿、俺、何か変な事言ってます?」
二人の遣り取りを遮るように、曹操がくつりと喉を鳴らす。
「李典よ、お主、他の誰かに儂の註釈入りを読ませたいのか」
「ええ、はい。名無しさんに・・・あー、えっと、その、つ、妻に・・・」
李典は即座に頷き、それから照れたように頬を掻いて言った。
「まあ、何と言うか学問好きな妻で・・・いや、俺としては語り合えるんで最高なんですけどね」
「・・・そこまでは聞いておらん」
と、低い声で突っ込む夏侯惇の隣で、曹操が愉快そうに肩を揺らす。
「そう言えば、妻を迎えたばかりであったな。そろそろ新しい生活にも慣れたか」
「いやあ・・・色々ありますけど、まあ、それなりに・・・」
李典は困ったように、それでいて頬を緩めて続けて口を開いた。
「毎朝、わざわざ湯を用意してくれるし、服も選んでくれるし、滅茶苦茶助かってます。あ、そうそう、今日のも名無しさんが選んでくれたんですけど、最近、冷えるようになって来たからですかね?ほら、ちょっと厚手でしょう?こう言う細かい所にも気が利いて。あー、でも着替えを手伝うって言って聞かないんですよね。いや、俺としては手伝って欲しいんですけど、何て言うか、そうじゃないんだよなあって感じで。大体、この結婚自体、名無しさんの学問三昧の生活を続ける為に決まったようなもんなんで。・・・まあ、俺は名無しさんの事が大好きなんで、問題はないっちゃないんですけどね。名無しさんも俺の事は好きなんですよ。って言うか、毎日、好きって言い合ってますから。でも名無しさんの好きってのは、俺が思う好きじゃなくてですね。そこに生じる齟齬の所為で未だ夫婦になり切れてないって言う感じなんですよね」
李典はそこまで言って一旦、言葉を切ると、肩を落として更に続ける。
「一応、結婚する前も、した後も俺を男として好きになるように頑張るとは言ってくれたんですけどね。これが中々、進まなくて・・・そもそも、頑張ってどうにかなるもんでもないでしょう?まあ、そう言う所も可愛いとは思いますけどね。正直、毎日生殺し状態で。取り敢えず、良い所を見せるのが手っ取り早いかと。まあ、別に物で釣ろうなんて考えてる訳じゃないんですけど、殿が註釈された孫子を拝見できるって聞いたら、名無しさん、喜ぶだろうなって。日頃の礼の意味も含めて良い報せをしたいなと。・・・と、言う訳で、殿、お願いします」
そう言って丁寧に頭を下げる李典に、夏侯惇は疲れたように溜め息を吐く。
何故、俺はこいつの夫婦生活の詳細を延々と聞かされたのだ、全く関係ないではないか。
さっさと部屋を出ていれば良かったと後悔する夏侯惇、その一方で、
「ふむ・・・」
と、思案げに唸る曹操は楽しそうだった。
「先ずは仲睦まじくやっておるようで何より」
「ええ・・・?そうですか?・・・あー、まあ、毎晩、書について語り合ってますから仲は・・・まあ、はい、睦まじくやってますけど。昨日は名無しさんが先生の、あ、名無しさんのお祖父さんが私塾を開いてましてね、そこの蔵に書が山のように並んでるんです。それで、一緒に読もうって先生から借りて来たんですよ。もう、可愛いとしか言い様がないでしょう!?その上、俺の膝の間に入って来るんですよ!?で、何でそこに座るんだって聞いたら、隣に並んで読むよりこうした方が一緒に読み易いでしょうとか言って。ついでに、匂い嗅いでも良いですよとまで得意気に言うんですよ!?まあ、名無しさんの匂い好きなんで嗅ぎまくってますけどね。毎晩、無自覚に煽って来るのに、未だ男として好きになって貰えてないなんて辛過ぎる・・・」
そう言って溜め息を吐いた李典に、曹操は深く頷く。
「・・・成る程、それは辛かろう」
「殿・・・!」
李典はそれを見て、ぱっと顔を輝かせた。
曹操はもう一度頷くと、
「うむ。・・・生憎、註釈は自宅で入れておる故、今は手元になくてな。近く、持って来よう」
「・・・はい!ありがとうございます!」
「礼には及ばぬが・・・そうだな、それ程までに書を好むならば、礼代わりに感想の一つでも貰おうか」
「はい!」
何度も礼を言って下がる李典をその場で見送る。
それから、眉間を押さえる夏侯惇に言った。
「あのように生き生きと語る李典は初めてだな」
「知らん。途中からどうでも良くなったわ」
静かな室内に、夏侯惇の溜め息が響いた。
名無しさんは沸かしたばかりの湯を盥に移し、早朝の廊下を進む。
少しずつ、しかし確かに進む季節、吐く息は白くなりつつあった。
そろそろ綿入れを用意した方が良いかしら。
そんな事を考えながら、部屋の扉をそっと開く。
未だ夜明け前、薄暗く、静かな室内は穏やかな寝息で満ちていた。
そろそろと寝台に近付き、名無しさんは眠っている夫の顔を覗き込む。
「ふふ・・・可愛い」
立派な男性に、それも武将である立場の彼に可愛いとは、本人が聞いたら嫌な顔をするだろうが、無防備に眠る表情は存外あどけない。
名無しさんは彼の体に手を伸ばすと、布団の上から優しく揺らした。
「李典様、おはようございます。朝ですよ」
「ん・・・もう少し・・・」
不明瞭な声で返って来る言葉に、名無しさんは続けて言う。
「駄目です。お湯も朝餉も冷めちゃいますよ。今朝は李典様の好きな生姜の羹を用意してもらってますよ」
「ああ、そう・・・」
先程よりも少し確りした声で答え、李典はもぞもぞと体を起こした。
目を擦り、欠伸をして、妻である彼女にふにゃりと微笑む。
「・・・おはよ」
「おはようございます、李典様」
にっこりと返して来る名無しさんに、李典は胸に甘い痛みを覚えた。
寝起きにこの笑顔、一瞬で眠気が吹き飛ぶ可愛さだ。
「お湯、冷める前に使って下さいね」
加えて、この気遣い、感動しない方がおかしい。
彼女が自分の学問三昧の生活の為に、
「取り敢えず、私を妻に迎えて頂いて・・・」
と李典に提案したのは遡る事数ヶ月前。
前向きに検討すると言ったものの、その余地もなく、あれよあれよと流されて、気が付けば李典は城下にこぢんまりとした住処を用意し、名無しさんと夫婦になっていた。
初めの内は彼女が同じ空間に居る現実にいちいち過剰に反応していた李典だったが、最近は少しずつ慣れて来たようで、礼を言って、寝台の傍の小さな台に置かれた盥の中に手を潜らせる。
頬に触れる丁度良い温度に頭が目覚め、横から差し出された手拭いに、また礼を言って濡れた顔を拭いた。
名無しさんは衣装箱の蓋を開け、ちょっと考えてから、やや厚めの服を取り出す。
「李典様、お召し替えを」
「お、ありがとな」
李典は夜着の腰紐に手をかけ、ちらりと名無しさんを見て言った。
「あー・・・名無しさん。毎度の事ながら悪いけど、あっち向いててくれねえ?」
「毎度の事ですけれど、お手伝いしますよ?」
名無しさんに言わせれば、妻が夫の身支度を整えるのは当然の事で、彼女は幼い頃からそうする両親の姿を見て来たらしい。
しかし、李典にしてみれば、妻とは言え、彼女に裸を見られる事には未だ抵抗を覚える距離感、夫婦であっても矢張り何処か他人なのだ。
これが例えば、家同士が決めた婚姻のように、さっさと夫婦としての営みを半ば義務感で終わらせているようなら、身支度を手伝うと言う申し出に抵抗を覚える事もなかっただろう。
だからと言って、二人にその機会がなかった訳ではない。
寧ろ、名無しさんは妻としてそのつもりだったのだが、李典が頑なにそれを拒んだ。
「そう言うのは好き合ってる二人がするもんだろ。だから、名無しさんが俺を好きになるまで、俺は絶対にしないからな!」
「私、李典様の事好きですよ?」
「ああ、ありがとな!俺も名無しさんが大好きだよ!・・・って、そうじゃないって何度言えば良いんだよ、俺」
初めて二人で過ごす夜、寝台の上で、向かい合って座る彼女は薄い夜着に身を包んでいて、それだけで理性がぐらりと揺れた事を、李典は昨日のように覚えている。
それでも、あの時と同じように、李典は彼女に触れなかった。
正しく、据え膳の状況、頂いた所で何の問題もないが、持ち前の鋭い勘がこのまま続けたら後悔すると告げていた。
同時に、その時を一日でも早く迎える為に、李典は一歩だけ名無しさんに譲る。
「・・・けど、一緒に寝るのはありだ。取り敢えず、それで勘弁して下さい・・・」
一体、何を許すと言うのか、名無しさんには心底不思議だったが、李典がそう言うのならば従うまで。
嫁ぐ前に目を通した女誡にもそう書いていた事を思い出して素直に頷いた。
以来、一緒に眠ってはいるものの、彼女の心境に未だ変化は見られない。
「何度も言いますが、男の方の裸なら見慣れていますよ。時々、子どもたちが泥だらけになる事もありますし」
「何度も言うけど、子どもと一緒にするなって!俺はあんたが好きなんだよ!」
「ですから、私も李典様が好きです!」
「ああ、もう!朝っぱらから可愛いな、畜生!」
この遣り取りも何度目か、李典は強引に名無しさんに後ろを向かせた。
「頼むから、俺が良いって言うまでそのままでいてくれよ」
「・・・分かりました」
名無しさんは不服そうに唇を尖らせる。
女誡を読んだ通りに、両親と同じようにしているだけなのに、これでは私が妻として駄目みたいだわ。
今日もお祖父様の所に行くし、どうしたら良いか相談してみようかしら。
微かな衣擦れの音を背中で聞きながら、名無しさんはそんな事を考えていた。
軍議の後、李典はその場を去る前に、奥に座る曹操に声を掛けた。
「殿、少しお時間良いですか?」
「ふむ、どうした」
既に諸将は退室している、場に居るのは李典と曹操、それから夏侯惇だけだった。
李典は僅かに躊躇いながら口を開く。
「あー、その・・・以前、殿は孫子に註釈を入れてるって仰ってましたよね」
「ああ、遅々として余り進まぬがな。それがどうした」
李典が書を好む事を知っている曹操は、何となく、言いたい事を察していながらも言葉の先を促した。
「それ・・・ちょっと拝見したいな、と思いまして」
「ほう」
曹操は興味を持ったように僅かに目を開く。
未完成と知って、読みたいと言い出すような男とは思わなかったが。
「清書もしておらぬぞ」
「あ、寧ろ、その方が喜ぶと思います」
その言い方に、夏侯惇の眉がぴくりと動いた。
「何だ、お前が読むのではないのか」
「え?あ、はい。あ、いや、読ませて貰えるなら俺も読みますけど。あれ?・・・夏侯惇殿、俺、何か変な事言ってます?」
二人の遣り取りを遮るように、曹操がくつりと喉を鳴らす。
「李典よ、お主、他の誰かに儂の註釈入りを読ませたいのか」
「ええ、はい。名無しさんに・・・あー、えっと、その、つ、妻に・・・」
李典は即座に頷き、それから照れたように頬を掻いて言った。
「まあ、何と言うか学問好きな妻で・・・いや、俺としては語り合えるんで最高なんですけどね」
「・・・そこまでは聞いておらん」
と、低い声で突っ込む夏侯惇の隣で、曹操が愉快そうに肩を揺らす。
「そう言えば、妻を迎えたばかりであったな。そろそろ新しい生活にも慣れたか」
「いやあ・・・色々ありますけど、まあ、それなりに・・・」
李典は困ったように、それでいて頬を緩めて続けて口を開いた。
「毎朝、わざわざ湯を用意してくれるし、服も選んでくれるし、滅茶苦茶助かってます。あ、そうそう、今日のも名無しさんが選んでくれたんですけど、最近、冷えるようになって来たからですかね?ほら、ちょっと厚手でしょう?こう言う細かい所にも気が利いて。あー、でも着替えを手伝うって言って聞かないんですよね。いや、俺としては手伝って欲しいんですけど、何て言うか、そうじゃないんだよなあって感じで。大体、この結婚自体、名無しさんの学問三昧の生活を続ける為に決まったようなもんなんで。・・・まあ、俺は名無しさんの事が大好きなんで、問題はないっちゃないんですけどね。名無しさんも俺の事は好きなんですよ。って言うか、毎日、好きって言い合ってますから。でも名無しさんの好きってのは、俺が思う好きじゃなくてですね。そこに生じる齟齬の所為で未だ夫婦になり切れてないって言う感じなんですよね」
李典はそこまで言って一旦、言葉を切ると、肩を落として更に続ける。
「一応、結婚する前も、した後も俺を男として好きになるように頑張るとは言ってくれたんですけどね。これが中々、進まなくて・・・そもそも、頑張ってどうにかなるもんでもないでしょう?まあ、そう言う所も可愛いとは思いますけどね。正直、毎日生殺し状態で。取り敢えず、良い所を見せるのが手っ取り早いかと。まあ、別に物で釣ろうなんて考えてる訳じゃないんですけど、殿が註釈された孫子を拝見できるって聞いたら、名無しさん、喜ぶだろうなって。日頃の礼の意味も含めて良い報せをしたいなと。・・・と、言う訳で、殿、お願いします」
そう言って丁寧に頭を下げる李典に、夏侯惇は疲れたように溜め息を吐く。
何故、俺はこいつの夫婦生活の詳細を延々と聞かされたのだ、全く関係ないではないか。
さっさと部屋を出ていれば良かったと後悔する夏侯惇、その一方で、
「ふむ・・・」
と、思案げに唸る曹操は楽しそうだった。
「先ずは仲睦まじくやっておるようで何より」
「ええ・・・?そうですか?・・・あー、まあ、毎晩、書について語り合ってますから仲は・・・まあ、はい、睦まじくやってますけど。昨日は名無しさんが先生の、あ、名無しさんのお祖父さんが私塾を開いてましてね、そこの蔵に書が山のように並んでるんです。それで、一緒に読もうって先生から借りて来たんですよ。もう、可愛いとしか言い様がないでしょう!?その上、俺の膝の間に入って来るんですよ!?で、何でそこに座るんだって聞いたら、隣に並んで読むよりこうした方が一緒に読み易いでしょうとか言って。ついでに、匂い嗅いでも良いですよとまで得意気に言うんですよ!?まあ、名無しさんの匂い好きなんで嗅ぎまくってますけどね。毎晩、無自覚に煽って来るのに、未だ男として好きになって貰えてないなんて辛過ぎる・・・」
そう言って溜め息を吐いた李典に、曹操は深く頷く。
「・・・成る程、それは辛かろう」
「殿・・・!」
李典はそれを見て、ぱっと顔を輝かせた。
曹操はもう一度頷くと、
「うむ。・・・生憎、註釈は自宅で入れておる故、今は手元になくてな。近く、持って来よう」
「・・・はい!ありがとうございます!」
「礼には及ばぬが・・・そうだな、それ程までに書を好むならば、礼代わりに感想の一つでも貰おうか」
「はい!」
何度も礼を言って下がる李典をその場で見送る。
それから、眉間を押さえる夏侯惇に言った。
「あのように生き生きと語る李典は初めてだな」
「知らん。途中からどうでも良くなったわ」
静かな室内に、夏侯惇の溜め息が響いた。