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貴女のお名前
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次の非番の日、李典は前回よりも幾分か早い時間に屋敷の門を叩いていた。
未だ朝の空気が残る刻限、応対に出たのは名無しさんだった。
李典の顔を見るなり、ぱっと表情を明るくする。
「あら、李典様。おはようございます」
「おはよ、今日は静かだな」
前回は勢いのまま押しかけてしまったが、今日は敢えて手習いをしている時間を選んで来た。
子どもたちがちゃんとお兄さんと呼ぶかは分からないが、少しだけ一緒に遊んでやるつもりだ。
李典は先に立って案内する名無しさんの後ろに付いて背比べの柱がある廊下を進み、蔵へと差し掛かる。
「蔵にも一応、机と椅子を置いてますけれど、子どもたちが居るのがお嫌でなければ、座敷の方へどうぞ。風が抜けるので気持ち良いですよ」
「そうか。じゃあ、そうさせて貰うぜ」
「では、私は子どもたちの所に戻りますので・・・」
「ああ、ありがとな」
ぺこりと頭を下げて去って行く彼女を見送り、李典は蔵に向き直った。
さて、今日は何を読むか。
本当なら読み終わっていない前回の続きだろうが、名無しさんが言っていた孔安国註釈が気になって仕方がない。
蔵の中に入り、ぐるりと棚を見渡す。
選ぶのも二度目となれば、少し落ち着いていた。
棚をなぞり、孔安国註釈を探す。
「・・・あった」
所詮、数多ある蔵書の一つだと言わんばかりに、他の書と同じように並べられているのが何だか可笑しい。
それをそっと抜き取り、折角だから他と比べてみるかと数本を選んだ李典は座敷へと入って行った。
その瞬間、子どもたちに視線を一斉に向けられ、李典は片手を上げて応える。
続けて、幼い子どもに音読を聞かせていた名無しさんの祖父に無言で頭を下げた。
応えて返って来る会釈を見届けてから、座敷の隅の方の机の前に腰を下ろす。
書を開く前にちらりと視線を走らせれば、名無しさんが少し年長の子どもの間を静かに行き来していた。
「そこはもう少し筆を寝かせて。・・・うん、上手上手」
あの好きなものを語る時とは違う、落ち着いた声音を聞きながら、李典は書を開く。
時折聞こえて来る、老人の低く嗄れた声と幼い子どもたちの舌足らずな声も、筆が練習用の木の板の上を走る音も心地良かった。
それらに耳を傾けながらも、目で文字を追う内に中身へと没頭していた李典が、次に書から顔を上げたのは、座敷の雰囲気がそわそわと浮つき始めた頃だった。
特に分かり易いのが幼い子どもたちで、
「子曰く」
「子・・曰く・・・」
と、老人の声に続けて発する言葉が揃わなくなって来ている。
それに気付いてか、ぱんっと一度手を叩いた老人に合わせて、李典は開いていた書を閉じた。
「今日はここまでにしよう。ほれ、遊んでおいで」
言われて、子どもたちは即座に立ち上がり、李典の傍へと走り寄る。
「お兄ちゃん!」
前回、李典をおじちゃんと呼んだ子どもが得意気に声をかけて来た。
李典は立ち上がり、笑顔で子どもの頭を撫でる。
「おっ、ちゃんと呼べたな。よし、じゃあ遊ぶか!」
その言葉に歓声を上げて駆け出す子どもたちの背中を追って李典も庭に出る。
一方、座敷では、幼い子どもよりも忍耐力があるのだろう、年長の子どもたちの手習いが未だ続いていた。
何とか耐えてはいるが、ちらちらと羨ましそうな視線を庭に走らせる子どもたちに名無しさんが言う。
「もう少し頑張ってね。ここまで終わったら、皆の所に行こうね」
「はい」
素直に頷く子どもたちに、名無しさんは目を細め、それからこっそりと庭へと視線を向けた。
そこには李典の腕に楽しそうにぶら下がる子どもの姿があった。
「お前ら、ちょっとは遠慮しろよ!」
聞こえて来た李典の声に、名無しさんは思わず小さく笑う。
子どもたちの笑い声に囲まれている李典は、とても楽しそうだった。
やがて年長の子どもたちも手習いを終えると、揃って庭へ駆け出す。
先に遊んでいた李典と子どもたちの輪に名無しさんも混ざり、暫く、賑やかに遊んでいたが、気が付けば陽が随分と高くなっていた。
「皆、もう帰る時間よ」
手を叩き、そう言って返って来るのは遊び足りない子どもたちの不服そうな声ばかり、それがいつもの事なら名無しさんは慣れた様子で門へと向かわせる。
「じゃあ皆、さよならね。また明日も待ってるからね」
手を振りながら家路を辿る子どもたちを、彼女の隣で何となく一緒になって見送っていた李典は疲れたように首を回して言った。
「ったく、次から次へとぶら下がりやがって・・・」
と、言う割にはその声音に不満さはなく、名無しさんはくすくすと笑って言う。
「でも、李典様も楽しそうでしたよ?」
「まあな。丁度良い運動にはなったぜ」
そう言って、李典は思い出したように続けた。
「孔安国註釈の、未だ最初の方だけだけど読んだぜ」
「本当ですか!?」
それを聞いた途端、名無しさんの表情ががらりと変わる。
「どこまで読まれたんですか!?」
目を輝かせて勢い込んで来る彼女に、李典は苦笑いを浮かべた。
さっきまで大人しそうな顔してたのに、随分な変わり様だ。
「取り敢えず学而篇の途中まで。他のとも比べながら読んでたから、思ったより進まなくてな」
「それで!?どう思われましたか!?」
「註の方が結構違うのは想像してたけど、区切る所まで違うとは思わなかったな。あれって・・・」
「そうなんです!」
余程興奮しているのか、名無しさんは李典の言葉の続きを遮り、ぐっと彼に顔を近付けた。
あ、始まるぞ。
李典は慌てて彼女の顔の前に手の平を突き付けるように差し出す。
「ま、待った!次来るまでに頭ん中、整理しておくから!今は何も言わないでくれ!頼む!」
「・・・分かりました」
折角、お話できると思ったのに。
名無しさんは詰まらなそうに唇を尖らせると、上目遣いで言った。
「次、いらした時に聞かせて下さいね」
「ああ。・・・その時は当然、名無しさんの意見も聞かせてくれるよな?」
「・・・はいっ!」
忽ち、笑顔を浮かべる彼女に、李典は早くも次の非番の日を楽しみにしていた。
それからと言うもの、李典は非番の日になると屋敷を訪れるようになった。
蔵で書を選んで読み耽り、時には名無しさんと意見を交わし、子どもたちにせがまれて庭で遊ぶ。
来る時間も帰る時間もその日に因って違ったが、いつの間にか彼が訪れる事は、珍しい事ではなくなっていた。
「だから、この一節の解釈は、こっちの注の方が筋が通ってると思うんだよな、俺」
「私もそう思います。ただ、古注の方にも捨てがたい部分があると思いませんか?」
そんなやり取りを何度か重ねたある日の事、昼過ぎに屋敷を訪れた李典は、彼女が何処か暗い表情で書を広げているのを見た。
目は書に落ちているが、視線が文字を追っておらず、李典が遣って来た事にも気付いていない。
いつもなら、俺が来た途端に顔を上げる癖に、どうしたんだ?
「名無しさん?」
と、声をかけて漸く気付いたらしい、名無しさんがはっと顔を上げた。
「あ・・・李典様。いらしてたんですね」
「ああ、さっきな」
答えながら、李典は彼女の様子を窺う。
何か、元気が少ないな。
いつもの名無しさんらしくない。
李典は名無しさんの隣に腰を下ろすと、恐らく年下であろう彼女にお兄さん風を吹かして言った。
「どうした?何かあったか?良かったら何でも聞くぜ、俺」
名無しさんは暫く、考えるように目を伏せていたが、思い切ったように口を開く。
「李典様は、学問を好む女の人はお嫌いですか?」
「へっ・・・?」
聞き取れなかったのかしら、と名無しさんはもう一度言った。
「ですから、学問をする私は、李典様から見て、妻にしたくないような女性でしょうか」
突拍子もない質問に、李典は慌てふためく。
妻、妻って何だ!?
名無しさん、俺の事、そんな風に見てんのか!?
いや、だからって困る訳じゃないけど、いきなり過ぎるだろ。
そう言うのは、ちゃんと段階を踏んでから・・・じゃねぇ!
李典は一瞬の内に脳内を巡った自分の考えを否定して、名無しさんの目の前で手を振って見せた。
「ま、待て待て待て!話が見えねぇよ!順番に言えって」
「あ、済みません」
慌てる李典の様子に、名無しさんも自分の言葉が足りなかった事に気付いたのだろう、落ち着きを取り戻したように肩から力が抜ける。
名無しさんは深々と溜め息を吐くと、困ったような表情で続けて言った。
「実は、また縁談の話が上がっていて・・・」
言われて、李典は改めて名無しさんを見る。
学問にばかり気を取られていたが、彼女はこの屋敷の様子からも分かるように、良家の息女だ。
縁談があってもおかしくない所か、あって当たり前の年頃でもある。
「うん、それで?」
と、先を促す李典に、名無しさんはぽつりぽつりと話し出した。
実は、これまでにも何度か縁談の話はあったのだが、その度に何かと適当な理由を付けて断って来たと言う。
それと言うのも、嫁いでしまったら、もう、こんな風に学問はできなくなると思っているからだった。
多くの男性は、女性が書を読む事を、余り好ましくは思わない。
それなら一生、独りの方がずっと良いと思わないでもないが、それはそれで両親に申し訳ない気がする。
名無しさんはそこまで言うと、再び、深々と溜め息を吐いた。
「ですから、両親が話を持って来る度、憂鬱になってしまって・・・」
「・・・成る程な」
「雌鶏が朝を告げるような事になれば、その家は衰えると言いますし」
彼女の口から出て来たその言葉に、李典はくつりと笑う。
こんな時でも尚書か、名無しさんらしい。
「まあ、中々難しいよな。俺としては全然ありだけど」
「えっ・・・?」
何気ない一言のつもりだったのだろう、目を瞬かせる名無しさんに対して、言葉を放った本人はけろりとしていた。
「うん?何か変な事言ったか、俺?」
「変・・・と言いますか、その・・・」
「何だ?」
名無しさんは恐る恐ると言った様子で彼に尋ねる。
「李典様は、妻が学問をしていても構わないのですか?」
「って言うか、大歓迎だぜ?俺も好きだからな。死ぬまで語り合えるなんて最高だろ」
それを聞いて、名無しさんは黙り込み、頭の中で考え始めた。
もしかして、李典様って・・・私にとってはとても良い相手なんじゃないかしら。
名無しさんは膝の上に置いた手をぎゅっと握り、李典の目を真っ直ぐに見詰めた。
「・・・李典様」
「うん?」
「私を妻に迎えて下さいませんか?」
「・・・ひょえっ!?」
情けない声を出して体を跳ねさせた李典は、その拍子に机に思いっきり膝をぶつけてしまう。
痛みに悶絶しながらも、目の前で真っ直ぐな瞳を向けてくる名無しさんを二度見した。
「な、何言ってんだ!? つ、妻!? 妻ってあの、結婚する妻か!?」
「はい。先程からその話をしているではありませんか」
名無しさんは至極真面目な表情で李典に顔を近付ける。
「考えてもみて下さい。李典様は学問を好む女性を歓迎して下さる。私は李典様の妻になれば、両親からの縁談に悩まされることもなく、死ぬまで心置きなく学問に没頭できる。これ以上なく合理的で、双方にとって完璧な解決策だと思いませんか?」
「何だよその理由っ!? そう言う合理的な理由で結婚したくないぜ、俺!」
「何故です?婚姻とは合理性を考えて家同士で結ばれるものでしょう?」
半ば叫ぶように言う李典に対し、名無しさんは不思議そうに眉を顰めた。
「いや、そりゃそうなんだけど・・・」
実際、彼女の言っている事はぐうの音も出ないほどの正論だ。
「では、李典様の意見を聞かせて下さい。聞いた上で、李典様に相応しくなれるように務めます」
「って、俺と結婚する気かよ・・・」
その熱心さが嬉しいやら嬉しくないやら。
複雑極まりないが、それ以上に李典は自分の考えを話す事に抵抗があった。
しかし、うやむやの内に婚姻を結ばれても困る。
いや、困りはしないが、困る。
李典はちらりと名無しさんに視線を移すと、唇を尖らせて言った。
「・・・聞いたら絶対笑われるから嫌だ」
「絶対、笑ったりしません」
「・・・絶対か?」
「夫となられるかも知れない李典様の意見ですもの、絶対に笑ったりしません」
その意気込みたるや、まるで戦に赴く将兵だ。
「夫って・・・さらっと凄い事言ってくれるな」
と、李典は降参したように肩を落とす。
「まあ、何て言うか。俺としてはできれば、好きな人とそうなりたいと思ってて・・・」
「私、李典様の事、好きです」
真顔でそう言った名無しさんに、李典の心臓が激しく跳ねた。
耳まで真っ赤にして、気圧されたように頷く。
「お、おう・・・俺も名無しさんの事、好きだぜ?」
「ならば良いではありませんか」
「え・・・?あ、そうだな・・・?」
と、言って、李典は直ぐに頭を振って自分を叩き直した。
「・・・いや違う!いや、別に名無しさんの事が嫌いって訳じゃないぜ。寧ろ、話が合うし、好きって言うのは本当で・・・って何言ってんだ、俺!?いや、それは兎も角だ!いいか名無しさん、あんたの言ってる好きはな、この古書、難解で解釈のし甲斐があって好きとかの好きなんだよ! 俺が言ってるのは、こう・・・手を繋ぎたいとか、口付けたいとか、他の男と喋ってたら嫉妬で狂いそうになるとか、そう言う男と女の好きなんだよ!自分でも分かってるよ、そんなのまかり通る訳ないって。名無しさんだって大の男が馬鹿げた夢見てんなあとか思うだろ!?」
真剣に、かつ早口に好きの種類について熱弁され、名無しさんは考え込むように腕を組む。
どうやら、自分と彼の間には齟齬があるらしい。
「李典様の仰る事、よく分かりませんでしたが・・・。どのような事であれ、馬鹿げているとは思いませんし、李典様がそう望まれるのでしたら、今から私をそのように見て下さい!」
「・・・ひゃいっ!?」
相変わらず、真っ直ぐに見詰めてとんでもない事を口走った名無しさんに、李典はまたも情けない声を上げた。
「待て、名無しさん!何でそうなる!?」
「そうすれば全てが解決するのでは?一緒に夢を叶えましょう!」
「叶えましょうって・・・。って言うか、よく分かんなかったのかよ」
そんな相手を、そんな風に見れるだろうか。
そう思いながら、李典は真剣な眼差しで自分を見る名無しさんを見た。
未だ朝の空気が残る刻限、応対に出たのは名無しさんだった。
李典の顔を見るなり、ぱっと表情を明るくする。
「あら、李典様。おはようございます」
「おはよ、今日は静かだな」
前回は勢いのまま押しかけてしまったが、今日は敢えて手習いをしている時間を選んで来た。
子どもたちがちゃんとお兄さんと呼ぶかは分からないが、少しだけ一緒に遊んでやるつもりだ。
李典は先に立って案内する名無しさんの後ろに付いて背比べの柱がある廊下を進み、蔵へと差し掛かる。
「蔵にも一応、机と椅子を置いてますけれど、子どもたちが居るのがお嫌でなければ、座敷の方へどうぞ。風が抜けるので気持ち良いですよ」
「そうか。じゃあ、そうさせて貰うぜ」
「では、私は子どもたちの所に戻りますので・・・」
「ああ、ありがとな」
ぺこりと頭を下げて去って行く彼女を見送り、李典は蔵に向き直った。
さて、今日は何を読むか。
本当なら読み終わっていない前回の続きだろうが、名無しさんが言っていた孔安国註釈が気になって仕方がない。
蔵の中に入り、ぐるりと棚を見渡す。
選ぶのも二度目となれば、少し落ち着いていた。
棚をなぞり、孔安国註釈を探す。
「・・・あった」
所詮、数多ある蔵書の一つだと言わんばかりに、他の書と同じように並べられているのが何だか可笑しい。
それをそっと抜き取り、折角だから他と比べてみるかと数本を選んだ李典は座敷へと入って行った。
その瞬間、子どもたちに視線を一斉に向けられ、李典は片手を上げて応える。
続けて、幼い子どもに音読を聞かせていた名無しさんの祖父に無言で頭を下げた。
応えて返って来る会釈を見届けてから、座敷の隅の方の机の前に腰を下ろす。
書を開く前にちらりと視線を走らせれば、名無しさんが少し年長の子どもの間を静かに行き来していた。
「そこはもう少し筆を寝かせて。・・・うん、上手上手」
あの好きなものを語る時とは違う、落ち着いた声音を聞きながら、李典は書を開く。
時折聞こえて来る、老人の低く嗄れた声と幼い子どもたちの舌足らずな声も、筆が練習用の木の板の上を走る音も心地良かった。
それらに耳を傾けながらも、目で文字を追う内に中身へと没頭していた李典が、次に書から顔を上げたのは、座敷の雰囲気がそわそわと浮つき始めた頃だった。
特に分かり易いのが幼い子どもたちで、
「子曰く」
「子・・曰く・・・」
と、老人の声に続けて発する言葉が揃わなくなって来ている。
それに気付いてか、ぱんっと一度手を叩いた老人に合わせて、李典は開いていた書を閉じた。
「今日はここまでにしよう。ほれ、遊んでおいで」
言われて、子どもたちは即座に立ち上がり、李典の傍へと走り寄る。
「お兄ちゃん!」
前回、李典をおじちゃんと呼んだ子どもが得意気に声をかけて来た。
李典は立ち上がり、笑顔で子どもの頭を撫でる。
「おっ、ちゃんと呼べたな。よし、じゃあ遊ぶか!」
その言葉に歓声を上げて駆け出す子どもたちの背中を追って李典も庭に出る。
一方、座敷では、幼い子どもよりも忍耐力があるのだろう、年長の子どもたちの手習いが未だ続いていた。
何とか耐えてはいるが、ちらちらと羨ましそうな視線を庭に走らせる子どもたちに名無しさんが言う。
「もう少し頑張ってね。ここまで終わったら、皆の所に行こうね」
「はい」
素直に頷く子どもたちに、名無しさんは目を細め、それからこっそりと庭へと視線を向けた。
そこには李典の腕に楽しそうにぶら下がる子どもの姿があった。
「お前ら、ちょっとは遠慮しろよ!」
聞こえて来た李典の声に、名無しさんは思わず小さく笑う。
子どもたちの笑い声に囲まれている李典は、とても楽しそうだった。
やがて年長の子どもたちも手習いを終えると、揃って庭へ駆け出す。
先に遊んでいた李典と子どもたちの輪に名無しさんも混ざり、暫く、賑やかに遊んでいたが、気が付けば陽が随分と高くなっていた。
「皆、もう帰る時間よ」
手を叩き、そう言って返って来るのは遊び足りない子どもたちの不服そうな声ばかり、それがいつもの事なら名無しさんは慣れた様子で門へと向かわせる。
「じゃあ皆、さよならね。また明日も待ってるからね」
手を振りながら家路を辿る子どもたちを、彼女の隣で何となく一緒になって見送っていた李典は疲れたように首を回して言った。
「ったく、次から次へとぶら下がりやがって・・・」
と、言う割にはその声音に不満さはなく、名無しさんはくすくすと笑って言う。
「でも、李典様も楽しそうでしたよ?」
「まあな。丁度良い運動にはなったぜ」
そう言って、李典は思い出したように続けた。
「孔安国註釈の、未だ最初の方だけだけど読んだぜ」
「本当ですか!?」
それを聞いた途端、名無しさんの表情ががらりと変わる。
「どこまで読まれたんですか!?」
目を輝かせて勢い込んで来る彼女に、李典は苦笑いを浮かべた。
さっきまで大人しそうな顔してたのに、随分な変わり様だ。
「取り敢えず学而篇の途中まで。他のとも比べながら読んでたから、思ったより進まなくてな」
「それで!?どう思われましたか!?」
「註の方が結構違うのは想像してたけど、区切る所まで違うとは思わなかったな。あれって・・・」
「そうなんです!」
余程興奮しているのか、名無しさんは李典の言葉の続きを遮り、ぐっと彼に顔を近付けた。
あ、始まるぞ。
李典は慌てて彼女の顔の前に手の平を突き付けるように差し出す。
「ま、待った!次来るまでに頭ん中、整理しておくから!今は何も言わないでくれ!頼む!」
「・・・分かりました」
折角、お話できると思ったのに。
名無しさんは詰まらなそうに唇を尖らせると、上目遣いで言った。
「次、いらした時に聞かせて下さいね」
「ああ。・・・その時は当然、名無しさんの意見も聞かせてくれるよな?」
「・・・はいっ!」
忽ち、笑顔を浮かべる彼女に、李典は早くも次の非番の日を楽しみにしていた。
それからと言うもの、李典は非番の日になると屋敷を訪れるようになった。
蔵で書を選んで読み耽り、時には名無しさんと意見を交わし、子どもたちにせがまれて庭で遊ぶ。
来る時間も帰る時間もその日に因って違ったが、いつの間にか彼が訪れる事は、珍しい事ではなくなっていた。
「だから、この一節の解釈は、こっちの注の方が筋が通ってると思うんだよな、俺」
「私もそう思います。ただ、古注の方にも捨てがたい部分があると思いませんか?」
そんなやり取りを何度か重ねたある日の事、昼過ぎに屋敷を訪れた李典は、彼女が何処か暗い表情で書を広げているのを見た。
目は書に落ちているが、視線が文字を追っておらず、李典が遣って来た事にも気付いていない。
いつもなら、俺が来た途端に顔を上げる癖に、どうしたんだ?
「名無しさん?」
と、声をかけて漸く気付いたらしい、名無しさんがはっと顔を上げた。
「あ・・・李典様。いらしてたんですね」
「ああ、さっきな」
答えながら、李典は彼女の様子を窺う。
何か、元気が少ないな。
いつもの名無しさんらしくない。
李典は名無しさんの隣に腰を下ろすと、恐らく年下であろう彼女にお兄さん風を吹かして言った。
「どうした?何かあったか?良かったら何でも聞くぜ、俺」
名無しさんは暫く、考えるように目を伏せていたが、思い切ったように口を開く。
「李典様は、学問を好む女の人はお嫌いですか?」
「へっ・・・?」
聞き取れなかったのかしら、と名無しさんはもう一度言った。
「ですから、学問をする私は、李典様から見て、妻にしたくないような女性でしょうか」
突拍子もない質問に、李典は慌てふためく。
妻、妻って何だ!?
名無しさん、俺の事、そんな風に見てんのか!?
いや、だからって困る訳じゃないけど、いきなり過ぎるだろ。
そう言うのは、ちゃんと段階を踏んでから・・・じゃねぇ!
李典は一瞬の内に脳内を巡った自分の考えを否定して、名無しさんの目の前で手を振って見せた。
「ま、待て待て待て!話が見えねぇよ!順番に言えって」
「あ、済みません」
慌てる李典の様子に、名無しさんも自分の言葉が足りなかった事に気付いたのだろう、落ち着きを取り戻したように肩から力が抜ける。
名無しさんは深々と溜め息を吐くと、困ったような表情で続けて言った。
「実は、また縁談の話が上がっていて・・・」
言われて、李典は改めて名無しさんを見る。
学問にばかり気を取られていたが、彼女はこの屋敷の様子からも分かるように、良家の息女だ。
縁談があってもおかしくない所か、あって当たり前の年頃でもある。
「うん、それで?」
と、先を促す李典に、名無しさんはぽつりぽつりと話し出した。
実は、これまでにも何度か縁談の話はあったのだが、その度に何かと適当な理由を付けて断って来たと言う。
それと言うのも、嫁いでしまったら、もう、こんな風に学問はできなくなると思っているからだった。
多くの男性は、女性が書を読む事を、余り好ましくは思わない。
それなら一生、独りの方がずっと良いと思わないでもないが、それはそれで両親に申し訳ない気がする。
名無しさんはそこまで言うと、再び、深々と溜め息を吐いた。
「ですから、両親が話を持って来る度、憂鬱になってしまって・・・」
「・・・成る程な」
「雌鶏が朝を告げるような事になれば、その家は衰えると言いますし」
彼女の口から出て来たその言葉に、李典はくつりと笑う。
こんな時でも尚書か、名無しさんらしい。
「まあ、中々難しいよな。俺としては全然ありだけど」
「えっ・・・?」
何気ない一言のつもりだったのだろう、目を瞬かせる名無しさんに対して、言葉を放った本人はけろりとしていた。
「うん?何か変な事言ったか、俺?」
「変・・・と言いますか、その・・・」
「何だ?」
名無しさんは恐る恐ると言った様子で彼に尋ねる。
「李典様は、妻が学問をしていても構わないのですか?」
「って言うか、大歓迎だぜ?俺も好きだからな。死ぬまで語り合えるなんて最高だろ」
それを聞いて、名無しさんは黙り込み、頭の中で考え始めた。
もしかして、李典様って・・・私にとってはとても良い相手なんじゃないかしら。
名無しさんは膝の上に置いた手をぎゅっと握り、李典の目を真っ直ぐに見詰めた。
「・・・李典様」
「うん?」
「私を妻に迎えて下さいませんか?」
「・・・ひょえっ!?」
情けない声を出して体を跳ねさせた李典は、その拍子に机に思いっきり膝をぶつけてしまう。
痛みに悶絶しながらも、目の前で真っ直ぐな瞳を向けてくる名無しさんを二度見した。
「な、何言ってんだ!? つ、妻!? 妻ってあの、結婚する妻か!?」
「はい。先程からその話をしているではありませんか」
名無しさんは至極真面目な表情で李典に顔を近付ける。
「考えてもみて下さい。李典様は学問を好む女性を歓迎して下さる。私は李典様の妻になれば、両親からの縁談に悩まされることもなく、死ぬまで心置きなく学問に没頭できる。これ以上なく合理的で、双方にとって完璧な解決策だと思いませんか?」
「何だよその理由っ!? そう言う合理的な理由で結婚したくないぜ、俺!」
「何故です?婚姻とは合理性を考えて家同士で結ばれるものでしょう?」
半ば叫ぶように言う李典に対し、名無しさんは不思議そうに眉を顰めた。
「いや、そりゃそうなんだけど・・・」
実際、彼女の言っている事はぐうの音も出ないほどの正論だ。
「では、李典様の意見を聞かせて下さい。聞いた上で、李典様に相応しくなれるように務めます」
「って、俺と結婚する気かよ・・・」
その熱心さが嬉しいやら嬉しくないやら。
複雑極まりないが、それ以上に李典は自分の考えを話す事に抵抗があった。
しかし、うやむやの内に婚姻を結ばれても困る。
いや、困りはしないが、困る。
李典はちらりと名無しさんに視線を移すと、唇を尖らせて言った。
「・・・聞いたら絶対笑われるから嫌だ」
「絶対、笑ったりしません」
「・・・絶対か?」
「夫となられるかも知れない李典様の意見ですもの、絶対に笑ったりしません」
その意気込みたるや、まるで戦に赴く将兵だ。
「夫って・・・さらっと凄い事言ってくれるな」
と、李典は降参したように肩を落とす。
「まあ、何て言うか。俺としてはできれば、好きな人とそうなりたいと思ってて・・・」
「私、李典様の事、好きです」
真顔でそう言った名無しさんに、李典の心臓が激しく跳ねた。
耳まで真っ赤にして、気圧されたように頷く。
「お、おう・・・俺も名無しさんの事、好きだぜ?」
「ならば良いではありませんか」
「え・・・?あ、そうだな・・・?」
と、言って、李典は直ぐに頭を振って自分を叩き直した。
「・・・いや違う!いや、別に名無しさんの事が嫌いって訳じゃないぜ。寧ろ、話が合うし、好きって言うのは本当で・・・って何言ってんだ、俺!?いや、それは兎も角だ!いいか名無しさん、あんたの言ってる好きはな、この古書、難解で解釈のし甲斐があって好きとかの好きなんだよ! 俺が言ってるのは、こう・・・手を繋ぎたいとか、口付けたいとか、他の男と喋ってたら嫉妬で狂いそうになるとか、そう言う男と女の好きなんだよ!自分でも分かってるよ、そんなのまかり通る訳ないって。名無しさんだって大の男が馬鹿げた夢見てんなあとか思うだろ!?」
真剣に、かつ早口に好きの種類について熱弁され、名無しさんは考え込むように腕を組む。
どうやら、自分と彼の間には齟齬があるらしい。
「李典様の仰る事、よく分かりませんでしたが・・・。どのような事であれ、馬鹿げているとは思いませんし、李典様がそう望まれるのでしたら、今から私をそのように見て下さい!」
「・・・ひゃいっ!?」
相変わらず、真っ直ぐに見詰めてとんでもない事を口走った名無しさんに、李典はまたも情けない声を上げた。
「待て、名無しさん!何でそうなる!?」
「そうすれば全てが解決するのでは?一緒に夢を叶えましょう!」
「叶えましょうって・・・。って言うか、よく分かんなかったのかよ」
そんな相手を、そんな風に見れるだろうか。
そう思いながら、李典は真剣な眼差しで自分を見る名無しさんを見た。