過ぎた時間
貴女のお名前
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程普が姿を見せたのはそれから間もなくの事だった。
「姫様、名無しさんを迎えに上がりました」
「あら、程普。ちゃんと約束通りね」
孫尚香は励ますように名無しさんの肩をぽんと叩く。
「行ってらっしゃい、名無しさん。今日は程普と楽しんでね」
「はい。姫様、行って参ります」
名無しさんは丁寧に頭を下げると、程普の後に続いて部屋を出た。
廊下を歩きながら、名無しさんはちらりと程普の横顔を盗み見る。
「どうした」
「い、いえ・・・何でもありません」
視線に気付いた程普に問われ、名無しさんは慌てて彼から目を逸らした。
いつも通りの飾り気のない身なり程普に対し、派手さはないものの、いつもより華やかな装いの自分に気恥ずかしさを覚える。
お買い物に付き合うだけなのに、私ったら少し張り切り過ぎたかしら。
やがて城門が近付き、名無しさんは足を一瞬だけ竦ませた。
城壁の内と外を隔てる大きな門、それを潜った先に、あの日の記憶が微かに揺り起こされる。
異変に気付いた程普が、直ぐ様歩みを緩めて振り返った。
「名無しさん?」
「・・・大丈夫です」
名無しさんは小さく首を振り、無理に笑みを作る。
程普は暫くその顔を見つめていたが、何も言わず、代わりにさりげなく歩調を合わせた。
「案ずるな。我輩が傍に居る」
短いその一言に、名無しさんの強張っていた肩から力が抜ける。
不思議だわ、程普様がそう仰ってくれるだけで、こんなにも胸が軽くなるなんて、名無しさんは自然と微笑んでいた。
並んで門を抜ける二人の目に、賑やかな街並みが目に飛び込んで来る。
人々の話し声、物売りの声、様々な音が入り混じり、名無しさんは思わず息を詰めた。
程普は彼女が無意識にきゅっと手を握った事に気付くと、
「ふむ・・・今日は人が多いな」
そう言って名無しさんの小さな手を取り、自分の袖口を握らせる。
「これを握っておれ。我輩がいつも使っている店までは少々歩く。道中、姫様の大切な女官を見失ったとあれば、我輩の面目が立たぬからな」
「・・・はい」
武骨な指先の、その些細な感触に名無しさんの胸が一度、高く跳ねた。
程普は何でもない顔でそのまま歩き出す。
名無しさんは袖口を握り締めたまま、半歩後ろを付いて行った。
活気に満ちる大通り、名無しさんは物珍しそうにあちこちへ視線を巡らせる。
何も街に出るのは初めてではない。
孫尚香のお使いで、これまで何度か通った事のある道だ。
しかし、いつもは目的の店へ真っ直ぐ向かうだけで、こんな風にゆっくりと眺めた事はなかった。
見慣れているはずの光景が、今日はやけに新鮮に映る。
程普はそんな彼女の様子に気付いてか、何も言わずに殊更ゆっくりと歩を進める。
そうして歩く内に路地裏へと繋がる道が近付き、名無しさんの足取りが徐々に重くなる。
程普は直ぐにそれと気付き、
「名無しさん、少し周り道をしても良いか」
「え?」
「あちらの道の方が店の並びが賑やかでな。折角だ、色々と見てみようと思うが」
さりげなく違う道のりを示した。
「まあ、それは楽しみです。・・・でも、程普様のお買い物が先なのでは?」
「急ぐ用でもあるまい」
程普はそう言うと、彼女の返事を待たずに路地裏に差し掛かる手前で大通りを折れる。
遠退く裏路地、名無しさんの強張っていた指先から、少しずつ力が抜けていった。
もしかして、程普様は私の為に道を変えて下さったのかしら。
もしも、それを尋ねたならば、きっと彼はそうではないと言うだろう。
礼を言ったならば、何の事だとはぐらかすだろう。
それらを言葉にする代わりに、前を行く大きな背中に名無しさんは少しだけ距離を詰めた。
一層賑やかな通りをのんびりと歩く道すがら、風に揺れる枝の音が二人の耳を過ぎる。
「海棠が咲いてますね」
気付いていなかったのか、程普はその方角へ目を遣って言った。
「うん?・・・ああ、そうだな」
ふんわりと並ぶ海棠の花は、厳しい寒さの中に咲く紅梅とはまた異なる趣を持っている。
「程普様のお庭には、今は何が咲いているのでしょうか」
「・・・さてな。何かの花が咲いていた気がせんでもないが、名には疎い」
「ふふっ・・・」
その答えに、名無しさんは笑みを零した。
ああ、矢張りと思う。
庭師の仕事を軽んじる人ではない、花の名前には疎くても、咲いているのは知っているのだ。
春蘭の代わりに、今は何の花が咲いているのかしら。
「また・・・お庭を拝見できたら嬉しいです」
そう言ってから、名無しさんは自分の口から吐いて出た言葉に驚いた。
社交辞令のつもりか、それとも本心か、言ってしまった後になって頬を熱くする。
程普は特に気に留める様子もなく短く頷いた。
「そうか。庭師も喜ぼうな」
この何気ない会話が、まさか本当になるとは・・・この時の二人は、未だ知る由もなかった。
遠回りをした分、店に着いた頃には太陽はやや高い位置になっていた。
暖簾を潜った二人を、恰幅の良い店主の声が迎える。
「これは程普様」
「少し邪魔をするぞ」
慣れた足取りで店内を進む程普の、その後ろに控えていた名無しさんに店主の視線が注がれた。
好奇心を隠しきれない様子で、にやりと笑って言う。
「今日は珍しくお連れ様とご一緒で」
「ただの付き添いだ」
あっさりと返って来る程普の言葉、それを真に受ける店主ではない。
口にこそ出さないが、付き添いと言うには些か親密な様子、程普様も隅に置けないお方だ。
「まあどうぞ、ごゆっくりご覧下さい」
勧められるまま、名無しさんはぐるりと店内を見回した。
白い漆喰の壁に囲まれた、落ち着いた造りの店内には木目の美しい棚が幾つも並び、種類ごとに整然と品が陳列されている。
窓から差し込む柔らかな光が、色とりどりの紐や繊細な細工の施された装飾品を照らし出していた。
焚かれている香の、奥行きのある上品な香りに外の喧騒を忘れてしまう。
「素敵なお店ですね」
装飾品そのものよりも、店の雰囲気に名無しさんは頬を綻ばせた。
「今日は何をお求めで?」
と、店主が程普に伺いながらも、ちらちらと名無しさんに目を走らせる。
先程、珍しくと言ったばかりだが、程普が誰か、それも女性を連れて来たのは初めてだ。
恐らく、彼女への贈り物だろうと想像すれば、その艷やかな黒髪にはどのような色が似合うか考えてしまうのが商売人だ。
「結い紐が傷んで来てな」
「さようで。いつものをご用意で宜しいですか?」
慣れた様子で棚から紐の束を取り出そうとする店主を、程普が手で制した。
「いや、今日は名無しさんに選んでもらおう」
そう言って、程普は隣に立つ名無しさんへと視線を向ける。
「私に・・・ですか?」
「うむ、折角お主が居るのだ。たまには若い者の意見を聞いておくのも悪くなかろう」
驚く彼女に尤もそうな言葉を並べているが、彼のその目元は緩んでいて、店主は内心で笑みを浮かべた。
おやおや、親密と言う言葉すら足りない様子。
高が結い紐だが、日常的に身に着けるものを、付き添いに選ばせるとはただの気紛れか、それとも。
彼女も真剣な眼差しで並ぶ結い紐を見ている、これは時間が掛かりそうだ。
店主は然りげ無く、程普を来客用の卓へと促す。
腰掛ける彼の前に茶を置き、ついでに数点の商品を乗せた漆塗りの盆を滑らせた。
何のつもりだと、投げて来る程普の視線を素知らぬ振りでやり過ごす。
程普はくつりと喉の奥を鳴らすと、茶を啜った。
全く、抜け目のない。
要らぬ節介だと突き返しても良いのだが、何となく、程普は盆の上の商品を眺めていた。
元よりこの店は趣味が良い、程普は結い紐から佩玉、帯飾りまで必要な一式をここで揃えている。
自分には必要のない女性用の装飾品であれ、眺めているだけでも見応えのあるものだ。
そうしている内に、名無しさんが決めたように数点の結い紐を持って遣って来た。
「程普様、ちょっと失礼します」
「うむ?」
何だ、と程普が言うよりも先に彼女が手にしていた結い紐を彼の髪に当てる。
「もう少し、深いお色の方が良いかしら・・・こちらも良いけれど光沢があり過ぎるわね」
ぶつぶつと口の中で言って、持って来た結い紐を取っ替え引っ替えしてみせるが、どうやらお気に召さなかったらしい。
彼女は直ぐ様、棚へと取って返して行った。
その様子に店主は知ったような顔で頷く。
年齢など数に過ぎず、指標でしかない。
成る程、この女性にとっても、程普様は少なからず特別な方のようだ。
さて、一体どのようなものをお選びになるのか。
棚と程普の間を行ったり来たり、往復を繰り返す名無しさんを店主は微笑ましい思いで見守っていた。
そうして幾度目か、名無しさんは漸く決めたらしく、程普に結い紐を差し出す。
「こちらは如何でしょうか」
深みのある朱色の結い紐の、その先端では翡翠の玉飾りと紐と同じ色の小さな紐が控えめに揺れていた。
程普はそれを受け取ると、しげしげと眺めて言う。
「ふむ、こういったものは初めて手にするな」
「・・・お気に召しませんか?」
不安げに窺う名無しさんに、程普は僅かに苦笑した。
「いや。悪くない」
彼女の手から結い紐を受け取った程普は暫くそれを見つめる。
佩玉も帯飾りも必要だから用立てているだけで、凡そ、着飾ると言う事に興味がない。
結い紐も、髪を纏め、結えれば良いだけのもの、これまで自分では決して選ばなかったであろう品に、程普は少しばかり戸惑いながらも、満更でもなさそうな様子だった。
「これを貰おう」
程普が店主に結い紐を差し出す。
店主は満足げに頷いて、それを丁寧に包み始めた。
はてさて、こちらのお嬢さんが身を守ると言われる翡翠をお選びになったのは偶然か、それともそれを願う故か。
程普様は何食わぬ顔で茶を啜っておられるが、どのように思っておられるのか。
中々どうして、当の本人たちは無自覚でいらっしゃる。
しかし、それを口にするのは野暮と言うもの、店主は変わらない様子で程普に包みを差し出した。
「今後ともご贔屓に」
「姫様、名無しさんを迎えに上がりました」
「あら、程普。ちゃんと約束通りね」
孫尚香は励ますように名無しさんの肩をぽんと叩く。
「行ってらっしゃい、名無しさん。今日は程普と楽しんでね」
「はい。姫様、行って参ります」
名無しさんは丁寧に頭を下げると、程普の後に続いて部屋を出た。
廊下を歩きながら、名無しさんはちらりと程普の横顔を盗み見る。
「どうした」
「い、いえ・・・何でもありません」
視線に気付いた程普に問われ、名無しさんは慌てて彼から目を逸らした。
いつも通りの飾り気のない身なり程普に対し、派手さはないものの、いつもより華やかな装いの自分に気恥ずかしさを覚える。
お買い物に付き合うだけなのに、私ったら少し張り切り過ぎたかしら。
やがて城門が近付き、名無しさんは足を一瞬だけ竦ませた。
城壁の内と外を隔てる大きな門、それを潜った先に、あの日の記憶が微かに揺り起こされる。
異変に気付いた程普が、直ぐ様歩みを緩めて振り返った。
「名無しさん?」
「・・・大丈夫です」
名無しさんは小さく首を振り、無理に笑みを作る。
程普は暫くその顔を見つめていたが、何も言わず、代わりにさりげなく歩調を合わせた。
「案ずるな。我輩が傍に居る」
短いその一言に、名無しさんの強張っていた肩から力が抜ける。
不思議だわ、程普様がそう仰ってくれるだけで、こんなにも胸が軽くなるなんて、名無しさんは自然と微笑んでいた。
並んで門を抜ける二人の目に、賑やかな街並みが目に飛び込んで来る。
人々の話し声、物売りの声、様々な音が入り混じり、名無しさんは思わず息を詰めた。
程普は彼女が無意識にきゅっと手を握った事に気付くと、
「ふむ・・・今日は人が多いな」
そう言って名無しさんの小さな手を取り、自分の袖口を握らせる。
「これを握っておれ。我輩がいつも使っている店までは少々歩く。道中、姫様の大切な女官を見失ったとあれば、我輩の面目が立たぬからな」
「・・・はい」
武骨な指先の、その些細な感触に名無しさんの胸が一度、高く跳ねた。
程普は何でもない顔でそのまま歩き出す。
名無しさんは袖口を握り締めたまま、半歩後ろを付いて行った。
活気に満ちる大通り、名無しさんは物珍しそうにあちこちへ視線を巡らせる。
何も街に出るのは初めてではない。
孫尚香のお使いで、これまで何度か通った事のある道だ。
しかし、いつもは目的の店へ真っ直ぐ向かうだけで、こんな風にゆっくりと眺めた事はなかった。
見慣れているはずの光景が、今日はやけに新鮮に映る。
程普はそんな彼女の様子に気付いてか、何も言わずに殊更ゆっくりと歩を進める。
そうして歩く内に路地裏へと繋がる道が近付き、名無しさんの足取りが徐々に重くなる。
程普は直ぐにそれと気付き、
「名無しさん、少し周り道をしても良いか」
「え?」
「あちらの道の方が店の並びが賑やかでな。折角だ、色々と見てみようと思うが」
さりげなく違う道のりを示した。
「まあ、それは楽しみです。・・・でも、程普様のお買い物が先なのでは?」
「急ぐ用でもあるまい」
程普はそう言うと、彼女の返事を待たずに路地裏に差し掛かる手前で大通りを折れる。
遠退く裏路地、名無しさんの強張っていた指先から、少しずつ力が抜けていった。
もしかして、程普様は私の為に道を変えて下さったのかしら。
もしも、それを尋ねたならば、きっと彼はそうではないと言うだろう。
礼を言ったならば、何の事だとはぐらかすだろう。
それらを言葉にする代わりに、前を行く大きな背中に名無しさんは少しだけ距離を詰めた。
一層賑やかな通りをのんびりと歩く道すがら、風に揺れる枝の音が二人の耳を過ぎる。
「海棠が咲いてますね」
気付いていなかったのか、程普はその方角へ目を遣って言った。
「うん?・・・ああ、そうだな」
ふんわりと並ぶ海棠の花は、厳しい寒さの中に咲く紅梅とはまた異なる趣を持っている。
「程普様のお庭には、今は何が咲いているのでしょうか」
「・・・さてな。何かの花が咲いていた気がせんでもないが、名には疎い」
「ふふっ・・・」
その答えに、名無しさんは笑みを零した。
ああ、矢張りと思う。
庭師の仕事を軽んじる人ではない、花の名前には疎くても、咲いているのは知っているのだ。
春蘭の代わりに、今は何の花が咲いているのかしら。
「また・・・お庭を拝見できたら嬉しいです」
そう言ってから、名無しさんは自分の口から吐いて出た言葉に驚いた。
社交辞令のつもりか、それとも本心か、言ってしまった後になって頬を熱くする。
程普は特に気に留める様子もなく短く頷いた。
「そうか。庭師も喜ぼうな」
この何気ない会話が、まさか本当になるとは・・・この時の二人は、未だ知る由もなかった。
遠回りをした分、店に着いた頃には太陽はやや高い位置になっていた。
暖簾を潜った二人を、恰幅の良い店主の声が迎える。
「これは程普様」
「少し邪魔をするぞ」
慣れた足取りで店内を進む程普の、その後ろに控えていた名無しさんに店主の視線が注がれた。
好奇心を隠しきれない様子で、にやりと笑って言う。
「今日は珍しくお連れ様とご一緒で」
「ただの付き添いだ」
あっさりと返って来る程普の言葉、それを真に受ける店主ではない。
口にこそ出さないが、付き添いと言うには些か親密な様子、程普様も隅に置けないお方だ。
「まあどうぞ、ごゆっくりご覧下さい」
勧められるまま、名無しさんはぐるりと店内を見回した。
白い漆喰の壁に囲まれた、落ち着いた造りの店内には木目の美しい棚が幾つも並び、種類ごとに整然と品が陳列されている。
窓から差し込む柔らかな光が、色とりどりの紐や繊細な細工の施された装飾品を照らし出していた。
焚かれている香の、奥行きのある上品な香りに外の喧騒を忘れてしまう。
「素敵なお店ですね」
装飾品そのものよりも、店の雰囲気に名無しさんは頬を綻ばせた。
「今日は何をお求めで?」
と、店主が程普に伺いながらも、ちらちらと名無しさんに目を走らせる。
先程、珍しくと言ったばかりだが、程普が誰か、それも女性を連れて来たのは初めてだ。
恐らく、彼女への贈り物だろうと想像すれば、その艷やかな黒髪にはどのような色が似合うか考えてしまうのが商売人だ。
「結い紐が傷んで来てな」
「さようで。いつものをご用意で宜しいですか?」
慣れた様子で棚から紐の束を取り出そうとする店主を、程普が手で制した。
「いや、今日は名無しさんに選んでもらおう」
そう言って、程普は隣に立つ名無しさんへと視線を向ける。
「私に・・・ですか?」
「うむ、折角お主が居るのだ。たまには若い者の意見を聞いておくのも悪くなかろう」
驚く彼女に尤もそうな言葉を並べているが、彼のその目元は緩んでいて、店主は内心で笑みを浮かべた。
おやおや、親密と言う言葉すら足りない様子。
高が結い紐だが、日常的に身に着けるものを、付き添いに選ばせるとはただの気紛れか、それとも。
彼女も真剣な眼差しで並ぶ結い紐を見ている、これは時間が掛かりそうだ。
店主は然りげ無く、程普を来客用の卓へと促す。
腰掛ける彼の前に茶を置き、ついでに数点の商品を乗せた漆塗りの盆を滑らせた。
何のつもりだと、投げて来る程普の視線を素知らぬ振りでやり過ごす。
程普はくつりと喉の奥を鳴らすと、茶を啜った。
全く、抜け目のない。
要らぬ節介だと突き返しても良いのだが、何となく、程普は盆の上の商品を眺めていた。
元よりこの店は趣味が良い、程普は結い紐から佩玉、帯飾りまで必要な一式をここで揃えている。
自分には必要のない女性用の装飾品であれ、眺めているだけでも見応えのあるものだ。
そうしている内に、名無しさんが決めたように数点の結い紐を持って遣って来た。
「程普様、ちょっと失礼します」
「うむ?」
何だ、と程普が言うよりも先に彼女が手にしていた結い紐を彼の髪に当てる。
「もう少し、深いお色の方が良いかしら・・・こちらも良いけれど光沢があり過ぎるわね」
ぶつぶつと口の中で言って、持って来た結い紐を取っ替え引っ替えしてみせるが、どうやらお気に召さなかったらしい。
彼女は直ぐ様、棚へと取って返して行った。
その様子に店主は知ったような顔で頷く。
年齢など数に過ぎず、指標でしかない。
成る程、この女性にとっても、程普様は少なからず特別な方のようだ。
さて、一体どのようなものをお選びになるのか。
棚と程普の間を行ったり来たり、往復を繰り返す名無しさんを店主は微笑ましい思いで見守っていた。
そうして幾度目か、名無しさんは漸く決めたらしく、程普に結い紐を差し出す。
「こちらは如何でしょうか」
深みのある朱色の結い紐の、その先端では翡翠の玉飾りと紐と同じ色の小さな紐が控えめに揺れていた。
程普はそれを受け取ると、しげしげと眺めて言う。
「ふむ、こういったものは初めて手にするな」
「・・・お気に召しませんか?」
不安げに窺う名無しさんに、程普は僅かに苦笑した。
「いや。悪くない」
彼女の手から結い紐を受け取った程普は暫くそれを見つめる。
佩玉も帯飾りも必要だから用立てているだけで、凡そ、着飾ると言う事に興味がない。
結い紐も、髪を纏め、結えれば良いだけのもの、これまで自分では決して選ばなかったであろう品に、程普は少しばかり戸惑いながらも、満更でもなさそうな様子だった。
「これを貰おう」
程普が店主に結い紐を差し出す。
店主は満足げに頷いて、それを丁寧に包み始めた。
はてさて、こちらのお嬢さんが身を守ると言われる翡翠をお選びになったのは偶然か、それともそれを願う故か。
程普様は何食わぬ顔で茶を啜っておられるが、どのように思っておられるのか。
中々どうして、当の本人たちは無自覚でいらっしゃる。
しかし、それを口にするのは野暮と言うもの、店主は変わらない様子で程普に包みを差し出した。
「今後ともご贔屓に」