過ぎた時間
貴女のお名前
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結い紐。
名無しさんは穏やかな日々を過ごしていた。
孫堅の暗殺計画を聞いた彼女が、その身の保護の為に程普の屋敷に預けられたのは半月前の事。
それから更に半月、彼女を取り巻く日常はすっかり元通りに戻っている。
その間、名無しさんは胸に残る、未だ返し切れていないものに頭を悩ませていた。
「何かお礼をしたいけれど、どんなものなら、程普様はお喜びになるのかしら・・・」
と、気が付けばその事ばかり考えている。
何かしらの品物を用意したとしても程普は受け取らないかも知れない。
ほんの半月程の付き合いだが、その日々は余りに濃密で、名無しさんは程普ならそうするだろうと半ば確信していた。
程普にしてみれば自分の保護は主命、果たすべき務めだと思っているし、確かにその通りだとは思う。
しかし、名無しさんにとってはそれだけではなかった。
恐怖と不安に震える日々、ただ任務と言うだけで、その度に徹夜になる事も厭わず、傍に寄り添ってくれるだろうか。
名無しさんは紅梅の木を見上げる。
青々とした葉が風にそよぐ様子に、程普の屋敷で見た梅を重ねた。
あの時は満開だった紅梅も、この木と同じように葉を揺らしているのだろう。
同時に、彼の武骨で大きな手が髪に伸びて来た時の事を思い出した名無しさんはほんのりと頬を染めた。
「姫様に・・・相談してみようかしら」
奥付きの女官である名無しさんは男性と交流する事は殆どないに等しいが、孫尚香なら父や兄たちを始め、生来のお転婆故に武将たちに稽古を付けて貰う事がある。
男性の好みを、いや、程普の好みを知っているかもしれない。
そうと思い付いたら、居ても立っても居られなかった。
名無しさんは鍛錬場を彷徨っていた。
広い城内、一口に鍛錬場と言っても幾つあるか。
姫様にもう少し、詳しく聞いておくんだったわ、名無しさんは孫尚香と交わした遣り取りを思い出す。
「程普の好み?」
相談しようと思い立った名無しさんは、孫尚香の部屋を訪ねるなり、彼女に切り出して言った。
「程普様にはご迷惑をお掛けしたので、何かお礼がしたいんです」
「それは良い心掛けだと思うけど・・・程普はお礼が欲しいとは思ってないんじゃないかしら」
それは分かっている、と名無しさんは頷く。
「それでも、何か・・・私の気が収まらないんです」
そう言って睫毛を伏せ、指先をもじもじとさせる彼女に、孫尚香はぴくりと片眉を上げた。
名無しさんが真面目なのは知ってるけど、何だか、それだけじゃない気がするのは気の所為かしら。
孫尚香は唇の端をにんまりと釣り上げると、
「だったら本人に直接聞いちゃいなさいよ」
「えっ・・・?」
驚いたように目を丸くする名無しさんに続けて言った。
「そりゃあ、例えば、程普がお酒が好きなのは知ってるわよ?でも、どんなお酒が好きかは知らないわ。多分、程普なら好みじゃなくても喜んではくれると思うけど、それじゃあ意味がないんでしょう?」
「はい」
名無しさんはこくりと頷いた。
そうなのだ、仮に受け取ってくれたとしても、彼に喜んで欲しい。
「ですが、直接尋ねるのは・・・」
あれ以来、程普とは擦れ違う所か、顔も合わせていない。
そもそも、名無しさんが居るのは城内の奥、あの時は例外だが、男性と会話するにも勇気がいる。
躊躇う名無しさんの背中を孫尚香が励ますように叩いた。
「善は急げよ!程普ならちゃんと向き合ってくれるわ!」
この時間なら大体鍛錬場に居るだろう、孫尚香にそう言われた足で、こちらへと遣って来た名無しさんは一斉に向けられた視線に体を強張らせる。
鍛錬場に居るのは沢山の男性、奥付きの女官の来訪は珍しく、彼らは視線をちらちらと彼女へと走らせていた。
「おい、あれ・・・」
「珍しいな、姫様付きの子じゃないか」
「へえ、可愛いな」
彼らの囁き交わす声や、興味津々な視線に名無しさんは居た堪れず身を縮める。
これほど大勢の、それも男性の視線を浴びる事に慣れていない。
居心地の悪さに無意識に裾をぎゅっと握りながらも、名無しさんは程普を探して視線を巡らせた。
誰かに声を掛け、尋ねる方が早いのは分かっていたが、彼女には困難の極みだった。
見当たらない程普の姿に、名無しさんは軽く頭を下げて逃げるようにその場を後にする。
次に向かったのは、少し離れた別の稽古場だった。
ここでも槍を打ち合う音と、屈強な男たちの姿ばかりが目に入る。
同じように視線を浴びながら見渡すが、生憎と程普の姿はない。
とぼとぼとその場を後にする名無しさんは、また次の鍛錬場に差し掛かる前に既にぐったりとしていた。
歩き回る事自体は苦ではないが、行く先々で向けられる好奇の視線には、流石に気が滅入る。
孫尚香の勢いに任せて来てしまったものの、これでは埒が明かない。
そうして辿り着いたのは、弓の稽古をしている一角、的を射抜く音が規則正しく響く中、こちらも当然ながら男性ばかり。
こちらにいらっしゃったら良いけれど。
またも無遠慮に注がれる視線に、気後れしながら鍛錬場を見渡す名無しさんに、
「誰か探してるのか?」
と、一人の若い兵が気付いて声をかけて来た。
よく日に焼けた顔に人懐こい笑みは、いかにも爽やかな好青年の印象を与える。
物腰も柔らかく、他の兵士たちのような遠慮のない視線とは違う距離感に名無しさんは少しだけ肩の力を抜いた。
「あ・・・いえ、その、程普様を・・・」
「程普殿?・・・ああ、さっき鍛錬を終えたばかりだから、多分、井戸の方に居るんじゃないか」
親切に指し示された方角に、名無しさんは目を輝かせる。
「ありがとうございます」
「井戸の周りは滑り易い、気を付けろよ」
軽く手を振る青年に頭を下げ、名無しさんは教えられた方角へと踏み出した。
ぐったりしていた事も忘れたように足早に向かう。
角を曲がった先に見えた大きな背中に彼女の口元が緩んだ。
「・・・程普様」
やっと見付けた、名無しさんは思わず声に出して彼の名前を溢す。
鍛錬を終えたばかりなのだろう、程普は上衣を脱いで腰元に落とし、桶の水を頭から浴びていた。
白銀に近い灰色の髪から水が滴っては引き締まった肩や背中を伝い落ちていく。
年齢を感じさせない鍛え抜かれた体軀、幾つもの古傷が刻まれたその体は、長年戦場に立ち続けてきた証だった。
濡れた前髪を、程普が無造作に掻き上げる。
その拍子に露わになった額と、滴る水の一筋が、名無しさんの目に飛び込んで来た。
「きゃ・・・っ」
小さな悲鳴のような声に、程普が振り返る。
「名無しさんではないか」
そこに居た彼女の姿に、意外そうに目を見開いた程普は、上衣を纏うでもなく、そのまま井戸端を離れて名無しさんへと歩み寄って来た。
「久方振りだな。変わりないか?」
穏やかな声かけに、しかし名無しさんはそれどころではない。
「あ、あの・・・っ」
言葉にならない声を上げる名無しさんの様子を気にも止めず、彼は続けて尋ねる。
「我輩に用か?」
近付いて来る彼の体から目を逸らせず、名無しさんは真っ赤になった顔を両手で覆って隠した。
「て、程普様・・・っ!」
「どうした?」
訳が分からぬと言った様子で、程普は自分の姿を一瞥する。
それで漸く合点がいったのか、程普は腰に落としていた上衣を引き上げて元のように羽織った。
「済まん、不作法だったな」
「い、いえ・・・」
名無しさんはそろそろと両手を下ろしたが、まともに程普を見る事ができずに俯く。
男性のあのような姿を見るのは初めてで、何をどう見て良いのか、そもそも見ても良いのも分からない。
ただ鼓動だけが、これまでにない速さで脈打っていた。
「それで、我輩に何用だったのだ」
身支度を整えた程普に問われ、名無しさんは我に返った。
「あ・・・その、程普様に、お礼をしたくて」
「礼?」
何の事かと片眉を上げる程普に、名無しさんはこくりと頷く。
「あの時、お世話になったので、何かお返しができればと・・・」
未だ鎮まらない胸の高鳴りを押し隠すように、名無しさんは俯きがちに用件を告げた。
程普は何でもない事のように静かに首を振る。
「気にする程の事ではない。あの時はああするのが我輩の務めだ」
「それでも、私の気が済まないんです」
食い下がる名無しさんに、程普は困ったように眉を下げた。
「お主は・・・意外にも頑固だな」
呆れたようにくつりと溢す、彼の口元には僅かな笑みが浮かんでいる。
程普は答えを探すように髭を扱いた。
真っ直ぐに自分を見上げて待つ彼女をちらりと見遣る。
護衛の任を解かれて半月、目の前に居るのが本来の名無しさんなのであろう。
穏やかに過ごせているようで何よりだが、果たしてそう決め付けても良いものか。
奥付きの女官では外を出歩く機会も少ない上、姫様も案じておられた、恐らく、未だ名無しさんはあれから外出もしておらぬだろう。
少し荒療治かも知れぬが、我輩が付き添うと申し出れば、姫様も名無しさんの外出を許して下さろうか。
程普は一つ息を吐いて言った。
「・・・ふむ。ならば、我輩の買い物に付き合ってもらおうか」
「え?」
思いがけない返答に、名無しさんは目を瞬かせる。
「丁度、髪を結う紐が傷んで来ていてな。城下まで足を運ぶつもりであった」
「それが、お礼になるのですか?」
「うむ。お主が付き合ってくれるだけで、道中の退屈凌ぎになる」
あっさりと言われ、名無しさんは少し拍子抜けしたように肩を落とした。
「・・・それだけで、宜しいのですか」
「不服か?」
「いいえ・・・!」
慌てて首を振る名無しさんに、程普は満足そうに頷く。
「明日にでも出向こうと思うが、名無しさんの都合はどうだ?」
「はい・・・大丈夫です」
「そうか。ならば、城門で・・・」
落ち合おうと、言いかけてた程普は一度そこで言葉を切った。
あの時、名無しさんは城外で危ない目に遭ったのだ、城門は外と内とを分ける境目、そこに向かう事にすら抵抗を覚えるかも知れない。
我輩が名無しさんの部屋に迎えに行って城門に向かうか・・・いや、女官が過ごす棟に足を踏み入れるのは少々、気が引ける。
程普は色々と考えた末に、
「姫様の部屋で待っておれ。巳の刻頃に我輩が迎えに行こう。外出の許可も含めて、我輩から話を通しておく」
「そのような・・・態々、迎えにお越し頂かなくても・・・」
城門前でお待ちしています、と言う彼女に続けて言った。
「何、通り道だ」
そう言って歩き去る程普の大きな背中を、名無しさんはその場に立ち尽くして見送る。
思いも寄らない誘いに、胸の奥が落ち着かなかった。
「程普様とお出かけ・・・」
男性と出かけた事などない、考えるだけで頬が熱くなる。
あくまでもお礼の為の外出だわ、そう自分に言い聞かせても、浮き立つ気持ちは抑えられない。
その夜、名無しさんは寝台の中で何度も寝返りを打っていた。
明日は何を着ていこう。
髪はどう結おう。
お買い物に付き合うだけなのに、どうしてこんなに胸が高鳴るのかしら。
瞼を閉じれば、井戸端で見た程普の姿が蘇ってしまい、名無しさんは慌てて頭を振った。
いけない、私ったら何てはしたないのかしら。
中々寝付けぬまま、名無しさんは寝返りを打ち続けた。
翌朝、名無しさんは身支度を整えると、約束通り孫尚香の部屋へと向かった。
「姫様、失礼致します」
「あら、名無しさん。おはよう」
孫尚香は遣って来た名無しさんの姿をまじまじと眺めると、悪戯っぽく笑って言う。
「今日は随分と念入りね」
「・・・そう、でしょうか」
指摘されて名無しさんは思わず自分の髪に手を運んだ。
いつもより時間をかけて結った髪も、選んだ服も、程普に会うと思うと自然と気合いが入ってしまっていた。
「程普と出掛けるのがそんなに楽しみだった?」
「別に、そういう訳では・・・」
しどろもどろに言い訳する名無しさんに、孫尚香はくすくすと笑いながら、それ以上は追及せずに部屋の椅子を勧める。
「まあ、良いから座って待ってなさいよ。程普が来るまで、未だ時間があるでしょう」
「はい・・・」
名無しさんは落ち着かない様子で腰を下ろした。
昨日、程普から今日の事を聞いていた孫尚香は内心でくすりと笑う。
「何も私の部屋を待ち合わせ場所にしなくったって・・・」
と、呆れたように言った孫尚香に、程普は至極真面目に言った。
「名無しさんが一人で城門に来れるとは限りませぬ」
「それは・・・」
成る程、程普の言う事は分かる。
孫尚香自身もあの時以来、名無しさんに使いを頼んでいなかった。
でも、ちょっと気にかけ過ぎじゃない?
程普の屋敷から城門までの道のりを思い浮かべれば、こちらに寄る方が遠回りなのは明らかだった。
それを知ってか知らずか、名無しさんは素直に信じている様子で、余計に微笑ましい。
全く、二人とも分かってないんだから。
孫尚香は口元に浮かぶ笑みを隠すのに必死だった。
名無しさんは穏やかな日々を過ごしていた。
孫堅の暗殺計画を聞いた彼女が、その身の保護の為に程普の屋敷に預けられたのは半月前の事。
それから更に半月、彼女を取り巻く日常はすっかり元通りに戻っている。
その間、名無しさんは胸に残る、未だ返し切れていないものに頭を悩ませていた。
「何かお礼をしたいけれど、どんなものなら、程普様はお喜びになるのかしら・・・」
と、気が付けばその事ばかり考えている。
何かしらの品物を用意したとしても程普は受け取らないかも知れない。
ほんの半月程の付き合いだが、その日々は余りに濃密で、名無しさんは程普ならそうするだろうと半ば確信していた。
程普にしてみれば自分の保護は主命、果たすべき務めだと思っているし、確かにその通りだとは思う。
しかし、名無しさんにとってはそれだけではなかった。
恐怖と不安に震える日々、ただ任務と言うだけで、その度に徹夜になる事も厭わず、傍に寄り添ってくれるだろうか。
名無しさんは紅梅の木を見上げる。
青々とした葉が風にそよぐ様子に、程普の屋敷で見た梅を重ねた。
あの時は満開だった紅梅も、この木と同じように葉を揺らしているのだろう。
同時に、彼の武骨で大きな手が髪に伸びて来た時の事を思い出した名無しさんはほんのりと頬を染めた。
「姫様に・・・相談してみようかしら」
奥付きの女官である名無しさんは男性と交流する事は殆どないに等しいが、孫尚香なら父や兄たちを始め、生来のお転婆故に武将たちに稽古を付けて貰う事がある。
男性の好みを、いや、程普の好みを知っているかもしれない。
そうと思い付いたら、居ても立っても居られなかった。
名無しさんは鍛錬場を彷徨っていた。
広い城内、一口に鍛錬場と言っても幾つあるか。
姫様にもう少し、詳しく聞いておくんだったわ、名無しさんは孫尚香と交わした遣り取りを思い出す。
「程普の好み?」
相談しようと思い立った名無しさんは、孫尚香の部屋を訪ねるなり、彼女に切り出して言った。
「程普様にはご迷惑をお掛けしたので、何かお礼がしたいんです」
「それは良い心掛けだと思うけど・・・程普はお礼が欲しいとは思ってないんじゃないかしら」
それは分かっている、と名無しさんは頷く。
「それでも、何か・・・私の気が収まらないんです」
そう言って睫毛を伏せ、指先をもじもじとさせる彼女に、孫尚香はぴくりと片眉を上げた。
名無しさんが真面目なのは知ってるけど、何だか、それだけじゃない気がするのは気の所為かしら。
孫尚香は唇の端をにんまりと釣り上げると、
「だったら本人に直接聞いちゃいなさいよ」
「えっ・・・?」
驚いたように目を丸くする名無しさんに続けて言った。
「そりゃあ、例えば、程普がお酒が好きなのは知ってるわよ?でも、どんなお酒が好きかは知らないわ。多分、程普なら好みじゃなくても喜んではくれると思うけど、それじゃあ意味がないんでしょう?」
「はい」
名無しさんはこくりと頷いた。
そうなのだ、仮に受け取ってくれたとしても、彼に喜んで欲しい。
「ですが、直接尋ねるのは・・・」
あれ以来、程普とは擦れ違う所か、顔も合わせていない。
そもそも、名無しさんが居るのは城内の奥、あの時は例外だが、男性と会話するにも勇気がいる。
躊躇う名無しさんの背中を孫尚香が励ますように叩いた。
「善は急げよ!程普ならちゃんと向き合ってくれるわ!」
この時間なら大体鍛錬場に居るだろう、孫尚香にそう言われた足で、こちらへと遣って来た名無しさんは一斉に向けられた視線に体を強張らせる。
鍛錬場に居るのは沢山の男性、奥付きの女官の来訪は珍しく、彼らは視線をちらちらと彼女へと走らせていた。
「おい、あれ・・・」
「珍しいな、姫様付きの子じゃないか」
「へえ、可愛いな」
彼らの囁き交わす声や、興味津々な視線に名無しさんは居た堪れず身を縮める。
これほど大勢の、それも男性の視線を浴びる事に慣れていない。
居心地の悪さに無意識に裾をぎゅっと握りながらも、名無しさんは程普を探して視線を巡らせた。
誰かに声を掛け、尋ねる方が早いのは分かっていたが、彼女には困難の極みだった。
見当たらない程普の姿に、名無しさんは軽く頭を下げて逃げるようにその場を後にする。
次に向かったのは、少し離れた別の稽古場だった。
ここでも槍を打ち合う音と、屈強な男たちの姿ばかりが目に入る。
同じように視線を浴びながら見渡すが、生憎と程普の姿はない。
とぼとぼとその場を後にする名無しさんは、また次の鍛錬場に差し掛かる前に既にぐったりとしていた。
歩き回る事自体は苦ではないが、行く先々で向けられる好奇の視線には、流石に気が滅入る。
孫尚香の勢いに任せて来てしまったものの、これでは埒が明かない。
そうして辿り着いたのは、弓の稽古をしている一角、的を射抜く音が規則正しく響く中、こちらも当然ながら男性ばかり。
こちらにいらっしゃったら良いけれど。
またも無遠慮に注がれる視線に、気後れしながら鍛錬場を見渡す名無しさんに、
「誰か探してるのか?」
と、一人の若い兵が気付いて声をかけて来た。
よく日に焼けた顔に人懐こい笑みは、いかにも爽やかな好青年の印象を与える。
物腰も柔らかく、他の兵士たちのような遠慮のない視線とは違う距離感に名無しさんは少しだけ肩の力を抜いた。
「あ・・・いえ、その、程普様を・・・」
「程普殿?・・・ああ、さっき鍛錬を終えたばかりだから、多分、井戸の方に居るんじゃないか」
親切に指し示された方角に、名無しさんは目を輝かせる。
「ありがとうございます」
「井戸の周りは滑り易い、気を付けろよ」
軽く手を振る青年に頭を下げ、名無しさんは教えられた方角へと踏み出した。
ぐったりしていた事も忘れたように足早に向かう。
角を曲がった先に見えた大きな背中に彼女の口元が緩んだ。
「・・・程普様」
やっと見付けた、名無しさんは思わず声に出して彼の名前を溢す。
鍛錬を終えたばかりなのだろう、程普は上衣を脱いで腰元に落とし、桶の水を頭から浴びていた。
白銀に近い灰色の髪から水が滴っては引き締まった肩や背中を伝い落ちていく。
年齢を感じさせない鍛え抜かれた体軀、幾つもの古傷が刻まれたその体は、長年戦場に立ち続けてきた証だった。
濡れた前髪を、程普が無造作に掻き上げる。
その拍子に露わになった額と、滴る水の一筋が、名無しさんの目に飛び込んで来た。
「きゃ・・・っ」
小さな悲鳴のような声に、程普が振り返る。
「名無しさんではないか」
そこに居た彼女の姿に、意外そうに目を見開いた程普は、上衣を纏うでもなく、そのまま井戸端を離れて名無しさんへと歩み寄って来た。
「久方振りだな。変わりないか?」
穏やかな声かけに、しかし名無しさんはそれどころではない。
「あ、あの・・・っ」
言葉にならない声を上げる名無しさんの様子を気にも止めず、彼は続けて尋ねる。
「我輩に用か?」
近付いて来る彼の体から目を逸らせず、名無しさんは真っ赤になった顔を両手で覆って隠した。
「て、程普様・・・っ!」
「どうした?」
訳が分からぬと言った様子で、程普は自分の姿を一瞥する。
それで漸く合点がいったのか、程普は腰に落としていた上衣を引き上げて元のように羽織った。
「済まん、不作法だったな」
「い、いえ・・・」
名無しさんはそろそろと両手を下ろしたが、まともに程普を見る事ができずに俯く。
男性のあのような姿を見るのは初めてで、何をどう見て良いのか、そもそも見ても良いのも分からない。
ただ鼓動だけが、これまでにない速さで脈打っていた。
「それで、我輩に何用だったのだ」
身支度を整えた程普に問われ、名無しさんは我に返った。
「あ・・・その、程普様に、お礼をしたくて」
「礼?」
何の事かと片眉を上げる程普に、名無しさんはこくりと頷く。
「あの時、お世話になったので、何かお返しができればと・・・」
未だ鎮まらない胸の高鳴りを押し隠すように、名無しさんは俯きがちに用件を告げた。
程普は何でもない事のように静かに首を振る。
「気にする程の事ではない。あの時はああするのが我輩の務めだ」
「それでも、私の気が済まないんです」
食い下がる名無しさんに、程普は困ったように眉を下げた。
「お主は・・・意外にも頑固だな」
呆れたようにくつりと溢す、彼の口元には僅かな笑みが浮かんでいる。
程普は答えを探すように髭を扱いた。
真っ直ぐに自分を見上げて待つ彼女をちらりと見遣る。
護衛の任を解かれて半月、目の前に居るのが本来の名無しさんなのであろう。
穏やかに過ごせているようで何よりだが、果たしてそう決め付けても良いものか。
奥付きの女官では外を出歩く機会も少ない上、姫様も案じておられた、恐らく、未だ名無しさんはあれから外出もしておらぬだろう。
少し荒療治かも知れぬが、我輩が付き添うと申し出れば、姫様も名無しさんの外出を許して下さろうか。
程普は一つ息を吐いて言った。
「・・・ふむ。ならば、我輩の買い物に付き合ってもらおうか」
「え?」
思いがけない返答に、名無しさんは目を瞬かせる。
「丁度、髪を結う紐が傷んで来ていてな。城下まで足を運ぶつもりであった」
「それが、お礼になるのですか?」
「うむ。お主が付き合ってくれるだけで、道中の退屈凌ぎになる」
あっさりと言われ、名無しさんは少し拍子抜けしたように肩を落とした。
「・・・それだけで、宜しいのですか」
「不服か?」
「いいえ・・・!」
慌てて首を振る名無しさんに、程普は満足そうに頷く。
「明日にでも出向こうと思うが、名無しさんの都合はどうだ?」
「はい・・・大丈夫です」
「そうか。ならば、城門で・・・」
落ち合おうと、言いかけてた程普は一度そこで言葉を切った。
あの時、名無しさんは城外で危ない目に遭ったのだ、城門は外と内とを分ける境目、そこに向かう事にすら抵抗を覚えるかも知れない。
我輩が名無しさんの部屋に迎えに行って城門に向かうか・・・いや、女官が過ごす棟に足を踏み入れるのは少々、気が引ける。
程普は色々と考えた末に、
「姫様の部屋で待っておれ。巳の刻頃に我輩が迎えに行こう。外出の許可も含めて、我輩から話を通しておく」
「そのような・・・態々、迎えにお越し頂かなくても・・・」
城門前でお待ちしています、と言う彼女に続けて言った。
「何、通り道だ」
そう言って歩き去る程普の大きな背中を、名無しさんはその場に立ち尽くして見送る。
思いも寄らない誘いに、胸の奥が落ち着かなかった。
「程普様とお出かけ・・・」
男性と出かけた事などない、考えるだけで頬が熱くなる。
あくまでもお礼の為の外出だわ、そう自分に言い聞かせても、浮き立つ気持ちは抑えられない。
その夜、名無しさんは寝台の中で何度も寝返りを打っていた。
明日は何を着ていこう。
髪はどう結おう。
お買い物に付き合うだけなのに、どうしてこんなに胸が高鳴るのかしら。
瞼を閉じれば、井戸端で見た程普の姿が蘇ってしまい、名無しさんは慌てて頭を振った。
いけない、私ったら何てはしたないのかしら。
中々寝付けぬまま、名無しさんは寝返りを打ち続けた。
翌朝、名無しさんは身支度を整えると、約束通り孫尚香の部屋へと向かった。
「姫様、失礼致します」
「あら、名無しさん。おはよう」
孫尚香は遣って来た名無しさんの姿をまじまじと眺めると、悪戯っぽく笑って言う。
「今日は随分と念入りね」
「・・・そう、でしょうか」
指摘されて名無しさんは思わず自分の髪に手を運んだ。
いつもより時間をかけて結った髪も、選んだ服も、程普に会うと思うと自然と気合いが入ってしまっていた。
「程普と出掛けるのがそんなに楽しみだった?」
「別に、そういう訳では・・・」
しどろもどろに言い訳する名無しさんに、孫尚香はくすくすと笑いながら、それ以上は追及せずに部屋の椅子を勧める。
「まあ、良いから座って待ってなさいよ。程普が来るまで、未だ時間があるでしょう」
「はい・・・」
名無しさんは落ち着かない様子で腰を下ろした。
昨日、程普から今日の事を聞いていた孫尚香は内心でくすりと笑う。
「何も私の部屋を待ち合わせ場所にしなくったって・・・」
と、呆れたように言った孫尚香に、程普は至極真面目に言った。
「名無しさんが一人で城門に来れるとは限りませぬ」
「それは・・・」
成る程、程普の言う事は分かる。
孫尚香自身もあの時以来、名無しさんに使いを頼んでいなかった。
でも、ちょっと気にかけ過ぎじゃない?
程普の屋敷から城門までの道のりを思い浮かべれば、こちらに寄る方が遠回りなのは明らかだった。
それを知ってか知らずか、名無しさんは素直に信じている様子で、余計に微笑ましい。
全く、二人とも分かってないんだから。
孫尚香は口元に浮かぶ笑みを隠すのに必死だった。