全てがかくも色褪せて
貴女のお名前
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それから数日、穏やかな時間が流れた。
写本を進め、庭を歩き、時には老女中の話し相手をしながら繕い物をする。
台所では包丁こそまだ握れずにいたが、盛り付けや味見役として、名無しさんは少しずつ馴染んでいった。
夜、眠れずに書斎を訪れる回数も、目に見えて減っている。
そんなある日の昼餉の後、名無しさんは書斎に向かおうとする程普の袖をそっと引いた。
「程普様」
「どうした」
「今日は・・・私から誘っても宜しいですか?」
何事かと片眉を上げる程普に、名無しさんは恥ずかしそうに笑った。
「庭を、少し歩きませんか」
程普は僅かに目を見開いたが、直ぐにその口元を緩める。
自分から外に出たがるとは、良い兆候だ。
いつからか当たり前のように並べて掛けている二着の綿入れに、それぞれに身を包む。
連れ立って庭に出た二人はいつもの石畳の小道を進んだ。
木の根元の蘭は、相変わらずひっそりと花を咲かせている。
「未だ咲いていますね」
「・・・お主に教えられねば、我輩は一生気付かなんだろうな」
ぼそりと零された言葉に、名無しさんは笑みを浮かべた。
そんな事はない、と思う。
いつも自分を気遣ってくれている彼が、庭師の仕事を取り零す筈がない。
程普様は多くを語らないけれど、とても優しい方だと思います。
名無しさんはその言葉を胸に潜めたまま、彼の後を付いて歩いていた。
やがて、苔生した段差に近付くと、程普が当然のように彼女に手を差し出す。
「名無しさん」
「はい、ありがとうございます」
名無しさんはするりと手を重ね、彼に体を預けて段差を越えた。
いつもなら直ぐに離れる筈の彼の手が、何故か今日は握られたままで、どうかしたのかしらと名無しさんは細い首を傾げる。
「・・・程普様?」
その声に、程普がはっと我に返った。
呼び掛けても応えぬ彼に、名無しさんは心配そうに顔を覗き込む。
「何処か、お加減でも?」
と、尋ねて来る彼女の手をゆるゆると離し、程普は首を振って言った。
「・・・いや、何でもない」
よもや歳の離れた小娘一人の手を離すのに、名残り惜しさを覚えた事など、本人に言えよう筈もない。
それ以前に、その意外な感覚に、程普は内心で戸惑ってすらいた。
「・・・手が冷えているな。戻ったら火を用意しよう」
そう言って先に立って歩き出すその大きな背中を、名無しさんは微笑みながら付いて行く。
紅梅の枝から花びらが散り始め、代わりに蕾の膨らんだ木々が目立つようになった頃。
その日の夕刻、名無しさんは台所に立つと、竈の前で忙しなく手を動かす老女中に声をかけた。
「今日は・・・私に、作らせて頂けませんか」
老女中が心配そうに、その皺だらけの手で名無しさんの手を包む。
名無しさんは緩く微笑み、彼女に続けて言った。
「もう・・・大丈夫だと思うので」
強がりではない。
あの日から幾度となく、包丁に手を伸ばしては引っ込め、盛り付けや味見だけに留めて来た。
台所に立つ度に、程普が近くに控えて見守ってくれていた事も知っている。
それだけではない、彼はいつも傍に居てくれた。
写本をする時も、庭に出る時も、繕い物をする時も、片時も傍を離れなかった。
勿論、今も、名無しさんは後ろを振り返り、今度は程普に微笑んで言う。
「大丈夫です」
静かに頷く程普に、老女中の手がゆっくりと離れた。
「私も傍に居りますからね」
「はい」
籠に盛られた芋と青菜が、まな板の傍に置かれる。
名無しさんはそろそろと包丁を手に取った。
柄の感触に、あの日に感じた強張りはない。
まな板の上で芋の皮に刃を近付けていく。
大丈夫、名無しさんは息を深く吸って、皮にそろりと刃を入れた。
薄く、皮が剥ける。
次も、その次も、さりさりと音を立て、名無しさんは危なげのない手付きで芋の皮を剥いていった。
「・・・できた」
小さく零れた呟きに、隣で見守っていた老女中が名無しさんの背中を撫でる。
「程普様・・・私、できました」
込み上げるものを堪えるように、名無しさんは震える声を上げ、まな板の上の芋を程普に見せた。
まるで、初めて何かを成し遂げ、褒められるのを待つ子どものような仕草に、程普は目を細める。
「ああ、よくやった」
喜びなのか、安堵なのか、自分でもよく分からないが、名無しさんはじわりと熱くなる胸を抱え、続けて青菜に向き直った。
その姿に恐怖はない。
名無しさんは二人に見守られながら、盛り付けまでの全てを自分の手でやり遂げた。
夕餉の刻、
「お口に合えば良いのですが・・・」
緊張した面持ちで椀を差し出す名無しさんに、程普は箸を取る。
芋を含み、程普は黙って味わうと、徐に口を開いた。
「・・・美味い」
たった一言、けれどそれだけで名無しさんの目に涙が滲む。
「良かった・・・」
「泣くような事か」
呆れたように言いながらも、程普の声音は柔らかい。
「だって・・・作れないと、思っていましたから」
袖で目元を拭い、名無しさんは恥ずかしそうに言った。
「また、作っても宜しいですか」
「・・・うむ」
程普の返事は素っ気ない、しかしそこに確かな温かさを感じ取る。
名無しさんはあの日、乗り越えられなかった何かを、漸く乗り越えられた気がした。
そうしてとうとう、新月の夜が来た。
これまで名無しさんの目に触れない所で届いて来た報告を前に、程普は眉間に皺を寄せる。
調査は着々と進み、警備の中に紛れ込んだ内通者の目星も既に付いていると聞くが、狙われているのが主君だけに、何処か落ち着かない。
いや、我輩の務めは名無しさんを無事に姫様の御前に返す事だ。
程普はその場に駆け付けられない事に歯痒さを覚えながらも、与えられた務めを果たすべく、今日までやって来たのだ。
今更、放り出してはそれこそ名折れと言うもの。
だからと言って眠る気にもなれず、程普は部屋を出た。
同じ頃、中々寝付けずにいた名無しさんは書斎に足を運んでいた。
暗殺計画のことを聞いた、あの日の恐怖が蘇るが、以前程、震えてはいない。
ただ今夜、孫堅の身に本当に危険が迫るのだと思うと、じっとしていられなかった。
名無しさんは榻に腰掛け、懐から懐紙を取り出す。
中にはあの日、程普が取ってくれた紅梅の花びらが色褪せながらも大切に仕舞われていた。
本当は一人では心細いけれど・・・。
もう十分に助けて貰ったのだ、これ以上、甘える訳にはいかない、名無しさんは指先で花びらに触れた。
そこに程普が居るように感じる。
「・・・眠れぬか」
と、傍で聞こえた聞き慣れた声に、名無しさんは指先の花びらから視線を移した。
「程普様」
そこに程普の姿を認めた彼女の顔に、忽ち安堵の表情が浮かぶ。
程普は隣に腰を下ろすと、静かに窓の外を見やった。
月のない夜、空は闇に沈んでいる。
「案ずるな。手筈は抜かりなく整えておる」
「はい」
分かっていても、不安が消える訳ではない。
名無しさんは長い睫毛を伏せて言った。
「・・・私はここで、待っている事しかできないんですね」
「それで良い。それがお主の役目だ」
程普は穏やかに、しかしはっきりと言う。
「殿の御身を守るのは城に居る者の役目。名無しさんを守るのは我輩の役目だ。・・・お主が眠れぬと言うのならば、とことん我輩が付き合おう」
その言葉に、名無しさんは少し驚いたように顔を上げてから、嬉しそうに微笑んだ。
「・・・ありがとうございます」
「将として当然の事、礼を言われる程ではない」
あっさりと返す程普に、胸のつかえが少しだけ軽くなる。
名無しさんは懐紙を膝の上でそっと畳んで言った。
「あの・・・程普様」
「どうした」
「今夜は・・・手を、握っていて下さいませんか」
「・・・手を?」
確認するように聞き返され、不安からとは言え、名無しさんは自分の口から突いて出た言葉に頬を赤らめる。
私ったら、何てはしたない事を。
「す、済みません・・・あの、違うんですっ」
真っ赤になって否定するように目の前で振って見せる彼女の白い手を、程普は優しい動きで取った。
それ位で名無しさんが安心できるのならば容易い。
「これで良いか?」
「・・・っ、はい・・・」
「手を握って欲しいとは。名無しさんは時々、子どものような事を言う」
程普はそう言って、くつりと喉の奥で笑った。
「案ずるな、我輩が傍に居る」
何度も聞いたその言葉に、名無しさんの肩から力が抜ける。
本当に、程普様はいつも欲しい言葉を下さる。
私が抱え切れずにいる不安を、程普様は軽々と受け止めてしまわれる。
名無しさんは膝の上に置いていた懐紙を指先で撫でた。
孫堅様も、姫様も皆さんもきっと・・・いいえ、絶対にご無事でいらっしゃる。
だって、程普様がそう仰るのだもの。
それを信じて疑わず、名無しさんは目を閉じる。
程普様のお側は心地良い、やがて彼女は規則正しい寝息を立て始めた。
名無しさんの体が傾き、程普の肩にぽすんと落ちる。
程普はそこに穏やかな寝顔を見て目を細めた。
恐怖に震えていたあの夜から半月、よくぞここまで回復してくれたものだ。
姫様もお喜びになられる事だろう、と考えたその時、こちらへと近付いて来る気配を覚える。
繋いでいた手をそっと離し、程普は彼女を起こさぬよう、静かに部屋の外へ出た。
部下の一人が闇から顔を出す。
その顔には隠しきれない安堵が滲んでいた。
「内通者、全て捕縛致しました。殿にも、いかなる怪我もございません」
「・・・そうか。ご苦労だった」
短く応じて部下を下がらせると、程普は部屋へ戻る。
名無しさんは変わらず、穏やかな寝息を立てていた。
程普は再び隣に腰掛けて彼女の小さな手を取る。
「・・・名無しさんよ、全て終わったぞ」
そう言って、握った手に一度だけ力を込めた。
その手が朝まで離れる事はなかった。
目覚めて直ぐ、程普から昨夜の報せを聞かされた名無しさんは忽ち大きな瞳に涙を滲ませた。
「良かった・・・」
程普は彼女の細い肩に軽く手を置いて言う。
「姫様が早く名無しさんを連れて来いと仰せだ。支度が整い次第、城へ戻るぞ」
「・・・はい」
と、微笑みながら素直に頷く名無しさんの胸に不意に何か、言葉では言い表せないような何かが込み上げて来た。
もう、このお屋敷とはお別れなのね。
書斎の墨の匂いも、庭の紅梅も、老女中との他愛のないお喋りも、程普と過ごした幾つもの夜も、今日を限りに遠いものになってしまう。
荷物を纏める手を止めて、名無しさんは部屋を見渡した。
たった半月、その短い間にあった出来事を、色褪せた花びらの入った懐紙と一緒に、そっと懐に仕舞い込む。
昼を過ぎて、名無しさんは程普と共に馬車に乗り込んだ。
見送りに出ていた老女中と、門衛の姿が小さくなっていくのが寂しい。
城に着いた二人を孫堅と孫尚香が出迎える。
孫尚香は真っ先に名無しさんに駆け寄ると、がばりと彼女の体抱き着いた。
「名無しさん!」
「姫様・・・!」
「よくぞ無事で戻った」
孫堅も彼女の無事を喜び、それから程普に向き直って言う。
「程普、ご苦労だったな」
黙って礼を執る程普の耳に、孫尚香の楽しげな声が届いた。
「名無しさん、貴女が帰って来た時の為にって沢山お菓子を用意しておいたわ。さっ、行きましょう!」
見やれば、名無しさんが嬉しそうに微笑んでいて、漸く、心の底から笑える時が来たのだと、程普は安堵に深く息を吐く。
孫尚香に手を引かれて足を踏み出した名無しさんは、その前に程普を振り返った。
「程普様、本当にありがとうございました」
「うむ」
短い言葉を最後に、名無しさんは奥へと去って行った。
役目を終え、屋敷に戻った程普は気が付けば庭に出ていた。
いつの間にか習慣付いていたか、と自嘲気味に苦笑いを溢す。
ゆっくりと小道を辿り、名無しさんが見付けた蘭に視線を落として苔生した段差を越えた。
そのまま歩を進めて、吹く風に揺れる紅梅を見上げる。
そのどれもが、彼女の気配を残していた。
名無しさんが居ない、それだけで「全てがかくも色褪せて」見えようとは。
風に乗って来る煮炊きの匂いに、
「・・・もう、あやつの煮物は食べられぬのか」
そう呟いてから、程普は自分の声に微かな驚きを覚えた。
それが惜しんでいるのが、煮物の味なのか、それとも・・・。
分からぬまま、溜め息だけが漏れる。
老いた武人の胸に、その時初めて小さな寂しさが芽生えた事に、程普自身は未だ気付いていなかった。
→あとがき
写本を進め、庭を歩き、時には老女中の話し相手をしながら繕い物をする。
台所では包丁こそまだ握れずにいたが、盛り付けや味見役として、名無しさんは少しずつ馴染んでいった。
夜、眠れずに書斎を訪れる回数も、目に見えて減っている。
そんなある日の昼餉の後、名無しさんは書斎に向かおうとする程普の袖をそっと引いた。
「程普様」
「どうした」
「今日は・・・私から誘っても宜しいですか?」
何事かと片眉を上げる程普に、名無しさんは恥ずかしそうに笑った。
「庭を、少し歩きませんか」
程普は僅かに目を見開いたが、直ぐにその口元を緩める。
自分から外に出たがるとは、良い兆候だ。
いつからか当たり前のように並べて掛けている二着の綿入れに、それぞれに身を包む。
連れ立って庭に出た二人はいつもの石畳の小道を進んだ。
木の根元の蘭は、相変わらずひっそりと花を咲かせている。
「未だ咲いていますね」
「・・・お主に教えられねば、我輩は一生気付かなんだろうな」
ぼそりと零された言葉に、名無しさんは笑みを浮かべた。
そんな事はない、と思う。
いつも自分を気遣ってくれている彼が、庭師の仕事を取り零す筈がない。
程普様は多くを語らないけれど、とても優しい方だと思います。
名無しさんはその言葉を胸に潜めたまま、彼の後を付いて歩いていた。
やがて、苔生した段差に近付くと、程普が当然のように彼女に手を差し出す。
「名無しさん」
「はい、ありがとうございます」
名無しさんはするりと手を重ね、彼に体を預けて段差を越えた。
いつもなら直ぐに離れる筈の彼の手が、何故か今日は握られたままで、どうかしたのかしらと名無しさんは細い首を傾げる。
「・・・程普様?」
その声に、程普がはっと我に返った。
呼び掛けても応えぬ彼に、名無しさんは心配そうに顔を覗き込む。
「何処か、お加減でも?」
と、尋ねて来る彼女の手をゆるゆると離し、程普は首を振って言った。
「・・・いや、何でもない」
よもや歳の離れた小娘一人の手を離すのに、名残り惜しさを覚えた事など、本人に言えよう筈もない。
それ以前に、その意外な感覚に、程普は内心で戸惑ってすらいた。
「・・・手が冷えているな。戻ったら火を用意しよう」
そう言って先に立って歩き出すその大きな背中を、名無しさんは微笑みながら付いて行く。
紅梅の枝から花びらが散り始め、代わりに蕾の膨らんだ木々が目立つようになった頃。
その日の夕刻、名無しさんは台所に立つと、竈の前で忙しなく手を動かす老女中に声をかけた。
「今日は・・・私に、作らせて頂けませんか」
老女中が心配そうに、その皺だらけの手で名無しさんの手を包む。
名無しさんは緩く微笑み、彼女に続けて言った。
「もう・・・大丈夫だと思うので」
強がりではない。
あの日から幾度となく、包丁に手を伸ばしては引っ込め、盛り付けや味見だけに留めて来た。
台所に立つ度に、程普が近くに控えて見守ってくれていた事も知っている。
それだけではない、彼はいつも傍に居てくれた。
写本をする時も、庭に出る時も、繕い物をする時も、片時も傍を離れなかった。
勿論、今も、名無しさんは後ろを振り返り、今度は程普に微笑んで言う。
「大丈夫です」
静かに頷く程普に、老女中の手がゆっくりと離れた。
「私も傍に居りますからね」
「はい」
籠に盛られた芋と青菜が、まな板の傍に置かれる。
名無しさんはそろそろと包丁を手に取った。
柄の感触に、あの日に感じた強張りはない。
まな板の上で芋の皮に刃を近付けていく。
大丈夫、名無しさんは息を深く吸って、皮にそろりと刃を入れた。
薄く、皮が剥ける。
次も、その次も、さりさりと音を立て、名無しさんは危なげのない手付きで芋の皮を剥いていった。
「・・・できた」
小さく零れた呟きに、隣で見守っていた老女中が名無しさんの背中を撫でる。
「程普様・・・私、できました」
込み上げるものを堪えるように、名無しさんは震える声を上げ、まな板の上の芋を程普に見せた。
まるで、初めて何かを成し遂げ、褒められるのを待つ子どものような仕草に、程普は目を細める。
「ああ、よくやった」
喜びなのか、安堵なのか、自分でもよく分からないが、名無しさんはじわりと熱くなる胸を抱え、続けて青菜に向き直った。
その姿に恐怖はない。
名無しさんは二人に見守られながら、盛り付けまでの全てを自分の手でやり遂げた。
夕餉の刻、
「お口に合えば良いのですが・・・」
緊張した面持ちで椀を差し出す名無しさんに、程普は箸を取る。
芋を含み、程普は黙って味わうと、徐に口を開いた。
「・・・美味い」
たった一言、けれどそれだけで名無しさんの目に涙が滲む。
「良かった・・・」
「泣くような事か」
呆れたように言いながらも、程普の声音は柔らかい。
「だって・・・作れないと、思っていましたから」
袖で目元を拭い、名無しさんは恥ずかしそうに言った。
「また、作っても宜しいですか」
「・・・うむ」
程普の返事は素っ気ない、しかしそこに確かな温かさを感じ取る。
名無しさんはあの日、乗り越えられなかった何かを、漸く乗り越えられた気がした。
そうしてとうとう、新月の夜が来た。
これまで名無しさんの目に触れない所で届いて来た報告を前に、程普は眉間に皺を寄せる。
調査は着々と進み、警備の中に紛れ込んだ内通者の目星も既に付いていると聞くが、狙われているのが主君だけに、何処か落ち着かない。
いや、我輩の務めは名無しさんを無事に姫様の御前に返す事だ。
程普はその場に駆け付けられない事に歯痒さを覚えながらも、与えられた務めを果たすべく、今日までやって来たのだ。
今更、放り出してはそれこそ名折れと言うもの。
だからと言って眠る気にもなれず、程普は部屋を出た。
同じ頃、中々寝付けずにいた名無しさんは書斎に足を運んでいた。
暗殺計画のことを聞いた、あの日の恐怖が蘇るが、以前程、震えてはいない。
ただ今夜、孫堅の身に本当に危険が迫るのだと思うと、じっとしていられなかった。
名無しさんは榻に腰掛け、懐から懐紙を取り出す。
中にはあの日、程普が取ってくれた紅梅の花びらが色褪せながらも大切に仕舞われていた。
本当は一人では心細いけれど・・・。
もう十分に助けて貰ったのだ、これ以上、甘える訳にはいかない、名無しさんは指先で花びらに触れた。
そこに程普が居るように感じる。
「・・・眠れぬか」
と、傍で聞こえた聞き慣れた声に、名無しさんは指先の花びらから視線を移した。
「程普様」
そこに程普の姿を認めた彼女の顔に、忽ち安堵の表情が浮かぶ。
程普は隣に腰を下ろすと、静かに窓の外を見やった。
月のない夜、空は闇に沈んでいる。
「案ずるな。手筈は抜かりなく整えておる」
「はい」
分かっていても、不安が消える訳ではない。
名無しさんは長い睫毛を伏せて言った。
「・・・私はここで、待っている事しかできないんですね」
「それで良い。それがお主の役目だ」
程普は穏やかに、しかしはっきりと言う。
「殿の御身を守るのは城に居る者の役目。名無しさんを守るのは我輩の役目だ。・・・お主が眠れぬと言うのならば、とことん我輩が付き合おう」
その言葉に、名無しさんは少し驚いたように顔を上げてから、嬉しそうに微笑んだ。
「・・・ありがとうございます」
「将として当然の事、礼を言われる程ではない」
あっさりと返す程普に、胸のつかえが少しだけ軽くなる。
名無しさんは懐紙を膝の上でそっと畳んで言った。
「あの・・・程普様」
「どうした」
「今夜は・・・手を、握っていて下さいませんか」
「・・・手を?」
確認するように聞き返され、不安からとは言え、名無しさんは自分の口から突いて出た言葉に頬を赤らめる。
私ったら、何てはしたない事を。
「す、済みません・・・あの、違うんですっ」
真っ赤になって否定するように目の前で振って見せる彼女の白い手を、程普は優しい動きで取った。
それ位で名無しさんが安心できるのならば容易い。
「これで良いか?」
「・・・っ、はい・・・」
「手を握って欲しいとは。名無しさんは時々、子どものような事を言う」
程普はそう言って、くつりと喉の奥で笑った。
「案ずるな、我輩が傍に居る」
何度も聞いたその言葉に、名無しさんの肩から力が抜ける。
本当に、程普様はいつも欲しい言葉を下さる。
私が抱え切れずにいる不安を、程普様は軽々と受け止めてしまわれる。
名無しさんは膝の上に置いていた懐紙を指先で撫でた。
孫堅様も、姫様も皆さんもきっと・・・いいえ、絶対にご無事でいらっしゃる。
だって、程普様がそう仰るのだもの。
それを信じて疑わず、名無しさんは目を閉じる。
程普様のお側は心地良い、やがて彼女は規則正しい寝息を立て始めた。
名無しさんの体が傾き、程普の肩にぽすんと落ちる。
程普はそこに穏やかな寝顔を見て目を細めた。
恐怖に震えていたあの夜から半月、よくぞここまで回復してくれたものだ。
姫様もお喜びになられる事だろう、と考えたその時、こちらへと近付いて来る気配を覚える。
繋いでいた手をそっと離し、程普は彼女を起こさぬよう、静かに部屋の外へ出た。
部下の一人が闇から顔を出す。
その顔には隠しきれない安堵が滲んでいた。
「内通者、全て捕縛致しました。殿にも、いかなる怪我もございません」
「・・・そうか。ご苦労だった」
短く応じて部下を下がらせると、程普は部屋へ戻る。
名無しさんは変わらず、穏やかな寝息を立てていた。
程普は再び隣に腰掛けて彼女の小さな手を取る。
「・・・名無しさんよ、全て終わったぞ」
そう言って、握った手に一度だけ力を込めた。
その手が朝まで離れる事はなかった。
目覚めて直ぐ、程普から昨夜の報せを聞かされた名無しさんは忽ち大きな瞳に涙を滲ませた。
「良かった・・・」
程普は彼女の細い肩に軽く手を置いて言う。
「姫様が早く名無しさんを連れて来いと仰せだ。支度が整い次第、城へ戻るぞ」
「・・・はい」
と、微笑みながら素直に頷く名無しさんの胸に不意に何か、言葉では言い表せないような何かが込み上げて来た。
もう、このお屋敷とはお別れなのね。
書斎の墨の匂いも、庭の紅梅も、老女中との他愛のないお喋りも、程普と過ごした幾つもの夜も、今日を限りに遠いものになってしまう。
荷物を纏める手を止めて、名無しさんは部屋を見渡した。
たった半月、その短い間にあった出来事を、色褪せた花びらの入った懐紙と一緒に、そっと懐に仕舞い込む。
昼を過ぎて、名無しさんは程普と共に馬車に乗り込んだ。
見送りに出ていた老女中と、門衛の姿が小さくなっていくのが寂しい。
城に着いた二人を孫堅と孫尚香が出迎える。
孫尚香は真っ先に名無しさんに駆け寄ると、がばりと彼女の体抱き着いた。
「名無しさん!」
「姫様・・・!」
「よくぞ無事で戻った」
孫堅も彼女の無事を喜び、それから程普に向き直って言う。
「程普、ご苦労だったな」
黙って礼を執る程普の耳に、孫尚香の楽しげな声が届いた。
「名無しさん、貴女が帰って来た時の為にって沢山お菓子を用意しておいたわ。さっ、行きましょう!」
見やれば、名無しさんが嬉しそうに微笑んでいて、漸く、心の底から笑える時が来たのだと、程普は安堵に深く息を吐く。
孫尚香に手を引かれて足を踏み出した名無しさんは、その前に程普を振り返った。
「程普様、本当にありがとうございました」
「うむ」
短い言葉を最後に、名無しさんは奥へと去って行った。
役目を終え、屋敷に戻った程普は気が付けば庭に出ていた。
いつの間にか習慣付いていたか、と自嘲気味に苦笑いを溢す。
ゆっくりと小道を辿り、名無しさんが見付けた蘭に視線を落として苔生した段差を越えた。
そのまま歩を進めて、吹く風に揺れる紅梅を見上げる。
そのどれもが、彼女の気配を残していた。
名無しさんが居ない、それだけで「全てがかくも色褪せて」見えようとは。
風に乗って来る煮炊きの匂いに、
「・・・もう、あやつの煮物は食べられぬのか」
そう呟いてから、程普は自分の声に微かな驚きを覚えた。
それが惜しんでいるのが、煮物の味なのか、それとも・・・。
分からぬまま、溜め息だけが漏れる。
老いた武人の胸に、その時初めて小さな寂しさが芽生えた事に、程普自身は未だ気付いていなかった。
→あとがき