全てがかくも色褪せて
貴女のお名前
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鳥の囀りに名無しさんはゆっくりと瞼を開けた。
体を起こそうとして、頬に触れる硬い感触に目をぱちぱちと瞬かせる。
「・・・程普様?」
寝起きの舌足らずな声に、程普は緩く笑みを浮かべた。
「目が覚めたか」
「はい、おはようございます・・・」
と、言って、名無しさんはみるみる顔を青褪めさせる。
昨日の朝よりも幾分かすっきりした目覚め、いつの間にか、肩を借りたまま眠ってしまっていたらしい。
もしかして私、一晩中、程普様に凭れ掛かっていたのかしら。
「も、申し訳ございません!」
「いや、眠れたのならばそれで良い」
程普は何でもない事のように言って、静かに立ち上がった。
「腹が減ったな」
名無しさんは歩き出す彼の背中を慌てて追う。
「あの・・・っ、程普様・・・」
もう一度、謝ろうと声を掛けて来る彼女に、程普は顔を半分だけ振り向ける事で応えた。
そこに穏やかな表情を見た名無しさんは、開いた口で謝罪ではない言葉を紡いだ。
「・・・ありがとう、ございます」
その一言に、程普は何も答えない。
目元を和らげて頷き、無言のまま朝の廊下を歩いて行く。
名無しさんは緩く微笑みながら、その大きな背中を追った。
午前中一杯、二人は昨日の続きを写して過ごし、昼餉を終えた後で再び書斎に戻ろうとする名無しさんに程普は声を掛けた。
「部屋に籠りきりでは息が詰まるな。名無しさんよ、我輩の気晴らしに少し付き合ってくれぬか」
程普と過ごしたのはほんの数日、それでも、その言葉が額面通りでない事が分かる。
程普様のお側は心地良い、名無しさんに否はなかった。
「はい、喜んで」
微笑んで答える彼女を一瞥し、程普は続けて言う。
「その格好では寒かろう。少し待っておれ」
そう言って自室に取って返した程普は、程なくして一枚の畳まれた綿入れを手に戻って来た。
「奥にしまってあったものだ。着ておけ」
「・・・宜しいのですか」
「埃くらいは払ってある。遠慮するな」
有無を言わさぬ調子に、名無しさんはおずおずと綿入れに袖を通す。
大き過ぎる袖が指先まですっぽりと覆い、肩の辺りは余って落ちそうだ。
ふわりと擽る、程普と同じ香りに、名無しさんの頬が僅かに熱を持った。
「・・・大きいです」
くすりと笑って裾を持ち上げて見せる名無しさんに、程普は目を細める。
「贅沢を言うな。お主に合う大きさのものなど持ち合わせておらん」
そう言いつつも、その目元は幾分か柔らかい。
屋敷の庭はさほど広くはないが、その分、隅々まで手入れが行き届いていた。
二人は連れ立って、ゆっくりと石畳の小道を進む。
小道の途中、木の根元にひっそりと咲く花に、名無しさんの足が止まった。
「あ・・・花が咲いていますね」
「花?」
しゃがみ込み、そっと顔を近付ける彼女の背から程普が花を覗き込む。
地面から伸びた葉の隙間に紫がかった斑の入る小さな花が見え隠れしていた。
漂う控えめな香りに名無しさんがうっとりと目を閉じる。
「良い香り・・・」
「蘭か」
「はい。目立たないですけれど、そう言う所が好きです」
程普は何も言わず、彼女がその場を離れるまで、静かに佇んでいた。
満足したように立ち上がった名無しさんを促し、半歩先を行く程普は、苔生した小さな段差の手前で手を差し出して言う。
「気を付けろ、足元が滑り易くなっている」
「あ・・・はい」
名無しさんは僅かに躊躇ってから、礼を言って武骨な手に自分の手を重ね、そろそろと段差を越えた。
彼の大きな体を窺うように見上げて言う。
「・・・程普様は、いつもこうして助けて下さいますね」
「当然の事だ」
素っ気なく返す程普に、名無しさんは指先をきゅっと握った。
手のひらに残るぬくもりが、少しだけ名残惜しい。
そうして進んだ先、庭の隅に一本の紅梅が花をいくつも咲かせていた。
「・・・綺麗」
思わず零れた彼女の声に誘われるように程普が視線を上げれば、蕾は未だ固く閉じているものも多いが、綻び始めた花弁が枝先を彩っている。
「気に入ったか」
「はい。城でも見掛けますから・・・」
名無しさんは目を細めて花を見上げる。
見知らぬ屋敷、見知らぬ部屋の中で、この紅梅だけは、いつもと変わらない色をしていた。
城の梅も、もう咲いているのかしら。
慌ただしく出て来た所為でそれを確認する余裕もなかったが、それ以上に、当たり前だと思っていた日々が実際はそうではない事に改めて気付かされる。
いつもなら、姫様とお花見をするのに・・・今年は無理そうだわ。
程普様は案ずるには及ばないと仰っていたけれど、孫堅様や、他の皆さんのお心は安らかではない筈、私はここでこうしていて良いのかしら。
その時、名無しさんの胸に湧き上がる不安を振り払うように、風が吹き抜けた。
大きすぎる綿入れの中、黒髪がふわりと舞い、幾筋か頬にかかる。
同時に、枝先から一輪、綻びかけていた花がほろりと溢れ落ちた。
風に攫われたそれは、ひらひらと舞いながら、彼女の髪へと絡まるように止まる。
「動くな」
不意に言われ、名無しさんは目を瞬かせながらもその場で固まった。
彼の武骨な指が髪に伸びて来る。
触れてしまわないよう細心の注意を払って、程普はその花びらを摘み取った。
黒髪に紅が一つ、灯るように差していたのは、ほんの束の間の事だった。
「・・・似合っておったから、少しそのままにしておこうかとも思ったが」
その言葉に、名無しさんは頬にさっと朱を走らせる。
男性にそんな風に言われたのは初めてだ。
「・・・からかわないで下さい」
困ったように視線を泳がせる彼女に、程普は少しやり過ぎたかと胸の内で反省した。
表情に陰りが差したように見えた名無しさんを和ませようとしただけなのだが、このような反応を見せるとは。
初心な娘をからかうべきではなかったか。
それでも、彼女の表情から憂いは消えている、程普は摘み取った花びらを名無しさんに渡して寄越した。
「老人の戯れ言だ。この花程、悪戯好きではないがな」
掌の上に乗せられた小さな紅梅の花びらを、名無しさんはじっと見つめる。
「・・・頂いても、宜しいですか」
「そのようなもの、構わんが」
程普が不思議そうに眉を寄せた。
珍しいものでもないだろうに、しかし、名無しさんは気にする様子もなく、懐から紙を取り出すと、その花びらを大事そうに包み込む。
再び風が吹き、紅梅の枝が揺れた。
散った花びらが二人の足元にひとひら、またひとひらと舞い落ちる。
庭から戻った二人は、夕刻まで写本の続きに取り組んだ。
夕餉の支度が始まる頃、名無しさんは程普に断りを入れ、台所へと足を向ける。
このまま世話になり続けるばかりでは、余りに心苦しい。
何か一つでも、手伝える事がないかと台所で竈の前に立つ老女中に声をかけた。
「あの・・・お夕食のお手伝いをさせて頂けませんか」
振り返った彼女は名無しさんの姿に顔を綻ばせる。
台所に立つのは自分一人、話し相手は大歓迎だ。
屋敷に居るのは寡黙な男ばかり、口は固いがお喋り好きの老女中の相手になってくれる連中も居なければ、若い女性と話す機会もそうそうない。
老女中はいそいそと芋を盛った籠と包丁を名無しさんに手渡した。
早速、お喋りに口を開く老女中の隣で名無しさんは芋を手に取り、包丁を握る。
しっくりと馴染む柄を傾け、皮に沿うように刃を近付けた、その瞬間、
「あっ・・・」
彼女の手がぴたりと止まった。
白刃の煌めきが名無しさんの脳裏に蘇る。
あの下卑た笑い声と、腕に走った痛みまでもが鮮明に彼女の中に焼き付けたように残っていた。
包丁を握る名無しさんの手が、小刻みに震え出す。
息が浅くなり、目の前がぐらりと揺れた。
「名無しさん様?」
「あ・・・あぁ・・・」
隣に居る老女中の声が遠い。
このままでは、落としてしまう。
分かっているのに、指の力が抜けない。
「名無しさん」
低い声と共に、背後から伸びて来た大きな手が名無しさんの手の甲をそっと包んだ。
彼女を心配して様子を見に来たのだろう、程普が名無しさんの背中を包むようにして立っていた。
程普は震える名無しさんの指を優しく解き、その手から包丁を取り上げる。
かたんと刃がまな板に置かれる音がした。
「・・・済みま、せん・・・」
震える声で謝る名無しさんの体に、程普は腕を回す。
「詫びる事はない」
「ですが、お手伝いを、しようと思っていたのに・・・私、また・・・」
俯く彼女の肩が、小さく震え続けていた。
程普は暫し黙り、それから静かに口を開く。
「無理はするな」
「・・・程普様」
「案ずるな、我輩が傍に居る」
あの時と同じ、穏やかな声と程普の香りに名無しさんは震える息を吐き出してゆっくりと頷いた。
「・・・はい」
程普は老女中に目配せをすると、名無しさんの肩を支え、台所を後にしようとした。
「・・・あの」
と、名無しさんが程普の腕の中から老女中を振り返る。
「盛り付けだけでも・・・させて頂けませんか」
老女中は驚いたように目を瞬かせたが、直ぐに柔らかく微笑んだ。
「では、お願いしましょうか」
出来上がった煮物を、名無しさんは椀に丁寧によそっていく。
危なげのないその手付きに、程普は何も言わず、見守っていた。
その夜、夕餉の膳に並んだ椀に箸を付ける前に程普はぽつりと溢す。
「名無しさんは丁寧な仕事をする」
「え・・・?」
「写本もそうだ。見れば分かる」
淡々とした言われた言葉に、名無しさんは目を開き、それから、ほんのりと頬を緩めた。
「・・・ありがとうございます」
程普様はいつも然りげ無く、気を遣って下さる。
その優しさが嬉しかった。
名無しさんも箸を取って椀に口を付ける。
柔らかく煮えた芋が伝えて来る、じんわりと優しい味に涙が滲んだ。
美味しい。
それに、少しだけ報われた気がした。
体を起こそうとして、頬に触れる硬い感触に目をぱちぱちと瞬かせる。
「・・・程普様?」
寝起きの舌足らずな声に、程普は緩く笑みを浮かべた。
「目が覚めたか」
「はい、おはようございます・・・」
と、言って、名無しさんはみるみる顔を青褪めさせる。
昨日の朝よりも幾分かすっきりした目覚め、いつの間にか、肩を借りたまま眠ってしまっていたらしい。
もしかして私、一晩中、程普様に凭れ掛かっていたのかしら。
「も、申し訳ございません!」
「いや、眠れたのならばそれで良い」
程普は何でもない事のように言って、静かに立ち上がった。
「腹が減ったな」
名無しさんは歩き出す彼の背中を慌てて追う。
「あの・・・っ、程普様・・・」
もう一度、謝ろうと声を掛けて来る彼女に、程普は顔を半分だけ振り向ける事で応えた。
そこに穏やかな表情を見た名無しさんは、開いた口で謝罪ではない言葉を紡いだ。
「・・・ありがとう、ございます」
その一言に、程普は何も答えない。
目元を和らげて頷き、無言のまま朝の廊下を歩いて行く。
名無しさんは緩く微笑みながら、その大きな背中を追った。
午前中一杯、二人は昨日の続きを写して過ごし、昼餉を終えた後で再び書斎に戻ろうとする名無しさんに程普は声を掛けた。
「部屋に籠りきりでは息が詰まるな。名無しさんよ、我輩の気晴らしに少し付き合ってくれぬか」
程普と過ごしたのはほんの数日、それでも、その言葉が額面通りでない事が分かる。
程普様のお側は心地良い、名無しさんに否はなかった。
「はい、喜んで」
微笑んで答える彼女を一瞥し、程普は続けて言う。
「その格好では寒かろう。少し待っておれ」
そう言って自室に取って返した程普は、程なくして一枚の畳まれた綿入れを手に戻って来た。
「奥にしまってあったものだ。着ておけ」
「・・・宜しいのですか」
「埃くらいは払ってある。遠慮するな」
有無を言わさぬ調子に、名無しさんはおずおずと綿入れに袖を通す。
大き過ぎる袖が指先まですっぽりと覆い、肩の辺りは余って落ちそうだ。
ふわりと擽る、程普と同じ香りに、名無しさんの頬が僅かに熱を持った。
「・・・大きいです」
くすりと笑って裾を持ち上げて見せる名無しさんに、程普は目を細める。
「贅沢を言うな。お主に合う大きさのものなど持ち合わせておらん」
そう言いつつも、その目元は幾分か柔らかい。
屋敷の庭はさほど広くはないが、その分、隅々まで手入れが行き届いていた。
二人は連れ立って、ゆっくりと石畳の小道を進む。
小道の途中、木の根元にひっそりと咲く花に、名無しさんの足が止まった。
「あ・・・花が咲いていますね」
「花?」
しゃがみ込み、そっと顔を近付ける彼女の背から程普が花を覗き込む。
地面から伸びた葉の隙間に紫がかった斑の入る小さな花が見え隠れしていた。
漂う控えめな香りに名無しさんがうっとりと目を閉じる。
「良い香り・・・」
「蘭か」
「はい。目立たないですけれど、そう言う所が好きです」
程普は何も言わず、彼女がその場を離れるまで、静かに佇んでいた。
満足したように立ち上がった名無しさんを促し、半歩先を行く程普は、苔生した小さな段差の手前で手を差し出して言う。
「気を付けろ、足元が滑り易くなっている」
「あ・・・はい」
名無しさんは僅かに躊躇ってから、礼を言って武骨な手に自分の手を重ね、そろそろと段差を越えた。
彼の大きな体を窺うように見上げて言う。
「・・・程普様は、いつもこうして助けて下さいますね」
「当然の事だ」
素っ気なく返す程普に、名無しさんは指先をきゅっと握った。
手のひらに残るぬくもりが、少しだけ名残惜しい。
そうして進んだ先、庭の隅に一本の紅梅が花をいくつも咲かせていた。
「・・・綺麗」
思わず零れた彼女の声に誘われるように程普が視線を上げれば、蕾は未だ固く閉じているものも多いが、綻び始めた花弁が枝先を彩っている。
「気に入ったか」
「はい。城でも見掛けますから・・・」
名無しさんは目を細めて花を見上げる。
見知らぬ屋敷、見知らぬ部屋の中で、この紅梅だけは、いつもと変わらない色をしていた。
城の梅も、もう咲いているのかしら。
慌ただしく出て来た所為でそれを確認する余裕もなかったが、それ以上に、当たり前だと思っていた日々が実際はそうではない事に改めて気付かされる。
いつもなら、姫様とお花見をするのに・・・今年は無理そうだわ。
程普様は案ずるには及ばないと仰っていたけれど、孫堅様や、他の皆さんのお心は安らかではない筈、私はここでこうしていて良いのかしら。
その時、名無しさんの胸に湧き上がる不安を振り払うように、風が吹き抜けた。
大きすぎる綿入れの中、黒髪がふわりと舞い、幾筋か頬にかかる。
同時に、枝先から一輪、綻びかけていた花がほろりと溢れ落ちた。
風に攫われたそれは、ひらひらと舞いながら、彼女の髪へと絡まるように止まる。
「動くな」
不意に言われ、名無しさんは目を瞬かせながらもその場で固まった。
彼の武骨な指が髪に伸びて来る。
触れてしまわないよう細心の注意を払って、程普はその花びらを摘み取った。
黒髪に紅が一つ、灯るように差していたのは、ほんの束の間の事だった。
「・・・似合っておったから、少しそのままにしておこうかとも思ったが」
その言葉に、名無しさんは頬にさっと朱を走らせる。
男性にそんな風に言われたのは初めてだ。
「・・・からかわないで下さい」
困ったように視線を泳がせる彼女に、程普は少しやり過ぎたかと胸の内で反省した。
表情に陰りが差したように見えた名無しさんを和ませようとしただけなのだが、このような反応を見せるとは。
初心な娘をからかうべきではなかったか。
それでも、彼女の表情から憂いは消えている、程普は摘み取った花びらを名無しさんに渡して寄越した。
「老人の戯れ言だ。この花程、悪戯好きではないがな」
掌の上に乗せられた小さな紅梅の花びらを、名無しさんはじっと見つめる。
「・・・頂いても、宜しいですか」
「そのようなもの、構わんが」
程普が不思議そうに眉を寄せた。
珍しいものでもないだろうに、しかし、名無しさんは気にする様子もなく、懐から紙を取り出すと、その花びらを大事そうに包み込む。
再び風が吹き、紅梅の枝が揺れた。
散った花びらが二人の足元にひとひら、またひとひらと舞い落ちる。
庭から戻った二人は、夕刻まで写本の続きに取り組んだ。
夕餉の支度が始まる頃、名無しさんは程普に断りを入れ、台所へと足を向ける。
このまま世話になり続けるばかりでは、余りに心苦しい。
何か一つでも、手伝える事がないかと台所で竈の前に立つ老女中に声をかけた。
「あの・・・お夕食のお手伝いをさせて頂けませんか」
振り返った彼女は名無しさんの姿に顔を綻ばせる。
台所に立つのは自分一人、話し相手は大歓迎だ。
屋敷に居るのは寡黙な男ばかり、口は固いがお喋り好きの老女中の相手になってくれる連中も居なければ、若い女性と話す機会もそうそうない。
老女中はいそいそと芋を盛った籠と包丁を名無しさんに手渡した。
早速、お喋りに口を開く老女中の隣で名無しさんは芋を手に取り、包丁を握る。
しっくりと馴染む柄を傾け、皮に沿うように刃を近付けた、その瞬間、
「あっ・・・」
彼女の手がぴたりと止まった。
白刃の煌めきが名無しさんの脳裏に蘇る。
あの下卑た笑い声と、腕に走った痛みまでもが鮮明に彼女の中に焼き付けたように残っていた。
包丁を握る名無しさんの手が、小刻みに震え出す。
息が浅くなり、目の前がぐらりと揺れた。
「名無しさん様?」
「あ・・・あぁ・・・」
隣に居る老女中の声が遠い。
このままでは、落としてしまう。
分かっているのに、指の力が抜けない。
「名無しさん」
低い声と共に、背後から伸びて来た大きな手が名無しさんの手の甲をそっと包んだ。
彼女を心配して様子を見に来たのだろう、程普が名無しさんの背中を包むようにして立っていた。
程普は震える名無しさんの指を優しく解き、その手から包丁を取り上げる。
かたんと刃がまな板に置かれる音がした。
「・・・済みま、せん・・・」
震える声で謝る名無しさんの体に、程普は腕を回す。
「詫びる事はない」
「ですが、お手伝いを、しようと思っていたのに・・・私、また・・・」
俯く彼女の肩が、小さく震え続けていた。
程普は暫し黙り、それから静かに口を開く。
「無理はするな」
「・・・程普様」
「案ずるな、我輩が傍に居る」
あの時と同じ、穏やかな声と程普の香りに名無しさんは震える息を吐き出してゆっくりと頷いた。
「・・・はい」
程普は老女中に目配せをすると、名無しさんの肩を支え、台所を後にしようとした。
「・・・あの」
と、名無しさんが程普の腕の中から老女中を振り返る。
「盛り付けだけでも・・・させて頂けませんか」
老女中は驚いたように目を瞬かせたが、直ぐに柔らかく微笑んだ。
「では、お願いしましょうか」
出来上がった煮物を、名無しさんは椀に丁寧によそっていく。
危なげのないその手付きに、程普は何も言わず、見守っていた。
その夜、夕餉の膳に並んだ椀に箸を付ける前に程普はぽつりと溢す。
「名無しさんは丁寧な仕事をする」
「え・・・?」
「写本もそうだ。見れば分かる」
淡々とした言われた言葉に、名無しさんは目を開き、それから、ほんのりと頬を緩めた。
「・・・ありがとうございます」
程普様はいつも然りげ無く、気を遣って下さる。
その優しさが嬉しかった。
名無しさんも箸を取って椀に口を付ける。
柔らかく煮えた芋が伝えて来る、じんわりと優しい味に涙が滲んだ。
美味しい。
それに、少しだけ報われた気がした。