全てがかくも色褪せて
貴女のお名前
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翌朝、起き出して来た名無しさんは矢張りと言うべきか、目元に薄い隈を作っていた。
眠れなかったかと言い掛ける言葉を飲み込み、程普は彼女に向かいに座るように促してから、老女中に朝餉を運ばせる。
「食えるだけで良い」
食欲に気を遣ってくれたのか、置かれた椀には薄い粥が半分程満たされていた。
名無しさんは目の前で揺らぐ湯気に匙を取る。
「・・・美味しい、です」
喉を通る温かさに解けたように微笑む彼女に、先に食事を済ませていた程普は黙って茶を啜った。
粥を掬う動きはゆっくりだが、食べられるなら先ずは大丈夫だ。
昼はもう少し、確りしたものを頼むとしよう。
彼女を急かす事なく、程普は静かに流れる時間の中で今朝に届いたばかりの報告を反芻していた。
昨日の今日、取り急ぎ、丁度半月後を含め、前後数日間の警備の人員の調査を始めたと聞いている。
「急に人を入れ替えては怪しまれる。調査には韓当が適任だろう」
孫堅はその役目を韓当に任せたが、
「殿が俺に任命したのって、影が薄いからじゃないよなぁ・・・?」
当の本人はその後でこっそりと肩を落としていたらしい。
韓当の影の薄さは皆も知る所、適材適所だろうが、気にしている本人にとっては堪ったものではない。
孫堅が何気にこの状況を楽しんでいるようにも思えて、程普は喉をくつりと鳴らした。
「程普様?」
と、その音に名無しさんが顔を上げる。
程普がはっとして視線を移せば、いつの間にか彼女は粥を食べ終えており、匙を置いていた。
空になった椀を見て、程普は僅かに目を細める。
「・・・残さなかったか」
そんな当たり前の事を嬉しそうに言われ、名無しさんはほんのりと頬を染めた。
「ご心配をお掛けしました」
「気にする必要はない」
何でもない事のように言って茶を飲み干した程普は、続けて口を開く。
「所で名無しさんよ。お主、文字の読み書きはできような」
「はい」
「ならば付いて来い」
静かに席を立ち上がる程普に、名無しさんも慌てて腰を上げた。
何処かへ向かう程普の背を追って廊下を進む途中で、彼の歩みに気付く。
程普様って、こんなにのんびりと歩く方だったかしら。
城内で見掛ける彼の足取りは、いつも年齢を感じさせぬ程に颯爽としていた筈だ。
もしかして、私に合わせて下さっているのかしら。
そう思ってちらりと見上げる程普の大きな背中は、一度も彼女を振り返る事もなく前を進む。
それが何故か名無しさんには心地良かった。
そうして連れて来られた部屋に入った名無しさんの鼻先を、墨の匂いが擽る。
部屋の中央に据えられた大きな床几、その上には使い込んだ筆と硯、それから数冊の書物が置かれていた。
明るい日射しが射し込む窓の傍には一休みする為の榻 が、その光が届かない所に据え付けられた棚にはずらりと書物が並んでいる。
「余りじろじろと見てくれるな」
と、照れたような程普の声に、名無しさんは恥ずかしそうに目を伏せた。
きょろきょろとお部屋を見回すなんて、まるで子どもみたいだわ。
程普は床几の前に腰を下ろしながら、そこに座れと名無しさんを向かいに指し示す。
「論語に目を通した事は?」
「姫様のお側に仕える前に」
「それは好都合よ」
腰を下ろした名無しさんの前に、程普は床几の上に積んだ書物の内の一冊を滑らせて言った。
「合間を見て進めてはいたのだが、写したいのはこれ一冊だけではないからな。全てを写し終える前に寿命が先に来る」
「まあ・・・」
程普の、その冗談とも本気とも取れない言葉に名無しさんはくすりと笑った。
未だ未だご健勝でしょうに。
「では、私がこちらの写しをお手伝いしたら宜しいですか?」
「頼めるか」
「はい」
名無しさんは頷いて目の前の書物に視線を落とす。
論語には目を通している、そう大変な作業ではないだろう。
それにしても、綴じ紐は緩んでるし、紙も随分と傷んでいるわ。
きっと、何度も読み返して来られたのね。
表紙にそっと触れ、丁寧に開いた。
彼は合間に進めていたと言っていた、その続きを程普に尋ねる。
「何処から進めたら宜しいですか?」
「ここからだ」
程普は写し先の書物を開き、筆と硯を彼女の脇に寄せた。
「所詮私物だ。多少、文字が歪んでも構わん」
「はい」
そうは言われても、こんなになるまで繰り返し読んで来た書物なのだ、どれだけ程普が大切にしているかは聞かずとも分かると言うもの。
名無しさんは早速、墨を擦り始める。
その様子を横目に、程普は別の書物を開いた。
生きている内に写せたら良いと思っていた程度の事だが、今の名無しさんには丁度良い気晴らしになるだろう。
墨を擦り終え、筆を走らせ始める名無しさんの表情は落ち着いている。
さらさらと筆で走る音に耳を傾けながら、程普もまた、筆を動かし始めた。
昼食を挟んで再び、二人は写本に取り掛かる。
名無しさんは一葉を終え、新たな頁をぺらりと捲った。
元本となるこの書物は恐らく、程普が若い頃に写したものなのだろう、そこに残る跡に彼女の口元が緩む。
太く力強い筆跡はまるで揺らぐ事のない大樹のよう。
程普様って、お姿だけでなく文字も堂々としてらっしゃるのね。
黙々と筆を動かす程普の筋張った手は大きく、その背筋はぴしりと伸びていた。
白銀に近い灰色の髪には確かに歳月の重なりがあったが、そこに衰えは少しも感じさせない。
寧ろ、夜空に流れる星の川のように綺麗だ。
「疲れたか?」
と、名無しさんの視線に気付いた程普が顔も上げずに言った。
いつの間にか見詰めていたらしい、名無しさんは恥ずかしそうに視線を書物に落とす。
筆先が僅かに震え、走らせた一筆 が歪んだ。
昼食よりも少しばかり重い夕食を残す事なく平らげた名無しさんの様子に、大分、気持ちも落ち着いたか、と程普は安堵した。
写本と言う静かな作業が彼女の性に合っていたのかも知れない。
老女中に片付けの手伝いを申し出る名無しさんの後ろ姿は、城内で見掛けるものと変わりなかった。
二人で皿を片付けながら交わしている声の響きも明るい。
思ったよりも早い回復に、この時の程普は内心でそれを喜んでいた。
しかし、声の響が明るくとも、心の傷が癒えるまでに未だ時間が必要だと程普が改めて知るのは夜半過ぎの事である。
戦場に長年、身を置いて来た程普は、真夜中に動く人の気配を覚えた。
先程、城から届いたばかりの書簡を閉じて席を立つ。
その気配が名無しさんである事は分かっていた。
気を遣っているのであろう、彼女は壁を伝い、足音を忍ばせながら日中過ごした部屋に向かっている。
眠れぬか、程普はそっと後を追った。
彼女の小さな背中が部屋の中に吸い込まれるように消えて行く。
名無しさんは格子窓から射し込む月明かりを頼りに室内を進み、榻へと腰掛けた。
微かに残る墨の匂いに、穏やかに過ごした昼間を思い出す。
書物に手を伸ばした彼女は頁を捲って程普の文字を指先でなぞった。
その拍子に、ぽろりと涙が溢れた。
「あ・・・」
大切な書物が濡れてしまう、と慌てて指先で拭うが何故か止まらない。
袖を目元に運ぶ事で書物を涙から守ると、今度は嗚咽が込み上げて来た。
喉がひくひくと鳴り、肩が震え、名無しさんは縋るように書物を腕に抱える。
程普はその気配を扉の外で窺っていた。
落ち着いたように見えたが、そう早くは癒えぬか。
それもその筈、城に勤める女官があのような殺気を向けられる事などない。
どうして一日や二日で忘れる事ができようか。
廊下の天井を仰いで目を閉じ、程普は部屋の中に耳を済ませていた。
やがて、啜り泣く声が小さくなる。
そこで漸く、程普は扉を静かに開けて室内へ入って行った。
「・・・眠れぬか」
その声に、名無しさんがぱっと顔を上げる。
「程普様・・・」
咄嗟に立ち上がろうとする彼女を、そのままで良いと言うように手で軽く制した。
着ていた上着を脱ぎ、名無しさんの細い肩に掛ける。
「・・・夜は冷える。風邪を引いては姫様が悲しまれるぞ」
「はい・・・ありがとうございます」
名無しさんは隣に腰掛ける程普に礼を言って俯いた。
「・・・済みません、起こしてしまいましたか」
「いや、起きていた」
老人の眠りは浅く、短いものだ、彼のその言葉に、名無しさんの肩が緩む。
彼女は腕に抱えていた書物を膝に置き、上着の袷を掻き集めた。
「孫堅様は・・・お休みになられているでしょうか」
「あの年齢で江東を纏め上げられた御仁だ、案ずるには及ばぬ」
「ですが・・・あの時、私が逃げ出さなければ・・・」
もしも、あの時、立ち向かえていたなら。
悲鳴の一つでも上げ、巡回していた程普たちを路地裏に呼び込めていたなら、捕まえられたのではないか。
私が怯え、逃げ出してしまった所為で捕まえる事ができなかった。
「馬鹿を言うな」
程普はぴしゃりと名無しさんの言葉を遮る。
「お主が生きてこそ、殿のお命を救えるのだ」
「でも、程普様にもご迷惑を・・・」
「名無しさんよ、間違えるな。悪いのは殿に仕えながら御身を弑そうとする不届き者どもだ。何一つ名無しさんに落ち度はない」
静かだが、はっきりと口にして言われ、名無しさんは言葉を失った。
そんな風に考えて良いのかしら。
私は悪くないって、思っても良いのかしら。
その考えを読んだように、程普が口を開く。
「殿も姫様も。誰もお主を責めたりせぬ。・・・無論、我輩もな」
「程普様・・・っ」
ひくりと喉を鳴らし、顔を歪める名無しさんに、程普は力強く頷いた。
「不必要に自分を責めるでない」
程普様は何て優しい命令を下さるのかしら、名無しさんは熱い涙をぽろぽろと溢し、何度も頷く。
「はい・・・はい・・・」
程普は名無しさんの呼吸が整うのを待ってから言った。
「昨夜より殿の周りには常より多くの兵を置いてある」
「はい」
「今夜は不寝番に黄蓋が当たっておる」
「・・・はい」
「姫様も武装して警備に当たると言って周りを困らせておるらしい」
「まあ・・・」
それを想像した名無しさんがくすっと笑う。
姫様らしい。
溢れた小さな笑みに、程普は胸を撫で下ろした。
「姫様がここに居た方が名無しさんには慰めになろうが・・・」
「いいえ・・・程普様のお側は安心します」
「・・・そうか」
程普はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、彼女のその言葉だけを静かに胸へと納める。
言葉通り、名無しさんは安心したのか、やがてうつらうつらと小さく頭を揺らし始めた。
ずれ落ちそうになっている上着をかけ直してやると、彼女の体が揺れ、程普の肩にぽすんと落ちる。
一瞬、程普は目を丸くしたものの、肩に覚える重みに表情を和らげた。
寝たか。
漸く眠れたものを起こすのも忍びない、程普は肩を貸したまま、格子窓から射し込む月明かりを静かに眺めていた。
眠れなかったかと言い掛ける言葉を飲み込み、程普は彼女に向かいに座るように促してから、老女中に朝餉を運ばせる。
「食えるだけで良い」
食欲に気を遣ってくれたのか、置かれた椀には薄い粥が半分程満たされていた。
名無しさんは目の前で揺らぐ湯気に匙を取る。
「・・・美味しい、です」
喉を通る温かさに解けたように微笑む彼女に、先に食事を済ませていた程普は黙って茶を啜った。
粥を掬う動きはゆっくりだが、食べられるなら先ずは大丈夫だ。
昼はもう少し、確りしたものを頼むとしよう。
彼女を急かす事なく、程普は静かに流れる時間の中で今朝に届いたばかりの報告を反芻していた。
昨日の今日、取り急ぎ、丁度半月後を含め、前後数日間の警備の人員の調査を始めたと聞いている。
「急に人を入れ替えては怪しまれる。調査には韓当が適任だろう」
孫堅はその役目を韓当に任せたが、
「殿が俺に任命したのって、影が薄いからじゃないよなぁ・・・?」
当の本人はその後でこっそりと肩を落としていたらしい。
韓当の影の薄さは皆も知る所、適材適所だろうが、気にしている本人にとっては堪ったものではない。
孫堅が何気にこの状況を楽しんでいるようにも思えて、程普は喉をくつりと鳴らした。
「程普様?」
と、その音に名無しさんが顔を上げる。
程普がはっとして視線を移せば、いつの間にか彼女は粥を食べ終えており、匙を置いていた。
空になった椀を見て、程普は僅かに目を細める。
「・・・残さなかったか」
そんな当たり前の事を嬉しそうに言われ、名無しさんはほんのりと頬を染めた。
「ご心配をお掛けしました」
「気にする必要はない」
何でもない事のように言って茶を飲み干した程普は、続けて口を開く。
「所で名無しさんよ。お主、文字の読み書きはできような」
「はい」
「ならば付いて来い」
静かに席を立ち上がる程普に、名無しさんも慌てて腰を上げた。
何処かへ向かう程普の背を追って廊下を進む途中で、彼の歩みに気付く。
程普様って、こんなにのんびりと歩く方だったかしら。
城内で見掛ける彼の足取りは、いつも年齢を感じさせぬ程に颯爽としていた筈だ。
もしかして、私に合わせて下さっているのかしら。
そう思ってちらりと見上げる程普の大きな背中は、一度も彼女を振り返る事もなく前を進む。
それが何故か名無しさんには心地良かった。
そうして連れて来られた部屋に入った名無しさんの鼻先を、墨の匂いが擽る。
部屋の中央に据えられた大きな床几、その上には使い込んだ筆と硯、それから数冊の書物が置かれていた。
明るい日射しが射し込む窓の傍には一休みする為の
「余りじろじろと見てくれるな」
と、照れたような程普の声に、名無しさんは恥ずかしそうに目を伏せた。
きょろきょろとお部屋を見回すなんて、まるで子どもみたいだわ。
程普は床几の前に腰を下ろしながら、そこに座れと名無しさんを向かいに指し示す。
「論語に目を通した事は?」
「姫様のお側に仕える前に」
「それは好都合よ」
腰を下ろした名無しさんの前に、程普は床几の上に積んだ書物の内の一冊を滑らせて言った。
「合間を見て進めてはいたのだが、写したいのはこれ一冊だけではないからな。全てを写し終える前に寿命が先に来る」
「まあ・・・」
程普の、その冗談とも本気とも取れない言葉に名無しさんはくすりと笑った。
未だ未だご健勝でしょうに。
「では、私がこちらの写しをお手伝いしたら宜しいですか?」
「頼めるか」
「はい」
名無しさんは頷いて目の前の書物に視線を落とす。
論語には目を通している、そう大変な作業ではないだろう。
それにしても、綴じ紐は緩んでるし、紙も随分と傷んでいるわ。
きっと、何度も読み返して来られたのね。
表紙にそっと触れ、丁寧に開いた。
彼は合間に進めていたと言っていた、その続きを程普に尋ねる。
「何処から進めたら宜しいですか?」
「ここからだ」
程普は写し先の書物を開き、筆と硯を彼女の脇に寄せた。
「所詮私物だ。多少、文字が歪んでも構わん」
「はい」
そうは言われても、こんなになるまで繰り返し読んで来た書物なのだ、どれだけ程普が大切にしているかは聞かずとも分かると言うもの。
名無しさんは早速、墨を擦り始める。
その様子を横目に、程普は別の書物を開いた。
生きている内に写せたら良いと思っていた程度の事だが、今の名無しさんには丁度良い気晴らしになるだろう。
墨を擦り終え、筆を走らせ始める名無しさんの表情は落ち着いている。
さらさらと筆で走る音に耳を傾けながら、程普もまた、筆を動かし始めた。
昼食を挟んで再び、二人は写本に取り掛かる。
名無しさんは一葉を終え、新たな頁をぺらりと捲った。
元本となるこの書物は恐らく、程普が若い頃に写したものなのだろう、そこに残る跡に彼女の口元が緩む。
太く力強い筆跡はまるで揺らぐ事のない大樹のよう。
程普様って、お姿だけでなく文字も堂々としてらっしゃるのね。
黙々と筆を動かす程普の筋張った手は大きく、その背筋はぴしりと伸びていた。
白銀に近い灰色の髪には確かに歳月の重なりがあったが、そこに衰えは少しも感じさせない。
寧ろ、夜空に流れる星の川のように綺麗だ。
「疲れたか?」
と、名無しさんの視線に気付いた程普が顔も上げずに言った。
いつの間にか見詰めていたらしい、名無しさんは恥ずかしそうに視線を書物に落とす。
筆先が僅かに震え、走らせた
昼食よりも少しばかり重い夕食を残す事なく平らげた名無しさんの様子に、大分、気持ちも落ち着いたか、と程普は安堵した。
写本と言う静かな作業が彼女の性に合っていたのかも知れない。
老女中に片付けの手伝いを申し出る名無しさんの後ろ姿は、城内で見掛けるものと変わりなかった。
二人で皿を片付けながら交わしている声の響きも明るい。
思ったよりも早い回復に、この時の程普は内心でそれを喜んでいた。
しかし、声の響が明るくとも、心の傷が癒えるまでに未だ時間が必要だと程普が改めて知るのは夜半過ぎの事である。
戦場に長年、身を置いて来た程普は、真夜中に動く人の気配を覚えた。
先程、城から届いたばかりの書簡を閉じて席を立つ。
その気配が名無しさんである事は分かっていた。
気を遣っているのであろう、彼女は壁を伝い、足音を忍ばせながら日中過ごした部屋に向かっている。
眠れぬか、程普はそっと後を追った。
彼女の小さな背中が部屋の中に吸い込まれるように消えて行く。
名無しさんは格子窓から射し込む月明かりを頼りに室内を進み、榻へと腰掛けた。
微かに残る墨の匂いに、穏やかに過ごした昼間を思い出す。
書物に手を伸ばした彼女は頁を捲って程普の文字を指先でなぞった。
その拍子に、ぽろりと涙が溢れた。
「あ・・・」
大切な書物が濡れてしまう、と慌てて指先で拭うが何故か止まらない。
袖を目元に運ぶ事で書物を涙から守ると、今度は嗚咽が込み上げて来た。
喉がひくひくと鳴り、肩が震え、名無しさんは縋るように書物を腕に抱える。
程普はその気配を扉の外で窺っていた。
落ち着いたように見えたが、そう早くは癒えぬか。
それもその筈、城に勤める女官があのような殺気を向けられる事などない。
どうして一日や二日で忘れる事ができようか。
廊下の天井を仰いで目を閉じ、程普は部屋の中に耳を済ませていた。
やがて、啜り泣く声が小さくなる。
そこで漸く、程普は扉を静かに開けて室内へ入って行った。
「・・・眠れぬか」
その声に、名無しさんがぱっと顔を上げる。
「程普様・・・」
咄嗟に立ち上がろうとする彼女を、そのままで良いと言うように手で軽く制した。
着ていた上着を脱ぎ、名無しさんの細い肩に掛ける。
「・・・夜は冷える。風邪を引いては姫様が悲しまれるぞ」
「はい・・・ありがとうございます」
名無しさんは隣に腰掛ける程普に礼を言って俯いた。
「・・・済みません、起こしてしまいましたか」
「いや、起きていた」
老人の眠りは浅く、短いものだ、彼のその言葉に、名無しさんの肩が緩む。
彼女は腕に抱えていた書物を膝に置き、上着の袷を掻き集めた。
「孫堅様は・・・お休みになられているでしょうか」
「あの年齢で江東を纏め上げられた御仁だ、案ずるには及ばぬ」
「ですが・・・あの時、私が逃げ出さなければ・・・」
もしも、あの時、立ち向かえていたなら。
悲鳴の一つでも上げ、巡回していた程普たちを路地裏に呼び込めていたなら、捕まえられたのではないか。
私が怯え、逃げ出してしまった所為で捕まえる事ができなかった。
「馬鹿を言うな」
程普はぴしゃりと名無しさんの言葉を遮る。
「お主が生きてこそ、殿のお命を救えるのだ」
「でも、程普様にもご迷惑を・・・」
「名無しさんよ、間違えるな。悪いのは殿に仕えながら御身を弑そうとする不届き者どもだ。何一つ名無しさんに落ち度はない」
静かだが、はっきりと口にして言われ、名無しさんは言葉を失った。
そんな風に考えて良いのかしら。
私は悪くないって、思っても良いのかしら。
その考えを読んだように、程普が口を開く。
「殿も姫様も。誰もお主を責めたりせぬ。・・・無論、我輩もな」
「程普様・・・っ」
ひくりと喉を鳴らし、顔を歪める名無しさんに、程普は力強く頷いた。
「不必要に自分を責めるでない」
程普様は何て優しい命令を下さるのかしら、名無しさんは熱い涙をぽろぽろと溢し、何度も頷く。
「はい・・・はい・・・」
程普は名無しさんの呼吸が整うのを待ってから言った。
「昨夜より殿の周りには常より多くの兵を置いてある」
「はい」
「今夜は不寝番に黄蓋が当たっておる」
「・・・はい」
「姫様も武装して警備に当たると言って周りを困らせておるらしい」
「まあ・・・」
それを想像した名無しさんがくすっと笑う。
姫様らしい。
溢れた小さな笑みに、程普は胸を撫で下ろした。
「姫様がここに居た方が名無しさんには慰めになろうが・・・」
「いいえ・・・程普様のお側は安心します」
「・・・そうか」
程普はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、彼女のその言葉だけを静かに胸へと納める。
言葉通り、名無しさんは安心したのか、やがてうつらうつらと小さく頭を揺らし始めた。
ずれ落ちそうになっている上着をかけ直してやると、彼女の体が揺れ、程普の肩にぽすんと落ちる。
一瞬、程普は目を丸くしたものの、肩に覚える重みに表情を和らげた。
寝たか。
漸く眠れたものを起こすのも忍びない、程普は肩を貸したまま、格子窓から射し込む月明かりを静かに眺めていた。