この胸に息のあるかぎり
貴女のお名前
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名無しさんは優雅な所作で于禁の前に茶を置くと、当たり前のように長椅子に座る彼の隣に腰を下ろした。
于禁は湯気の立つ茶杯を黙って見ている。
数年振りの、妻が淹れた茶だ。
早く飲みたくもあり、飲むのが惜しかった。
だが、冷めてしまっては元も子もない、于禁は手を伸ばし、ゆっくりと茶を口に含む。
爽やかな香りが于禁の体を包み、肩が解けた。
その様子に、名無しさんは優しく微笑むと、
「良い香りでしょう?」
「・・・そうだな」
自らも茶を含み、思い出すように目を閉じる。
あの文と同じ香り、この茶は彼女からの贈り物だった。
「少しでも、名無しさん様がお心静かにお過ごし頂けたらと・・・」
彼女自身が愛する人を亡くしたばかりだと言うのに、そんな様子を一切見せず、自分を支えてくれた。
感謝してもしきれない、名無しさんは両手に包んだ茶杯を見下ろす。
「時々、訪れる茉莉花の香りが文則様を待つ私を慰めて下さいました・・・」
「茉莉花・・・?」
と、口にして、于禁は思い至って驚きに目を開いた。
主君、曹操がある女性に使っていた呼称だ。
「まさか・・・」
名無しさんは無言で頷く。
何と言う事だ、于禁は愕然とした。
確かにあの時、何とかしようと、請け負って下さったが、まさか愛する女性を寄越すとは思ってもみなかった。
「覚悟に見合うものを差し出さねば、儂の立場がないであろう」
あの時のあの言葉を、果たして下さったのだ。
恩を徒で返したような男に、そう思った瞬間、言葉にできない感情が于禁の体を駆け巡る。
「・・・っ!」
僅かの間もなく、込み上げて来た声に于禁は咄嗟に口元を覆った。
喉が、胸が焼け付くように痛む。
目の奥が熱い、于禁は頬に温かい感触を覚え、慌てて彼女から顔を背けた。
「頼む・・・見ないでくれ」
逸らされようとしたその首に、名無しさんは手を伸ばして優しく引き寄せると、于禁の白くなった髪に触れ、自分の肩に頭を凭せかける。
「私の肩に噛み付いても構いませんから」
名無しさんは于禁の耳元で囁くと、彼の髪を優しく撫でた。
人前で、妻の前で泣く事に抵抗があるのだろう。
顔を背け、何とか圧し殺そうとする気持ちは分からないでもないが、それは余りに悲し過ぎる。
于禁にとって、計り知れない喪失であるのは間違いなく、もしもそこに悲しみを覚えたのならば、どうしてそれを圧し殺さなければいけないのか。
涙を流す事に羞恥を覚えると言うのなら、見ないでいよう。
嗚咽を漏らす事に戸惑いを覚えると言うのなら、聞かないでいよう。
こうすれば顔も見れないし、声を上げてしまいそうなら肩に噛み付けば良い。
私にできる事はこれ位しかないけれど、その心を殺さないで、隠さないでいて欲しい。
その感情は于禁のものであって名無しさんのものではないけれど、その心に寄り添う事を許して欲しい。
恐らく、投降を決意した時から今のこの瞬間まで、ずっと一人で耐えて来たであろう、愛する人の首に回した手に名無しさんは少しだけ力を込めた。
于禁が額を肩に強く押し付け、腕を腰に回して来る。
「う、ぅぅ・・・っ」
殺し切れない嗚咽が耳に届き、名無しさんは安堵した。
彼が何を思って投降したのかは分からない。
しかし、想像する事はできる。
かつて、曹操が言っていた言葉を名無しさんは思い出す。
力を持つ者に秩序がなければ、それはただの暴だ。
軍に於いて秩序は規律で成り立ち、規律は節度で成り立つ。
規律とは守られてこそ意味のあるもの、そして、節度を守る者を護るものでもある。
故に于禁は部下に厳しくして来たのであろう、彼らを護る為に。
素直に口にしたなら、理解も得られようが、それができる彼ではない。
誤解を生み、理解されないまま、于禁は投降した。
彼は自分の為に生き延びる選択をしたのではない、部下の為にしたのだ、仲間を守る為に投降したのだと、名無しさんは信じていた。
不器用で、そしてとても優しい人。
名無しさんは于禁の震える髪に頬を擦り寄せる。
腰に回された手に力が籠り、微かに痛みを覚えるが、同時に心地良かった。
やがて、啜り泣く声が止み、于禁がゆるゆると顔を上げた。
「・・・済まん」
くぐもった声で言う彼の鼻は赤く、目元には未だ涙が残っている。
名無しさんは手を伸ばすと、袖口でその涙を優しく拭いた。
「濡れるぞ」
「私がしたいのです」
そう言えば、于禁はそれ以上は何も言わず、されるままに任せていた。
「・・・落ち着かれましたか?」
「ああ」
深々と息を吐き、于禁は彼女の腰に回していた手を緩める。
「済まん、痛かっただろう」
「いいえ、ちっとも」
名無しさんは首を振ると彼に微笑んで見せた。
于禁はその笑顔に胸を痛める。
失いたくない、と于禁の手が無意識に彼女の腰を撫でた。
「名無しさん」
「はい」
「お前は私の妻で幸せだったか」
「勿論です」
名無しさんの声に迷いはない。
真っ直ぐに見詰めて来る彼女から、于禁は目を逸らすように伏せた。
ならば、尚更の事だ。
「名無しさん。私はこれ以上、お前をここに縛り付ける訳にはいかない」
「えっ・・・?」
名無しさんは言われた意味が分からず、ぱちぱちと目を瞬かせる。
縛り付けるも何も、自分が彼に縛り付けられていると思った事などない。
「文則様・・・?」
と、首を傾げる彼女に、于禁は絞り出すような思いで言った。
「お養父君の所へ、戻れ」
「戻れ・・・とは、どう言う意味ですか?」
于禁は、その質問に答える言葉を既に持っている。
その癖、言葉を放つのに酷い躊躇いを覚えた。
じっと見詰めながら瞳を揺らして言葉を待つ名無しさんに、于禁は口を開く。
「・・・私との縁を切れと言っている」
名無しさんは瞬きも忘れたように于禁を見詰めた。
縁を切る?
文則様との?
何故?
どうして?
混乱に息をする事も忘れてしまいそうになる彼女を引き戻したのは、未だ腰に触れたまま、微かに震えている于禁の手だった。
名無しさんは息を深く吸い、きっぱりと言う。
「仰ってる意味が分かりません」
于禁は眉間に皺を寄せた。
聡い筈なのに何故、分からぬのか。
「・・・これ以上、私はお前を傷付けたくない」
「私がいつ、文則様の所為で傷付きましたか」
于禁は言葉を詰まらせる。
傷付いていない筈がない。
自分が知らぬだけで、どれほどの陰口を耳にした事だろう。
どれほど肩身の狭い思いをした事だろう。
それを考えるだけで私の胸は締め付けられる程に痛むのだ。
分かってくれ、頼む、と縋る思いで于禁は言葉を続けた。
「・・・お前が裏切り者の妻と呼ばれるのが辛いのだ」
その言葉に名無しさんは俄に怒りを覚え、彼の胸ぐらを掴む。
彼女らしくない行動に、于禁は目を開いた。
「名無しさん・・・」
「私は文則様の妻ですわ!それに辛さを覚えた事なんてございません!」
声を荒げた事など一度もない彼女が、怒りのままに言葉を続ける。
「それなのに文則様は縁を切れと仰る。こんな酷い事がありましょうか!」
「済まない・・・だが、これからもお前が裏切り者の妻と呼ばれると思うと・・・」
そう言って目を伏せる于禁を、名無しさんは許さない。
胸ぐらを掴んでいた手を離し、その手で彼の両頬を優しく包み込む。
于禁を見据える彼女の瞳には涙が浮かんでいた。
「何度でも申し上げますわ、文則様。私は文則様を心から愛しております。文則様に出会えた事、愛し合えた事、一度だって後悔をした事はございません。これからもずっと、「この胸に息のあるかぎり」、私は文則様の妻です」
「・・・っ」
于禁の顔が歪む。
何と激しく、そして嬉しい言葉だろうか。
「名無しさん、私は・・・」
私はこのままお前の傍に居ても良いのだろうか。
お前の夫で居ても良いのだろうか。
お前を、愛していて良いのだろうか。
尋ねたい言葉は言葉にならず、于禁は名無しさんの腰に回した手に力を込めた。
名無しさんは優しく微笑むと、首を傾げて言う。
「分かって頂けましたか?」
于禁は何度も首を縦に振った。
袖が引かれ、彼の大きな手が名無しさんの耳を撫でる。
それだけで十分だった。
→あとがき(ここまで辿り着いて下さった名無しさん様へ)
于禁は湯気の立つ茶杯を黙って見ている。
数年振りの、妻が淹れた茶だ。
早く飲みたくもあり、飲むのが惜しかった。
だが、冷めてしまっては元も子もない、于禁は手を伸ばし、ゆっくりと茶を口に含む。
爽やかな香りが于禁の体を包み、肩が解けた。
その様子に、名無しさんは優しく微笑むと、
「良い香りでしょう?」
「・・・そうだな」
自らも茶を含み、思い出すように目を閉じる。
あの文と同じ香り、この茶は彼女からの贈り物だった。
「少しでも、名無しさん様がお心静かにお過ごし頂けたらと・・・」
彼女自身が愛する人を亡くしたばかりだと言うのに、そんな様子を一切見せず、自分を支えてくれた。
感謝してもしきれない、名無しさんは両手に包んだ茶杯を見下ろす。
「時々、訪れる茉莉花の香りが文則様を待つ私を慰めて下さいました・・・」
「茉莉花・・・?」
と、口にして、于禁は思い至って驚きに目を開いた。
主君、曹操がある女性に使っていた呼称だ。
「まさか・・・」
名無しさんは無言で頷く。
何と言う事だ、于禁は愕然とした。
確かにあの時、何とかしようと、請け負って下さったが、まさか愛する女性を寄越すとは思ってもみなかった。
「覚悟に見合うものを差し出さねば、儂の立場がないであろう」
あの時のあの言葉を、果たして下さったのだ。
恩を徒で返したような男に、そう思った瞬間、言葉にできない感情が于禁の体を駆け巡る。
「・・・っ!」
僅かの間もなく、込み上げて来た声に于禁は咄嗟に口元を覆った。
喉が、胸が焼け付くように痛む。
目の奥が熱い、于禁は頬に温かい感触を覚え、慌てて彼女から顔を背けた。
「頼む・・・見ないでくれ」
逸らされようとしたその首に、名無しさんは手を伸ばして優しく引き寄せると、于禁の白くなった髪に触れ、自分の肩に頭を凭せかける。
「私の肩に噛み付いても構いませんから」
名無しさんは于禁の耳元で囁くと、彼の髪を優しく撫でた。
人前で、妻の前で泣く事に抵抗があるのだろう。
顔を背け、何とか圧し殺そうとする気持ちは分からないでもないが、それは余りに悲し過ぎる。
于禁にとって、計り知れない喪失であるのは間違いなく、もしもそこに悲しみを覚えたのならば、どうしてそれを圧し殺さなければいけないのか。
涙を流す事に羞恥を覚えると言うのなら、見ないでいよう。
嗚咽を漏らす事に戸惑いを覚えると言うのなら、聞かないでいよう。
こうすれば顔も見れないし、声を上げてしまいそうなら肩に噛み付けば良い。
私にできる事はこれ位しかないけれど、その心を殺さないで、隠さないでいて欲しい。
その感情は于禁のものであって名無しさんのものではないけれど、その心に寄り添う事を許して欲しい。
恐らく、投降を決意した時から今のこの瞬間まで、ずっと一人で耐えて来たであろう、愛する人の首に回した手に名無しさんは少しだけ力を込めた。
于禁が額を肩に強く押し付け、腕を腰に回して来る。
「う、ぅぅ・・・っ」
殺し切れない嗚咽が耳に届き、名無しさんは安堵した。
彼が何を思って投降したのかは分からない。
しかし、想像する事はできる。
かつて、曹操が言っていた言葉を名無しさんは思い出す。
力を持つ者に秩序がなければ、それはただの暴だ。
軍に於いて秩序は規律で成り立ち、規律は節度で成り立つ。
規律とは守られてこそ意味のあるもの、そして、節度を守る者を護るものでもある。
故に于禁は部下に厳しくして来たのであろう、彼らを護る為に。
素直に口にしたなら、理解も得られようが、それができる彼ではない。
誤解を生み、理解されないまま、于禁は投降した。
彼は自分の為に生き延びる選択をしたのではない、部下の為にしたのだ、仲間を守る為に投降したのだと、名無しさんは信じていた。
不器用で、そしてとても優しい人。
名無しさんは于禁の震える髪に頬を擦り寄せる。
腰に回された手に力が籠り、微かに痛みを覚えるが、同時に心地良かった。
やがて、啜り泣く声が止み、于禁がゆるゆると顔を上げた。
「・・・済まん」
くぐもった声で言う彼の鼻は赤く、目元には未だ涙が残っている。
名無しさんは手を伸ばすと、袖口でその涙を優しく拭いた。
「濡れるぞ」
「私がしたいのです」
そう言えば、于禁はそれ以上は何も言わず、されるままに任せていた。
「・・・落ち着かれましたか?」
「ああ」
深々と息を吐き、于禁は彼女の腰に回していた手を緩める。
「済まん、痛かっただろう」
「いいえ、ちっとも」
名無しさんは首を振ると彼に微笑んで見せた。
于禁はその笑顔に胸を痛める。
失いたくない、と于禁の手が無意識に彼女の腰を撫でた。
「名無しさん」
「はい」
「お前は私の妻で幸せだったか」
「勿論です」
名無しさんの声に迷いはない。
真っ直ぐに見詰めて来る彼女から、于禁は目を逸らすように伏せた。
ならば、尚更の事だ。
「名無しさん。私はこれ以上、お前をここに縛り付ける訳にはいかない」
「えっ・・・?」
名無しさんは言われた意味が分からず、ぱちぱちと目を瞬かせる。
縛り付けるも何も、自分が彼に縛り付けられていると思った事などない。
「文則様・・・?」
と、首を傾げる彼女に、于禁は絞り出すような思いで言った。
「お養父君の所へ、戻れ」
「戻れ・・・とは、どう言う意味ですか?」
于禁は、その質問に答える言葉を既に持っている。
その癖、言葉を放つのに酷い躊躇いを覚えた。
じっと見詰めながら瞳を揺らして言葉を待つ名無しさんに、于禁は口を開く。
「・・・私との縁を切れと言っている」
名無しさんは瞬きも忘れたように于禁を見詰めた。
縁を切る?
文則様との?
何故?
どうして?
混乱に息をする事も忘れてしまいそうになる彼女を引き戻したのは、未だ腰に触れたまま、微かに震えている于禁の手だった。
名無しさんは息を深く吸い、きっぱりと言う。
「仰ってる意味が分かりません」
于禁は眉間に皺を寄せた。
聡い筈なのに何故、分からぬのか。
「・・・これ以上、私はお前を傷付けたくない」
「私がいつ、文則様の所為で傷付きましたか」
于禁は言葉を詰まらせる。
傷付いていない筈がない。
自分が知らぬだけで、どれほどの陰口を耳にした事だろう。
どれほど肩身の狭い思いをした事だろう。
それを考えるだけで私の胸は締め付けられる程に痛むのだ。
分かってくれ、頼む、と縋る思いで于禁は言葉を続けた。
「・・・お前が裏切り者の妻と呼ばれるのが辛いのだ」
その言葉に名無しさんは俄に怒りを覚え、彼の胸ぐらを掴む。
彼女らしくない行動に、于禁は目を開いた。
「名無しさん・・・」
「私は文則様の妻ですわ!それに辛さを覚えた事なんてございません!」
声を荒げた事など一度もない彼女が、怒りのままに言葉を続ける。
「それなのに文則様は縁を切れと仰る。こんな酷い事がありましょうか!」
「済まない・・・だが、これからもお前が裏切り者の妻と呼ばれると思うと・・・」
そう言って目を伏せる于禁を、名無しさんは許さない。
胸ぐらを掴んでいた手を離し、その手で彼の両頬を優しく包み込む。
于禁を見据える彼女の瞳には涙が浮かんでいた。
「何度でも申し上げますわ、文則様。私は文則様を心から愛しております。文則様に出会えた事、愛し合えた事、一度だって後悔をした事はございません。これからもずっと、「この胸に息のあるかぎり」、私は文則様の妻です」
「・・・っ」
于禁の顔が歪む。
何と激しく、そして嬉しい言葉だろうか。
「名無しさん、私は・・・」
私はこのままお前の傍に居ても良いのだろうか。
お前の夫で居ても良いのだろうか。
お前を、愛していて良いのだろうか。
尋ねたい言葉は言葉にならず、于禁は名無しさんの腰に回した手に力を込めた。
名無しさんは優しく微笑むと、首を傾げて言う。
「分かって頂けましたか?」
于禁は何度も首を縦に振った。
袖が引かれ、彼の大きな手が名無しさんの耳を撫でる。
それだけで十分だった。
→あとがき(ここまで辿り着いて下さった名無しさん様へ)